陰の皇子
王国史
かつて紀元前2000年~1300年頃に大河川フラートの元に栄えたミスル王国という幻の王国が存在した。ミスル王国の存在はミスル王国史という100年頃に歴史家テレスにより書かれた文献によりその存在が明らかになった。ミスル王国の宗教は多神教であり、主神は河川フラートの氾濫とその恩恵である肥沃な大地を神格化した両性具有の男神ティグリス神である。麦を主食とした農耕民族であった。ミスル王国の周辺には狄と呼ばれる異民族が存在していた。彼らからの侵略から国土を守るために度々異民族討伐が行われていた。現存するミスル王国史の写本は西暦350年頃に書かれたものでその内容はミスル王国の建国神話からその滅亡に至る物語である。この王国史がより多くの頁を割いているのは太陽王と呼ばれる猛々しい王シグルス王の即位までの経歴と異民族討伐とその息子ソール王子の死、ソールの子のスコル王の即位に至る3代にわたる統治である。この3代が治めた約80年間はミスル王国が最も繁栄した時代と王国史は記している。ソール王が即位する前に突然の死を迎え、まだ赤子だったスコル王の摂政としてソール王の弟であるネフェルが15年程国を治めた時代があった。このネフェル王子について王国史での記述はシグルス王とその息子ソール、シグルス王の孫であるスコル王と比較して少ないと言える。王国史から読み取るとネフェルはシグルス王の側室である上大臣デルフィの妹(名は伝わっていない)とシグルス王の間に生を受けた。ネフェルは腹違いの兄であるソール王子の死後ソール王の遺児であるスコル王の摂政となりスコル王が成人するまでの間国を治めた。また、ネフェル王には双子の妹である姫がいたが、姫は幼少の頃に死んだ。ネフェルの妻はシグルス王の父王ギュルヴィ王の時代から宰相を務めるメルクの孫娘と伝わっている。そしてネフェルが後に養子を迎えたことから、ネフェルと妻の間には子が無かったと推測される。ネフェルはミスル王国の第二皇位継承権を有していたが彼にはソール王子の遺児であるスコル王の摂政としてスコル王を支えることに専念していた。彼に野心があれば赤子のスコル王から王位を簒奪、あるいはスコル王を暗殺して自分が王位に就くことも可能であった。しかし王国史の短い記述を読み取っても彼には王座に対する執着が感じられない。スコル王が成年してからネフェルは政治から退き彼がどこで死んだのかも記載が見られない。ネフェルの外見について王国史には「ネフェルは宦官のような容姿であった。」と短く記されている。ミスル王国史の短いネフェルの記載を読み解くと、不可解な点がある。第一にネフェルには正妻であるメルクの孫娘以外に何人の妻がいたのかは分からないがネフェル王に子が出来なかった点である。第二に宦官のような容姿であったとわざわざ記した部分の一文がまるで文が取ってつけたように不自然に挿入されている点である。ネフェルが先天的に異常のあった人物であった、または種無し・同性愛者であったと言えばそれまでだ。しかし、私はミスル王国史を読んでいささか乱暴な仮説を提唱する。それは「ネフェルは女であった」という説である。もっと言えば幼少期に死んだのは姫ではなく本物のネフェル王子であり、ネフェルの死を隠すために姫をネフェルとして育てたと私は考える。そうすると、ミスル王国史に記載されたネフェルに関する不可解な記述は全て整合性が取れる。今回私はその仮説に基づいて新説・ミスル王国史となる歴史小説をしたためた。王国史に記載されていない人物の名前は便宜上私が設定した。そして、王国史に載ることのない架空の人物を多く含むことを予めご了承願う。
歴史家テレス20代目の孫 フランク・ワイズマン
第1章 双子の皇子
二人の子どもが河原で水遊びをしている。一人は短い黒髪の男の子である。もう一人は肩まで髪を伸ばしている女の子である。髪の長さと衣服が全く同じものであれば二人の顔かたちは見分けが付かないほど瓜二つであった。細い川の水は青く澄み、葉を広げた水草や小魚の群れが見える。男の子の名はネフェル、女の子の名はイリスという。二人は双子である。水しぶきを上げてはしゃぐ姿は仲の良い兄妹である。この二人の子どもはミスル王国の第二王子と第三王女であった。石ころの散らばる河原には3頭の茶色い毛並の馬とこの兄妹の母親が敷かれた反物の上に座っていた。彼女の黒目がちな目はこの兄妹と似ている。その近くには一人の小麦色の肌をした背の高い青年が控えていた。
「イリス、大きな魚を追い込もう。」
「ええ、石で囲いを作るのね。」
ネフェルは青年の方を向いて大きく手を振った。
「ねえ、ジュストも突っ立っていないで手伝ってよ。」
するとジュストは母親の方を向いて一礼して兄妹の方に歩み寄った。青年は衣服の裾をたくし上げると水の中に入っていった。ネフェルとイリスは二人が持つには十分に大きい石を浅瀬に円形に並べ一か所だけを石で塞がずに開けた状態にした。魚の群れが近づいた。ネフェルは勢いよく魚の群の一塊を追い込んだ。すると2匹の魚が大きな群れの塊から剥がれるように石の囲いに追い込まれていった。イリスがすかさず大きな石でその入り口を塞いだ。魚の大きさはジュストの手のひらほどの長さだ。ネフェルが顔を輝かせて大きな声を上げる。
「すごい、大きな魚だ。僕たちの獲物だよ、見て、母上」
ネフェルは離れた場所で座っていた母親に見えるように魚を手でつかみ、掲げて見せた。ぬめる魚の鱗に日の光が反射してきらり、と光る。
「ネフェル、そんなに強くつかんだら魚が死んでしまうわ。」
「この魚、どうしようか。焼いて食べてしまおうよ。」
そう言うとネフェルは魚を石の囲いに投げて戻した。水に入った魚は再びもう一匹の魚と共に出口のない場所を連添い泳いでいた。傍にいるジュストは微笑んだ。彼から見ればこの2匹の魚は食べるにはあまりに小さい。ただ幼い二人から見れば立派な獲物だ。
「なんだか食べてしまうのはかわいそうね。なんだかこの2匹、兄弟に見えるわ。」
イリスは2匹の魚と自分たち兄妹を重ね合わせたのだろう。
「お前だっていつも魚を食べるじゃないか。」
イリスはそうだけど、と言った。ジュストは姫の優しさを好ましく思った。するとネフェルは少し乱暴に石の囲いを足で壊した。出口を見つけた二匹の魚は水の流れに沿って泳いで行った。
「まあいいよ。今度はもっと大きな魚を取ろうよ。」
ジュストは空を見上げた。日が少し傾いてきた頃である。
「王子、姫様。そろそろ館に戻りましょう。もうじき日が沈みます。」
ネフェルとイリスは川から上がった。二人の母親、ネルトゥスは乾いた布を持って二人に近づいた。
「二人とも、足をよく拭きなさい。風邪を引いてしまうわよ。」
ネフェルはいいよ、めんどうだよと言った。イリスは布で足を拭いた。ネフェルは馬に乗ると手綱を引いた。この馬は王子が先月に10歳の誕生日に伯父である上大臣デルフィから献上された馬だ。
「私も馬が欲しかったな。」
イリスはそう言った。馬はネフェルに操られるままにその場でくるり、と一回転した。
「イリスは髪飾りを貰っただろう。大きな赤いメノウのやつ。」
イリスは横を向いた。双子の二人の誕生日は当然同じ日である。
「宝石よりも馬が良かったわ。髪飾りはきれいだけど役には立たないもの。」
ジュストがよくお似合いでしたよ、と言うとイリスはそっぽを向いてそうかなあ、と言った。
ジュストがもう一頭の馬を引き、イリスを抱き上げて馬に乗せ、自分も馬に乗った。ジュストが姫様、私の腰に掴まっていてくださいと声を掛けた。最後の一頭にネルトゥスが跨った。ネルトゥスの馬はとろんとした優しい目をしていた。この馬は双子が産まれる前からネルトゥスが乗っていた愛馬である。もうこの馬も随分歳を取っている。ネルトゥスは優しく馬のたてがみを撫でた。
三頭の馬は一列になり森を走る。先頭がネフェル、真ん中はネルトゥス、一番後ろでジュストの腰にイリスが掴まっていた。ネフェルは迷うことなく手綱を引き、馬を走らせている。その背を持てまだあどけない少年だが、だんだん頼もしい王子になったとジュストは思った。ジュストがこの二人に出会ったのは彼らが2歳の頃であった。その時ジュストは10歳になったばかりだった。ネルトゥスはこの双子を身ごもってから都から少し離れた場所にある館で暮らしていた。本来王の妃であるネルトゥスは王宮の女たちが生活する後宮で暮らさなければならない。しかし、華々しい後宮の世界はネルトゥスには合わなかった。そのためネルトゥスは二人を産むために実家に戻ってからそのままその場所に留まっていた。宰相のメルクや王の正妃ユノはネルトゥスに後宮に戻るように忠告したが王シグルスはネルトゥスが都から離れて暮らすことを許していた。ネフェルとイリスに初めて謁見する前にジュストは父親のクレオンからお前はこの二人を自分の命に代えても守り続けるようにと命じられた。それ以来彼は王子と姫に仕え続けている。王子は強く逞しく、姫は優しく賢く育った。王子の剣の腕は日に日に上達していた。第二王子のネフェルは第一王子のソール王子に万が一のことがあれば、王位に就く可能性もある。順当にいけばネフェルは臣下としてソール王子を支える立場にある。そのためにネフェルは5歳の時から武芸と勉学に励んでいた。皇子と従者の自分とはあまりに大きな隔たりがある。それでも共に暮らし、二人を見守ってきたジュストにとってこの双子は歳の離れた弟妹のような存在であることは否めない。ネフェルの馬はどんどん速く駆け、ネルトゥスとはすでに30mほど離れていた。ジュストからネフェルの姿は見えない。すると突然ネフェルの馬が高い声で鳴いたと思うとネフェルの悲鳴が聞こえた。何が起こったのかは分からない。ジュストは馬の腹を蹴り、急いで王子のもとへ向かった。するとネフェルの馬の姿が見えず、ネフェルが倒れていた。ジュストは馬を停め、急いで王子に駆け寄った。すでにネフェルに追いついた母親のネルトゥスがネフェルを揺すっている。ネフェルの躰は操り人形の糸が切れてしまったかのようにぐにゃり、と曲り頭から血を流していた。傍の石にも血液が付着していた。落馬して頭を打ったのだ。ネフェルの目は見開かれていた。間違いなく、ネフェルは死んでいる。
「ネフェル、ネフェル」
ネルトゥスは口を手で覆った。馬から降りたイリスの顔が青ざめ、悲鳴を上げた。ジュストは拳を握った。突然王子が死んでしまった。間違いなく王子から目を離した自分の責である。自分の不注意で心の奥で密かに弟のようにかわいがっていた大切な王子を死なせてしまった。ジュストは首から下げた笛を鳴らすと天から鷹が舞い降りた。震える手でジュストは鷹の足に赤い紐と緑の紐を結びつけた。これでネルトゥスの兄である館の主、上大臣デルフィに非常事態が起きたことが伝わるだろう。イリスは恐る恐るネフェルに近づいた。ネフェルの目は閉じ、頭からは赤い血が流れていた。ネルトゥスのお腹の中にいたときからネフェルと自分は一緒に生きてきた。ネフェルは自分の兄であり、時には弟であり、もう一人の自分であった。イリスは自分の体の半分を引きちぎられたような痛みを覚えた。
