届く:夜明けの手前(後編)
何があったって、世界は少しも揺らがない。
それなら私はいつ死んだって構わないと、私がいなくなることを悲しむ人も苦しむ人もいないなら、残していきたくないと願う相手もいないなら、別にいいじゃないかとずっと思っていた。
死んでしまいたい。何もないから。生きていることの方が辛くてたまらないなら、誰にも迷惑をかけないなら死んでしまってもいいのではないか。
だって一人では生きていけない。
最初から一人ならこんなにも辛くなかったのに。
世の中には生きたいと願っている人がいるのにとか、そんな言葉は聞きたくない。立場や状況が違う人と比べたってしょうがないのだから。……それ、なのに、突然世界から引き剥がされてしまった朔のことを思うと、どうしても能動的に死ぬことは出来ない。
どうすればいいのかもう分からない。これ以上、朔のいない世界で生きていくのは辛い。だけど死ぬことも出来ない。
ねえ、誰か教えてほしい。どうすれば生きれるの?どうすれば死ねるの?どうすれば、朔に会えるの?……ねえ、寺田さん。いつかは本当に来るんでしょうか。いつか本当に見つかるんですか。いつか本当に笑えるんですか。
教えてください。誰か。
誰か。
寺田さんと公園で会った数日後の休日、とても久しぶりに外出をした。
何年も訪れていなかった場所に私は足を向けた。
八年程の時間が経っているはずなのに、久しぶりに訪れたそこは少しも変わっていなかった。
子どもばかりがいる場所なのに可愛らしさのない表札。塗装が所々剥がれている遊具。
ぼうっと入口でたたずんでいると不審に思われたのだろうか、中から見知った顔が出てきた。彼女は近づくと私に気づいたようで徐々に表情を驚きに変えた。
「みちちゃん……?」
「お久しぶりです、まさこ先生」
場所は変わらなくても人は年を取ってしまう。昔よりも皺が増えていた、白髪も増えたように見える、確かもう五十代になっていたはずだ。
「どうしたの?何か、あった?」
「いいえ、何もありませんよ。近くに用事があって立ち寄ってみたんです」
「そうなの?……ねえ、みちちゃん、痩せたわね」
労わる様に腕に触れながらそう言われる。痩せたではなくやつれたが言葉としては正しいだろうに、痩せたと口にしたのは彼女の気遣いだろう。
「仕事が忙しくて。まさこ先生は小さくなりましたか?」
「みちちゃんが大きくなったんでしょう?」
目尻の皺を深くさせてまさこ先生は笑う。本当に小さくなったなと、思う。
ずっとずっと私にとっての大人というものは、その漢字のままに大きいものだったが、自分が大人といえる年齢になってようやくそうでないことに気づいた。だけどそうであるなら、どうして私たちはあんなにも大人に全てを奪われて振り回されて、自分の世界の神様のようにすら考えていたのだろうとも憎く思えてしまうのだ。
「朔ちゃんのお葬式以来ね」
「……そうですね」
「今も二人で暮らしていた所に住んでいるの?」
言葉にはせず、私は笑うことでその質問に対する返事をした。
「そう……。ねえ、みちちゃん。私ね、これまでずっと見送ってきたわ。ずっとずっと何人も何人も。私たちに出来ることなんて本当に大したことじゃない。十八歳なんて子どもなのよ、それなのに公に私たちに出来ることはもうなくなってしまうの。まだ守られてていい年齢なのに。……世の中、自分に被害がない、関係ない場所からならいくらでも綺麗なことは言えてしまう。だからどれだけ平等を誰かが口にしていたとしても、どれだけ本人が頑張っても、絶対的に不利なのよここの子たちはどうしたって。道を踏み外してしまう子だっていたわ。私はそれを守ることは出来なかった。……でも、ねえ、生きてさえいてくれればと私は思ってしまったわ。朔ちゃんの、あの連絡を貰って。自分の子どものような年齢の子が先にいなくなってしまうのは嫌ね。なによりも一番」
