視聴者
「……うおっ」
「おかえり、イエローカタバミ……」
アパートの部屋に帰宅し、電気をつけた瞬間、おれは思わず声を上げた。
部屋の真ん中に、見知らぬ男が胡坐をかいていたのだ。
髪はポマードでぴっちり撫でつけられたオールバック。チャコールグレーのツイードスーツに身を包み、口には火のついていない葉巻。そして右手には、名前こそ出てこないが、スパイ映画で見かけるような拳銃を握っていた。
「あ、あんた、人の部屋で何を――」
男は銃口をこちらに向けたまま、人差し指をゆっくり唇に当てた。葉巻をそっと外してローテーブルに置くと、口をもごもごと動かして顔をしかめた。葉巻がまずかったらしい。いや、ならどうして咥えていたんだ……。
「陳腐な質問はなしだ。イエローカタバミ。君は一流のスパイだろ?」
ニヤリと笑ったその一言に、おれは身震いした。最初の衝撃で聞き流していたが、『イエローカタバミ』はかつてのおれのコードネームだった。だが、それは……。
「いや、それって昔のドラマの話ですよ……」
そう、おれは子役時代にスパイもののドラマに出演していた。タイトルは『少年スパイチューリップ』。もう数十年前の話で、タイトルからしてわかるように、おれは脇役にすぎなかった。しかもドラマは早々に打ち切られ、今では違法アップロードすら見かけない。マニアに語られることもなく、完全に忘れ去られた作品だ。
だからこそ恐ろしい。今さらあのドラマを掘り返し、おれの部屋にまで侵入してきたという事実が。
「ドラマなどではない。あれも現実だよ。君自身のね」
体の芯から寒気が走った。この男は現実とフィクションの区別がついていないのだ。完全にイカれている。ドラマの悪役を演じた俳優が現実でも嫌われるなんて話は聞いたことがあるが、この男は次元が違う。
しかもこの男、おそらくおれより年上だ。つまり当時小学生だったおれに欲情し、長年思いを募らせ、とうとう今夜、不法侵入に至ったというわけだ。真正の変態だ。
「とりあえず、そのスーパーの袋を置いたらどうかね? 卵を潰さないようにね」
「なぜ、卵を買ったとわかった……?」
つい、相手に引っ張られて芝居がかった口調で返してしまった。すると男は一瞬、瞳をきらりと輝かせた。
「他にもわかるぞ。人参、ネギ、豆腐、ごま油、それから食パンとバターロール。君は特にバターロールが好きだったね」
またぞわりと鳥肌が立った。こいつは、スーパーからつけてきたのだ。いや、それだけではない。以前からずっと、それこそスパイのように、おれの日常の細部まで監視していたに違いない。思い返せばこの男、どこかで見た気がする。
吐き気が込み上げ、手から袋が滑り落ちた。卵がぐしゃりと潰れる音を立てた。
「私は君のことならなんでも知ってる。ずっと見てきたからね……」
変態の愛の告白ほどおぞましいものはない。こいつは今夜、おれをヤるつもりだ。少年時代のおれを思い浮かべながら、腰を振る気なのだ。
おれは拳を固く握った。どうにかしなければ。だが、あの銃はどうする? 本物なのか? 素人のおれにはわからない。子役時代に見た小道具と似ている気もするが……そういえば、この男の服装もどこかで……。
「こっちに来て座りたまえ。話をしようじゃないか」
穏やかだが、熱を帯びた声。その表情には感慨すら滲んでいた。完全にヤる気だ。
「話とは……?」
おれは男の正面に腰を下ろした。膝に座れと言われなかったことに、ひとまずは安堵した。
「そうだな……君の人生についてかな。ここまで生きてきて、思うところもあっただろう」
「それは……ドラマが終わってから、おれがどう過ごしたか知りたいってことか?」
やはりマニアは変態だ。だが、語るほどの人生ではない。打ち切り後はほとんど仕事もなく、学校に通いながら一応役者は続けていたが、細々と舞台に立つ程度でテレビに出ることは一度もなかった。最近はアルバイトのほうが多い。
「いや、さっきも言ったろう。私は君のことならなんでも知ってるとね。君がさっき、このアパートの近くの自販機のそばで一円玉を拾ったこともね」
この変態野郎が――いや、どういうことだ? 確かに拾ったが、この部屋からは見えるはずがない。尾行していたとしても、おれより先に部屋にいたことの説明がつかない。まさか、仲間がいるのか?