もうじき日が沈む頃に森の向こうから黒毛の馬に乗ったデルフィと赤毛の馬に乗ったジュストの父である家宰のクレオンが現れた。ネルトゥスは河原で敷いていた布でネフェルを包み、抱きしめていた。ネルトゥスの傍ではイリスが膝を抱えてうずくまっている。イリスはこのままネフェルと共に暗い森に沈んでいくような心持だった。ジュストはうつむいてうなだれていた。デルフィは馬から降りてネルトゥスに抱かれたネフェルの躰を見て全てを悟った。ジュストはデルフィの前に平伏した。
「デルフィ様、王子の死は私の責です。申し訳ございません。」
ジュストは額を地面に付けた。ネフェルの死に対する悲しみとネフェルを死なせてしまった自分の不甲斐なさでジュストの胸はいっぱいだった。
クレオンはジュストの頭を地面にぐい、と押し付けて自らも平伏した。
「デルフィ様、この不肖の息子と共に私をお斬りください、私はあなた様に拾われた恩を仇で返したも同然でございます。」
「ネフェルが死んだのはジュストのせいではありません。そんなことをしてもネフェルが悲しむだけです。」
ネルトゥスは諭すように言った。
「お前たちが死んだところで王子は戻らない。命を粗末にするな。これからの沙汰は館に戻ってから決める。それまではネフェルの死を知られてはならない。」
デルフィはそう言うと目を伏せた。群青色と夕日の朱色が交わる地平線の向こうに一羽の鳥が飛んで行った。
館に戻るとイリスは自分の部屋で待つようにとデルフィに諭された。部屋に戻るとイリスは寝台の上に腰を下ろした。ネフェルの亡骸はクレオンが連れて行ってしまった。今はネフェルの形を保っている体もじきに腐り、骨になってしまうだろう。今朝もネフェルと共に食事を摂った。昨日の今頃はネフェルとジュストの3人で双六をして遊んでいた。だが、ネフェルはもういない。部屋の前からイリス、遊ぼうよと声が聞こえてネフェルが現れないだろうか。これは悪い夢だ。目が覚めたらまた広間で母様とネフェルと朝ごはんを食べるそれからネフェルはクレオンと共に庭で剣の稽古を始める。そうなると信じたい、けれどネフェルはもう。目頭が熱くなり、見慣れた部屋の景色が涙で歪んで見えた。
デルフィの書斎は本棚がコの字に並び、書物の書かれた巻物が整然と並べられていた。上大臣とは思えないほどの質素な部屋だ。机の上にある大理石でできた硯が黒く光っている。ネルトゥスは沈痛な面持ちで椅子に腰掛けていた。デルフィは自分の椅子に座った。クレオンはただ静かにデルフィの斜め後ろに控えていた。ジュストはイリスの部屋の前で控えるように言い渡している。今王子ネフェルが死んだことを知っているのはイリス、ジュストの他にこの屋敷にいる三人のみである。
デルフィは手を机の上で組んでいる。
「ネルトゥス、今回の不幸な事故は全く予想できないものだった。」
ネルトゥスの手は微かに震えていた。
「まさか、たった10歳であの子がもう死んでしまうなんて・・・」
ネルトゥスは両手で顔を覆った。
「あの子は只の子どもではない。この国の王の血を引く王子だ。」
デルフィの眉間に皺が寄った。ネルトゥスは顔を上げた。兄は一体何を考えているのだろうか。自分にとってネフェルはたった一人の息子だ。彼女は王宮を離れてから双子の兄妹を育ててきた。双子の息子と娘は自分にとって全てだった。デルフィにとっても二人は甥、姪である。ネルトゥスより3歳年上の兄は昔から感情表現に乏しい方だった。ネルトゥスが甘えようとしても、兄はどこか冷たかった。兄が黙って、何かを考えている時の黒い目が得体の知れない爬虫類のように思えて空恐ろしいと感じることがあった。
「我が一族にとって皇位継承権第二王子を失うことは痛手だ。正に、不幸な事故なのだ。」
デルフィの黒い目が不気味に光った。
イリスは部屋の寝台の上で横たわっていた。
「姫様、デルフィ様がお呼びです。」
ジュストの声が部屋の外から聞こえた。イリスは体を起こし、廊下に出ると待っていたジュストの白目が少し血走って赤くなっているのが見えた。廊下を歩きデルフィの部屋に入るとデルフィは机に座っていた。ネルトゥスは椅子に腰掛けていた。クレオンはデルフィの後ろで控えている。
「イリス、大切な話をする。今日ネフェルが死んだ。それは事実だ。」
イリスははい、と返事をした。
「だが王子に死なれては困るのだ。ネフェルは王の二番目の王子だ。嗣子は第一王子のソール様だということは知っているだろう。」
イリスはよく分からないまま頷いた。イリスは一度もまだ王宮に行ったことが無い。腹違いの兄であるソール王子にも父王にすら会ったこともない。
「次の王はソール様に決まっている。だがネフェルはソール様の弟として臣籍に下りソール様を支えなければならない。ネフェルはそのために毎日武芸を磨き、学んでいた。それはお前も知っているだろう。」
ネフェルは5歳になった時から剣の稽古をしていた。ネフェルはクレオンを相手に木刀を振るっていた。それは将来国の役に立つためだと話していたネフェルの姿を思い出した。父さまのように、この国を守るんだ。そう言ってネフェルは目を輝かせていた。
「ネフェルの遺志を継ぐことができるのはこの世にただ一人、双生児であるお前だけだ。死んだのは、イリスということにする。おまえは今からネフェルとして生きなさい。この家は豪商だった私の祖父が官職を買い、下大臣の立場を手に入れた。転機はお前の母が王と結婚し、お前たちを産んだことだ。長年賤しい出のまがい物として侮辱され続けた我々一族の雪辱を晴らすためには、王子を失うわけにはいかないのだ。お前はネフェルの分まで、ネフェルが生きるはずであった人生を生きなさい。」
イリスはうつむいて考えた。デルフィの言う一族の雪辱の意味はイリスにはよく分からなかった。ただ王国の第二王子として生き、国を支えることはネフェルの願いであった。まだ自分と同じ年のネフェルは自分なりの将来王国を支えるために剣の稽古や勉強をがんばっていた。父さまのように国を守ると目を輝かせていたネフェルの姿をイリスは思い出した。まだ会ったことのない父王シグルスにネフェルもイリスも憧れていた。二人が母ネルトゥスから聞いたのは強く立派な王だったということだった。
大人になったら、父のように国を守りたいという望みは突然ネフェルの死で失われた。ネフェルの遺志を抱いて共に生きることが出来るのは双子の自分だけだ。そうすれば、ネフェルと共に生きることが出来るのではないか。イリスは腰の守り刀を抜く。白い刃が光る。イリスは左腕で髪の毛を掴んだ。ネルトゥスが立ち上がった。
「イリス、やめなさい、あなたが」
ネフェルの人生を背負うことはないのよ、と口にする前に床にイリスの黒い髪が落ちた。後ろで控えていたジュストはまだ子どもだと思っていた姫の決断にただ驚いていた。
「私はネフェルと一緒に生きます。ネフェルが守りたかったこの国を守りたい。それをできるのは私だけだから。」
イリスの澄んだ瞳はまっすぐ前を見据えていた。
一か月後にミスル王国第三王女イリスの葬儀が行われた。イリスの遺体は熱さで傷んでいたということで既に館で火葬された後の遺骨が国の墓である陵に納められることとなった。イリスはその葬列に参加していた。大臣数名が黒い喪服を身に付け、陵墓までの道に並んでいた。その中には伯父デルフィの姿もあった。もちろん本当に死んだのはネフェルである。遺体が残れば死んだのはイリスであると分かってしまう。だからデルフィは母ネルトゥスの頼みでネフェルを火葬した。加えてイリスは見ていなかったが実際にネフェルの躰は熱で傷んでいたようだ。イリスは骨壺を持ち、母ネフェルと共に陵墓への道を歩んだ。二人の前をティグリス神に仕えている二人の白い服と長い帽子を被った神官が歩いていた。一人は男性、もう一人は女性だ。二人とも随分年老いている。ネフェルの骨が入った小さな青白い焼き物はずいぶん軽いように思えた。これが一か月前まで一緒に遊んでいたネフェルだと思うとイリスの心にやるせない悲しみがぶり返す。ただ、泣いてはいけない。緑の芝の生えた小高い草原が王家の墓である。その中でも夭折した歴代の王の幼子のための墓があった。ネフェルの眠る場所はそこだ。神官がイリスに膝を付き、恭しく骨壺を受け取った。そして二人の神官は黒い石をずらし、その中にネフェルの骨を埋めると黒い石で蓋をした。太陽の光で石はつやりと光っていた。そして二人の神官と参列者は跪いてイリス姫の冥福を祈っていた。二人の神官の口から出るまじないの言葉が折り重なり、紡ぎだされる。目を瞑り、手を組んだイリスは心の中でネフェルに語りかけた。ネフェル、私はあなたの分も生きる。だからいつも傍にいて。目を開けると気持ちの良い涼やかな風がイリスの頬を撫でた。ありがとう、イリス。ネフェルの声が聞こえたような気がした。
第2章 王
ミスル王国の王宮の一室には御簾が掛けられている。また、部屋を涼しくするために夏になると部屋の外を通る水路に水が引かれている。その一つの部屋には浅黒い肌の青年と中年の緑の冠をかぶった男性が木の机に向かい合わせになって座っていた。
「ですから、この国の繁栄をもたらしているのはティグリス神の治める巨大な河川、フラートの水に他なりません。水がもたらす土砂で土地は肥え、その土から麦が実るのです。」
青年はつまらなそうに頬杖をついて彼の話を聞いていた。すると男性はため息をつく。
「王子、いい加減に王国の歴史くらいは一通り覚えておかなければ将来の王としての面目が立ちませぬぞ。」
「そんなもの暗い書庫に籠る黴の生えた史家のじじい共にやらせておけばよい。」
男性はさらにため息をもらした。この青年はミスル王国ギュルヴィ王の長子、シグルス王子である。そしてこの中年の男性は王の教育係も兼ねる上大臣のメルクであった。メルクはまだ40代後半なのだが歳の割には顔には細かい皺が刻まれ、ずいぶん白髪が目立っている。
「しかし国の頂点に立つお方がそのようなことでは・・・」
「それではお前に聞くぞ。確かにフラートの水はこの国の土を豊かにする。だが時には氾濫で多くの民を苦しませるではないか。神とはずいぶん自分勝手なものだな。俺は神など信じないぞ。そんなの神官のでっち上げではないのか。神官や史家だの何の役の立たない者を国の金で養うくらいなら百姓の年貢を軽くした方がよっぽど良い。」
するとメルクの顔がみるみる青くなり、シグルスの口を押さえつけた。
「王子、なんたることを!そもそも王家の始祖はティグリス神の曾孫なのですぞ!王家が神の存在を否定すれば王家そのものの威厳と存続が危うくなります。それを次の王であるお方が・・・ああ。」
メルクは頭を手で押さえ、その場でへたりこんだ。シグルスは頭を掻いた。
「分かった。分かった。よし、今日はもう終わりだ。また明日だ。」
シグルスはそういうと憔悴しているメルクをよそに部屋から飛び出した。部屋に残されたメルクは教育係の自分の不甲斐なさを恥じた。このようなことでは王として即位した後どんなボロが出るか分かったものでない。しかし王子の言葉を思い出すと王子は王子なりに民の年貢や生活のことを考えていると思うとメルクはどうしても王子を憎めない。
そして部屋の外で控えていた青年に声を掛けた。黒い瞳の青年はどこか仄暗い影があった。
「おい、デルフィ。今日はおわりだ。これから馬で遠乗りする。お前も付いてこい。」
「はい。それが私めの勤めでございます。」