まさこ先生は、一度別の園で働いていて心が限界になってしまったことがあって、違う職についたことがあるのだと高校生の時に聞いたことがあった。
「まさこ先生。私ね、分からないの。教えてほしいの」
「……何を?」
何、を。何か、そう何かを教えてほしい。それが何なのか言葉に出来るはずなのに、声に出せなかった。
こうやって、まさこ先生に質問をするのは小学生以来な気がする。朔と会ってから私はお姉さんぶりだしたから、こんな風にまさこ先生に質問することはなくなった。
私と、朔は、児童養護施設ひまわり園で出会った。
小学生にあがる頃に私は園に預けられた。理由は詳しく誰かに話すほどのことでもない、よくある家庭崩壊のせいでだ。
ひまわり園で暮らすようになってから二年後、私より二歳年下の朔がやってきた。朔は小学生にしては不自然なくらいに感情の薄い子だった。
朔が泣いた姿を私は見たことがない。あんなに長い時間を一緒に過ごしていたのに、一度も。
ひまわり園には少なくない人数の子どもがいた。だいたいが小学生くらいから高校生までの年齢で、小学生の人数が一番多かった。女の子だっていた。それなのに私は出会ってからは朔とばかり一緒にいた。それまで自分がどうしていたのかはあまり覚えていない。
朔と一緒にいるようになった理由だって今となってはもうよく分からない。ただきっと隣にいて一番楽だったのが朔だったんだろうと思う。
私たちはお互いがお互いに一番楽な存在だった。
出会う前までどうやって自分が生きていたのか忘れてしまうくらいに、私の人生に朔がいるのは当たり前になっていた。これからだってずっとそうだって思っていた。もしも朔が誰かと結婚する日が来たって、私は朔の姉だから一緒に住まなくなったとしても、私たちの間にあるものが無くなる訳ではないから生きていけると思っていた。
血の繋がりがなくても、私たちは姉で弟だったから。
私たちの間に男女の感情は存在していなかった。子どもの頃から同じ場所で暮らしていたということも関係しているし、私たちがそれぞれ性に対して少なからず嫌悪を抱いていたからでもあるだろう。
恋情なんて大切な相手に向ける感情ではないと、今でも私は思っているし、純粋に朔を男として見る事はなかった。
どうしようもないものを子どもの頃に見てしまって、多分、私たちは何かがおかしいのだ。
家族なんてもろいものも信じられないし、恋なんて世の中で一番愚かな感情だと思っている。それなのに私も朔も、姉と弟という関係性を作りだした。
何の繋がりもないのに、そうなった。
家族なんて何の意味もないとすら思っているのに、それでも私たちは家族のような関係になっていた。
どうしてなのだろう。分からない。……朔だけ。朔だけは信じることが出来た。だからだろうか。姉と弟という関係性が後からついてきただけ。
私が黙ったままでいると、まさこ先生は沈黙を埋めるように話し出した。
「あなたたちのことがずっと心配だったの。昔からあなたたちの世界には、お互いしか存在していなかった。他人がいないようだったから」
だからね。と、まさこ先生は言葉を続ける。
「みちちゃんは、朔ちゃんを追ってしまうかと思っていた」
まさこ先生にはやっぱりそう思われていたんだな。と、ごちゃごちゃとした頭の中に先生の言葉が浮かぶ。何年もあれだけ排他的であればそう思われるのも当然だろう。……他の人からは一体どんな風に私たちは見えていたのだろうか。家族?恋人?他人?
