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届く:夜明けの手前(前編)

 夜と朝の境目を、見つめたことはあるだろうか。

 地平線の隙間から溢れ出るように太陽の光が射す、その時。

 深い深い夜を越えて、終わりないような夜を越えて、世界が色彩を変えるその時。

 暗闇に慣れた目では眩しくて、涙が出てしまいそうになるその時を。

 見つめたことは、あるだろうか。



   ◆ ◆ ◆



 太陽の光射す澄んだ空気の中、目覚まし代わりのアラームが一フレーズほど鳴る。手を伸ばし、ぼんやりとした視界でもどうにかアラームを止め軽く息を吐く。無音になった空間でトクリトクリと鼓動を感じるとまだ自分の心臓が動いている事実にがっかりする。

 それが日課になっている。

 億劫さを押し込めてのそのそと温もりが残る布団から緩慢にぬけだす。頬に触れる外気はもう然程寒さをはらんではいない。きっと過ごしやすい良い日なのだろう。そんなこと私にとっては何の意味もないけれど。どんな日であろうと、命が終っていないから、私は今日も働かなければならない。

 何もない、毎日だとしても。

 ただ、息をして。

 ただ、血が流れて。

 ただ、心臓が動いている。

 肉体が死んでいない。それだけだとしても。

 今日もまた一日を生きる。


 駅で人の流れを見つめていると、そういう動きをプログラミングされた機械みたいに見える時がある。

 毎日毎日規則的に迷うことなく同じルートで同じ場所へ。感情が介在する余地もなく、淡々と当たり前に決められたことをする。それと同時に、満員電車。通勤ラッシュ。息苦しいほどに密集した空間。自分自身だって、そこにいると自分が個なのか、それとも集団としての塊に吸収されてしまったのか分からなくなる。

 隣の誰かが、それぞれの人生を歩んでいる個人であるのを忘れてしまう。――きっと誰もが隣にいる誰かに対して、関心なんてもっていない。

 サラリーマン。OL。学生。主婦。それぞれの見かけ上の肩書きで勝手に判断するだけ。

 もしか、したら、隣の誰かは、昨日会社をクビになったかもしれない。親と喧嘩して家出しているかもしれない。恋人からDVを受けているかもしれない。余命半年と告げられたかもしれない。ペットが行方不明かもしれない。いじめに苦しんでいるかもしれない。

 だけどきっとそれを知ったとしても、私たちは欠片も興味を持たないだろう。

 結局のところ私たちは、自分の人生を全うするだけで精一杯なのだから。

 自分と、数少ない大事な人を抱えるだけで手一杯なのだから。

 だから私は、もし目の前に立っている人が私の目の前で線路に落ちたとしても休まず会社に出社するだろう。

 ショックに思っても。きっとそうする。だって人だけど人じゃないから。家族がいて友達がいて、そういう存在じゃないから。

 ――隣の誰かが明日死んだとしても、私はこれっぽっちも悲しくならない。


 数字を打ち込む手は今日も機械のように動いていく。心なんてそこにはない。ただ必要だから仕事をこなす。カタカタとキーを叩き資料を完成させていく。

 キリが良い所まで書き終えると弾むようにエンターを押し、一息つくために買っておいた缶コーヒーに手を伸ばす。すると、待ち構えていたかのように後ろから声がかかった。

「高月さん。月曜日の会議に使う資料だけど帰りまでに用意出来る?」

 まさに今作成している資料のことだった。このままの調子でいけば一時間後には作り終えるはずだ。

「分かりました。変更はその後なかったですよね」

「なかったはずだよ。じゃあ、よろしく」

 かしこまりました。と、乾いた声で返事をする。

 愛想のない人間だと自分でも思うけれど、何年も同じスタンスで働いていると、周りは『そういう人』なんだと認識してくれるようになる。

 仕事さえきちんとしていれば適度な距離で接してくれるのが、大人の良い所だと思う。入社したての頃は流石に上司や同期の子にあれこれ言われたりもしたけれど、私の事情も相まって今は何も言われなくなった。

