第四章 夜明け前の部屋
外はまだ夜の名残を引きずっていた。東の空の端に、かすかに白い気配が滲みはじめているが、町全体は依然として深い灰色に沈んでいる。
冷え込んだ空気が、通りの隅々まで張り詰めていた。街灯はひとつ、またひとつと消えかけ、そのたびに陰影が濃くなった壁や舗道が、別の場所のように見える。
現場の家は、古びた二階建ての木造だった。瓦屋根はところどころ欠け、雨樋は歪み、外壁には褪せたペンキがまだら模様を作っている。周囲の住宅からは一歩退いた位置に建っており、その孤立した佇まいが、余計に寒々しさを際立たせていた。
玄関前にはすでに数人の署員と鑑識が集まっていた。
誰もが口数少なく、吐く息を白く曇らせながら、視線を家の中に向けている。
「……中は、まだ誰も触ってないな?」
一人の年配の刑事が低く確認する。
「はい。通報が入ってから一番に駆けつけた署員が、玄関から見える位置で異常を確認して……それ以上は踏み込んでいません」
若い署員の声も、かすかに震えていた。
家の中から、何かの匂いが流れ出してくる。
湿った木材と古紙のにおいに混じり、金属が酸化したような、そして――わずかに甘ったるい気配が鼻を刺した。血の匂いだ。
ただし、それは普通の殺人現場で嗅ぐような生臭さとは違っていた。温度のない、乾いた甘み。長い間放置された花瓶の中で、花と水が腐ったときのような、不自然な芳香が混ざっている。
刑事たちは互いに目を合わせ、誰からともなく頷くと、ゆっくりと玄関を跨いだ。
⸻
部屋の奥、障子の桟にかすかに指がかかったように見えた。
だが誰も触れてはいない。刑事のひとりが息を呑み、視線をそこに釘付けにする。
「……今、見えたか?」
問いかけは、声を潜めてもなお空気を震わせる。返事はない。ただ、互いの顔を盗み見る瞳だけが光る。
床の隅に置かれた石油ストーブが、パチ…と小さな音を立てた。
その瞬間、部屋の温度がわずかに下がったような錯覚が走る。
鑑識員のひとりが首筋を押さえ、袖で汗を拭った。
冷たいのか、熱いのか、自分でもわからない。
奥の箪笥の引き戸が、コン…と内側から叩かれたような音を立てる。
全員の肩が同時に揺れた。
「風か…?」と誰かが呟くが、障子は閉ざされ、外気は入らない。
畳の目を走る一筋の影が、ありえない角度で伸びて消える。
無線が唐突にノイズを吐き、途切れた。
「……ザッ……応答……」
耳障りな声は、遠くの誰かが助けを求めているようにも聞こえた。
しかし次の瞬間、無線機は沈黙し、室内は再び凪いだような静けさに包まれる。
その静寂の中、かすかな香が漂った。
古い樟脳と、何か甘い花の香り。
だがそれは、この時代の防虫剤にも香水にも似ていない。
嗅いだことがないのに、懐かしいような、胸を締め付ける匂いだった。
「……いるな」
年配の刑事が低く言った。
声は震えていないが、目は部屋の一点を捉えたまま動かない。
その視線の先、箪笥の前に、かすかに着物の裾のような布の影が見えた。
色は闇に溶け、形を結ばない。それでも確かに、そこに在る。
足音がした。
畳を柔らかく踏む音。
右から左へ、すぐそばを通り抜ける。
誰も動けなかった。体が自分のものではないように硬直する。
視界の端を、白いものがかすめた。
裾、か、手、か、それとも顔だったのか——確かめる前に消えた。
鑑識員の一人が小さく呻き、膝をついた。
「……脚が……」
ズボンの裾から覗くふくらはぎに、赤黒い痣が浮かび上がっていく。
まるで内側から押し出すように、形が変わり、血のようなものが滲む。
触れられてもいないのに、その皮膚は冷え切っていた。
若い刑事が震える声で「撤収しましょう」と言いかけたそのとき、
部屋全体が、ふっと沈黙した。
沈黙——いや、音がなくなったのではない。
外の遠い車の走行音も、ストーブの燃焼音も、血の巡る自分の耳鳴りすらも消えた。
世界そのものが切り取られたような、完璧な無音。
その中心に、“それ”はいた。
部屋の奥、暗闇と同化した黒い影。
それはゆっくりと、人の形を帯びていく。
白い首筋、黒髪、そして顔——いや、顔はあったのか。
そこにあるのは、見てはいけないものだと本能が告げる“空白”だった。
一歩、また一歩。
舞うように、だが確実に近づく。
裾が畳をかすめるたび、冷気が足元を走り抜ける。
刑事たちは後退もできず、声も出せず、ただその接近を受け入れるしかなかった。
最初に倒れたのは、痣を負っていた鑑識員だった。
まるで糸が切れたように崩れ、頬が畳に触れる。
次に、年配刑事の喉から、押し殺した悲鳴のような呼気が漏れた。
胸を掴み、そのまま動かなくなる。
最後に残った若い刑事が、恐怖に駆られて部屋の外へ飛び出そうとした瞬間、
障子が音もなく閉じた。
逃げ道は消え、舞姫は至近に立っていた。
白い手が、すっと伸びる。
その指先が頬に触れた瞬間、刑事の瞳から光が抜け、膝から崩れ落ちた。
