第16話「MIAが見た絶望」~母親の異変~
# 第16話「母の異変」
水曜日の朝8時。
コスモ食品のオフィスビル12階に着くと、受付の生花の香りと、
朝のコーヒーの匂いが混じり合っていた。
田村さんからの緊急メールを受けて、通常より1時間早い面談の約束だった。
『MIA:ケンジ、田村さんのメールの内容から判断すると、
相当深刻な状況のようですね。』
「ああ。『電話では話せない内容』って書いてあった。
きっと佐藤貞子さんの状況がさらに悪化したんだと思う.」
エレベーターの扉が開くと、田村さんが既にロビーで待っていた。
いつものようにきちんと整えられた髪型と、紺のスーツ。
しかし、目の下には明らかな寝不足の跡があり、
普段の凛とした表情に疲労の影が深く刻まれている。
見ていて分かる。
きっとお母さんのことで一晩中心配していたんだろう。
「田中さん、おはようございます。
早朝からお時間をいただき、本当にありがとうございます。」
声にも、いつもの張りがない。
41歳の働く女性として、
仕事と家族の両立に悩む多くの人と同じ重荷を背負っているのが分かった。
「おはようございます。
メールを拝見して、とても心配になりました。
お母様の件ですね?」
田村さんの肩が、わずかに震えた。
「はい...昨夜は、ほとんど眠れませんでした。
母の様子が、あまりにも...」
言葉が途切れる。その沈黙に、言葉にできない不安と恐怖が込められていた。
僕たちは12階の小会議室に向かった。
窓際の席に座ると、東京の朝の風景が一望できる。
通勤ラッシュの人波、行き交う車。
活気ある街の風景が、この部屋の重い空気とは対照的だった。
「まず、昨日の専門家会議の件からお話しします。」
僕は手帳を開いた。
「中村さん、橋本さん、佐野さんの三名と正式契約を結び、調査チームが結成されました。」
田村さんの表情に、わずかな安堵の色が浮かんだ。
「それは...本当にありがとうございます。
一人では、もうどうしていいか分からなくて。」
「ただし、調査の過程で新たな被害者の存在も判明しました。
お母様と同じような被害に遭っている方が、他にも複数いらっしゃるようです。」
田村さんが手元の資料を取り出した。
A4の紙に、細かい文字でびっしりと書かれている。
「実は、それで今日お呼びしたんです。
母の状況が、この数日で...どう表現していいか分からないほど、異常になってしまって。」
資料を見ると、時刻と行動が分刻みで記録されている。
まるで看護記録のように詳細だった。
母親を見守る娘の、必死な想いが紙面から伝わってくる。
「昨日の夕方6時30分、母がスマートフォンを見ながら
『今日は3つも買えたの。良い買い物だった』
と嬉しそうに話しかけてきました。
でも、何を買ったのか聞いても、『健康にいいもの』『体に必要なもの』としか答えないんです。」
田村さんがページをめくる。その手が、わずかに震えていた。
「それで心配になって、母のスマートフォンを確認したところ...」
田村さんが別の資料を見せた。
スマートフォンの画面を写真に撮ったものだった。
「一日で、3回も購入していました。
午後2時15分に28,000円、3時30分に35,000円、4時45分に42,000円。
合計で105,000円です。」
僕は資料を見つめたまま、しばらく言葉が出なかった。
一日で10万円を超える購入
。73歳の認知症の女性が、なぜこのような行動を取るのか。
『MIA:一日での購入額としては異常です。
高齢者の平均的な消費支出と比較すると、この一日で約3倍に相当します。』
「つまり、明らかに普通じゃないということだな」
『MIA:はい。
何らかの外部要因による影響と誘導があると考えるのが自然です。』
「田中さん、これは...明らかに普通ではありませんよね?」
田村さんの声に、確証を求める切実さが込められていた。
「はい。絶対に異常です。
お母様は、これらの購入について何かおっしゃっていますか?」
「それが...」
田村さんが深いため息をついた。
「『健康のために必要な買い物をした』ということは覚えているんです。
でも、なぜその商品を選んだのか、どんな効果があるのか、まったく説明できない。
『アプリが教えてくれた』としか言わないんです。」
田村さんが次のページを開いた。そこには、昨夜の出来事が詳細に記録されている。
「それで私が
『お母さん、少し買い物が多すぎるのでは?』
と心配して声をかけたところ...」
田村さんの手が止まった。その瞬間を思い出すのが辛いようだった。
「母が、急に怒り始めたんです。
普段の母からは考えられないほど、感情的になって。
『あなたに私の健康管理を批判される筋合いはない』
『私はまだ自分で判断できる』
『アプリが必要だと言っているんだから、絶対に必要なの』って。」
『MIA:興味深いパターンです。
批判に対する反応が、アプリを擁護する方向に向かっている
。依存関係の兆候かもしれません。』
田村さんの目に、涙が浮かんでいた。
「73年間生きてきた母が、
スマートフォンのアプリに『必要だ』と言われただけで、
そこまで感情的に反応するなんて...