 触れてこないだけで本当は、いつまであのままでいるのだろう。と、思われているのだろうとしても構わない。

 だって私はいつ何を失ったとしてもどうだっていいのだから。

 この世界に、執着するものなどもう何もないのだから。


 カチリと針が動く音に意識を引っ張られ時計を見ると、終業から三十分後を指していた。

 週末までに片付けなければいけない作業もちょうど終わり、もう帰る頃合いだ。いつものように無感情に机の上を片付け、パソコンをシャットダウンさせていると前方から視線を感じた。

 私が椅子から立ち上がるのと同時に、向かいの机に座っていた視線の主も立ち上がる。

「部長が飲みに連れていってくれるらしいんだけど、高月さんも行かない?」

 一つ先輩の寺田さんはとても自然に私にも誘いをかける。入社してから一度だって集まりに参加しない私に、今もこうやって声をかけるのは彼女くらいだ。……優しい人。押し付けがましくない配慮が出来る人がいるのだということを、寺田さんに会って私は初めて知った。

 何度も断っていて気分を悪くしててもおかしくないのに、寺田さんは少しも態度が変わらない。優しいこの人のために一度くらいは参加しなくてはと思うのだけれど、今日も私は同じ言葉を返す。

「……ごめんなさい。体調が優れなくて。声をかけてくれてありがとうございます」

 表情を伺うと少しだけ残念そうに、でも体調を気遣うような素振りで彼女は言った。

「そっか、お大事に。また機会があったら誘わせてね」

「ありがとうございます」

 お疲れ様でした。と挨拶をし、手早く帰宅の準備をする。すたすたと迷いなく歩いているはずなのに、頭の中をぐるぐると渦を巻くような感情に支配された。

 気遣われている、自分。優しい人の手を掴めない、自分。いっそのこと何も感じないくらいにまで感情が削ぎ落されてしまえばいいのに、中途半端に残り滓のようにある気持ち。

 泡のように考えが浮かんでは消えた先に集約する思いはとてもシンプルだ。――はやく死にたい。




 三年前の、春。私は弟を喪った。




 享年二十一歳。

 唐突に嵐のように、弟――朔はこの世界からいなくなった。その時期の数日間の記憶はひどく曖昧にしか覚えていない。

 現実味がこれっぽっちもないのに朔は骨になってしまったこと。

 骨壺に入れるために骨を拾いながら私が考えていたのは「燃やされた骨は崩れやすいんだな」なんて、理科の実験に対する感想のようだったこと。それくらいしか、まともに思い出せない。

 全てが終わって家に帰って、温度のない部屋でひとりになってから、やっと私は自分が本当にひとりになったのだということを思い知った。そうして頭がやっと理解したのだ、私はこの世にいる必要が無くなってしまったのだということを。……それなのに他人という生き物は私に言った。

「朔の分までしっかり生きないと」

 ――その言葉は呪いだった。

 分まで。って何だろう。私が私の人生を生きたからって、朔は朔の人生たったひとつのそれしかない。

 私が朔の人生の肩代わりをすることなんて出来ない。そんなの全部生きている人間のエゴにしかすぎないのに。皆オウムにでもなったかのように同じ言葉を私に言った。

 私は明日すら来てほしくないのに、この人たちは何を言っているんだろう。一日過ぎるごとに朔と一緒にいた日々が遠ざかってしまうのに。

 他人はしょせん他人だ。私の心の一欠片も理解出来ない。もし出来たとしたらそんな言葉、冗談でも吐けないだろう。

 誰かが当たり前に口にする未来なんてもの、もう想像出来ない。愛する人を見つけて、新しい家庭を築く。そんな幸せな未来が自分に訪れるなんて到底思えない。訪れてほしくもない。

