ギムレット
あっ、お客さん、ケータイ、と志郎がドア越しに声をかけても、スーツの上にコートを羽織った男は足早に階段を降りてしまった。志郎は慌ててバーカウンターの中を見回し、金庫とレジスターを確かめるとカウンターを出た。二人いる客のうちの女の方に、ケイちゃんごめんな、すぐ戻るからちょっと店におってよ、となだめるように言い、その3つ隣の男には、すみません、すぐ戻るんで、と口ごもるように言い残すとドアを開けて通りに走り出た。
女はドアの閉まる音でむっくりと上体を起こした。あれ、シロちゃあん、と間延びした声でカウンターの中に呼びかけたがそこに志郎の姿が無いことに気づくと小さく伸びをして、ため息をついた。男はタバコを灰皿からつまみ、眼を閉じて深く吸い込んだ。女は眠そうな眼で店内を見回してから、タバコの煙に気づいて男のほうに視線を向けた。
「あのぉ…すみませえん、一本もらっていいですかぁ。」
酔いのかなり残る緩みきった口調に男は苦笑いを浮かべた。おおらかにうなずき、どうぞと箱を差し出そうとしたが、彼女の手元に灰皿が無いことに気づくと少し不思議そうな顔をした。女はそれに対して、てへっ、と肩をすくめて申し訳なさそうな仕草をした。
「ホントは今禁煙中なんです。シロちゃんと賭けしてて…吸ってるのばれたら負けちゃうんで、今のうちに一本だけ、いいスかね?」
「ああ、そうなんや。なら、彼が戻ってくる前に早よ吸うてしまわなあかんね。ラッキーストライクやけど、いい?大丈夫?」
男はタバコ、ジッポライター、灰皿をまとめて女の横に置いた。あざぁッス、と小さく言って女はペコリと頭を下げた。
「あ、あの、改めまして、ケイコっていいます。」
「どうも。」
「いつもこのお店に来られるんですか。」
「いや、そんなには…ひと月ぶりぐらいかな。」
男の声は少しかすれていた。顔が少し日に焼けていて、髪は丁寧に短く刈り込まれていた。よく見ると、こめかみと耳の後ろに白髪がわずかに混じっていた。
「私、この近くで働いてるんですけど、」
「あぁ、それならさっき店の子と話してたよね。」
「えっ、聞いてはりました?」
「うん…彼氏と先週の水曜に別れたところくらいからやけど…」
あっちゃあ、と小さくケイコが呟いて顔を両手で覆った。その姿に男はフフフと優しく笑いながらグラスに口をつけた。
「ま、男なんていくらでもおるよ。前の彼氏の甲斐性のなさに不安になって別れたんやったら、今度はもっと活きのいいのを見つけたらええだけのことや。」
男はゆっくりと、かんで含むように言った。彼女は男の言葉の中の甲斐性という単語に、まるで感電したかのように反応した。
「そ!そおなんですよぉ!付き合ってからずうーーっと言ってきたんですけどね、」
男が少し慌てたように彼女に、まぁ抑えて、という仕草を見せ、
「そのあたりはさっき横で聞いとったからね、もう言わんでええよ。」
と低い声で諭すように言った。彼女はとたんに小さくなって、すみませぇん、と下を向いた。
ケイコがタバコを吸い終わり、男に返した。男はタバコを咥えると、左手のジッポの蓋を右手で覆うように持って開けた。ジッポ特有のカツンという音がほとんどせず蓋が開き、左手の親指がウィールを回す乾いたヤスリの音だけが男の手元から聞こえてきた。男は火を点すのに2回ほどタバコをふかし、しっかりと火が点いたタバコの先からライターを離してその揺れる火を眼を細めて見つめ、最初のひと息をはき出してからようやく蓋を閉じた。
「なんかぁ、あの、失礼ですけど、タバコの吸い方がすごぉくおしゃれですね。」
ケイコに言われて男はタバコを咥えたまま彼女のほうを向くが、眉毛が少し上がっていた。そうかなあ、という表情に見えた。
「あっその、その持ち方してる人、あんまり見ないですよぉ。」
男はタバコを持った自分の右手をじっと見た。手のひらで火のついた先を包み込むよう、人差し指と親指で軽くつまむような持ち方だった。
「ほらみんな、人差し指と中指で挟むじゃないですか。そういう持ち方する人、男の人でたまに見かけますけど、」
「これなぁ…もう、癖になってるからね。確かに、みんなそうやって挟むよなあ。たぶん、タバコを持ちながら何かするのにはそのほうがええんやろうけど」
男は灰を灰皿に落とした。
「僕はタバコを吸うときは何も考えず、何もせんでおきたいからね…その気持ちかな、そのスタンスが持ち方に出たんかもね。」
ケイコが顔をほころばせて笑った。それを見て首をかしげる男に彼女はなおも嬉しそうに言った。
「さっきシロちゃんと話してたけど、私、こういう仕事してるじゃないですかぁ、だから…男の人で、ちゃんとしたスタイルを持ってる人に憧れちゃいます。スーツとか飲むお酒やクルマの値段だけじゃ決められないものっていうか、個性っていうか…」
「そう言ってもらえるのは嬉しいけど、残念ながら稼ぎは君の元カレのほうが僕なんかよりよっぽどええよ。」
