愚者の告白
勇者と魔王との戦いは、ついに佳境へと突入していた。勇者は王国が選りすぐった魔法使い、戦士、盗賊と共にパーティを組み、数多の魔物を退けて、とうとう魔王城の最奥まで辿り着いたのだ。
しかし、魔王ゼフィリアも女王たる強さを秘めていた。彼女の強さは他の魔物と比べ物にならず、勇者の仲間たち、魔王の配下ですら、その威圧感だけで気を失っていった。玉座の間で唯一立っていられたのは、転生時に魔法への抵抗力を与えられている、勇者ただ一人だった。
ゼフィリアは玉座で足を組みながら、妖艶な笑みを浮かべた。額に生える一本の角は、窓から差し込む月光を受けて不気味に輝いている。
「まさか、勇者とやらが年端も行かない小童だとはな。ろくに酒も飲めぬと見える。そんな稚児にやられたとは、我が軍も堕落したものよ」
「……だ」
「うん?」
「好きだ!!!!」
勇者は顔を真っ赤にしながら、ゼフィリアの黄金色の瞳を見据えた。……周りに倒れている無数の仲間と敵。ボロボロの冒険服と、刃こぼれした剣。服に滲む返り血。その最中で少年は叫んでいた。
「…………妾の聞き間違いか? 何か今、場違いな言葉が飛び出した気がするのじゃが」
「聞き間違いじゃない。俺は確かに『好きだ』と言った」
勇者ははっきりと言い切った。やや周りを気にするそぶりを見せつつも、皆の意識がなさそうなことにホッとし、ホッとしてしまったことに対して頭を強く掻いた。
ゼフィリアは当然、彼の言葉を真に受けることなどできなかった。それは四百歳と二十歳という年齢差のせいであり、魔族と人間という種族差のせいでもあり……何よりも。
「……奸計のつもりか。小賢しい真似を」
魔王と勇者、という最大の壁があった。彼女は自分の中に怒りが湧いてくるのを感じていた。相手が策を練ってくるのは当然のことだ、なぜ自分が怒るのか分からなかった。策が拙すぎるせいか? 勇者が真っ向勝負から逃げたからか? その根源を探そうとした瞬間、勇者は、玉座へ向かって歩み出した。
「おい、近づくな。死にたくないならな」
「殺せる技があるなら出してるだろ」
「奥の手がないとでも?」
「さあな……なんでもいい。俺にはもう攻撃の意思はない。ただ、さっきの言葉が嘘だなんて思われたくないんだ」
彼は玉座下の階段前で立ち止まり、膝をついてから、ゼフィリアへ向かって手を差し出しかけた。剣を握ったマメと、無数の返り血で汚れた手だった。それに気づいた彼は、胸元からハンカチを取り出して大雑把に拭き取る。そして改めて手を差し伸べる。
「好きだ。俺の伴侶になってくれ」
ゼフィリアに芽生えていた戦いの熱はすっかり冷め切っていた。彼女は短く息を吐いてから玉座を立ち、虚空から漆黒の大剣を引き出して、勇者の首元にそっと刃を置いた。彼はまるで抵抗せず、まっすぐにゼフィリアの顔を見つめていた。
「お前に敵意がないなら、妾に殺されるのも抵抗しないはずじゃ。貴様を殺し、それから無様に倒れている連れを八つ裂きにする。……無駄だったな童よ。ちっぽけな策に弄される愚者が、王など務めていられぬ」
──刃は一思いに振り下ろされた。
「…………まあ、だろうな」
気づけば、刃は粉々に砕け散り、勇者の首にはほんのりと赤い痕がついていた。彼は少しだけ表情を歪めながらも、痛みを顔に出さんと堪えていた。それが魔王を慮った故か、策略の続きなのか……ゼフィリアは既に分かっていた。
「……最初の威圧、あれで倒れぬ者に勝てる見込みはない。そのことをお前は看破していたのだろう? 妾はもうお前に勝つ術はない。それなのに、底の知れた我を殺そうとしない……」
彼女は玉座を立ち、剣を虚空へと落とした。
「ついてこい」
「……ああ」
勇者は魔王の後に続き、裏口から玉座の間を後にした。重い鉄扉が閉まる直前、彼は振り返って倒れた仲間たちを見やる。しかし、その視線は流れるように逸れ、廊下に続く暗闇へと戻っていった。
やがて彼女たちは城の中腹、戦略会議室へとやってきた。いつもは幹部の魔物たちがてんやわんやと作戦を立て、ゼフィリアが欠伸を立てていると、急に意見を求められる場所だ。彼女は軍事面においては、あまり有意義な助言をできなかった。「正面から向かって勝てぬのか?」という、皮肉一つない純粋な疑問だけを返していた。
「なるほど……勝てぬわけだ」
──いくら策を弄したとて。
彼女はいつも通りに最奥の席に座り、対面する椅子に腰掛けた勇者を見つめた。まだあどけなさの残る顔には不自然な疲労と憂鬱が浮かんでいる。人間の容姿だと二十歳頃だろう、と彼女は思った。
──妾はその頃、確かマンドラゴラの栽培に夢中だった。
