第八章 廃工場での爪痕
廃工場を出たとき、東の空はうっすらと明るみ始めていた。二人の体は金属粉で覆われ、衣服は所々裂け、血が滲んでいる。車に乗り込む前に、渡辺は防塵マスクを外すことなく、携帯無線で病院の特別治療室への搬送準備を要請した。
病院へ戻るまでの道のりは、沈黙が支配していた。エンジン音と呼吸音だけが車内に響く。領子は左肩の痛みで時折顔を歪め、渡辺はハンドルを握る右手に力を込めていた。
到着すると、白衣の医師と看護師が待ち構えていた。
「すぐに隔離治療室へ! 金属粉は除去しないと肺に残る可能性があります!」
渡辺と領子は別々のカプセル状の除染ブースに入れられ、強制換気と薬液スプレーで全身を洗浄された。マスクを外すと、薬品の匂いが鼻を突き、肺に残っていた粉のわずかなざらつきが消えていく感覚があった。
治療室に移ると、領子は左肩の裂傷に麻酔を打たれ、縫合処置が始まった。
渡辺は腕の裂傷を消毒され、深く切られた筋肉に縫合糸が通されるたび、眉間に皺を寄せた。
「これだけの量の金属粉……あの怪異の活動範囲は、確実に広がってます」
処置中、医師が呟く。
領子はベッドに横たわったまま、防塵マスクのフィルターを指でなぞり、粉が内部まで侵入していなかったことに安堵した。
数時間後、二人は再び特別病棟の一室に集められた。
机の上には、現場で採取した粉のサンプルと、気象観測ドローンが収集したデータが並んでいる。
捜査支援班の技術員がタブレットを操作し、壁の大型モニターに解析結果を映し出した。
「これが、廃工場地帯で採取した金属粉の粒径分布です。従来のサンプルと比較すると、粒子の表面構造が変化しています」
拡大された画像には、微細な繊維が絡み合い、内部に未知の結晶構造を抱えた粒子が映っていた。
「……自己増殖?」領子が呟く。
「その可能性があります。さらに問題なのは、この粉から微弱な電磁波が検出されていることです」
技術員は次の画面を表示した。粉の分布図には、点在する強い反応が赤い光点で示されている。
「ここ……町の南部、河川沿いの倉庫群。昨日まで反応はありませんでしたが、今朝になって急激に増加しています」
渡辺はモニターを見つめたまま、胸ポケットの矢じりを握った。
「……あいつ、移動したな」
「ええ。しかも、ただ移動しただけじゃない。金属粉の組成変化からすると……より強力な形態に進化している可能性が高いです」
領子は無意識に息を詰めた。粉が進化する——それは舞姫がこれまで以上に危険になることを意味していた。
渡辺は深く息を吐き、領子に視線を向けた。
「次は……躊躇う暇はない。痕跡を追って、必ず封じる」
領子も頷き、防塵マスクを手元に引き寄せた。
新たな痕跡は、既に彼らを次の戦場へ誘っていた。
⸻
夕刻、河川沿いは靄に包まれていた。倉庫群は古びた波板の外壁が錆に覆われ、扉の半分は歪んで開け閉めもできない状態だ。周囲には人気がなく、ただ河面を渡る冷たい風が吹き抜けていく。
渡辺と領子は、防塵マスクと防護スーツを着込み、倉庫地帯の入口に立っていた。胸ポケットの布袋の中で、矢じりが小さく揺れ、鈍い光を放つ。
「気を抜くな。前回より強い」渡辺の声は低く、マスク越しでも緊張が伝わった。
領子は頷き、呪印札を指に挟んだまま倉庫内へ踏み込む。
足元にはすでに銀色の粉が薄く積もっている。ライトで照らすと、粒子は前回よりも大きく、繊維のような触手を伸ばしているのがわかった。まるで生き物のように互いに絡み合い、微かに蠢いている。
「……進化、してますね」
「この程度で済むならまだいい」渡辺は粉を避けるように足を運びながら、奥へと進む。
倉庫の中心部に差しかかった瞬間、耳障りな金属音が響いた。梁の上から降り注ぐように、粉が雪のように舞い落ちてくる。
そして——闇の中から、それは姿を現した。
舞姫。
だが、以前とは違う。全身を覆う髪状の繊維は金属光沢を帯び、節々が鋭く硬化していた。背中からは複数の細い腕のような突起が伸び、先端が鋭利な刃状に変化している。動くたび、粒子が剥がれ落ち、床を覆っていく。
「……やはり形態が変わってる」領子が呟いた。
舞姫はゆっくりと首を傾け、視界のないはずの顔の位置から二人を見据えると、一瞬で床を蹴った。
渡辺は矢じりを握り、舞姫の突撃を横に跳んで回避する。鋭い刃のような突起が壁を貫き、鉄板を裂く金属音が響いた。