「君の行動はすべて放送されているのさ。まさに一つのドラマとしてね」
男はそう言うと、ポケットからスマートフォンのような機械を取り出した。画面にはおれが映っていた。しかも、斜め上からのアングルで。
おれは慌てて、天井の隅を見上げた。だが、カメラはない。壁を睨んだが、レンズが埋め込まれているわけでもなさそうだ。それなのに男は画面を切り替え、次々と別角度からのおれを映して見せてきた。
「わけがわからない……なんなんだ、あんた……」
胸がむかつき、おれは再び床に腰を下ろした。
「言ったとおりさ。君は誕生の瞬間から今この時まで、ずっと放送されてきた。あらゆる角度から、モニター越しに誰にでも見られる状態だったんだよ」
「だ、誰にでも……?」
「そう。ああ、もちろん、私たちの世界の住人だけの話だがね」
「“私たちの世界”……つまり、ここはドラマか何かの世界で、あんたがそれをおれに告げに来たってことは、これはいわゆるメタフィクションってやつか? そんな馬鹿な……」
つまり、おれの人生は作り物であり、背後には作者がいる。この男は、その作者が投影された存在なのか。おれと接触し、反応を見るために現れた。――そう考えた瞬間、おれはこの男を殺してやりたくなった。
だが、男は小さく首を傾げた。
「メタフィクション? 違うな。つまり、なんて言えばいいかな……。私たちは、君たちとは別の、高次元の住人なんだよ。まあ、口で言うより見せたほうが早いだろう」
「なに……? あっ」
男は顎の下に指を差し込み、まるでスマホの保護フィルムを剥がすように、自分の皮膚をぺりぺりとめくり始めた。その下から現れたのは、白熱球のように眩しく輝く白い光の塊だった。
「最初からこの姿で登場してもよかったんだがね。それだと、部屋が暗いからすぐにバレてしまうだろう? ふふっ、驚かせたくてね。この“ガワ”を用意して、君が出ていたドラマの雰囲気に寄せてみたのさ」
「ドラマって……あ、思い出した! その格好、敵役の俳優じゃないか!」
おれは思わず立ち上がり、男を睨みつけた。ずっと頭に引っかかっていた既視感が、ようやく形を成し、喉の奥から飛び出した。
「ふふっ、やっと気づいてくれたか」
「お前が轢き逃げなんかしたせいで、ドラマが打ち切りになったんだぞ! クソ野郎が!」
「まあ、それは私じゃないけどね。だが確かに、あの俳優の不祥事で打ち切られた。ああ、もし誰かがプフォーしていればねえ……」
顔を元に戻しながら、男はしみじみと呟いた。
「プフォー……?」
「君たちの世界の言葉にするなら……スーパーチャットや投げ銭、ギフトといったものかな。私たち視聴者は、出演者である君たちに贈り物を送れるんだよ。といっても物質ではなく、いわば『幸運』や『加護』のようなものかな」
「つまり……本当にテレビやネットみたいに、おれは常に誰かに見られていたということか。プライバシーも何もあったものじゃないな……」
「そのとおり。君の隣人や高校時代の恩師、今日すれ違った誰かも、みんな私たちのモニターに映っているのさ」
「だが、有名人でもなければ、見ていてもつまらないだろう?」
「そんなことはないさ。誰の人生も一つの物語だからね。みんな楽しんで見てるよ。他に楽しいことはないし、同時に無数の人生を並べて眺められるから飽きることもないよ」
「他に楽しいことはないって……そんなことないだろ。そんなに高度に発展しているなら」
「あるのさ。娯楽を突き詰めた結果、こうなったというのかな。他者のリアルを覗き見る以外に、快を得られなくなったんだよ。君たちも、あと三千年も経てば同じ境地に至るかもしれない。まあ、睡眠も食事も不要になり、永遠の命を手にしてからの話だけどね」
「あんたらは超高度な文明の、宇宙人や神みたいな存在ってことか……」
「うん、その理解でいい」
それなら、感覚や倫理観が噛み合わないのも納得だ。おれはただ長く息を吐いた。
「それで、あんたはおれをずっと見てきたわけか」
「ああ、生まれた瞬間からずっとね。推しの人生を最初から最後まで追う。それが一般的な視聴スタイルさ」
「なるほどな……ちなみに、あんたの他には何人くらい、おれを見てるんだ?」
「ゼロだよ」
「ゼロ!?」
「ああ。私以外、誰も見てない」
「俳優なのに……? 複数人を同時に見られるんだろ? なのにゼロ?」
「うん。このデバイス、君にわかりやすいようにスマートフォンに似せて持ってきたんだけど、ほら、ここに文字があるだろ? これは数字の一って意味だ。現在は一人視聴中。つまり、私だけということさ」
「クソッ!」
「まあまあ。そのおかげでこうして直接会えたんだ。本来なら接触は禁止だからね」
「まあ、そうだろうな……で、目的は何だ。サインでも欲しいのか?」
「いや、物質は持ち帰れないし、欲しいとも思わない。それより聞きたいんだ。ここまで生きてきた感想を」
「生きてきた感想って……。まるで死ぬみたいな言い方だな……えっ?」
再び背筋に悪寒が走った。おれが黙っていると男は首を傾げ、やがて「ああ」と小さく声を漏らした。おれの考えを読み取ったらしい。笑いながら手を横に振った。
「いや、違う違う。君個人の話じゃない。君たち全体のことだ」
「全体……?」
「配信終了だよ。まもなく、君たちの世界は消去される。どうにも視聴率が悪くてね。新しく作った世界のいくつかで人類が育ち始めていて、皆そっちに夢中なんだ」
すとんと膝から力が抜け、おれはその場に座り込んだ。
また打ち切りか――胸の奥に、あのときの感情が蘇った。
「それで感想は? ファンとしてぜひ聞きたいんだよ」
男は顔を寄せ、ぎらぎらと光る瞳をこちらに突きつけた。
おれは静かに言った。
「おれ以外も不幸なら、それでいい」
男も満面の笑みを浮かべた。
「だから、君が好きなんだ」