声の大きい個体同士を掛け合わせ、より空気を裂くような叫びを追い求めた。その過程で何人死んだかは覚えていないが、思い通りの声が聴けたときの愉悦は、今でも鮮明に思い出せる。
「改めて思うが……そんな歳で勇者か。王国はやはり腐っておる」
彼女は意図的にこの部屋を選んでいた。一つ、形だけでも自身の優位性を取り戻すこと。そしてもう一つ。仲間や敵の元から遠ざけることで、彼の言葉の続きを引き出すためだ。
重い沈黙が二人の間に落ちていた。ゼフィリアは頬杖をつき、じっと勇者を見据える。その視線は、戦場で見せた威圧とは違う、もっと静かで逃げ場のないものだった。
「……で?」
「で、と言われても……あれが全てだ」
「あの三文字で妾が応じると思っているほど、お前は愚かではないじゃろう。背景も理由も、全てが判然としない」
勇者は一瞬だけ目を伏せた。何かを誤魔化すように口を開きかけて、やめる。そしてゆっくりと息を吐く。
「……怖いんだ」
「ほう」
「全部だよ。ここまで来たことも、この先も。急に『転生した』って言われて、なんで俺が勇者なのかも、なんで魔王を倒さなきゃいけないのかも……何一つ分からないまま進んできた」
ゼフィリアの指先が、机をとん、と軽く叩いた。
「分からぬなら考えればよかったろう。貴様ほどの力があれば、時間はいくらでも稼げる」
「そんな余裕なかったんだよ。日本人だから圧に弱いんだ」
「……ニホン?」
「ああ、元々住んでた異世界の国」
勇者は苦笑した。自嘲とも諦めともつかない、乾いた笑みだった。彼はひどく疲れているように見えた。肉体はむしろ奇妙なほど保たれているのに、内側だけが擦り切れているような、そんな顔だった。
「気づいたら『勇者』って呼ばれてて、気づいたら旅に出てて、気づいたら仲間ができて……少しも疑えなかったんだ。魔王を倒すのが正しいって」
彼の視線はどこか遠くを見ていた。かつてのニホンか、それとも冒険の始まりの地か。ゼフィリアはふと思いを巡らせたが、自らの手で考えを断ち切る。
「だから俺も考えないことにした。流れに乗ってれば、全部上手くいく気がしたんだ。そういう役割なんだって、自分に言い聞かせてさ」
「……愚かじゃな」
「ああ、そうだと思う。元の世界じゃ、戦争なんて馬鹿にしてたのにな」
即答だった。
ゼフィリアは憐れむように目を細める。
「でもさ」
勇者は顔を上げる。先ほど玉座の間で見せた、あのまっすぐな目だった。
「ここまで来たら、もう終わりが見えるだろ。魔王を倒したら、俺は『勇者』じゃなくなる。じゃあその後は? 元の世界に戻れるのか、このままここで生きるしかないのか……それとも」
言葉がぷつりと途切れた。
彼はひどく虚ろな声で言う。
「……空っぽになる気がしたんだ」
静かに落とされたその一言は、武器庫にあるどの剣よりも鋭く響いた。戦略会議室の乾いた空気がほのかに震える。ゼフィリアにはその言葉の意味が分からなかった。彼女は生来、権力・富・知識……あらゆるものに満たされて生きてきた。相対する勇者が真逆の立場だなんて、想像もしていなかった。
「何のために戦ってきたのかも分からないまま、『はい終わりです』って言われて……それで、どうしろっていうんだよ」
ゼフィリアはしばらく何も言わなかった。王としてならば、ここで断じるべきだろう。勇者の迷いを嘲り、あるいは断罪し、利用する。しかし今、彼女の内側で動いているのは、そうした類の思考ではなかった。
もっと単純で、もっと原始的な──興味だった。
「だから、せめて一つくらいは、自分の手で選びたかった。そんなときに、お前の姿を初めて見て……」
「惚れた、と?」
「……俺に言わせてくれ。なんにせよ嘘なんかじゃない。むしろ、これだけが唯一本当のことなんだ」
勇者の真剣な黒い瞳を見て、ゼフィリアはふっと笑った。それは明確な嘲笑ではなく、ある種の感心、並びに安堵も含まれていた。力量は依然、勇者の方が上だ。しかし奇妙なことに、精神的なパワーバランスは、自分の方が優勢となっている。
「世界の理も、種の理も、すべて投げ捨てて……己の感情一つを取るか。実に人間らしい」
「悪かったな」
「褒めておる」
彼女はゆっくりと立ち上がる。床に落ちる足音はやけに静かだった。かつて、その一歩で戦場を震わせていた存在とは思えないほどに。
勇者の前まで歩み寄り、わずかに身を屈める。黄金の瞳が至近距離から彼を射抜いた。
「恐怖から逃げるために選んだのではないな? その恐怖を抱えたまま、選び直した──そういうことか」
彼はわずかに息を呑んでから頷く。
「……たぶん」