領子は呪印札を地面に叩きつけ、封印陣を展開。粉が反発するように弾け、舞姫の動きが一瞬だけ鈍る。
「今だ、渡辺さん!」
渡辺は布袋から矢じりを引き抜き、封印陣の中心に向かって突き出す。しかし舞姫は身体を捻り、異常な柔軟性で回避すると、逆に領子の背後へ回り込んだ。
「——ッ!」
肩口に冷たい衝撃。領子はすぐに転がって距離を取るが、防護スーツの表面が裂け、中から銀色の粉が吹き出した。すぐに粉はスーツ内に侵入しようと蠢く。
「フィルターを強化しろ!」渡辺が叫ぶ。領子はマスクの吸気口を覆い、緊急遮断を作動させた。
舞姫は再び梁へ跳び上がり、上空から二人を狙う。
渡辺は呼吸を整え、矢じりを逆手に構えた。
「……もう逃がさん」
そう呟くと、彼は梁を蹴って舞姫に飛びかかる。
瞬間、舞姫が振り下ろした刃突起と矢じりが激突し、甲高い音が倉庫全体に響いた。粉塵が衝撃で吹き飛び、光を乱反射させる。
領子はその隙に追加の呪印を展開し、舞姫の足元に封印陣を二重に重ねた。
しかし——舞姫はそれを予期していたかのように、突起の一本で陣を切り裂き、再び闇の奥へ跳び去った。銀色の粉が尾を引き、倉庫の奥に消えていく。
渡辺は床に着地し、矢じりを握りしめたまま舌打ちした。
「……また逃げられた」
領子は肩で息をしながら、粉の広がる方向を目で追った。
「でも、今回は……痕跡を大量に残していきました」
その言葉に、渡辺の目が鋭く光った。
たとえ封印に失敗しても、この痕跡があれば——次こそ終わらせられる。
⸻
倉庫からの帰還後、特別病棟の会議室には緊迫した空気が漂っていた。
机の上には、現場で回収した粉のサンプルが並び、技術班が分析装置にかけている。壁面のモニターには分子構造の解析映像が映し出され、粒子の内部に複雑な結晶と繊維構造が絡み合う様子が拡大されていた。
「これは……通常の金属結晶ではありません」
白衣の分析官が眉を寄せる。
「内部に有機性の繊維と、外部からの電磁波を微弱に吸収・放射する構造を持っています。まるで、自ら活動するための“感覚器官”を兼ね備えているようです」
「つまり、生きているってことか?」渡辺が低く問う。
「厳密には自己増殖型の複合物質です。しかも……今回採取した粉は、従来よりも高密度で、封印陣の呪術的干渉をわずかに無効化する性質が出始めています」
その言葉に、領子の表情が強張った。
「……だから前回の封印が破られた」
渡辺は矢じりの入った布袋を机に置き、深く息をついた。
「科学の解析だけじゃ、あの怪異は止められない……かもしれん」
その時、会議室のドアがノックされた。
入ってきたのは、深緑色の狩衣に身を包み、長い黒髪を後ろで結った若い女性だった。
彼女は静かに一礼すると、柔らかながらも芯のある声で名乗った。
「……渡辺清美と申します。京の渡辺綱の末裔にあたります」
渡辺は驚き、わずかに目を見開いた。
「綱の……末裔?」
清美は頷き、机上の金属粉サンプルを一瞥する。
「その粉……ただの物質ではありません。古神道の言葉で言う“穢れ”の一種。長く放置すれば土地も人も侵され、やがて災厄となります」
領子は半信半疑で尋ねた。
「……見ただけで、わかるんですか?」
「はい。私は代々、異界からの侵入者を封じる役目を受け継いできました。粉の揺らぎ方、匂い、そして——音。人には聞こえない、粒子同士が触れ合う響きが、私には聞こえます」
清美は懐から小さな漆塗りの筒を取り出した。筒の中には白い砂のようなものが入っており、かすかに淡い光を放っていた。
「これは“浄砂”と呼ばれるものです。粉に触れさせれば、一定範囲の活動を封じることができます。ただし……舞姫そのものを完全に止めるには、物理的な封印と併用しなければなりません」
渡辺は矢じりを手に取り、清美を見据えた。
「……矢じりと古神道、二つを組み合わせれば……」
「封じられる可能性は高まります」清美はきっぱりと答えた。
「ただし、そのためには舞姫の核に直接“穢れ封じ”を打ち込む必要があります。それは非常に危険です」
領子は深く息を吸い、渡辺と視線を交わした。
「……協力をお願いできますか」
清美はわずかに微笑み、神前での誓いを立てるように手を合わせた。
「命を懸けても構いません。これ以上、この穢れを広げるわけにはいきませんから」
会議室の空気が引き締まる。科学と古神道——二つの力がようやく交わった瞬間だった。
新たな戦いの形が、ここに整いつつあった。