——再び静寂。
朝日が昇るころ、部屋には三つの動かぬ影と、
畳に残る淡い花の香りだけが残されていた。
廊下は薄暗く、天井近くに取り付けられた裸電球が、弱々しい光を漂わせている。
床板は歩くたびにかすかに軋み、埃が舞い上がる。
壁紙はところどころ剥がれ、下地の木が露出していた。
右手の襖の向こうから、冷たい空気が流れ出してくる。
そこが「例の部屋」だった。
襖は半ば開いており、わずかな隙間から、畳の部屋が覗いている。
部屋の奥は影に沈み、何があるのか判然としない。
だが、その闇の奥から――見られているような感覚が、確かにあった。
「記録開始」
鑑識班の一人が、ビデオカメラのスイッチを入れる。
低い電子音が、廊下に不釣り合いなほど鮮明に響いた。
刑事の一人が、懐中電灯を構えて襖を少し押し広げた。
狭い隙間から、光が部屋の奥へと滑り込む。
畳は色褪せ、中央に置かれた小さな机の周りには、古びた椅子が二脚。
机の上には、封を切っていない便箋と、黒い万年筆。
その配置はあまりにも整然としていて、まるで誰かが舞台を設えたかのようだった。
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机の向こう、壁際に――それは座っていた。
いや、「座っているように見えた」というべきか。
全身を黒い布で覆われた人影が、背筋を伸ばし、両手を膝に置いている。
顔は、白く無表情な仮面で覆われていた。
仮面の目の部分は穴がなく、ただ滑らかな白い面が、光を鈍く反射している。
その存在は、まったく動かない。
しかし、部屋に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
温度が二、三度下がったように感じられ、呼吸が急に重くなる。
「……人形、か?」
若い署員が呟く。
年配の刑事は答えず、懐中電灯の光をその顔――仮面に当てた。
滑らかな白は、光を浴びても質感が変わらない。陶器のようであり、石膏のようでもある。
だが、その足元に広がる畳の色が、不自然に濃く染まっていた。
暗赤色の斑点。乾ききっておらず、ところどころ艶を帯びている。
それは明らかに――血だった。
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誰もまだ近づこうとしない。
理由ははっきりしていた。
その仮面の奥から、音がしていたからだ。
かすかな擦過音。
何かが布の内側で動く、細く、連続した音。
生き物が身じろぎするときの、皮膚と衣服の摩擦に似ていた。
「……ビデオ、寄せろ」
年配刑事が低く指示する。
カメラがゆっくりと接近し、仮面の顔を画面いっぱいに収める。
その瞬間――。
仮面の中央、口にあたる部分が、わずかに膨らんだ。
呼吸をしている。
鑑識員の手が震え、カメラの映像がわずかに揺れる。
同時に、仮面の下で、誰かが「くすり」と笑ったような気がした。
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その後の動きは、誰も正確に覚えていない。
ただ、仮面の人物――あるいはそれを被った何かが、突然、首を傾けたのだ。
異様に滑らかな動きで、まるで人間の関節ではないような角度にまで。
そして、次の瞬間には立ち上がっていた。
立ち上がった、というより、地面から浮き上がったように見えた者もいた。
薄暗い部屋の中で、それはゆっくりと刑事たちに歩み寄る。
足音はない。
ただ畳の軋む音と、布が擦れる音だけが響く。
誰かが「下がれ!」と叫び、別の誰かが懐中電灯を落とした。
光が転がり、畳や机の脚を照らしながら、部屋の奥の影を揺らす。
その影は――確かに一瞬、長い袖の端から、白く細い指が覗いたのを見せた。
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あとの記憶は、断片的だ。
突然の悲鳴。
倒れる音。
机の上の万年筆が転がり、畳に小さなインクの染みを作る。
そして、重い何かが床に崩れ落ちる鈍い響き。
部屋の中は、次の瞬間にはもぬけの殻だった。
仮面も、黒い布も、そこにはない。
残っていたのは、血の染みと――動かなくなった刑事の身体だけ。
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玄関先にいた署員が無線で応援を呼び、救急と本部への連絡が飛ぶ。
だが、その声にも混じって、廊下の奥から微かに笑い声が響いた。
子供とも女ともつかない、細く、湿った笑い。
誰も、その声の主を見ていない。
ただ一様に、背中を冷たい汗が伝った。
そして、この現場には――渡辺の姿も、最後まで現れなかった。
彼が今どこにいるのかを知る者は、誰一人としていなかった。




