また、来ています
深夜までの残業がようやく終わり、俺はふらふらになりながら自分の住むアパートまで辿り着いた。
三階建てのボロアパート、その三階に俺の部屋はあった。
「はあー。疲れたー。カギ、カギっと」
鍵を鍵穴に差し込み、いつも通り回す。
ガチャ。
鍵が開く音がする。
「やっと休める……」
そう独り言を漏らして、俺はドアを開けようとした。
ガッ
「あれ?」
ドアが開かなかった。
……鍵閉めてなかったのか?もしかしたら今朝開けっ放しのままで出て、さっきので鍵を閉めてしまったのかもしれない。改めて鍵を差し込み今度は反対方向に回してみた。
ガチャ
鍵が開く音がした。
「よかった」
そう安心して、俺は朝の鍵の閉め忘れなんて気にすることもなく、ドアを開けて倒れ込むように部屋に入った。
「ただいま……」
「…………」
部屋は真っ暗だった。もちろん、誰もいない。ただいまの返事も当然なかった。
「はは……だよね」
俺は一人暮らしだった。完全に独り暮らしだった。毎日仕事ばかり、上司に残業ばかり押し付けられて、彼女も友達も作る暇がなかった……
「はあ……寂しいな……」
ため息と悲しい独り言を吐いて、俺は部屋の明かりをつける。
パチッ
明るくなったそこには、いつもと変わらない、要らないものを極力減らした殺風景な部屋があった。部屋の中心には炬燵だけが置いてある。
「さっむっ……」
もう4月だというのに外はまたまだ寒かった。とにかく暖かさが欲しくて、俺はスーツを着たまま炬燵に入る。
「電源、電源」
そう言って電源をつけようとしたときだった。
「あれっ?」
俺はある違和感に気づいた。
「なんで暖かいんだ?」
まだ電源をつけていないのに、炬燵がまるでずっとついていたかのように暖かかった。俺はすぐ炬燵の電源スイッチを見る。
切
やはり、電源は入っていない。ということは、ついさっきまで炬燵がついていたということだ……だとしたら、明らかにおかしい。
「まさかな……」
嫌な予感しかしなかった。鍵を閉め忘れたせいで、誰かが入ったんじゃないかという嫌な予感しか…
ガタッ
物音が聞こえた。どこから聞こえたのかはわからない。ただ確実に何かがいることだけはわかった。俺は、怖くて怖くて仕方がない。
炬燵から這いよるように出て、その場に立ち上がった。
「おいっ……誰か……いるのか」
「…………」
部屋は静まり返っている。
…何もいないみたいだ。そんなことあるわけないか。でもさっきの炬燵は一体なんだったんだ。……ああ……もうだめだ。考えるのはやめよう。
そう思ったときだった。
「います」
その声は俺の真後ろにあるクローゼットの中からはっきりと聞こえた。
「えっ……ああ……」
「静かに。動かないで。殺しますよ」
「あ…………」
あまりの恐怖に言葉が出ない。声は女の声だった。あれだけ、寒かったのにも関わらず俺の額からは冷や汗が出ていた。
「次大きな声を出そうとしたら殺します。一歩でも動いたら殺します。まずはそのままで。落ち着いて聞いてください」
女はクローゼットの中から、冷酷さを伴った声で語りかけてくる。俺はあまりの恐怖にクローゼットの方を振り向くことすらできない。
「わかりましたか?わかったら返事を」
「……わかった」
俺はクローゼットの中の女に反抗できなかった。理由は、クローゼットの中とはいえ女に後ろをとられていたことと、女の声に酷く冷酷で狂気めいたものを感じたからだ。女に従わなければ確実に殺される、そんな言い知れぬ恐怖が俺にはあった。
「ふう……。わかっていただけてよかったです。あの、実は私、今酔っぱらっているんです」
「え……」
「それで、あなたの部屋の鍵がたまたま開いていたので、酔っ払って入ってしまったんです。わかりますか?」
「……ああ」
……正直、女が何を言っているのか全然わからなかった。俺がそんな気のない返事をしていると、クローゼットの中からさらに声が聞こえた。
「ほんとにわかってますか?酔っぱらっていたから、間違えてあなたの部屋に入ってしまったんです。だから、別にあなたのストーカーだとか、泥棒だとかではありません。ここまではいいですか?」
「……ああ」
俺はそれしか返事が出せない。反抗的な返事をしたら、女がクローゼットから出てきて、俺を殺す気がしたからだ。
「私の誤解は解けましたか?」
「……」