デルフィは当時シグルス王子の従者であった。
厩舎に行くとシグルスは自分で馬を引き、跨った。彼の馬は白い毛並の馬である。デルフィは茶色の馬に乗った。
シグルスが手綱を引くと馬は走り始めた。その後ろをデルフィが追いかける。夏の太陽が土を照り付ける。田畑が見えた景色も次第に遠くなり、日が傾く頃には二人は人の少ない草原に到着した。草原の小高い丘には大きな一本の木が立っている。木は枝を伸ばし、葉を広げている。シグルスは日陰で馬から降りて木の根元に腰を下ろした。デルフィも馬を停めるとシグルスの近くに立った。シグルスは竹筒に入った水を飲み、一息ついた。
「デルフィ、お前も水くらい飲め。倒れるぞ。」
デルフィはありがとうございます、と一礼すると自分の竹筒の水に少し口を付けた。しばらく木陰でじっとしていると汗が引いて少し涼しくなった。シグルスはデルフィを眺めた。黒い衣を着たデルフィは涼しい顔をしていた。この男が汗まみれになっている所をシグルスは一度も見たことが無い。
「後宮に行かずともよろしいのでしょうか。」
デルフィが呟いた。
「できることなら行きたくない。お前ユノに何か言われたのか。」
ユノはシグルスの正妃である。ちょうど3カ月前に婚礼の儀を行ったばかりだ。
「婚礼の夜より一度も王子が自分の元を訪れないとユノ様は心配されておいででした。はやく子を成さなければならないとおっしゃっていました。」
「だからユノのそういう所が苦手なのだ。王家の存続のためにはやく子を産みたいと俺に説教をする。」
ユノはシグルスより2歳年上で同盟を結んでいる隣国より嫁いだ女性である。色白で石膏の塑像のように冷たく美しい。ゆえに婚礼の晩には床を共にしたシグルスとユノであったが、次第にシグルスの足はユノの元から遠のき、今ではできるだけユノに会わないように逃げ回っていた。おそらく堅苦しいユノと自由奔放なシグルスでは性格が合わないのだろうとデルフィは思った。そしてユノは口うるさいく王家のためというが本当のところユノはシグルスが好きなのだろう。
「よし、もう戻るぞ。日が沈む前に戻りたいからな。」
シグルスはそう言うと立ち上がった。
再び来た道を駆けた。日が傾いたせいなのか馬に乗っても少しは涼しかった。王宮に戻ると二人は厩舎に馬を繋いだ。太陽は沈みかけ、空は赤く染まっている。するとお兄様、と呼ぶ声がした。
「ネルトゥス、どうしたのだ。」
デルフィは妹に語りかけた。
「お兄様のお帰りが遅いので、様子を見に参りました。」
ネルトゥスの黒い瞳はくりくりとして愛らしい。しかし、5歳年下の自分を慕う妹は時にうっとうしい存在でもあるとデルフィは思っていた。どう扱えばよいのか分からない。その時厩舎からシグルスが出てきた。
「誰だ、その子は。」
デルフィは膝を折り、ネルトゥスを平伏させた。
「失礼いたしました。この娘は私の妹にございます。すぐ帰らせますゆえご容赦を。」
「構わない。名を何と申すのだ。歳はいくつだ。」
シグルスは腰をかがめてネルトゥスの顔を覗き込んだ。するとネルトゥスは恐る恐る顔を上げた。
「ネルトゥスといいます。13になります。」
するとシグルスは相好を崩して笑い、ネルトゥスの頭を大きな骨張った手で撫でた。
「良い子だな。よし、大人になって美人になったら俺の側室にしてやるぞ。」
そういってシグルスは二回軽くネルトゥスの頭をとんとん、と叩いて手を放した。するとネルトゥスは耳を赤くしてうつむいた。シグルスはデルフィに今日はもう妹と帰れ、と言い残すと王宮の方へ歩いて行った。王子は今日こそ後宮に向かうのだろうか。正妃ユノは今頃気をもんでいるに違いない。ネルトゥスとデルフィは並んで歩いた。王宮を出ると夕暮れの都では道に商店が並び、店主たちが店じまいをしていた。建物の窓から食べ物の匂いが漂っている。ネルトゥスが顔を見上げる。
「あの方がお兄様のお仕えする王子様なのですね。お優しい方ですね。」
デルフィはああ、そうだよと言った。王子はネルトゥスに妃にしてやると冗談を言った。この子が、まさか。
それから正妃ユノはどうやら初夜の晩に子どもを授かっていたようで首尾よく懐妊し、男子を出産した。男の子は神官長からソールという名を授けられた。ソールが生まれたばかりの頃は後宮で親子3人で過ごしていたのだがやはりシグルスとユノは反りが合わず次第にシグルスはユノから逃げ回るようになった。もうソールは3歳になる。父親の自覚が無いわけではない。ちちうえ、ちちうえと呼ぶソールは可愛らしく、守りたいと思う。ソールの顔つきは徐々にシグルスに似てきた。ユノが懐妊した時はまさか婚礼前に他の男性と関係を持ったのではないかと疑う者もあったが生まれてきたソールの顔つきを見ればソールがシグルスの子どもであることは明らかであった。りりしい眉と浅黒い肌、琥珀色の瞳がシグルスに良く似ていた。その次の年にシグルスはユノのお付の若い女官と床を共にしたことがあった。そしてその娘は女児を懐妊し、出産した。その時にユノの悋気は激しかった。シグルスの顔を見るなり正式に側室ではない賤しい出の女が子を産んだら面倒なことになるのです。男子だったらどうしてくれたのですか。側室を迎えるなら私に相談してから然るべき方法でなさい、と詰め寄った。そして、もっとソールに会いに来るようにと言った。ユノの剣幕があまりにも恐ろしかったのでシグルスは自分と近しい宦官の若い男に女官の娘を守るように言い渡していた。しかし結局ユノはその娘に側室としての地位を与えた。王子の子を産んだ以上そうするべきだとユノ自らが主張したのだ。いくら悋気が激しくてもユノは他人を傷つけたりする女ではないのだろう。そして正室として後宮を守るという責任感もある。ただ、ソールも交えて夫婦で会っていてもユノは何かとうるさい。昨日は誰と会っていたのか、どこで寝たのか。ユノと同じ部屋にいるだけでまさに息がつまり窒息しそうになる。だからシグルスはユノから再び逃げ回ることにした。子を持つ大人がすべきではない子供じみた方法であることは分かっていた。それでもシグルスはなるべくユノと顔を合わせたくなかった。
シグルスは王宮にある部屋で寝転んで考えていた。この部屋で自分が寝泊まりしていると知っているのはメルクとデルフィだけだった。部屋は王子である自分にとっては狭いものだろう。メルクは嘆かわしい、と呆れていた。それでも生きるためには十分の広さではないか、とシグルスは思った。王国は今年も何も変わりが無かった。フラートの氾濫などの自然災害も無く、麦も十分実った。南方の異民族もここは大人しく国の辺境に侵攻することもなかった。異民族は遊牧して生活している。そして時に辺境の村を襲い、略奪を行うこともある。そういう時は向こうも羊が流行病に罹っていたりして生活が苦しいと密偵が話していた。しかし、侵犯は許すわけにはいかない。部屋の外からデルフィが声を掛けたのでシグルスは入れ、と言った。
「王子、メルク様より言伝です。明日の朝に王の許へ行くようにとのことです。」
「父上か。」
シグルスの父のギュルヴィは歳の頃は50代に差し掛かっていた。ここ最近父の様子がおかしい。王の近侍の医者が診たところ病ではないと判断された。ただ父は目つきだけがぎらぎらと光り、どこか遠くを見ているようだった。父がこの状態であれば、いよいよ自分が国を支える番である。それは長子である自分の責であろう。ただ今の自分に王が務まるのだろうか。そう思うとシグルスは不安を覚える。父王ギュルヴィはシグルスが子どもの頃はよく剣の稽古を付けてもらっていた。シグルスがいくら木刀を振るっても父王の刀はびくともせず逆に剣を弾かれた。次こそは一本取って見せるとシグルスはむきになって父王に飛びかかっていた。父の大きな背中におぶさることが好きだった。その様子を今はもう亡くなった正妃である母が見守っていた。自分もそろそろ王子として、父親としての役目を果たさなければならないとシグルスは思った。
翌日の朝に王宮の大広間に上大臣から下大臣、将軍や神官などこの国の政に関わる人間が集められていた。他にはシグルスの弟王子5人と末の王子ハティの姿があった。ハティはまだ8歳になったばかりであった。ハティは父王の側室であるリラ妃の子どもである。ハティはシグルスを見つけると歩み寄ってきた。
「兄上さま、ハティにございます。」
ハティはそう言うと一礼した。
「おお、俺が一番年上のシグルスだ。お前は一番末っ子だな。」
シグルスはそう言うとハティの頭を撫でた。ハティは眩しそうに目を細めた。
そして父王ギュルヴィが現れ王座に座った。やはり、どこか絹の布越しに外を見ているかのように朦朧とした父王の様子にシグルスは不安を覚えた。これだけの国の中枢の人間を集めて父は何を言うつもりなのだろうか。
その後ろには父王の長寵姫リラが控えていた。リラは遠目に見ても毒々しい妖しい美しさを放っていた。シグルスの母が亡くなった後にリラは元々踊り子で宮廷の行事で舞を見ていた父王に見初められて側室に迎えられた。
母が死んでから父王が若い側室を迎えたことに少年だったシグルスは反発した。そして今もその父を受け入れることが出来ず、疎遠になっていた。穏やかで地味な面持ちの母と妖艶なリラはあまりに違いすぎた。母を忘れ、若い女に耽った父を、どうしても許すことが出来なかった。重臣たちが全員揃ったのを見た父王ギュルヴィは口を開いた。
「皆の者、今日は大事な話がある。いろいろ考えたのだがわしが亡き後の次の王はハティにしようと思うておるのじゃが、どうか。」
一瞬大広間にいた全ての人間が静まり返った。シグルスは頭の中が真っ白になった。国王は王の正妃の子、また正妃に男子が無ければその中で一番年長の者が選ばれる。したがって正妃の子でしかも長子であるシグルスが次の王である。自分が跡継ぎとして満足のいかない存在ならば次子で同じ母から生まれた弟のノイエを新しく王に立てるべきである。ましては末子であり側室の子であるハティを王に立てることは真っ当な人間のすることではない。傍にいたハティはあまりに幼い。この歳の離れた弟は今この場所で何が起きているのかもよく分かっていないように見えた。おそらくリラがなにか父に吹き込んだのだろう。父の判断は、真っ当ではない。
「恐れながら!」
そういうとメルクが前に出て王の前に平伏した。
「国を継ぐのは正妃の長子であるべきです。長子を差し置いて末の子を後嗣にすればいずれ跡目争いが起きることは必至です。そうなれば国は乱れるでしょう。なにとぞ、どうか嗣子の件、もう一度お考え直しください。」
老いた宰相もメルクの横で膝を折った。宰相はギュルヴィの父の時代から仕える老臣である。
「メルクの言う通りでございます。王より5代前の時代にも王が寵姫の子を王座につけて内乱が起きたことをお忘れですか。12代続く国を守るために、どうか。」
父王ギュルヴィはうつむいてううん、と唸った。父は昔から教育係であった宰相に頭が上がらない。その横にいたリラの細い眉が吊り上っているのをシグルスは見た。次に将軍や中大臣、下大臣、神官までもがどうか、お考え直し下さいと口々に述べた。リラが口を開く。
「くどい、これは王の決断であるぞ。下がりなさい!」
父王ギュルヴィは顔を上げた。