私は、朔の後を追ってもおかしくないような居場所にいましたか。
朔にとっても、そうであったでしょうか。
「あなたたちはお互いを補うように生きていたから。依存しているように見えて、自立していて、それでいて片方がいなくては存在すら出来ないような子たちだったから」
「どういうことですか……?」
私に対してなら全て当てはまる言葉だが、朔はきっと違うと思っていた。
朔は、いつかは私じゃない誰かと生きていけるのではないかとずっと思っていた。
私は朔がいなくなったら生きていけないだろうけど、朔は私がいなくなっても生きていける。と、だからどうして世界から引き剥がされたのが私じゃなかったんだろう、朔だったんだろうって。
――私が死ねば、良かったのに。
「朔ちゃんが泣いた姿を、私は数えるくらいしか見たことがないけれど。その時はいつもあなたがいない時だったわ。あなたがいない寂しさだけに、子どもの頃の朔ちゃんは泣いていたわ。……知らなかったでしょう?」
「そう、なんですか……?」
「男の子だからね、あなたの前ではいつだって我慢してたんでしょうね」
朔、ねえ朔。もしも置いていかれたのがあなただったのなら、あなたは一人でも生きていけたのでしょうか。
ひどく身体が重い。
どうやって自分が家に帰ったのか……覚えていない。気づけば自宅の玄関に座り込んでいた。
鍵は閉めてあるし、電気もついている、けれどいつ自分がそうしたのか覚えていない。
原因は、鞄の中にあるもののせいだ。
靴もまだ履いたまま。玄関にたどり着いた瞬間に力尽きてしまったようだ。
一度座り込んでしまってからは、もう身体が動かせない。
手が、足が、全身が微かに震えている。心臓の音が聞こえそうだ。自分の呼吸音が気になって仕方ない。
ひまわり園から帰る時に、まさこ先生から手紙を渡された。私宛に書かれた手紙だそうだ。
――いつか渡してほしいと頼まれていた。と、先生は言った。
手が震えて、どうしようもない。読むのが怖い。
これ以上の思いは抱えきれない。今でさえ爆発寸前なのにどうしろっていうんだ。……だけど、読みたい。「いつか、みちに渡してほしい」と朔がまさこ先生に託していた、手紙。
出来れば自分が就職して、一人立ちしたら渡してほしい。と、まさこ先生に託された、朔からの手紙。
朔が私に手紙を書いてまで伝えたかったこと。それが何かなんて、私には思いつかない。
実は私が知らなかっただけで、本当は私は朔に恨まれていたんだろうか。
知らず知らずのうちに私は何かしてしまっていたんだろうか。
それとも、とるに足らないことでも書かれているのだろうか。
爪が手のひらに食い込む。痛みは感じない。少しずつ力を緩める。動く。ちゃんと自分の思い通りに身体は動く。
鞄を手繰り寄せる、開けばすぐに取り出せる位置にそれはある。シンプルなというよりも、事務的に感じる飾り気のない真っ白な封筒。きっと中の便箋も同じような感じだろう。
封筒の表には「高月みち様へ」とわざわざ書いてある。
怖い。朔、どうして手紙なんて。……指先が震えてなかなか封筒が開けられない。自分の呼吸音が煩い。耳鳴りが聞こえてくる。
震える手で失敗を何度も繰り返してやっと封筒を開く。思った通りに真っ白な便箋が出てくる。
それを、開く。
文字が目に飛び込んでくる。
『みちへ
みちに手紙を書くなんてなんか変な感じだ。でもどうしても伝えたいことがあって、こうして文字にしてる。
俺のことだから、きっと口で言うのは無理だろうと思って、手紙なんて回りくどい伝え方をとった。お願いだから読んだあとにからかったりするなよ?
本当のところ、書くのすら恥ずかしいんだけど、それだといつまでたっても伝えられないからいつかの未来に届く手紙って形にしてみた。
って、さっきから言い訳ばっかだな。もういい加減前置きは終わりにする。
みち、ありがとう。
みちがいたから、俺は生きてこられたんだ。本当だよ。
家族ってものにコンプレックスしかなかったはずなのに、気づいたらそんなものは無くなってたんだ。
みちのおかげなんだよ。親がいなくたって俺には俺を愛してくれる姉がいる、それで充分だった。
充分に、なれたんだ。
大学に行きたいっていうのも、迷惑かけると思ったのに喜んでもらえて本当に嬉しかった。
親がいないからって諦めるのはおかしいってはっきり言ったみちは格好良かったよ。
合格したって報告した時、受かって当たり前だろって顔を俺はしてたけど、浪人せずにすんで実は安心してた。
本当は心臓ばくばくしてた。
みちにはバレてたかな?