……そんな話、信じられるわけなかった。だいたい、酔っぱらって入ったにしても、部屋の明かりを消したままで過ごす奴がいるだろうか。というか、間違えたんなら直ぐに帰ればいい。なんで炬燵にまで入ってるんだ。それに何より、初対面で……いや、正確にはまだ会ってはないけど、いきなり「殺しますよ」はないだろう。
絶対、こいつおかしい。
「……わかったよ」
そうは思いながらも、仕方なくそれなりの返事をクローゼットの中の女に返す。
「よかった。それでですね。今から私、このクローゼットから出ようと思うんです。もちろん私はストーカーでも盗人でもないんですから、本来ならあなたに挨拶の一つでもして、堂々と出ればいいんですよ。でももしかしたらあなた、私のことをキチガイだと疑って、私を捕まえたり助けを呼んだりするかもしれませんよね?」
明らかに俺のことを警戒している。そりゃそうだ。警戒してもらわなくては困る。あんたのしてることは明らかに怪しいんだから。でも
「……いや、そんなことはしない」
俺は反抗的なことは何一つ言わなかった。そんなことをする勇気は微塵もなかった。俺は女のあの冷酷な声を聞いた瞬間から、女に従う気しかなかった。とにかく従ってさえおけば危険なことに巻き込まれなくて済む。そう思っていた。
すると、後方のクローゼットからまた声が聞こえる。
「そうならないようにですね。あなた、今からしばらく目を瞑って両手を後頭部で組んで、ひざまずいていてください。その間に私はクローゼットから出て、部屋からも出ますから。あっ変な気は起こさないでくださいよ。ちゃんとあなたの背中、クローゼットの隙間から見えてますから。」
「……わかった」
俺は至って従順だった。自分が情けなく思えるほどに。しかしそれほどに、クローゼットの中の見えない女は俺に恐怖心を与えていた。俺は女の指示どおり、目を瞑り、両手を後頭部で組み、ひざまずいた。
「いいでしょう。それでは」
ガララララララ
女がそう言うと、クローゼットが開く音がした。
スタ スタ
一二歩、女が前に出たのがわかる。女は俺のすぐ後ろにきた。
「…………」
無言だった。俺は物凄い汗をかいていた。俺は女に言われたとおり、目を瞑り、両手を後頭部で組み、ひざまずく姿勢を続ける。
「…………」
まだ女が部屋を出ていく気配はない。汗が全く止まらない。ずっと俺の後ろに立っているのだろうか。
「あの……出ていかないのか?」
俺は目を閉じたまま、おそらく俺の背後に立っているであろう女に話しかける。すると
「あの……」
俺のすぐ後ろで声が聞こえた。やはりいたようだ。俺は目を瞑ったままその声を聞く。
「……殺していいんですよね?」
「え?」
「だって、そんな格好して……。これって殺してくださいってことですよね?」
「え?……あなたがやれって」
「私がこのまま何もせず、帰ると思いました?」
「え……でも」
「これって殺してもいいってことですよね」
「いや……違う!」
「でも普通、誰かもわからない怪しい奴の前でそんな格好はしないでしょ。これは万死に値しますよ」
「……でも」
「でも、じゃないですよ。わかった……。あなた、人に従っておけばそれでいいと思って生きてきたんでしょ。情けない。だから殺されるんです」
「ちが……俺は…」
俺は目を開けて、女の方を振り向こうとした。しかし
「目を開けるな。動くな。……でもこのままでも殺します」
「えっ。……あっああああ」
俺は結局何もできないまま目を瞑り、同じ姿勢を保つしかなかった…。俺のその情けない姿を見た女は
「あなたって、本当に従順な人なんですね。なんていうか……つまらない。もう少し、反抗的な方が友達も彼女もできると思いますよ」
それだけ言うと、女はスタスタと音を立てて部屋を出ていった。
「…………」
俺は目を瞑ったまま、涙を流していた。……何も言い返せなかった。会ったこともない女に俺の人生の核心を突かれた…。そう……俺は従順だ。会社にも、上司にも、見知らぬ女にでさえ……
女が出ていった後、何か盗まれていないか部屋の隅々をチェックした。結果は、何も盗まれていなかった。一体あの女は何をしたかったんだろう。ストーカーとも言っていなかったし……
翌日、深夜まで残業をして家に帰ると、一通の手紙が届いていた。宛先は書かれていなかった。おそらく、アパートのポストに直接入れたのだろう。手紙の中心には小さな文字でこう記されていた。
また、来ています。
最後まで読んでいただきありがとうございました。