曖昧な返答だった。だが、その曖昧さこそが、嘘でない証のようにも思えた。
ゼフィリアはさらに顔を近づけて問う。
「ならばその選択の先で、お前は何を望む。妾につけば、世界の半分だってくれてやる。それとも金か? あるいは、元の世界への帰還も可能やもしれん。それらが与えられたとき、妾より形ある報酬を選ぶのではあるまいな」
勇者はほんのわずかに視線を揺らし、それから正面に戻した。
「……分からない。でも今は、分からないままでいいと思ってる」
それは開き直りではなかった。むしろ、ようやく何かを掴んだ後の、穏やかな悟りに近かった。
「初めて自分で選んだんだ。だったらその先も……自分で決めるよ」
「そうなったら殺すがな」
「殺れるならさっき殺ってるだろ」
しばし、篝火の小さな破裂音だけが響いていた。やがてゼフィリアは小さく息を吐いた。
「……面白い」
その言葉は、もはや隠しようもなく愉悦を帯びていた。彼女は手を伸ばし、勇者の顎に触れる。逃げようとすればいくらでも逃げられる距離だが、少年は動かない。
「ならば、その覚悟──見届けてやろうではないか。伴侶になるかどうかは、その後で決める」
「……え?」
「何を呆けておる。いきなり首を縦に振るほど、妾は安くない」
その言葉に、ようやく彼の肩から力が抜けた。かすかな安堵が遅れて頬に滲み出る。
「ただしこの選択、後悔しても取り消しは効かぬぞ。たった今、魔族の王、ゼフィリアが命ずる。貴様はもう『勇者』ではない」
それは宣告であると同時に赦しでもあった。勇者はゆっくりと頷いて、ゼフィリアの目を見つめる。
「ああ」
「ならばよい」
彼女は踵を返し、窓の外へと目を向けた。魔王城周辺の夜は深い。だが、その奥に確かに、朝焼けの気配がある。
「もはやお主がいれば、人間どもにとっては戦争どころではない。一方的な命令すら下せる。勇者が魔王に与した──それだけで世界の均衡は崩れかねん。人間どもは恐怖し、魔族は慢心する。どちらに転んでも、碌な結末にはならぬ」
「……じゃあ、どうする?」
「ずっと前から考えていたことがある。妾ほどの力を持ってしても不可能だと、忘れておったが……」
爛々と輝く瞳が、わずかに細められる。
「壊すのじゃよ」
「……は?」
「人間も魔族も、勇者も魔王も。そのくだらぬ枠組みを全てな。国家や種族という分断を消し、この世界を妾とお主の力で統べる」
あまりにもあっさりと言われたその言葉に、勇者は一瞬だけ言葉を失った。だがすぐに、小さく息を吐く。
「……とんでもないこと言ってるって自覚あるか?」
「当然じゃ。だからこそ、お主を選んだ。いや──」
一歩、彼に近づく。
「お主が妾を選んだのだった」
勇者は恥ずかしそうに顔を背ける。ゼフィリアは意地の悪い笑みを浮かべ、その返事を待っていた。
「告白のことはいいだろ、もう」
「よくないな。選んだ者と選ばれた者では、責の重さが違う」
彼女は指先で勇者の胸を軽く突いた。
「これはお主の選択の結果じゃ。ゆえに、この先で何が起ころうと──」
「俺にも責任があるってか」
「そういうことじゃ」
彼は少しだけ考えてから、肩をすくめた。
「……上等だよ」
その返答に、ゼフィリアは満足げに頷く。そうして立ち上がると、足早に扉へと向かった。
「よろしい。ならばまずは玉座の間に戻るぞ。倒れている連中に宣言してやる」
振り返りざま、妖艶に笑う。
「勇者は死んだ、とな」
「……生きてるだろ普通に」
「言葉の綾じゃ」
ゼフィリアは楽しげに続ける。
「勇者は死に、そして新たに生まれるのじゃよ。名もなき愚か者が一人──魔王に惚れて、世界を壊すために手を取った、とな」
「ひどい言われようだな……」
「事実じゃろう?」
否定できなかった。勇者は頭を掻きながら、おずおずと彼女の隣に並ぶ。
「……なあ、さっきの話」
「伴侶の件か?」
「それもだけど……」
勇者は少しだけ視線を逸らし、それから戻した。
「見届けるって言ったよな」
「ああ」
「途中で飽きたりしないでくれよ」
その言葉に、ゼフィリアは一瞬だけ目を見開き、すぐに深く笑った。
「案ずるな。四百年生きて、ようやく見つけた玩具じゃ。簡単に手放すものか」
「……玩具かよ」
「不服か?」
「いや、まあ……」
勇者は苦笑しながらも、小さく首を振った。
「それでいい」
その言葉に、ゼフィリアの笑みが少しだけ深くなる。
やがて二人は並んで歩き出す。かつて勇者と魔王が対峙した廊下を、今度は同じ方向へ。ゼフィリアは重い扉の前で立ち止まった。
「開けるぞ」
「ああ」
──新しい世界が始まりを告げた。