みちがこれ読んでる頃には、俺はちゃんと望んだ職につけてるかな?
せっかく無理言って大学行ったんだから挫折してたら困るんだけどさ。
大学に行きたいって言ったこと、みちは疑問に思わなかったみたいだけど、俺にとっては一大決心だったんだよ。
俺たちみたいなのが本当に大学まで行っていいのかって思いは、どうしたって付きまとっていたし。
……でも、それでも行きたかった。その理由までは言ってなかったよな。というか、普通それ聞くよな?大学の金どれだけかかると思っているんだよ。「そう、いいよ」で終わらせるなよ。何で聞かないんだよ、言いそびれたじゃないか。
俺さ、司書になりたいんだ。学校の。……疑ってるだろ?みちの前で将来の話とかまったく言ったことないもんな。それともこれ読んでるみちは俺からもう聞いてるのかな。
ああ、でも俺だからなあ、言えてないんだろうな。……みちには、知っててほしいから書くよ。
中学の頃、反抗期みたいな時期があっただろ?あの頃のことだ。
思春期、だったんだろうな。今思えば。
みちとどう接していいのか分からなくなってて、……だって外から見たら他人なんだもんな、俺たち。
名字だって違うからどう説明すればいいかも分からないし。
それで、まあ、無視したり、してさ。
みちは怒らないから罪悪感で顔も見れないし、こんなこと言われてるんだからお前も怒れよ!って自分で言っておいてイラつくとか、馬鹿みたいなことを思うし、みちに対して意味分からない反発心もわくし。
ごめんな。
どうしようもなく子どもで、ごめん。それでも見捨てないでくれてありがとう。
それで、反抗期が終わった切欠が大学まで行く理由になるんだけど。
中学にも司書がいたんだよ、覚えてるか?
みちの頃と人は変わってないはずだけど。みちが本読んでる姿見たことないから覚えてなさそうだな。まあ、いたんだよ。みちが知らなくても。
園に帰りたくなくて、でも部活もずっと幽霊部員で今更行けなかったし、ゲーセンとかも行ったって遊べる金もないから意味ないしで、そうしている内に図書室に行くようになったんだ。
本を読むわけでもなくずっと図書室にいる俺を、その人は最初の頃は理由も聞かずに放っておいてくれたんだ。
その内に少しずつ話すようになって、読みやすい小説をすすめられるようになってさ。それまでは小説とか面白いって思ったことなかったのに、先生がすすめてくれる本はどれも面白かった。
本ってさ、不思議なんだ。
世界にはこんな考えの人もいるんだとか、同じような思いを持っている人がいるって知れたりとかするんだ。
中学生の俺にとっての世界はどうしようもなく狭かった。だけど、物語を読むごとに少しずつ世界は広くなっていった。
親がいなくたって変じゃない。みちと家族じゃなくても家族だって変じゃない。そう、思えるようになれたんだよ。
幸せとか不幸だって、自分で決めて良い。誰かの尺度で普通の幸せとかそんなものを決めなくて良い。
自分で、決めて良い。
だから俺、本に関わる仕事に就きたいって思うようになったんだ。
それで出来れば、先生のような学校司書になりたい。
俺の部屋に、先生にすすめられたのとか。俺が好きな本あるから、今度読んでみてよ。読みやすいのだってあるから、みちもきっと好きになれるのはあると思う。
なあ、みち。今までありがとう。これからもよろしく。
何か困ったことがあればちゃんと言ってくれよ。
もう、ただ迎えに行くだけじゃない。
頼ってもいいくらいの存在には、なれただろう?』
手紙を持つ手が、熱い。
数枚にわたる朔からの手紙。あったかもしれない優しい未来が綴られた手紙。
朔、朔、朔、朔、朔。本当にらしくない。
こんなの残すようなタイプじゃないでしょう。らしくない。らしくない。本当にこれは朔からの手紙?そう疑ってしまうけど、この字を私は知っている。
本当は神経質で繊細なことが伝わる整った字。朔が書いた字が好きで、学生の頃私は私の名前を朔に書かせたりしていた。
朔の字だ。
朔の、言葉だ。二十一歳の朔の言葉だ。
馬鹿だなあ、朔。こんなまわりくどいことしなくても良かったのに。
朔が私に感謝してるのも家族として愛してくれているのも私は分かってたよ。
口にしたりはしなかったけれど届いていたよ。ずっと一緒にいたんだから分かるよ。
どうして疑っていたのだろう。こんなにも明確だったのに。ずっとずっと一緒にいたんだから。……そうでしょう?