しみじみとした口調でそう言って横を向く男にケイコは、いや、そんなこと、と慌てて言葉をつなごうとしたがやがて黙ってしまった。
最後のひと口を吸い終わったタバコを灰皿に押し付けて消した男はグラスの中のギムレットを軽くすすった。細かい霧に覆われたグラスの中で薄い黄緑色の波が揺れた。胸ポケットから新しいラッキーストライクの箱を取り出して灰皿の横に置く。と、店の天井から下がったスピーカーに眼をやると、
「やれやれiTunesか…アルファベット順で並んでるみたいやな。」
とひとりごちた。先ほどまでのエレキギターの野性的で強靭なサウンドが止み、代わって人工的なトーンに彩られたビートに乗って少女のような声が幾層にも重ねられた歌が聞こえてきた。
「この子らってみんな聴いてるんですよ。私の店でもよくかかるんです。でも…、好みじゃないですか?」
ケイコの問いに男は少し困ったような顔をして、まぁ時代やし流行やからね、と曖昧につぶやいた後で彼女に訊いた。
「さっきまで流れてた曲、知ってる?」
彼女は首を横に振った。
「そやろなぁ…さっきの曲って、リリースされたの何年ぐらい前だと思う?」
彼女はくもりひとつない笑顔で素直に、明るい声で分かりませぇんと答えた。男はしばらく声をたてて笑った。
「20年前。」
男の答はケイコの予想をはるかに超えたもので、マジでぇ、うそぉ、をしばらく繰り返した。
「音楽にもよるけどね…楽器の音を出来る限り生々しく録音して、なるべくよけいな効果を付けへんかったら、意外なぐらい古びないもんなんよ。特にバンド形式で演奏された場合はね。」
男は誇らしげに語った。自分の身内がなにかの賞をもらったような口調だった。
「すごいですね、音楽って。時間とか関係ないんですね。」
「とはいっても、音楽にもよるよ。同じ年に日本で人気のあった人らっていうたら…」
男は何組かの名前を挙げた。その中のひとつは人気芸人が当時勢いのあったミュージシャンと連名でリリースした1曲だけのユニットだった。もうひとつはその同じミュージシャンが組んだグループだが、現在は活動していなかった。他にも男の口からは3つぐらい名前が出てきたが、彼女がその中で知っている、曲を聴いたことがあるものはひとつしかなかった。へえぇ、と思わすため息をもらしたケイコに男は、ま、そんなもんや、とあっさりとした口調で言った。
「でも、音楽で有名になるのって大変じゃないですか。ほんまにすごい短い間でも売れるのと、そうじゃないのの違いって大きいんじゃないですか。」
ケイコがおずおずと言う。おや、という顔で男が彼女の顔を見る。
「だって、すごいお金がかかるんですよね、宣伝とかでも…で、それでもヒットしたらそれを超える」
「一回だけじゃあかんよ。それをずうっと続けられるかどうかやから。」
男が遮るように言って自分の手元に視線を移した。ケイコがそれとなく男の横顔を覗き込む。彼女の眼には男の目元にわずかだが青く暗い影が差したように見えた。彼女の指先あたりを見ながら、先ほどより弱々しい声で男が続けた。
「流行についていってもええし、とんでもないことやって世間の注目を集めるのもええ。カッコつけたり、心にもないこと言いまくって自分を大きく見せる奴もおる。けど、それならそれをずっと続けてはじめて本物と認められる。逆に言うたら、みんなそれが出来へんくて時代…時間かな、時間に勝てなくなって消えていくんや。」
男はケイコから視線を外した。そして灰皿の上のタバコを見つめながらこう継ぎ足した。
「それは個人も同じことやね。本物と認められるまでは」
ドアが開いた。
志郎が息を切らせて入ってきた。ミネラルウォーターのボトルが2本とオレンジジュースのパックが入ったコンビニの袋を両手に持ち、ごめんお待たせ、途中で近くの店のオーナーにつかまってしもてね、とケイコにしきりに謝った。
「何や、買い出しに行っとったんちゃうの。」
ケイコがわざと大きめの声で志郎につっかかる。
「そりゃ、あれだけディタオレンジ飲まれたらオレンジジュースも切れるよ。」
志郎が苦笑しながら応じた。彼女はカウンターの自分の近くに散らばっていたタバコの灰を志郎に気づかれないように手で払った。そうして志郎にいたずらっぽく笑いながら言った。
「シロちゃん、BGMが変わってしもてるよ。はよ戻しいな。」
志郎が驚いた顔でちらっと彼女の顔を見たが、すぐにレジスターの横のノートPCに駆け寄った。クリックすると一瞬の静寂の後、ばねが弾けるような勢いでエレキギターの音がスピーカーから飛び出し、騒々しくドラムが続いた。
「な、シロちゃん、この曲、何年前の曲かあててみ?タバコひと箱賭けよか?」
「そんな、禁煙中でしょ。」
志郎が呆れたように言いかえす。ケイコはそれを受け流し、ちらっと男のほうを見た。男は小さく声を抑えて笑い、グラスに残ったギムレットをひと息に空けた。