「分かった。お前たちの言う通りである。わしは血迷っていた。次の王はシグルスでないとならない。忘れてくれ、これで仕舞いじゃ。」
そう言うと父王はシグルスの方を見て王座から立ち上がり、後宮の方へのろのろと歩いて行った。その横にリラが付き添うように歩いた。ギュルヴィの背中はあまりに小さくなっていた。いつの間にか父はあんなに老いていたのだろうか。
シグルスは数日部屋に籠りメルクから与えられた歴史書の巻物を広げて読んだ。何かせずにはいられなかったのだ。いままで能天気に何も考えず王子という立場に甘んじて生きていた。部屋の窓辺からは夕焼けが見えた。鳥の群れが飛んでいく。シグルスは廊下で控えていたデルフィに声を掛けた。デルフィはひたひたと歩きシグルスの前に座った。
「どうだ、王宮の中で何か変わったことはあるか。」
「はい。あの王の一件があった後にリラ妃に取り入る大臣は将校が数人出てきたそうです。特に宦官のべリアは個人的にリラ妃に宝石を献上したそうです。」
やはり、取り下げたものの父王ギュルヴィがハティを王に据えると言った影響は宮中に出ているのだろう。それは当然のことだとシグルスは思った。
「父上については。」
するとデルフィは少し間を置いてから
「若き日は強かった王も、今では寵姫の思いのままだとの噂が広がっています。」
と言った。シグルスの胸はやるせない気持ちでいっぱいだった。この王国に入った亀裂をどうにかして納めなくてはならない。シグルスは立ち上がった。
「少し歩いてくる。」
「お供致しましょうか。」
「いや、一人で良い。」
デルフィは相変わらず暗い顔をしている。
「お気をつけて。王子の命を狙う者がいないとも限りません。」
シグルスは部屋の隅に置いてあった長い刀を取ると腰に差した。
「見くびるなよ。俺はお前より剣の腕は立つと思うておる。」
そういうとシグルスはにやり、と笑った。確かに若き日のギュルヴィよりじかに教えを受けたシグルスの剣の力量は自分を遥かに上回っているだろうとデルフィは思った。シグルスは部屋から出ると王宮の庭の方へ歩いた。石や泥の煉瓦でできた建物を夕陽が赤く染める。シグルスは夕暮れの王宮や城下町の雰囲気が好きだった。その様子はなんとなく哀愁があり、美しいと思った。数日間風呂と食事以外はずっと部屋にいたせいか体がなまったような気がした。やはりじっとしているのは性に合わない。デルフィには大口を叩いたが今刺客が来れば自分はあっさりと斬り殺されるかもしれないとシグルスは思った。王宮の裏門の方へ歩くとシグルスはすれ違った女性にぶつかった。女性が振り向いて頭を下げた。
「申し訳ございません、非礼をお許しください。」
「気にするな。お前こそけがはないか。」
女性というよりまだ若い娘は髪の房を左右に垂らし、髪飾りを付けていた。黒い瞳が真っすぐにシグルスを見つめ、その眼が少し大きく見開かれた。
「シグルス王子、久方ぶりでございます。デルフィの妹、ネルトゥスです。」
「おお。デルフィの妹か。すっかり大きくなって分からなかった。」
ネルトゥスは3年前に会った時より女らしい顔になっていてシグルスは思わず身構えた。黒い影のある瞳がデルフィにどこか似ているように思えた。するとネルトゥスは優しい笑みを浮かべた。
「王宮には何の用だ。」
「父の使いで書状を届けるようにと言われています。」
「そうか、なら行って来い。俺はそっちに行く。」
そう言うとシグルスは歩き出した。デルフィとネルトゥスの兄妹は黒い瞳はよく似ているが、雰囲気が違うとシグルスは思った。暗いデルフィより妹の方が明るい。あの兄妹はいつもどんな話をするのだろう。そう思うとシグルスはなんだか愉快な気持ちになった。
その数日後にシグルスが部屋で書を読んでいるとデルフィが急いで走ってきた。
「なんだ。珍しく騒々しいな。」
「王子、今朝方急に王が腹痛を訴えられて今容体芳しからず、と。急いで王の寝室へ向かってください。」
シグルスは体から血の気が引くのを感じた。つまり、父は危篤状態だということだ。一体どうして。昨日までは父の体の異変は伝えられていなかった。シグルスはデルフィより先に部屋を抜け、走り出した。見慣れた石造りの白い廊下、庭の葉を広げた蘇鉄の木、降り注ぐ暑い日差し、張り巡らされた廊下の水路に注ぐ水音。世界が歪み、おかしくなりそうだった。どうか、嘘だと言ってくれ。
寝室に着くと父王ギュルヴィは寝台に寝かせられていた。顔は土気色で唇は紫色であった。シグルスの同腹の弟ノイエが蒼白な顔で立ち、シグルスに話しかけた。
「兄上、父上に言葉を掛けてください。」
その他にも宰相やメルクをはじめとする上大臣、神官、シグルスの妻ユノとその子ソール―そして寵姫リラが子のハティの手を引いて王の近くに侍っていた。シグルスはそっと父の近くに寄り、手を握った。
「おやじ」
シグルスは父親のことを父上でも父さまでもなくそう呼ぶのが癖であった。
「…おお、シグルスか。」
「少し休めばよくなる。だからもうしゃべるな。」
シグルスから見ても父が瀕死状態であることが分かった。
「…もう少しでサリイに会える。だから、良い、もう良いのだ。」
サリイはシグルスの母の名だ。シグルスの目からは涙があふれ、父の顔がぼやけて見えた。父はやはり母を深く愛していた。シグルスの胸が熱くなった。父は皺だらけの手を最後の力で伸ばし、シグルスの涙を指で拭いた。
「…国の、ことは任せるぞ、我が息子よ。」
そう言うとギュルヴィは目を閉じた。シグルスのまぶたに父の指の感触が残った。ギュルヴィの目が開かれることは二度となかった。シグルスがその場で崩れ落ちた。シグルスの双眸から止めどなく涙が流れた。その光景をリラが冷たい眼差しで見つめていたことをメルクは見逃さなかった。
シグルスはよろよろと立ち上がると王の部屋を出ようとした。すると後ろからユノが声を掛けた。
「あなた、これからのことを話さなければなりません。今日からあなた様が次の王なのですよ。」
シグルスは黙って歩いた。よろよろと王宮の中を歩いた。全て嘘であってほしいと思う。逃げるわけにはいかない。だが、今はもう何も考えられなかった。王宮の庭に出て厩舎の方へ歩いた。厩舎の中に入ると、そこにはデルフィの妹のネルトゥスがデルフィの馬のたてがみを梳いていた。厩舎の中は薄暗く、小さな隙間から光が漏れていた。傍には藁の山が置いてある。ネルトゥスはシグルスの方を見た。ネルトゥスの黒い瞳を見ていると、泣きたいような、母のような存在に縋りたい衝動に駆られ、シグルスはネルトゥスに近寄り抱きしめた。ネルトゥスは顔を上げた。シグルスの泣きはらした顔が見える。シグルスは自分が最低な人間だと感じていた。それでもネルトゥスから手を離せなかった。ネルトゥスの体から温かい温度が伝わってくる。
「王子、どうなさいましたか。何があったのですか。」
ネルトゥスは恐る恐る尋ねた。王子の様子は尋常ではなかった。
「父が、死んだ。」
「王が…」
「皆にとっては王だった。それでも俺にとっては、たった一人の親父だった。」
ネルトゥスはゆっくりシグルスの背を撫でた。
「親父が本当に愛したのは母さん一人だけだった。それに気付けなかった。俺は、親父に何もできなかった。」
ネルトゥスの背に回されたシグルスの腕の力が抜けていくことに彼女は気付いた。この人は今、深く傷ついているのだろう。以前に会った時の快活な様子からは想像できないほど今の王子は痛んでいた。傍にいなければならない。今誰かが傍にいて繋ぎ留めなければこの人はどこか遠くへ行ってしまうのではないかとネルトゥスは思った。それが、たまたま自分であったのだ。
ネルトゥスはしばらくじっと動かなかった。シグルスも黙ってネルトゥスを抱きしめていた。どの位時が経ったのだろう。ネルトゥスは意を決して口を開いた。
「それでも、あなただけなのです。あなたのお父様とお母様が残した国を今守ることが出来るのは、シグルス様おひとりだと私は思います。」
するとシグルスはゆっくり顔を上げた。そうだ、この国の亀裂を収めるのは自分ではなかったのか。いつまでも赤子のように泣いているわけにはいかない。シグルスは涙を拭いた。ネルトゥスは優しく目を細めた。その顔を見てシグルスはネルトゥスのことを愛しいと感じた。
その後王ギュルヴィの国葬が行われた。国民は皆3日間黒い衣を着て喪に服した。ギュルヴィの遺体はギュルヴィ自らが生前建てるように指示した陵に納められる。陵には青々とした草が生えている。空には雲一つ無く、眩しい日差しが降り注いでいた。10人の神官の祈りの言葉が終わると王の棺が納められた玄室が大きな石で閉ざされた。これでもう二度と会うことはない。親父、さらばだ。シグルスは父に語りかけた。シグルスは振り返ることなく歩いた。
シグルスが新王として即位してから3カ月経った頃、先王の末子ハティを擁する宦官のべリアと一部の将校が反乱を起こし、兵を上げた。その裏でリラが糸を引いていることは明らかである。相手の兵の数は千である。こちらの兵の数は五千であるため、兵の数では勝っていた。だが他の勢力や民衆も巻き込んで兵力が膨らんでいけば危険な存在となる。シグルスの目の前には近衛兵から兵卒にいたる五千の兵が並んでいた。シグルスは腰の刀を抜き、天に掲げた。
「先王から引き継いだこの国の土地と民を脅かす輩を許すな、逆賊を討つ。俺に続け!」
シグルスの大きな声は広場に響いた。すると地鳴りのような兵たちの歓声が上がった。シグルスの後ろで控えていた教育係であったメルクはその光景に胸を打たれていた。
その一月後反乱は収束した。反乱の首謀者であった宦官のべリアと数名の将校、リラ、ハティは皆斬首とした。
反乱を鎮め、その者達が捕えられたと将軍が伝えた。あどけない表情の弟王子ハティの顔を思い出し、シグルスは心が痛んだ。しかし、一度反乱を起こし王家の血を引くハティを生かしておけば再びハティを利用して反乱を企てる人間が出る可能性がある。王国を守るためには、禍根を残すわけにはいかなかった。シグルスは震える声を押さえ、皆処刑せよ。と伝え、背を向けた。将軍は一言御意、と言った。その2日後に全員が斬首となった。
シグルスは後宮の一室で黒い空に浮かぶ黄色の月を眺めていた。傍にはネルトゥスが座っていた。あの日以来彼女のことを忘れられなかったシグルスはネルトゥスの兄デルフィと下大臣である父に頼み、彼女を側室に迎えた。
「俺は弟を殺した。そうしなければ、後でまた反乱が起きる。それでも弟の顔が忘れられない。まだ9歳の子どもだ。」
シグルスは呟くように言った。シグルスの脳裏に宮廷で会った時の幼いハティの顔が浮かんだ。そのハティを処刑するように命じたのは自分だ。王としては正しい決断だ。腹違いといえども兄としては―そう考えると心が疼いた。
「血のつながった兄弟同士で殺し合わなければならないことは悲しいことですね。いつの世も。」
ネルトゥスはそう言った。どんな世であれ必ず争いは起きる。異民族の討伐も、骨肉の争いも。シグルスは黙ってネルトゥスの肩に寄り掛かった。温かい熱が伝わる。ネルトゥスは黙ってシグルスを受け入れた。
第三章 戦