 そんな未来なんていらない。私も連れていってほしかった。

 置いていくくらいならお願いだから私も連れていってほしかったよ朔。

 どうして置いていったの。どうして連れていってくれなかったの。身勝手な願いばかりが膨れ上がる。

 膨れ上がった気持ちばかりを抱えて生きている内に世界と自分の狭間がぶよぶよとして視界が音が匂いが遠く遠く感じるようになって人が肉体だけの不思議な何かになって思考が思考じゃなくなって魂の意味も分からなくなって本当に生きているのか今が現実なのかも分からなくなってそうやって変わり映えのしない毎日を繰り返してある日突然ぷっつりと切り落とされるように私も死ぬのではないかと思う。

 思うのに、なかなかその日が訪れない。

 どうして私、生きているのだろう。

 何もないのに。

 どうして。

 早く終わってほしい。

 無為な時間が空虚で仕方ない。だから信じたことのない神様にだって祈ってみる。


 神様、神様。お願いです。

 どうか私の心臓を止めてください。


 当然、身勝手な信仰もないとってつけたような祈りなど神様には届かずに時間だけが流れていった。

 朔を喪った瞬間から私は空っぽになった。

 頭ではきっと理解していた。けれど、どうやっても心が追いついてこない。涙すら流れなかった。

 私の、半分。いや、ほとんど全てと言ってもいい。それが喪われてしまった。穴あきの心からは涙も血も流れない。心そのものが、消えてしまったのだから。

 私の心は朔でつくられていた。朔がいるから私は人だった。

 だから彼がいなくなった今、涙を流すこともない。

 何もない。もう何もない。何を食べても味がしない。何があっても共有したい相手がいない。どこに行きたいとも思わない。何をしても楽しくない。何を見ても欲しいと思わない。

 生きる全て。私が一緒に何かをしたかったのは、朔とだったから。だから今の私にはもう何も必要じゃない。

 空腹を感じた時だけ食事して、仕事以外の何もしなかった。外出もしない、テレビも見ない、鳴らない携帯の電源も切り、睡眠ばかりをとった。

 夢でなら会えるかもしれないから。もしかしたら、寝て目が覚めたら隣に朔がいるかもしれないから。笑いかけてくれるかもしれないから。怖い夢を見たと泣きつくことが出来るかもしれないから。悲しい現実の全てを否定する言葉を口にしてくれるかもしれないから。馬鹿みたいな、願いだけれど。

 馬鹿みたいと思い、それでもすがって。祈るように眠りに落ちた。なのにどんなに眠っても朔は夢にすら出てきてくれなかった。

 毎日を、淡々となぞるように過ごして。

 心が死んでも、身体は生きていけるのだと私は知った。


 決して忘れてしまわないように、私は何度も何度も朔との出来事を思い出す。まるで少しでも現在に心が向いてしまったら、全てを忘れてしまうかのように繰り返し。何度も。何度も。

「なあ、自分が不幸だって思ったことある?」

 いつの日かそう朔が私に聞いてきたことがあった。多分朔がまだ中学生の頃だ。

 今日の夕食なんだっけ?とでも言うようなニュアンスで聞かれたため、私は一瞬何を問われているのか理解出来なかった。

「どうしたの?誰かに……何か言われたの?」

 それにしては少しも悲観のこもっていない言い方だったが、心がざわつくような質問だ。自分が不幸かどうかなんて普通に生きていたら考えるだろうか。

「そういうわけじゃないけど」

「……考えたこと、なかったかな私は。不幸、とか幸せだとか。そもそもの幸福の基準が私にはよく分からないし」

「自分が幸せだとも不幸だとも感じたこと一度もなかったのか?これっぽっちも?」

 幸せ……幸せとは何だろう。そんなの考えて皆生きているのだろうか、私には分からない。誰にも当てはまる幸せというものがこの世にはあるのだろうか。私の幸せと朔の幸せは同じなんだろうか。私の幸せとクラスの真ん中にいる子達との幸せは同じなのだろうか。

「これっぽっちも、考えたこと……なかったかもしれない」

 朔は、そうか。と言って何てことなかったように別の話をし始めた。私もその話を掘り返すことはなかった。だから朔がどうしてそんなことを聞いてきたのか、理由は今も分からないままだ。

