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神の雷(いかづち)

作者: ONEUMA
掲載日:2026/08/28

「ファレリア」


「また来たのね」


木戸を開けると、胡桃色の髪をした娘が笑った。


「仕事の途中だ」


「仕事って、また兵隊さん?」


「ああ


……それ」


マルクスは竈の中のものを指さす。

娘は焼きたてのパンを手に取った。


「あなたって、来るたびにお腹を空かせてるのね」


「戦より空腹の方が苦手でね」


二人は笑った。

ルビコン川近くの小さな村。

マルクス・アントニウスは、この村へ来るたびに彼女の家へ立ち寄っていた。


軍では将軍の側近として働く毎日だが、この村だけは時間がゆっくり流れる。

兵士の喧嘩を仲裁しなくていい。

書状を運ばなくていい。

将軍の命令を伝えなくていい。


ここでは、ただ一人の男になれた。

ファレリアはパンを切り分けながら、窓の外を見た。


「もうすぐ、あの季節だわ」


「祭りか?」


「違うわ」


彼女は少しだけ真顔になる。


「トリフィダ・フランマ」


「……何だ、それは?」


「神様の雷よ」


「雷?」


「三つに、分かれる光」


彼女は指で空をなぞった。


「おじいちゃんは言ってた

あれが見られるときは、神が大きな運命の変化を望んでおられるんだって」


マルクスは吹き出した。


「はは、雷で人生が変わるなら、兵士は皆大英雄だな」


娘も笑った。


「あなた、信じてないでしょ」


「もちろん」


「でも、冬に雷なんてなかなか無いことなの

だからみんなこの時期は身構えているわ」


「あっそう」


「馬鹿」


そう言って彼女は軽く肩を叩いた。

その温もりが、妙に心地よかった。


マルクスが軍営へ戻ると、兵士たちの間に妙なざわめきが広がっていた。


誰も笑っていない。

古参兵の一人が足早に近づいてきた。


「アントニウス様」


「どうした?」


「元老院からの使者です、たった今」


マルクスは足を止めた。


「将軍は?」


「天幕で、お会いになるところです」


その言葉を聞きつけた兵士たちが、次々と口を開く。


「いよいよか……軍を解散しろって話だろ」


「将軍は従われると思うか?」


「俺たちはどうなるんだろう」


兵士たちは、不安げに呟いた。


「……まさか、ルビコンを渡るなんてことは」


周囲の兵が苦笑した。


「馬鹿を言え

そんなことをしたら、本当にローマとの戦だ

カエサル様でも、そこまではなさらん」


古参兵のその言葉に、誰も反論しなかった。


「行ってくる」


マルクスはそう言い残し、天幕へ向かった。

カエサルの側近でもある彼には、会談の同席が許されている。


天幕へ入った瞬間、空気が変わった。

誰一人として口を開いていない。

二人の人物が地図を広げた机を挟んでいた。一人は白いトガをまとったローマ元老院の使者。もう一人は椅子に腰掛けたマルクスの上司に当たる男、カエサルだった。

マルクスは無意識に背筋を伸ばしている。

使者は静かに口を開いた。


「閣下」


カエサルは顔を上げる。


「遠路ご苦労」


それだけだった。

互いに敵意はない。

それがかえって、これから交わされる言葉の重さを物語っていた。


マルクスは天幕の隅で二人を見守った。

これからローマの未来を決める話が始まる。


「元老院は軍の解散を求めています」


「……そうか」


短い沈黙。


「どうか、軍を率いてルビコンだけは渡らないでください

あなたはこの国の英雄です

それが、この川を渡った瞬間…」


「反逆者として死刑か」


「軍を解散してください

それがローマの願いです」


カエサルは小さく笑った。


「それは元老院の願いだ

ローマは変化を必要としている

このままでは滅びゆくのを待つだけだ」


カエサルは、まさにローマの英雄だった。

四十代前半という異例の若さで最高神祇官に就任し、その後は共和国最高職である執政官を務めた。そして十年に及ぶガリア遠征で、長くローマを悩ませてきた北方の脅威を退け、国境をライン川まで押し広げた。


ローマの版図をこれほど広げた男を、マルクスは他に知らなかった。


しかし、時の政府はこの英雄の膨張を望まなかった。

北への遠征を終えた彼に、このイタリア本土への境界線と言えるルビコン川を渡る前に軍を解散しろと要求していた。

もし、カエサルが川を渡れば…当然マルクスも反逆者の一味である。


「大丈夫?顔色が悪いわ」


「ああ、ファレリア

やばいよ

もうだめだ、カエサルはやる気だよ」


「逃げ出したい?」


「もちろんだよ!

そりゃカエサルには世話になったけど…元老院を敵に回して勝てるわけがない…

ましてや今は軍もほとんど解散して五千人しかいないんだ、それでローマを攻めるって…みんな不安だよ」


その時だった。


雲一つない空が、突然白く裂けた。


ピカッ。


一、二……三本。


稲妻は枝分かれしながら天を横切った。

マルクスは思わず立ち止まった。


「……三つ」


彼女の言葉が蘇る。


トリフィダ・フランマ。


「まさか……」


その声は震えていた。


マルクスは急いでカエサルの天幕へ走った。

入り口にいる衛兵たちも今日は押し黙っていた。

天幕にはカエサルと、軍団長をはじめとする幹部たちが集まっていた。誰も椅子に腰を下ろさず、地図を囲むように立っている。


「将軍!」


「何だ」


「この土地では、あの雷をトリフィダ・フランマと呼ぶそうです」


「あの…?なんのことだ」


「あの…先ほどの雷が、その…神のご意志なのだそうで…」


カエサルは笑った。


「神が望むと言うのなら」


「将軍……」


「恐れる理由があるか?」


その言葉に、誰も返せない。

腹は決まった。

男たちはどこまでもカエサルに付き従っていくであろう。


夜明け前。

軍は静かに動き始める。

兵士たちは鎧を締め、馬へまたがった。

それを見た元老院の使者がカエサルに駆け寄る。


「待ってくれ!

まだ考え直せる!」


カエサルは足を止めない。


「将軍!これは反逆です!」


カエサルは振り返りもしなかった。

馬が川へ入る。冷たい水しぶきがあがった。

少し遅れて、マルクスも馬を進める。


「カエサル」


渡った先で、一人の村娘がカエサルに声をかけた。


「ファレリア、ありがとう」


「いいえ、うまくいって良かったわ

でも…」


「ん?」


「彼、意外と抜けてるところがあるのよね

雷なんて大概三つくらいに割れるじゃない」


「はは!

でも、そんなところが好きなんだろ?」


娘はニコリと微笑んだ。

カエサルには、まるでそれがローマに迎えられたように感じた。

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