イリスは弓に矢を番えた。弓を引くと弦がはりつめる。向こうには円形の的が見えた。狙いを定め、矢を放った。矢はひゅん、と音を立て的に突き刺さった。イリスは的まで歩いた。中心の小さい赤い丸よりもごくわずかに外へ逸れていた。矢を拾い、もう一度つがえる。傍で見ていたクレオンが声を掛けた。
「王子、もう少し背を伸ばしてください。そうすれば体の軸がぶれません。」
「わかった。やってみる。」
イリスはそう言うと背中に力を入れて背筋を正すともう一度矢をつがえる。まっすぐ前を見つめて、もう一度。
放たれた矢は中心の赤い丸の部分に命中していた。クレオンがお見事、と言う。イリスは額から垂れる汗を手の甲で拭った。額の金属の飾り輪が少しわずらわしい。
「今日はもう日が暮れます。終わりにしましょう。」
クレオンがそう言った。
「いや、もう少しできる。」
「これ以上無理をすれば体を壊します。」
クレオンは厳としてそう言った。イリスは分かった、と言うと弓矢を大きな布袋に納めた。そして庭から屋敷に上がる。庭で付いた砂を手で払い、風呂場へ向かった。ジュストがイリスの後ろを追いかけた。イリスが風呂に入ると、ジュストは扉の前で見張りについた。イリスは服を脱いでから浴室に入り、体に湯を掛けた。石でできた浴室の床に水が落ち、音を立てる。体に張り付いた汗が流れていく。イリスはネフェルとして生きると決めた4年前から体の線で女だと悟られないように一年中胸にきつく布を巻き、喉仏が無いことを隠すために首元も覆う服を着ていた。だから夏場も暑い服装であるため、どうしても暑い。浴槽に浸かると心地よい。イリスは自分体を眺めた。強く圧迫しているせいなのか胸のふくらみが小さいままであることは幸いだった。ただ、裸になれば体の柔らかい稜線が現れる。女だということがばれてしまうという恐怖は常にイリスの心の中から消えなかった。ネフェルとして生きると決めてからイリスはデルフィからは学問を、クレオンからは武術の教えを受けていた。学問はどうにか一通り修めることができた。問題は武術である。女であればどうしても男と力の差が出てくる。いくら剣を学んだところで男が相手では勝つことは難しい。そこでクレオンはイリスに弓を勧めた。弓ならばイリスの力でも引き、的に当てることが出来る。弓の腕前は少しずつ上達していた。もしネフェルが生きていたなら、今頃大きな剣を振るってクレオンと稽古していただろう。その時女である自分はどんなことをして生きていただろうか―そう考えることはやめよう。
新しい服を着て部屋から出るとジュストが声を掛けた。
「王子、デルフィ様がお呼びです。」
「分かった。今行く。」
ネフェルはそう言い、デルフィの部屋の方へ歩き出した。伯父上、入ります。と言いイリスは扉を開けた。デルフィは立ち、窓辺から外の景色を眺めていた。近くの椅子に母ネルトゥスが座っている。ネルトゥスは黙ってうつむいていた。
「イリス、先日王宮より使者が来た。先月南方の異民族が王国の領土に侵犯し、国境の村を一つ焼いた。王宮の用件は異民族討伐のためネフェル王子に初陣を踏ませるというものだ。だから明日の朝に発ちなさい。伴にはジュストをつける。」
デルフィは暗くそう言った。近頃デルフィは以前より暗澹として覇気が感じられない。王子として生きる以上、いつかは戦に行かなければならない。その時が来たのだ。
「分かりました。明日、参ります。」
イリスはそう言い、踵を返した。ネルトゥスが立ち上がった。
「待ってイリス、渡すものがあるの。部屋に来て。」
イリスははい、と返事をした。
ネルトゥスはイリスを部屋に誘うと、箪笥から着物を取り出した。男子用の着物の襟もとには橙色と黄緑色の文様が付けられている。
「新しく縫ったの。明日着ていきなさい。」
「母上、ありがとうございます。」
「王宮に行けば父王様に会えるのでしょうか。」
「ええ、会えるわ。」
イリスはネルトゥスの顔を見上げた。ネルトゥスはシグルスの姿を思い出した。王宮を出てからシグルスとは一度も会っていない。シグルスと共に過ごせたのはほんの1年間ほどだった。それほどにネルトゥスは後宮での生活に疲弊していた。シグルスと一緒にいることは幸せだった。しかし、しきたりに従い外にも出ることの出来ない生活は苦痛だった。身ごもったネルトゥスが体調を崩したとき、ネルトゥスの実家の所有するこの別邸に住むように提案したことはシグルスだった。それからは父の後を継ぎ下大臣となり更にネルトゥスが双子の皇子を産んだことで上大臣に昇格したデルフィと共にこの屋敷で暮らしてきた。今のイリスの姿を見れば、シグルスは何を思うのだろうか。その時イリスが黙ってネルトゥスにもたれかかった。ネルトゥスはイリスの頭を撫でた。イリスの細い黒髪や柔らかい。戦に行くことが不安なのだろう。ネルトゥスも不安だった。ネフェルを失い、今度はイリスが帰ってこなければ自分は今度こそ生きる理由を失う。
イリスは部屋に戻ると寝台に寝転んだ。南方の異民族の反乱が起きた。そして国境の村が一つ焼かれたと。つまりこの国の民と領土が侵犯されたということだ。そんな時に第二王子である自分だけが安全な場所にいるわけにはいかない。女であることが王宮でばれてしまうのではないか、戦で自分が殺されてしまうのではないか。恐くないといえば嘘になる。それでも、行かなければならない。イリスは寝台から起き上がり、木製の机の引き出しから金の指輪を手に取った。これはネフェルが生前身に付けていたものだ。あれから4年経った。この指輪はイリスの薬指にどうにか嵌った。ネフェルの望みを叶える時が来た。ネフェルの代わりに、ネフェルと共に戦おう。
明朝イリスとジュストは身支度を整えると厩から二頭の馬を牽いた。イリスの薬指にはネフェルの指輪が光っていた。ジュストの馬は4年前の事故の時に乗っていた馬である。門でネルトゥス、デルフィ、クレオンが見送りに出た。クレオンは息子ジュストの肩を叩いた。
「王子をお守りせよ。必ずだ。」
「はい、父上。」
ネフェルを守ることが出来なかった。だからイリスは必ず守り通す。命に代えても。ジュストは心に誓い、父クレオンの目をまっすぐ見た。そして、お前も生きて戻れ。クレオンは心の中でそう思った。イリスは馬に跨った。
「伯父上、母上行ってまいります。」
「気を付けてね。」
ネルトゥスは胸に右手を当てて目を伏せた。
「王子としての務めを果たしてきなさい。」
デルフィは厳としてそう言った。
「参りましょう、ネフェル王子。」
ジュストは馬の手綱を引いた。イリスはジュストの後ろを追いかけた。二頭の馬は乾いた土を蹴り、走った。
頭上には夏の太陽が昇っていた。
デルフィの館から王宮までは馬で駆ければ半日で到着する。太陽が真上に昇った頃、イリスとジュストは王宮の城下に到着した。イリスは初めて王都を見た。多くの人々が歩き、数えきれないほどの多くの店が出ていた。肉屋には一頭の皮の削がれた丸裸の羊が横たわっていた。果物屋に置かれた色とりどりの果実がつやつやと光っていた。魚屋にはイリスが見たことのない奇妙な形と色の川魚が並んでいた。軒を連ねる店だけではなく、開いた場所のあちこちで商人が敷物の上で露天を開いていた。露天では焼き物の食器を売る者もいれば、難病に効果があるという水を売っている者もいた。イリスは街の中を眺めた。どこを見ても店が並んでいた。
「ここは城下の中心街にございます。」
「初めて見た。これが父上様の街なのか。」
「まずは王宮に向かいましょう。王宮はこの大通りをまっすぐ行ったところにあります。」
イリスは分かった、と返事をした。人ごみをかき分ると徐々に人の数が少なくなってきた。その時路地の方から怒声が響いた。見ると細い体型の若い男がイリスと同い年くらいの少女と対峙していた。
「お前がぶつかったから腕が折れた。弁償しろ。」
男は大げさに右腕を押さえる。ぶつかったくらいで腕が折れるはずがない。
「…申し訳ありません。ですが、治療のためのお金なら渡しました。それで勘弁していただけないでしょうか。」
少女は今にも泣き出しそうだった。
「こんなはした金で足りるか。」
「もう、お金はありません。」
「それじゃあ他の方法で払ってもらおうか。」
男はそう言うと左手で少女の腕を掴んだ。―卑怯だ、許せない。イリスはつかつかと二人に近づいた。
「この子は謝っている。それに金を受け取ったのだろう。」
男はイリスを睨みつけた。
「なんだこの小僧、口を出すんじゃねえ。」
そう言うと男は右腕でイリスに掴みかかった。ジュストが止めに入ろうとして歩き出す。間違いない、けがをしたというのは嘘だ。イリスの中で怒りが湧いた。そのままイリスは男の腹を蹴った。男は呻いて倒れた。この体格の男ならねじ伏せることはできるだろう。
「右腕、本当に動けなくなるようにしてやろうか。」
男は逃げるように走り去っていった。少女は一礼した。
「ありがとうございました。私はユリアといいます。おじい様へお菓子を届ける途中、あの人にぶつかってしまって・・・」
「これからは気を付けなさい。それでは失礼するよ。」
イリスはほほ笑むと再び歩き出した。イリスの背に向かい、ユリアはありがとうございましたと言った。肝が冷える思いのジュストは胸を撫で下ろした。
王宮に着くと王宮の大門は閉ざされていた。普段出入りをする時は横にある小門を使う。イリスは大きな門を見上げた。その向こうには白い石で造られた王宮がそびえ立っている。ここが、父王がいる王宮なのだ。ジュストが門番に用件を告げ、デルフィに届いた王の印の押してある書状を見せた。すると門番の長が現れ、数人の守衛兵が大門を開けた。大門はぎいぎいと大きな音を出して開かれた。ジュストとイリスは門をくぐり、王宮の中に入った。
中から一人の中大臣が現れ、イリスに恭しく礼をするとイリスに謁見の広間で待つように言った。イリスとジュストは中大臣の案内で王宮の中を歩いた。王宮の中心には大きな池があり、藻の生えた緑色の水の上に蓮の花が浮かび、丸い緑色の葉を広げていた。時々黒く大きな黒い魚影が見えた。
「この池では鯉を飼っているのですよ。」
中大臣が穏やかに言った。王宮の廊下には官吏や女官が歩いていた。突き当りに大きな扉があり、左右の衛兵が立っていた。中大臣が第二王子ネフェル様のお通りである、と告げると衛兵は一礼し、左右の扉を開いた。そこは大広間になっており、中央に王座が見えた。謁見の間である。入口から王座までは赤い絨毯が敷かれている。
「しばらくすれば王がいらっしゃいます。しばしお待ちください。」
中大臣はそう言うと去って行った。イリスは恐る恐る部屋に入った。広い部屋の真ん中で足を止め、膝を折り座った。ジュストがその斜め後ろに座る。部屋の左右の上方には壁を切りぬいた窓があり、そこから光が降り注いでいた。もうすぐ父王シグルスに会うことが出来る。イリスの胸は緊張で高鳴った。
その時王座の後ろの袖から王が歩いてきた。背は高く、肌は浅黒い。髪の毛は自分と同じ黒色だった。王は王座に座る。イリスとジュストは平伏した。
「面を上げよ。」
イリスは顔を見上げた。王の琥珀色の瞳と目が合った。
「初めてお目にかかります。父上様の二番目の王子、ネフェルにございます。」
「俺がお前の父のシグルスだ。今年でいくつになる。」
「14歳になります。」
黒い瞳がネルトゥスによく似た子だ、とシグルスは思った。そして後ろにいる青年はデルフィの家宰のクレオンの息子だろう。