どうしてだろう。
この手紙は、決して自分がいなくなることを意図して送られたものではないのに、朔から生きろって言われているような気がするの。
気のせいかな?生きている人間の勝手な思い込みかな?
ねえ、朔。ねえ朔。
私、生きていてもいのかな。ひとりでも生きていけるのかな。
あなたのいない世界で、欠けた心のままでも生きていけるのかな。
……寺田さん。見つかるってこのことだったんでしょうか。本当に、自分で納得できるものじゃなきゃ駄目だったんだ。
誰かに言われただけだったら綺麗事だと、陳腐だと、嘲ることすらしただろう。けれど、やっと、私、見つけたかもしれない。
欠けた心との向き合い方。欠けた世界との向き合い方。それでも生きる道を。
朔はもうここにはいない。だけど。
確かに私は、この世界で朔と一緒にいたのだ。
何年も、一緒にいたのだ。
彼の口癖。好きな食べ物。行きたかった場所。なりたかったもの。みちと呼ぶ声。喧嘩した日。仲直りした日。
一緒に泣いて、怒って。笑って。いっぱいいっぱい毎日を生きた。
いなくなったその日から止まってしまったと思っていた。
私が朔を朝起こす日はもう来ないし、夕飯を二人分考えることもない。朔が私を迎えに来る日はもう二度とこない。
今日も明日も明後日も、私の隣に朔はいない。――いないけれど。ここにいる。
いるのだと思っていいのだ。
私の心のほとんどは朔でつくられていた。何かを見れば朔を思い出す。いつだって。
世界の半分。私の世界の半分は朔で出来てる。だから物や人や、彼が読んだ本を通して私は朔とまだ繋がっている。
私と朔は二人で一人の人間だったから。私だけが思っていた訳ではなかったから。
もしも、そんな風に思うのが私のエゴで、人は一人で産まれ一人で死ぬのが現実であるのだとしても。
一人がどうしようもなく寂しいのなら、そう思ったって、思い込んだって良いではないか。だってこんなにも溢れている。
血の繋がりはなかった。だけど私たちは家族だった。
たった二人の、家族だった。
だから、ねえ。そうなんでしょう。いるの?ねえ、朔。ずっといたの?ここに。
私がこの世界で生きてる限りあなたもまだここにいる。……そんな、ことは、そんな言葉は気休めだと思っていたのに、そうじゃなかった。そんなんじゃなかった。だって、ここに、朔はいる。
忘れようとしても無理だ。そんなことをしてしまったら私の人生のほとんどの記憶は無くなってしまう。
頬を、涙が伝う。手紙が濡れてしまわないように肩で涙をぬぐう。後から後から涙が止まらない。目が熱い。肩に顔をうずめる。唸るような音が自分の喉から聞こえてくる。
熱い。全てが熱い。目も喉も熱い。指先も、お腹の奥底も熱い。この熱が、生きている証だというのなら私は今生きている。
私はこの世界にひとりでも生きている。生きて、いける。
ようやく涙がおさまる頃には目が腫れぼったくなって、頭がぼうっと霞がかったようになっていた。
一体どれだけの時間が過ぎたのだろう。喉がひきつれて声が出ない。ゆるゆると立ち上がる。手紙はまだ手の中にあった。……朔が手紙で告げていた、私がきっと好きになる本とはどれのことだったんだろう。
力の入らない足を無理やり動かして、三年間ずっとそのままにしていた朔の部屋に向かう。
朔の匂いも残っていやしないのに、些細な物から思い出が沸き起こる場所。
ここにはもう朔はいないんだって突きつけられるようで、ずっと扉を明けることも出来なかった。