 大事な何か、だったんだろう。本当は。流してはいけないことだったはずなんだ。とても傲慢だ、聞けなくなる日が来るなんて思ってなかった。私は馬鹿だ。




 ここ最近、丸一日何も食べなくてもお腹が空かない。空かないから食べようとも思わない。けれど毎日昼休みに何も食べていないと不審がられてしまうから、財布を持って食事に行くフリをする。三十分くらいの時間を公園で潰してから帰るのが日課になり始めた。

 公園では、世界にはこんなにも幸せをかかえて生きていくことが出来る人達がいるのだという光景を見る。

 砂場で遊ぶ子ども、それを遠くから愛しそうに見つめる母親。愛犬の散歩をするおじいさん。――本当に、同じ、人間なのだろうか。どうしてあんなにもキラキラしているのだろう。彼らは彼女らは何かを喪ったことはないのだろうか。否、そんなはずはないだろう。長く生きれば生きる程、ぼろぼろと人生から誰かがこぼれ落ちていくのだから。

 私よりもずっと年上の人が何も亡くしたことがない訳がない。それなのに、どうして普通に生きていけるのだろう。隠すのが上手なのだろうか、それとも慣れてしまったのだろうか。

 慣れてしまえるのだろうか、いつか、喪ってしまったことを。隣に朔がいない毎日に。

 ふっと視界が明瞭になる。それまで何も見えなくなってしまいそうな明るい太陽に照らされていたのに、土を踏みしめる音を伴って現れた人影が私を太陽から隠した。

 眩しさは私の目を奪って何も見えなくさせていたから、暗闇が心地よかった。

 たくさんたくさん願ったから来てくれたのだろうか。じんわりと期待が心を侵食する。

 ねえ、朔。私を迎えに来てくれたの?


 もう何年も昔に一度だけ朔が私のことを迎えに来てくれたことがある。

 どうしても帰りたくなくて、泣いたあとが分かる顔を誰にも見られたくなくて、公園でブランコを揺らしていた。

 世界が赤く染まって、藍色と夕暮れ色が混じり合って、星が鮮明に輝くようになっても私は帰れなかった。

 自分と人との違いに、傷ついて。それなのに人前では少しも表に出さないように笑って。

 少しも、少しも、自分はそんなことで悲しんだりしないのだと、自分はそんなことを気にしてもいないのだと。人前で泣いたりしたら負けなんだと思っていた。泣いたら、負けだ、同情を誘うようなことをしたら負けだ。

 私はちっとも変じゃない、おかしくなんてない、自分で自分に言い聞かせる。大丈夫。大丈夫。言い聞かせる。このブランコから立ち上がれるまでになったら、私はいつもの私だ。泣いたりも、しない。

「……何してるの」

 ほんの少し息を切らせた声だった。

「どうしたの、朔。何か、用でも、あった?」

 離れた所にある明かりでは私の顔の様子までは分からないだろうと思い、顔を上げる。すると、暗い中でうっすらとだが朔の表情が歪むのが見て取れた。

「どうしたのは、こっちの台詞だよ。何をしているんだよこんな時間まで」

「…………ブランコ」

 苦し紛れにそう言うと苛立ったような「はあ?」という声が聞こえた。

「じゃあ何。こんな時間まで、高校生が一人でブランコこいで楽しくて時間を忘れてましたって言うのか」

「そう、だよ。悪い?」

「子どもかよ。もうちょっとまともな理由言うかと思ったわ。で、本当はどうしてここにいるんだよ」

 言いたくなかった。朔に格好悪い自分を見られたくなかった。なのにどうして聞くんだ。無性に腹が立った。

「子どもだよ!……私、子どもだよ、高校生なんて子どもだよ」

 自分で口にして、苦しくなった。私まだ子どもでいたかった。子どもでいられる彼女たちが羨ましかった。でも羨ましいなんて気持ち認めたくなかった。認めたくないなら自分を騙すしかなかった。

