第2話「データでは測れない想い」~予想外の依頼内容~
田村さんとの打ち合わせから3日後の木曜日の昼下がり。
住宅街に響く子供たちの声が遠くから聞こえてきた。
ケンジは小さなカフェの入り口で立ち止まり、スマートグラスのカメラで店内を確認する。
香ばしいコーヒーの香りと、静かなジャズが流れる落ち着いた空間だった。
『MIA:約束時間まで3分42秒です。相手方の到着は確認できていません。
インタビュー準備チェックリストを表示しますか?』
「ああ、頼んだ。」
視界に箇条書きのリストが浮かび上がる。
質問項目、録音機材、配慮事項。MIAが完璧に準備してくれた資料だった。
店内に入ると、窓際の席で手を振る女性が見えた。
田村さんが手配してくれた佐々木ユキさん、62歳。
夫が軽度認知症と診断されてから2年が経つという。
「佐々木さんですね。田中と申します。
本日はお時間をいただき、ありがとうございます。」
「こちらこそ、お忙しい中ありがとうございます。」
握手を交わしながら、ケンジは相手の表情を読み取った。
5年間のマーケティング経験で身につけた習慣だ。
緊張しているが、話したいという意欲も感じられる。
統計上は、介護者の7割がストレスを感じ、4割が睡眠不足を訴える。
しかし目の前の佐々木さんは、想像していたよりもずっと落ち着いて見えた。
『MIA:被験者の表情分析開始。
ストレス指標:予想値より31%低い数値を検出。データとの乖離があります』
「まず、今日はリラックスしてお話しください。正解も不正解もありませんから。」
ケンジは意識的に声のトーンを落とした。
相手の緊張を解くのは、インタビューの基本だ。
「ご主人の現在の状況を、差し支えない範囲で教えていただけますか?」
佐々木さんはカップを両手で包むように持った。
「最近は、私の名前を忘れることが増えました。
でも、不思議なことに、昔の話はとても詳しく覚えているんです。」
ケンジはタブレットにメモを取りながら、佐々木さんの表情の変化を観察した。
これまでの経験では、「大変さ」について聞くと、多くの人が愚痴や不満を口にする。
しかし彼女は違った。
「介護をされていて、一番心に残っているエピソードはありますか?」
あえて「大変さ」ではなく、「心に残ること」を聞いた。
ネガティブな質問から入ると、その後の回答も暗くなりがちだからだ。
『MIA:質問方向の変更を検出。標準的な負担調査からの逸脱です』
「確かに大変なこともあります。でも、それだけじゃないんです。」
ケンジは内心で小さくガッツポーズをした。
この反応は想定通りだ。人は「心に残ること」を聞かれると、
自然とポジティブな面も話してくれる。
「と、いいますと?」
「主人が私を忘れても、私が主人のことを覚えていれば、それでいいかなって.…」
ケンジの手が止まった。これは、MIAの予想回答のどれにも当てはまらない。
『MIA:困難。介護負担軽減への言及がありません。
論理的な回答パターンから逸脱しています』
ケンジは相槌を打ちながら、佐々木さんの言葉を待った。
沈黙を恐れて矢継ぎ早に質問するのは素人のやり方だ。相手が話したくなるまで、じっくり待つ。
「それは...どういう気持ちでしょうか?もしよろしければ、聞かせてください」
佐々木さんは微笑んだ。その笑顔に、データでは測れない複雑な感情が込められていた。
「つらいですよ。でも、たまに主人が笑ってくれる瞬間があるんです。
昔の歌を歌ってあげると、一緒に歌ってくれる。その時だけは、病気になる前の主人に戻るんです。」
ケンジは胸の奥がざわついた。
MIAが提示するデータと、目の前の現実があまりにも違う。
ケンジは慎重に次の質問を組み立てた。
商品に関する質問は、相手との信頼関係ができてからでないと、営業トークと思われてしまう。
「佐々木さんにとって、ご主人との『つながり』を感じる瞬間というのは、どんな時でしょうか?」
『MIA:商品関連への誘導が不十分です。購買動機の分析機会を逸しています。』
「ええ、実はお味噌汁がつながりなんです。」
ケンジは表情を変えずに聞き続けた。これは重要な証言になりそうだ。
食べ物と感情のつながり――まさに今回の商品開発のコアになる部分だった。
「お味噌汁、ですか?」
「主人が作ってくれていたんです、結婚してからずっと。
今は私が作るんですが、味が違うって言われてしまって...」
佐々木さんの声が少し震えた。
「それで、主人の好きだった味噌を探して、いろいろ試しているんです。
高いものでも、主人が『美味しい』って言ってくれれば、それだけで嬉しくて。」
『MIA:購買動機分析:商品効果ではなく感情的満足が主要因。
価格感度低下。予想購買パターンと一致しません。』
ケンジは質問を続けた。
しかし、佐々木さんの話を聞けば聞くほど、MIAの分析結果との乖離が大きくなっていく。
「栄養補助食品についてはいかがですか?」
「試したことはあります。でも、主人は『薬みたい』って嫌がって...」
「それでも、購入された理由は?」
佐々木さんは窓の外を見つめた。夕方の光が彼女の横顔を照らしている。
「『何かしてあげたい』という気持ちでしょうかね。
効果があるかどうかより、『私が選んだもの』を食べてもらいたいんです」
『MIA:エラー。
合理的購買行動ではありません。費用対効果の概念が適用できません。』
1時間のインタビューが終わり、佐々木さんを見送った後、ケンジは一人カフェに残った。
手元のタブレットには、MIAがまとめた分析結果が表示されている。
『MIA:データ整理完了。
ただし、従来の消費者行動モデルとの適合率23.4%。再分析が必要です』
「再分析って、どうやって?」
『MIA:より大きなサンプル数での統計的検証を推奨します。
個別事例は例外として処理すべきです』
ケンジは首を振った。佐々木さんの話は「例外」ではない。むしろ、これが現実なのではないか。
『MIA:ケンジ、個人的な感情に左右された判断は危険と失敗を招きます。
客観的データに基づく分析を継続してください。』
しかし、佐々木さんの笑顔と、お味噌汁の話が頭から離れない。
彼女の「何かしてあげたい」という気持ちは、どんなデータでも説明できないものだった。
店を出る時、ケンジは振り返った。
窓から夕日が差し込んでいる。
『MIA:次回インタビューの効率化プランを作成しました。
質問項目を絞り込み、定量的回答を得やすい形式に変更することを提案します。』
「...そうだな。」
口では同意しながら、ケンジの心の中では別の考えが芽生えていた。
もしかすると、最も大切なことは、データでは捉えられない部分にあるのかもしれない。