葬儀の後、遺品を整理しようとしたのに、何を見ても朔が思い浮かんで手が震えて、苦しくて苦しくて近寄れなくなっていた朔の部屋。
ギイッと軋む音を伴いながら扉を開ける。廊下からの明かりだけでも懐かしい空間がそこにあるのが分かる。
どうして朔がここにいないのだろうと不思議に思う程に、朔の部屋は昔のままだ。そう考えたら、また涙がこみ上げてきて立っていることも出来なかった。
扉を閉めた反動で電気をつける前に座り込んでしまう。
この三年間、私は生きているかも死んでいるかも分からない生き方をしていた。ずるずると引きずるように生きていた。だけど、まだ三年間しか経っていないけどもう三年間経っていたのだ。
時間は全てを消し去ってしまう。顔も声も体温も心も少しずつ消していく。少しずつ忘れていってしまう。だから忘れないように他のものをシャットアウトした。朔が消えてしまわぬように。ほんの小さなことすら忘れてしまわぬように。
人間は忘れてしまう生き物なのだと誰かが言っていた。忘れることで自分の心を守っているのだと。……けれど、だから、なんだ。
だからなんだ。それがどうしたというのだ。消えないものはここにある。抱え込んだこの胸に。
忘れることで守れる心があるのなら、忘れないことで守れる心もあるだろう。
笑うだろうか、朔は。こんなにも時間がかかってしまったことに。――だけどきっとあなたなら、それでも一緒にいてくれるでしょう?
朔には内緒にしていたけれど、父と名乗る血の繋がった他人から毎月お金が振り込まれている口座がある。小学生の頃からきっかり毎月十万円。
私は清廉潔白な人間ではないからいつか使ってやろうと思って溜め込んできたお金だ。
資格を取るお金も、仕事を辞めてもしばらくは問題ないお金もあるなら、私がやることは一つだろう。
離してしまったら消えてしまうんじゃないかという思いで、手紙を抱えたまま、カーテンと窓を開ける。すると、暗い暗い世界の向こうから光が溢れだしていくのが見えた。
暗闇に慣れた目には眩しくて、おさまったはずの涙が再び目のふちに溜まる。眩しさに目を閉じると溜まった涙は頬を伝った。
まだ温度のない光に、私は包まれた。
◆ ◆ ◆
カーテンが風にあおられている。熱気のこもっていた室内の空気を押し流して清涼な風が流れ込んできた。この前プール掃除をしていたから、しばらくしたら風と共に塩素の香りがする季節がやってくるだろう。
流れてきた風で飛んだプリントを回収していると、パタパタと軽快な足音が聞こえてきた。早足でやってきた勢いのまま扉が開かれ、元気な声と共に少女が図書室に飛び込んでくる。
「せんせー、この間言ってた本入荷した?」
休み時間になってすぐにここまで来たのだろう、その溌剌さに思わず笑みがこぼれる。
「入荷したよ。まだ誰も借りていないけど、どうする?」
「借りる借りる!やったあ一番乗り!」
常連の彼女は両手をあげてくるくると回りながら喜んでいる。午前の授業をこなしてきたはずなのに、どこからそのパワーはやって来るのだろう。
「喜んでもらえると嬉しいよ」
「じゃあ借りてくねー!」
弾むように動きながら彼女は手際よく貸し出しの手続きを済ませた。
「いつもありがとね、みっちゃん先生!」
「どういたしまして」
ぱたぱたと跳ねるように出ていく後ろ姿は、私の目にはキラキラと輝いて見える。まだ数年しか働いていないけれど、高校生のエネルギーは毎日眩しく微笑ましい。
私は、今日も、今日を生きている。