「そうかもな。じゃあ聞くけど子どものあなたはどうして帰って来なかったんですか?」

「……子どもだから言いたくない」

 どうやっても私が理由を言う気が無いと見てか、もどかしさを発散するように朔は頭をガシガシと掻きまわしながら大きくひとつため息をついた。

「分かった。聞かない、でも帰るぞ。……帰るだろう?」

 手を掴まれる。いつもよりも体温が高い。そういえばさっき息を切らせていた。走ったのだろうか。どれくらい私を探しまわったのだろう。私、心配をかけてしまったんだ。後悔とともに悪いと思いつつ嬉しさを感じてしまう。

 キイと揺れる音をともないながら立ち上がる。朔からホッとしたような気配を感じる。ここまで言われて駄々をこねるようなまねはしないというのに。こんなんでも私は年上なのだから。

 私が立ち上がったのを確認すると、朔は先に歩きだしてしまう。多分照れているのだろう。少し離れた距離を詰めるように小走りに近づいて、たまには本当に思ったことを伝えてみる。ぼんやりとした表情しか見えない薄暗い今だから、言えるような気がしたんだ。

「ねえ朔。もしもまた悲しくて仕方なくてでも誰にも会いたくなくて……だけど誰かにいてほしい時。今日、みたい、に、迎えに来て、くれる?」


 あの日、朔は、何て返事をしてくれたんだったっけ?


 願いを期待を込めながらゆっくりと顔を、持ち上げる。

「どうしたの?こんな所で」

「……寺田さん」

 財布を片手に持って、寺田さんが私の前に立っていた。私が何かを言う前に彼女は話し出す。

「今日はお昼外で食べたの。高月さんは……ちゃんとご飯食べた?」

「…………はい」

 独り言に近いような返答を私はした。まるで思春期の子どもに向けるような表情を寺田さんはしている。

「うん、そっか。でも顔色良くないね。栄養ある温かいものを食べた方がいいよ?」

「そ、ですね」

「いつもどこにいってるのかと思った」

 寺田さんは、さりげなく私の隣に座った。とても快い距離を保って座った。今よりも近くに座られると居心地が悪くなってしまう手前の、そんな絶妙な距離に。

「ここ、お日さまが暖かくて良いねえ。私も公園好きなんだ」

 ふわふわと寺田さんが笑う。まるで陽だまりみたい。現実のそれよりも、もっと温かくて柔らかくて離れがたくなるような。どうすれば寺田さんのような人になれるのだろう。寺田さんのような人は――。

「寺田さんは、大事な人がいなくなってしまったことはありますか?」

 勝手に考えたことがそのまま口から滑りだしていた。寺田さんが息を飲む音が微かだけど聞こえた。こんな深入りするようなこと職場の人に聞く話ではないはずだ。

「……ごめんなさい忘れてください」

 打ち消すように早口でそう言うと寺田さんは私の握りしめた手を労るように触れた。

 笑顔と同じ、温かな手だった。生きている人の体温だった。

「あるよ」

 とても静かに寺田さんは言った。これまで一度も見たことのない表情をしていた。

「あるよ。自分と同じか、自分以上に大事な人ともう会えなくなったこと」

 深く深くにある大事な心を告げるように彼女は言った。

「ど、う、やって……」

「見つかるから」

 主語のない会話なのに、どうしてか私たちはお互いに相手が指すものを理解していた。ぐるぐると心の中を何かが巡る。

「見つかるんですか」

「いつかね。でもそれは誰に何を言われたって自分で納得出来るものじゃなくちゃ意味がない。そうでないと、心にぽっかり空いたものはどうにも出来ない。塞ぐのか、目をそらすのか、そのままにするのか選ぶことすら出来ない」

「寺田さんは、見つかったんですか」

 怖々と私が聞くと、寺田さんは一瞬視線をどこかにやってからとても綺麗に笑った。

「だから私は今笑えてる」

 何かをこらえようとしてひどく不細工な顔を私は今している。そんな私を見て「今度、私とお昼食べに行こう。オススメのお店があるの」と寺田さんはまた笑った。

 さっきまで目を焼かれているかのように感じていた日差しが、ほんの少し和らいだように思えた。

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