「今回は南方の異民族の討伐の招集を受け、参りました。」
「ああ、その件について話そう。ひと月前に南方の狄が国境近くの村を一つ焼いたのだ。今もその場所にあいつらの移動式の住居を張り、占拠を続けている。このまま黙って不当な占拠を認めれば近くにある他の村が危ない。
何度か朝貢を要求して懐柔しようとしたこともある。だが奴らは我らに従うことを拒んでいる。誇り高い一族だ。
お前の兄のソールに討伐の総大将を任せる。そしてお前にも初陣を飾ってもらおうと思うてな。」
シグルスは即位してから数度狄の討伐に向かっていた。何度か懐柔を試みたが上手くいかず、結果狄が侵犯する度に皆殺しにするという行為を繰り返していた。当然狄は王国を強く恨んでいる。
「はい。分かりました。必ずお役目を果たします。」
「明後日には都を出発してもらう。任せたぞ。」
「はっ。」
シグルスは王座から降り、袖の方へ数歩歩き、立ち止まった。
「そうだ、お前の母上は元気か。」
「はい、母は体が弱いですが、この所は元気にございます。」
するとシグルスはそうか、と言って立ち去った。
その後イリスとジュストは王宮の離れの館を貸し与えられた。イリスは館の中に入ると椅子に座った。ジュストは黙って部屋の隅で控えていた。
「今日は初めて父上様に会った。」
イリスは独り言のように言った。
「父上と母上はどのようにして出会ったのだろう。」
「それは帰ってからネルトゥス様にお尋ねになると良いでしょう。」
イリスが案外子どもらしい関心を持っていたのでジュストは張りつめていた緊張が和らいだ気がした。しばらくすると戸が叩く音がしていきなり背の高い青年が入ってきた。
「何者だ!」
ジュストは腰の剣の柄に手を掛けた。青年は両手を前にして振った。
「怪しい者ではない。俺はネフェルの兄のソールだ。弟が来たと言うのでどんな顔か見たくなったので参っただけだ。」
確かに見ればソールは王シグルスとよく似ていた。浅黒い肌と琥珀色の目が実に瓜二つである。ジュストはその場で平伏した。
「申し訳ありませんでした、非礼をお許しください。」
「よい、気にするな。伴も連れずに来た俺が悪いのだ。」
「兄上、私がネフェルにございます。」
イリスが自分を私、と呼ぶのは変に慣れない僕、俺とわざとらしく言うと人称代名詞が混乱する。ボロが出ることを防ぐために男性でも上品な人が用いる「私」と呼ぶことに落ち着いたためである。
「おう、俺がソールだ。よろしくな弟よ。」
するとソールはイリスの手を握り、にっこりと笑った。このソール王子こそが今回の討伐軍の総大将である。
2日後に異民族討伐軍の行軍が始まった。イリスは甲冑を着て馬に乗っていた。甲冑は女であるイリスの体には重く、どうしてもなじまなかった。月経の日でないことがせめてもの救いだった。背中には短弓と矢、腰には刀が差してある。いよいよ戦に行くのだ。その後ろには甲冑を着て刀を差したジュストが馬でイリスの後に寄り添っていた。ソールはイリスより離れた場所を馬で歩いている。頭上からは太陽が照りつけ汗ばむ。服の上に甲冑を着ていたのでは熱に当てられて倒れそうである。しかし、背後の歩兵たちは甲冑を着て尚自分の足で歩いているのだ。そう考えると弱音を吐くわけにはいかない。異民族が占拠した村までは一週間ほどかかる。日が暮れた頃、幕営を張り、今夜はここで寝泊まりすることとなった。イリスは個室の幕営を用意された。従者であるジュストも付き添う。甲冑を解くと体が少し楽になった。暗い幕営の中は少し涼しい。あと6日後に南方の村で戦が始まる。どのような戦いになるかまったく想像がつかなかった。イリスは弓を広げて磨いた。的ではなく、人間を射なければならないのだ。そう思うと弓を握る手が微かに震えた。
行軍は進み、4日が経った。初めは舗装されていた道も次第に細くなり、今では青々とした草が真上に伸びる草原が続いていた。日が沈むころ、幕営が張られ野営となった。イリスは甲冑を脱いだ。重い鎧にも大分慣れた。
弓は4日間お守りのように磨いていたせいかこげ茶色の木の部分がつやつやと光っていた。いよいよ明日戦が始まる。緊張の糸がこの弓の弦のように張りつめているのをイリスは感じた。イリスは薬指に嵌めた金色のネフェルの指輪を撫でた。ネフェル、どうか一緒に戦って。イリスはそう祈った。
ジュストは黙って部屋の隅で座っていた。いきなり幕営の入り口の幕が開き、ソールが入ってきた。
「ネフェル、調子はどうか。」
「少し緊張しております。戦は初めてですから。」
イリスは思わず本音を漏らしてしまい、後悔した。
「まあ散歩でもしないか。外は涼しいぞ。」
イリスははい、と返事をしてソールのあとに付いて行った。ジュストは幕営に残った。外に出ると涼しい風が吹き、辺りは薄暗くなっていた。将校や兵たちは皆幕営の中にいるようだ。地面には青い草が生えている。土を踏みしめ歩いてゆくと小さな池が見えた。水は澄み、小魚が見えた。ソールはおもむろに服の裾をめくり、足を浸けて水を分けて歩き始めた。
「泳ぐか、気持ち良いぞ。暑くないのか?」
ソールはイリスが夏なのに肌を覆う服を着ているのを不審に思った。
「いえ、私は遠慮します。」
イリスはそう言った。裸を見られれば女であることが分かってしまう。イリスは冷たい汗をかいた。ソールは素直にそうか、と言うと水から上がった。
「いよいよ明日だな。恐いか?」
「ええ。少し恐ろしいです。兄上は戦に行ったことがあるのですか。」
「俺は2年前にも狄の討伐に行った。それが初めての戦だったよ。」
そう言うとソールは遠くを見た。イリスはそれ以上何も言えなかった。
「今回の戦はすぐ終わるだろう。狄を討つには大して時間はかからない。あまり気にするな。なにかあれば俺に言え。」
ソールはそう言った。腹違いのきょうだいである自分を心配するソールの優しさをイリスは嬉しく思った。
明朝、南方の村までの行軍が始まった。外はまだ薄暗い。イリスは心臓の鼓動がどくんどくんと打っていることに気付いた。イリスは弓隊と共に行軍している。あとどれくらいの時間で戦が始まるのだろうか。総大将のソールは軍の中央を馬で歩いている。
しばらく馬で駆けると地平線の向こうに馬が並んでいるのが見えた。馬上には人が乗っている。―あれが、狄である。イリスは固唾を飲んだ。ソールが剣を振り上げ、叫んだ。
「今から狄を討つ。躊躇はするな、決して生きて逃がすな!」
ソールはそう言うと腰の剣を抜いた。イリスは弓を構えた。左右の弓兵の将校たちも弓を握っていた。イリスの背後には剣を握ったジュストがいた。ジュストの役目は戦うことではなく、イリスを守ることであった。相手の弓を防ぐために高い楯を持った兵が並ぶ。その時無数の矢が雨のように降り注いだ。イリスは思わず目を閉じた。
すると前方の楯に矢が当たる音が響いた。悲鳴と共に防ぎきれなかった流れ矢に当たり、数人の歩兵が頭から血を流して倒れていくのが見えた。イリスの顔から血の気が引いた。恐ろしい、そう思った。相手の矢の攻撃は暫く続いた。楯には無数の矢が刺さっているだろう。十数名ほどの兵が矢に当たり、倒れて行った。矢が止んだのを見てソールは叫んだ。
「弓隊、放て!」
するとイリスの左右前後の弓兵は弓を構えた。イリスも弓の弦に矢を番えた。手が震え、矢を放つことが出来なかった。弓兵から一気に矢が放たれた。遠目に見ても相手の兵が倒れていくことが分かった。こちらの矢が切れる。
「本隊、突撃だ!」
ソールは剣を振ると馬を駆り走った。イリスも混乱したまま前の馬に続いて馬腹を蹴った。次第に相手の姿が見える。馬に乗り、イリスの見たことのない衣裳を身に纏い、帽を被っていた。ソールは剣を振るい、次々と狄を斬り血路を開いて行く。相手の兵も死に、こちらの兵も相手の剣で切られ、死んでいく。怒号が飛び交い、血の匂いが漂う。イリスは腰の剣を抜いた。手の震えが取れない、まともに戦うことができない。なんと、情けないことだ。ネフェルなら、こんなことには。その時馬に乗った青い服を着た狄の少年が走ってきた。叫び声を上げ、剣を振るい、イリスの方に突進してきた。歳はイリスとそう変わらない。ジュストが素早く長剣を振るい、少年を斬った。少年は体から血を流し、馬から崩れ落ちた。その時の命を喪った、少年の空虚な瞳をイリスは見た。
それから総大将のソールは剣を執り、次々と狄を斬り殺していった。矢が飛んで来れば剣で弾いた。将校も王子の勇猛な姿に勇気づけられ剣を奮った。そして相手の隊を殲滅したソールは、相手の幕営に火矢を放つように命じた。幕営に火が放たれ、再び村のあった場所には何も無くなった。討伐軍は狄を皆殺しにした。それは王シグルスの命令だった。誇り高いこの部族は捕虜になることを選ばずに、皆自害した。村の後には自ら命を絶った女子供、老人の屍が残されていた。
戦を終えた討伐軍は元来た道を戻り、都に帰る。死んだ兵の棺を引く台車もあった。応急の防腐処理を施し、家族の元に返す。再び野営が行われる。イリスは幕営の中で膝を折り、座っていた。剣を奮うことも、弓を引くこともできない弱い自分をイリスは恥じた。国を犯すものは斃さなければならない。狄は以前あの村に住んでいた王国の民を殺したのだ。赦すわけにはいかない、そう思っていた。しかしイリスは見た。こちらの軍に斬り殺された相手の戦士も相手の戦士に殺されるこちらの軍の兵士も。そして、自分と歳の変わらない少年が死ぬ瞬間も。双方傷つき、後には焼かれた村と双方の死骸しか残らない。しかし、相手を殺さなければ、こちらが命を奪われるだけだ。生きたければ、殺すしかない。それが戦だ。そう分かったけれど、イリスは泣きだしたいような、気が狂いそうな気分だった。自分を殺そうとした少年が死んでいく間際の、あの眼。イリスの両目から熱い涙がこぼれ落ちた。戦の無常を受け入れることの出来ない自分が、ネフェルの代わりにソールの弟王子として国を支えることが出来るのだろうか。ネフェル、あなたならどうしていたのだろうか。
ジュストはイリスの様子を見て幕営の外で控えていた。ジュストは剣に付いた血を布で拭った。ジュストにとっても、人を斬るのは初めてのことだった。あの少年を斬った時の、肉が切れ、骨が断たれる嫌な感触が両手に残った。ジュストは胸に手を当て、静かに少年の魂の安らぎを祈った。
幕営の入り口が開き、ソールが入ってきた。イリスは涙を拭き、兄に向かった。
「初めての戦では驚くのも当たり前だ。俺もそうだった。」
ソールはイリスに諭すように言った。
「私が弱かった、それだけです。」
イリスはそう言った。
「あれを見て、どう思った。」
「あの者たちは村に住んでいた王国の民を殺しました。だから、許すわけにはいかない。ただ、悲しい気持ちになりました。」
イリスはまた泣きそうになり涙を堪える。ソールは心優しい弟王子を好ましく思った。
「お前は優しい。だから俺が王になったら俺が武で国を守る。お前は俺の右腕になって俺を支えろ。二人でこの国と民を守ればいい。」
ソールはそう言うとイリスの頭を乱暴に撫でた。ソールのこの言葉は生涯イリスの心に刻まれることとなる。
第四章 死
2年が経った。イリスは王都に出向いて父王シグルスの教育係であったメルクに師事し、教えを受けていた。王宮の一室でイリスはメルクと向き合っていた。
「ですから、この王国の肥沃な土地は大河川フラートの運ぶ水と土砂がもたらすのです。」
メルクの髪は全て白髪となり顔には皺が刻まれている。メルクはやはり歳より老けて見えた。
「その土は山から流れてくるのですか。」
「そうです。そして山の土を育むのは木々です。ですから木を伐りすぎてはいけないのです。」
「フラートの氾濫を押さえる方法は無いのでしょうか。例えば土嚢をより高くする、とか。」
「確かにフラートの氾濫では畑が流されることもあります。ただ、氾濫の際に多くの水と共に泥が運ばれます。その土がまた豊かな土をもたらすことも事実なのです。」
「なるほど。初めて知りました。フラートの氾濫は災いだけではないのですね。」
イリスはそう言うと感心した表情を浮かべた。メルクは同じことをシグルスに教えた時のことを思い出した。神など信じぬと言っていたシグルスも今では王として儀式であるティグリス神の神事に粛々と参加している。随分時が流れたものだ。今はシグルスの息子の王子がメルクに教えを乞うている。ネフェルは決して天才のように優秀ではない。ただ、一生懸命学び、自分の言葉で考えるネフェルをメルクは頼もしく思った。
「今日はこれでおしまいです。また明日。」
「はい、ありがとうございました。メルク様、今日は表情が明るいですね。」
するとメルクは目尻を下げて笑った。
「実は今日は孫娘が会いに来るのですよ。」
「そうなのですか。」
その時部屋にジュストが飛び込んできた。
「王子、ソール王子の妃のリナリア様が出産なさいました。」
ソールはあの討伐の後に上大臣の娘のリナリアと結婚した。実のところソールとリナリアは以前から深い仲であり、それを見かねたシグルスは二人が結婚するようにと収めたのであった。
「何、本当か。」
イリスはそう言うと王宮の廊下を走り、リナリアが養生していた後宮まで飛んで行った。ジュストは微笑ましい気持ちになった。討伐の後にふさぎ込んでいたイリスを励ましたのはソールだった。それからソールは何かとイリスの面倒を見て遠乗りに連れ出したり、遊びに来たりしていた。異腹のきょうだいとは思えないほど、ソールとイリスは仲がよかった。正妃の子と側室の子では世が世なら血で血を洗う争いが起きていたかもしれない関係である。
イリスがリナリアの部屋に着くと、リナリアは寝台に横たわり、隣には赤ん坊がいた。
「リナリア様、おめでとうございます。」
「ネフェル様来て下さったのですね。抱っこしてあげてください。この子も喜びます。」
リナリアはそう言うと目を細めた。リナリアは大人しく優しい女性である。長い髪を編んでまとめていた。
女官は赤ん坊を抱き上げると、イリスに渡した。イリスは恐る恐る赤ん坊を受け取ると、抱いた。腕の中の赤ん坊の顔はいたいけで、触れれば壊れそうだった。生まれてきたばかりの赤ん坊はまだぼんやりとしていた。
「男の子ですよ。」
リナリアがそう言った。廊下から騒々しい足音が聞こえたと思うと部屋にソールが飛び込んできた。
「リナリア、男か、女か!」
「男の子よ。」
リナリアはそう言うと笑った。ソールはリナリアに歩み寄り、リナリアが無事であることをまず確認した。出産で女性が命を落とすことも少なくない。そして弟王子が赤ん坊を抱いているのを見てソールは悔しがった。
「なんだ、お前に先を越されてしまったな。馬を飛ばしてきたのだが。」
イリスは赤ん坊をソールに渡した。ソールは抱き上げて幸せそうに笑った。
「これで俺も父親だな。リナリアは母親だ。そうだ、ネフェルは叔父だぞ。」
イリスは叔父になるのか、と思うとくすぐったいような、変な気持ちになった。次にソールの母親のユノが現れた。ユノは生まれた子が男の子と聞いて満足そうに笑った。
「リナリアさん、よくやりました。あなたは正室としての務めを果たしたのですよ。」
リナリアはありがとうございます母上、と言った。イリスがユノに会ったのは初めてのことだった。ユノはイリスの方を見て、ネルトゥスに良く似た子だと思った。以前は身勝手に王宮を離れたネルトゥス親子に対して激しく怒っていたユノは後宮を離れた側室など聞いたことが無い、秩序を守るためにも決して会いにいってはならないとシグルスに厳しく言い渡していた。ユノには頭の上がらないシグルスはその申しつけを正直に守っていた。ただ歳を重ねたユノも丸くなり、今ではその怒りは収まっていた。
イリスが王宮からデルフィの館に戻ろうと思い、馬を停めている厩に向かった。今太陽は真上にある。今から馬で駆ければ夜になる頃には帰ることが出来るだろう。ジュストは後ろを歩いている。厩に行く途中にイリスはすれ違ったかわいらしい少女に声を掛けられた。どこかで見たことのある顔だとイリスは思った。
「あの、2年前に助けていただいたユリアです。」
イリスは思い出した。初めて王宮に行く途中に悪漢に絡まれていたところを助けた少女だった。ユリアは小さな包みを抱えていた。イリスは気付いた。王宮は限られた人間しか入ることができない。ユリアは王宮の関係者なのだろうか。
「王宮に何か用か?」
「おじい様をお迎えに上がりました。」
「ユリア、もしかしたらあなたはメルク様の孫ではないか。」
するとユリアは頷いた。
「はい、メルクおじいさまの孫にございます。」
縁とはどこで繋がっているか分からないものだと思い、イリスは面白い気持ちになった。
「私はネフェル。あなたのおじい様に師事している。」
するとユリアは目を丸くした。
「あなたが、ネフェル王子なのですか。おじい様から聞いております。とても優しい方だと言っていました。」
「そうか。それでは失礼するよ。また人にぶつからないように気を付けなさい。」
そう行ってイリスは笑った。実はユリアは2年前に悪漢から自分を救った名前も尋ねることを忘れた少年のことを密かに慕っていた。それがまさかネフェル王子だったとは思いもしなかった。後にネフェル王子と宰相メルクの孫娘ユリアは夫婦となる。
イリスとジュストは馬を駆り、日が暮れる頃には館に戻った。イリスはネルトゥスに兄王子のソールに子どもが生まれたこと、2年前に会った少女が実はメルクの孫娘であることを話した。ネルトゥスは楽しそうなイリスの様子を見て安心した。イリスは眠る前に天井を見つめた。薄暗い部屋に切り抜かれた窓から青白い月明かりが差している。兄王子に子が産まれた。ソールが即位したときに自分は臣籍に下り、ソールを支えるとイリスは2年前のあの日から心に決めていた。それがネフェルの願った国を支えることなのではないかとイリスは思っていた。
イリスが眠りに付いた後、ネルトゥスはデルフィの部屋で兄と話していた。
「イリスが楽しそうで安心しました。一時はどうなるか心配でしたから。」
デルフィは窓から外を見た。今日の月は青白く見えた。ネフェルが死んだとき、イリスをネフェルとして育てたのは他ならぬ自分であった。ネルトゥスが双子の皇子を産んだ時、デルフィにはネフェルを第二王子として長じれば国の要職に就かせるという野心があった。そして女であるイリスを男と偽り育て王子として王国の中枢に据える。いわばかつて自分が従者として仕えたシグルスを謀りたいという気持ちになった。従者として仕えていた時デルフィはどこかシグルスに鬱屈とした思いを抱えていた。王子として生を受け、屈託のない明るいシグルス。
祖父の代に官職を買った下大臣の子として産まれた自分。賤しい出のまがい物として他の貴族の子から白い目で見られていた自分をシグルスは従者とした。そして、シグルスは自分を友人のように扱った。その明るさが日陰に生きるデルフィには眩しく、より屈折した思いを抱かせた。ネルトゥスがシグルスの側室になったことはデルフィにとって思いがけない出来事だった。大人しいネルトゥスとシグルスが結ばれるとは、不思議なこともあるもののだ。
「歳を取ったな。お前も、私も。」
デルフィはそう呟いた。デルフィは生きることに倦んでいた。若い時に抱いていた野心もすっかり大人しくなっていた。デルフィには元々鬱病のような気がある。そろそろ隠居でもするか、と思っていた。子のないデルフィは昨年いとこの男子を養子に迎えた。後はその子に任せればよい。
「それはそうです。もうあの子も16歳になるのですから。」
ネルトゥスはそう言った。ネルトゥスはイリスのことを思った。兄王子の妻が子を産んだという話をイリスは目を輝かせて話していた。イリスが女として生きていたなら、もう嫁いでいてもおかしくない歳だ。自分がシグルスと結ばれたのも同じくらいの歳だった。女として育てていれば、そう思うこともあった。もっと強く兄に反対していればよかったと深く後悔したこともあった。ただソールと出会ってからイリスは自ら進み学び、ソールを支えようと努力していた。それがイリスの願いならばネルトゥスはイリスを見守るだけだ。
「ネルトゥス。先月神官が占ったところ、凶兆が現れた。」
ティグリス神に仕える神官は年に一度占いをする。その方法はフラートの亀の甲で占う方法である。
「王は歯牙にもかけていないが今までにない悪い相だったそうだ。甲が爆ぜてばらばらに割れたのだ。」
「…何も起きないと良いですね。」
ネルトゥスはうつむいた。デルフィはシグルスと同じで神官の占いなど信じていなかった。ただ、今回ばかりは心に暗雲が立ち込めるような、嫌な胸騒ぎがした。
翌年になり、王国に流行病が蔓延した。王国の診療所には患者がひっきりなしに訪れた。病に罹ると初めは咳が止まらなくなる。次に高熱が出て嘔吐する。運が悪いと熱が下がらずそのまま意識が混濁し死に至る。確率で言えば4人に1人は亡くなり、3人は回復した。特に老人と子どもの死亡率は高かった。王国の診療所や町医者は解熱作用のある薬草を擂り、処方していた。家庭では病人の額を水で濡らした布巾で冷やすことで熱が治めようとしていた。市井の祈祷師たちは病に効くという薬を作り、病人に高値で売った。4人のうち3人は回復するのだから薬は高価があるという噂が広まり祈祷師たちは懐を肥やした。イリスは王宮の一室でメルクと向き合っていた。
「何か病を収める良い方法は無いのでしょうか。」
「そうですな。患者の吐いたものや便に触らない。患者の食べた食事の食べ残しに口を付けない。食器を分ける。
それがよい方法です。役人たちにはそう書いた立札を町に置かせました。しかし後は自然に病が治まることを待つ他ないでしょう。」
メルクは王国の医官から聞いた話を王子に話した。
「後は空気を介して病は移ることもあります。いくら気を付けていても、罹るときはかかるのです。」
「なるほど。」
病で死んだ者の数は100人を超えたという。このままでは墓地が足りなくなるほどであるとイリスは聞いた。早く王国から病が去ればよいとイリスは祈った。
2か月後、王国にとって未曾有の不幸が襲った。国王シグルスと第一王子ソールが同時に流行病に冒されたのだ。
医官たちは薬草の中から選りすぐったものを用意させて処方した。神官たちは民の中から10人を選び生贄を捧げて祈祷することを提案した。しかし、朦朧としながらもシグルスがそれを強く拒んだ。病の床にあったシグルスは天井を見上げた。自分が死んだ後のことを考えなければならない。もし第一王子のソールが病で死ねば、皇位の継承順位はまだ幼いソールの息子、スコルとなる。後のことは第二王子のネフェルに頼む他ない。シグルスには他に4人の王子と6人の姫がいたがいずれも幼かった。世継ぎの争いが起きなければよいが、とシグルスは案じた。シグルスは枕元に宰相メルクをはじめとする重臣とネフェル以下4人の王子を呼び付けた。ソールは別の部屋で高熱に苦しんでいた。
「俺が死んだあとのことを話す。ソールが生きていたらソールを王とする。もし、ソールが死ねばソールの子を即位させ、ネフェルを摂政とする。大臣はそれを支えよ。」
シグルスは短く伝えた。正妃ユノはシグルスの手を握った。ユノは婚礼のその日にシグルスに一目惚れしていた。りりしく快活な夫を愛していた。自分の内の独占欲を押さえられず、悋気に悩むこともあった。ユノが愛したのは、後にも先にもシグルスだけだった。シグルスは微かな力でユノの手を握り返した。気の強いユノにシグルスは頭が上がらなかった。それでも後宮を乱さず束ね、ソールを立派な大人に育てたのは他ならぬユノであった。ユノでなければシグルスの正妃は務まらなかっただろう。
「お前が妻で良かった。」
シグルスは呟いた。ユノは目を見開いた。ユノは静かに泣いた。それからシグルスはイリスを枕元に呼んだ。
「ネフェル、後のこと、お前に託す。」
「父上、仰せのままに。」
イリスはそう答えた。シグルスの顔は土気色で生気が無かった。死の影が訪れていることはイリスから見ても分かった。その2日後、国王シグルスは崩御した。もっと多くのことを話したかった。ネルトゥスと親子3人で会ってみたかった。イリスの願いが叶うことはない。
シグルスが死んだ今、現国王はソールということになる。だがそのソールも病に臥せり、死の淵をさ迷っていた。イリスは普段神官しか入ることの許されないティグリス神の神殿に許可を取り訪れた。王宮の近くにある白い大理石でできた神殿の門をくぐり進むとイリスの身長の4倍ほどある巨大な白いティグリス神の像があった。神像の顔は男とも女ともいえぬ中性的な顔立ちで胸には乳房があった。そして下半身は布で覆われた形だが、男性器がついているだろう。ティグリス神は両性具有の神であった。イリスは神像の前に跪き、祈った。今ソール王子がいなくなれば、国が転覆するかもしれない。それ以上にイリスはもう一度兄を失いたくなかった。ソールは大切なもう一人の兄だ。まだソールとリナリアの間には息子のスコルが生まれたばかりだった。
「どうか、兄上を連れて行かないでください。」
ティグリス神は死の世界も束ねる神である。像は手のひらを付きだして掌を上に向けた形となっている。人間の命はこの神の手の上で踊らされているだけなのかもしれない。神官はこの像からティグリス神と対話し、神託を受けると聞いた。ただ、イリスには神の言葉は聞こえなかった。
イリスが王宮に戻ると、ジュストがソールの寝室に行くように話した。ソールの寝台の周りには王国の中枢の人間と弟王子たちが集められていた。ソールは寝台に横たわり、辛うじて目を開けた。イリスはソールの枕元に近づいた。ソールの命の火は消えそうだった。信じたくない、受け入れたくない。イリスはそう思った。
「…ネフェル、俺はもう死ぬ。」
イリスの目から涙がこぼれた。イリスは涙を拭いた。
「スコルのこと、頼む。お前を。」
信じている。ソールは目を閉じた。短い人生だった。ただ、次の命を遺すことが出来た。そしてソールは事切れた。21歳の若さでソール王子は死んだ。イリスはその場で崩れ落ちて床を拳で叩いた。どうして。なぜ神はこんな残酷なことをするのだ。イリスの中でやり場のない悲しみと激しい怒りが湧いた。ソールの妃のリナリアは顔を覆って泣いた。
シグルス王とソール王子の国葬が行われた。シグルス王の遺言通り、葬儀は規模を縮小して行われた。シグルス王とソール王子の棺は陵に納められた。イリスは魂が抜けたように葬儀に参加した。王国の神官が陵の前で荘厳な祈りの言葉を唱えた。その言葉もイリスの胸に空しく吹き抜けるだけだった。神に何が出来ると言うのだ。祈りなんて届かない。ティグリス神の使いの精霊の導きで死者の魂は冥府に向かい、魂の安息を得るという。もう二度と父王と兄王子は生き返らない。もう会うことはできない。空を黒い雲が覆いはじめ、冷たい針のような雨が降り注いだ。葬儀が終わり、イリスは雨に打たれることも厭わず、陵の前でただ声を上げて哭いた。従者のジュストは声を掛けることもできず、ただ傷ついたイリスを見守っていた。
それからイリスは馬でデルフィの屋敷に戻った。鬱の気が酷くなったデルフィは先月別の館に住んでいるデルフィの養子に上大臣の位を譲り政から身を引いていた。イリスは部屋に籠り、膝を抱えて座っていた。ネフェルが死に、ソールも死んだ。二人の兄はどちらも自分を置いていなくなってしまった。もう何も考えることができなかった。
ネルトゥスは月を見上げていた。イリスは部屋にいる。傷ついたイリスに母としてどんな言葉を掛ければよいか、分からなかった。兄のデルフィは書斎で本を読んでいるのだろう。シグルスが死んだ。ネルトゥスはシグルスと出会ったころを思い出した。太陽のように明るく見えて、脆く揺れ動く気持ちを持っていたシグルス。もう一度会えなかったことが心残りだ。シグルスは自分にネフェルとイリスという宝物を与えてくれた。ありがとう、シグルス。不思議と悲しみより、懐かしい気持ちになった。
イリスは部屋で膝を抱えていた。眠ることもできなかった。ジュストが部屋の外から声を掛けた。ジュストは暗い部屋に入り、イリスの傍に座った。従者として影のように仕え、ジュストはイリスを守ってきた。ここまで傷ついたイリスを見たのは、ネフェルの死以来だった。ミスル王国の第二王子ネフェルとして生きているイリス。身分違いだと分かっていてもジュストにとってイリスはかけがえのない存在だった。イリスを守るためには自分の命を投げ打つこともできる。
「…イリス様、一言あなたが遠くに連れていけと仰せられれば私はどこまでも馬で駆けます。王国のその先まで。」
それはジュストが掛けた精一杯の言葉だった。
「ありがとう。」
イリスはそう言うと、力なく笑った。
2日後、宰相のメルクが館を訪れた。スコル王子が即位するためネフェルを正式に摂政に任命するためだ。シグルスの遺言通り、スコル王子の摂政は叔父にあたるネフェルが最もふさわしい。応接間に現れたネフェルの目の下には隈の跡があり、憔悴した様子だった。―この状態ではまずいだろう。メルクはそう思った。
「王子、故に摂政の位に就き、まだ幼いスコル王の後見人として政を行っていただきたいのです。」
スコル王はまだ1歳にも届かない赤子である。摂政である第二王子のネフェルが国を束ねなければならない。
「…私に務まりますか。」
メルクは声を大きくした。
「情けないことをおっしゃいますな!務まる、務まらない、の問題ではありません。先王が残した王国を守ることが出来るのはネフェル様ただおひとりにございます。この流行病で命を落としたのは先王とソール王子だけではございません。」
一般人と王族を同列にしたこの発言を聞かれればメルクは不敬罪で処刑されてもおかしくない。ただ、この優しい王子を奮い立たせるためにはこの言葉が一番効くと思ったのだ。イリスは考えた。そうだ、今この国では同じような事が起こっているはずだ。家族を失った者がたくさんいるだろう。孤児となった子どももいるだろう。
「王と王子を失った窮を突いて狄や他国が攻め入るやもしれません。赤子のスコル王に反乱を起こす者が現れるかもしれません。あなたがスコル王を奉り、この国の民を守らなければ必ずしや国は乱れます。」
この国の民を守る。それは6年前ネフェルに誓った言葉だ。俺と共に国を守れ。それは2年前のソールの言葉だ。今が二人の兄の遺志を継ぎ、自分が国を守らなければならない。そのためにはソールの遺児で自分の甥であるスコルの摂政となり、スコルが長じるまで政を行うことである。流行病で乱れたこの国を正しい政で鎮めなければならない。イリスはまっすぐメルクを見据えた。その瞳は強い意志を抱いていた。
「王宮に参ります。スコル王子の即位の儀を行わなければなりません。」
イリスはそう言った。メルクは頷いた。
第五章 夜明け
流行病は収束し、王国は落ち着きを取り戻していた。疫病で天涯孤独となった孤児のためにイリスは王立孤児院を開いた。するとユノがイリスに声を掛け、自ら故シグルス王の後宮の女たちを集めて孤児院の手伝いを始めた。その中にはイリスの母ネルトゥスの姿もあった。ユノは院長となり、穏やかに子どもたちを見守っている。
「ネフェル様、スコルをよろしく頼みます。」
亡きソールの妃でありスコルの母であるリナリアはそう言った。
「姉上様、私にお任せください。」
リナリアがイリスにスコルを手渡した。生まれて半年以上経ったスコルは生まれた時よりずいぶん重くなっていた。スコルはイリスの顔を見てにこにこ笑っている。イリスもほほ笑み変えした。
「それでは参りましょう、王子。」
イリスはそう言った。そして玉座に続く暗い廊下を歩き始めた。これからスコル王子の即位式が行われ、イリスは臣下の礼を取り正式に摂政としてスコルが年長になるまで政を代行することとなる。廊下の入り口には光が差しこんでいる。その前でイリスは立ち止まった。後ろには影のようにジュストが控えている。イリスの薬指にはネフェルの指輪が嵌められていた。
「行こう。」
イリスはそう言った。
「御意」
ジュストは小さな声で返事をした。イリスは再び光の伸びる入り口に向かい、新王を抱いて歩き出した。
あとがき
王国史のネフェルの最後の記載は、ネフェルが国を治めた15年間は特筆すべき事項が無いと締めくくっている。
異民族討伐も行われず、飢饉も起きなかった。ネフェルは凡庸な摂政であるといえばそれまでだが逆に言えばネフェルが摂政であった間国は一度も乱れなかったということだ。ミスル王国の最期は天変地異によりフラートの水が減少し、田は枯れ麦が実らず民が飢えて苦しんでいた。その最中ミスル王国の最後の王ネロは酒色に溺れ宦官に政治を任せ寵姫と共に後宮に籠っていた。さらに不幸が重なり、例の狄と呼ばれる異民族が侵攻し、都は10日で陥落した。長年の王国の討伐により積年の恨みを晴らすがごとく狄はミスル王国を蹂躙し、王ネロは惨殺されたと言われる。そこで我が先祖テレスは筆を置いたらしい。ミスル王国史以外にミスル王国の存在を裏付けるものは何一つ残っていない。大河川フラートは気候の変動により消滅したためミスル王国の性格な場所さえ分かっていない。つまり、ミスル王国史はまったくのフィクションであり我が先祖テレスの嘘(そうなるとテレス20代目の子孫と伝わっている私のルーツの根源にも関わってくる)もしくは多くの国の断片的伝承を纏めた一種の伝説である可能性もある。ただ、近年地層の発掘調査より大河川があったらしい痕跡が発見されそれがフラートなのではないかと研究者の間で注目を集めている。王国史の真偽のほどはともかく謎の皇子ネフェルに私は心惹かれてやまないのである。
読んでいただきありがとうございました。