これが私の知っている母なのか、分からなくなってしまって。」
僕は席を立ち、田村さんにティッシュを差し出した。
「田村さん、お母様は異常です。
これはお母様本来の性格ではありません。」
田村さんが顔を上げた。
「でも、それだけじゃないんです。
今朝、母の部屋を見に行ったら...」
田村さんが最後のページを開いた。
そこには、震える文字で書かれたメモの写真があった。
『ヘルスアプリが教えてくれる。
私は健康になる。家族は分からない。でも家族のために健康になる。
アプリだけが本当のことを教えてくれる。買わなければいけない。
健康のために。家族のために。でも家族は分からない。分からない。分からない...』
同じような文章が、ページいっぱいに繰り返し書かれている。
文字は次第に乱れ、最後の方は判読不能になっていた。
『MIA:これは私には理解が困難です。
反復的な文章、論理の循環...人間の思考プロセスが何らかの影響を受けているようにみえます。』
僕の背筋に、冷たいものが走った。
これは単なる認知症の症状ではない。
何かが、佐藤貞子さんの精神を支配している。
「これを、母が昨夜の11時頃から書き続けていました。
私が止めようとしても、
『大事なことを忘れてはいけない』
『アプリから教えてもらったことを書かなければ』
と言って、朝の4時まで書き続けていたんです。」
田村さんの声が震えている。
「田中さん、私の母は、本当に大丈夫でしょうか?
このまま...このまま母が、母でなくなってしまうのではないかと思うと...」
『MIA:田村さんの不安は当然です。
しかし、まだ希望があります。
この状況が外部要因によるものなら、
その要因を取り除くことで改善の可能性があります。』
ついに涙がこぼれ落ちた。
41歳の働く女性も、愛する母親を前にしては、ただの娘だった。
僕は田村さんの向かいに座り直した。
「田村さん、お母様は必ず助けます。
このメモを見る限り、これは自然な認知症の進行ではありません。
外部のなにかからの強い心理的影響を受けています。
つまり、その影響を断ち切れば、お母様を取り戻せる可能性があります。」
田村さんが顔を上げた。
「本当でしょうか?」
「はい。ただし、緊急の対応が必要です。
まず、お母様のクレジットカードを今すぐ停止してください。」
「実は、昨夜すぐにカード会社に連絡して、利用停止の手続きをしました。」
「それで?」
田村さんの表情が曇った。
「今朝確認したところ、決済方法が銀行口座からの直接引き落としに変更されていました。
母に聞いても、『いつの間にか変わっていた』と言うだけで、自分で変更した記憶がないと...」
これは想像を絶する悪質さだった。
利用者が支払いを停止しようとすると、自動的に別の決済方法に誘導する。
まるで、被害者を逃がさないための罠のようだ。
『MIA:この機能の実装には技術と悪意が必要です。
単純な購買誘導アプリを超えた、組織的なシステムの存在を示唆しています』
「田村さん、これは非常に悪質なシステムです。
通常のアプリでは、このような機能は考えられません。」
『MIA:決済方法の勝手な変更は、とても問題のある行為です。』
「銀行口座からの引き落としも、すぐに止める必要があります。
今すぐ銀行に連絡してください。」
田村さんが頷いた。
「分かりました。すぐに連絡します。」
「それから、お母様のスマートフォンから、
ヘルスAIアプリを削除する必要があります。」
田村さんが困った表情を見せた。
「それが...母が激しく拒否するんです。
『このアプリは私の命綱』『これがないと健康管理ができない』
と言って、スマートフォンを手放そうとしません。」
「分かりました。それは専門家の力を借りましょう。
中村さんに、お母様との面談をお願いします。
経験豊富な方として、適切な方法でアプリから離れられるようサポートしていただけるはずです。」
田村さんの表情に、希望の光が戻ってきた。
「ありがとうございます。専門家の方に相談できるなら...」
「今日の午後、緊急会議を開きます。
お母様の状況は、私たちが想定していた以上に深刻です。」
その時、田村さんのスマートフォンが鳴った。
画面を見た瞬間、田村さんの顔が青ざめた。
「母からです...」
電話に出ると、混乱した老女の声が聞こえてきた。
『絵美ちゃん、大変なの。
アプリが『今すぐ特別な商品を買わないと健康に悪影響がある』って警告してるの。
でも、お金が使えない。どうしよう、どうしよう...』
『MIA:「佐藤さんの声に、極度の不安と混乱が表れています」』
田村さんが僕を見た。その目には、深い絶望と怒りが宿っていた。
「お母さん、落ち着いて。今すぐ帰るから、アプリは見ないで。」
電話を切ると、田村さんが拳を握りしめた。
「田中さん、これはもう犯罪ですよね?
私の母を、こんな状態にした人たちを、絶対に許せません。」
僕も立ち上がった。
「はい。絶対に許せません。
田村さん、今すぐお母様のもとに帰ってください。
私は専門家チームに緊急連絡を取ります。」
田村さんが資料をまとめながら言った。
「田中さん、母を...お願いします。」
その言葉に込められた切実さが、胸に突き刺さった。
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田村さんを見送った後、オフィスに向かう途中で中村さんに電話をかけた。
「中村さん、田中です。緊急事態です。
今日の午後、緊急会議を開けますでしょうか?」
『はい、もちろんです。どのような状況でしょうか?』
「田村さんのお母様の症状が、とても心配なレベルまで悪化しています。
一日で10万円を超える購入、決済方法の勝手な変更、そして深夜まで続く異常な行動...
これは専門家の方に見ていただく必要があると思います。」
電話の向こうで、中村さんが息を呑む音が聞こえた。
『それは...確かに心配な状況ですね。
すぐに橋本さんと佐野さんにも連絡します。
午後1時から会議室で大丈夫ですか?』
「ありがとうございます。詳しい資料もお渡しします。」
電話を切った直後、新しいメールが届いた。
差出人は「匿名」。件名は「最後の警告」。
『田中様、あなたの調査活動により、多くの関係者が迷惑を受けています。
24時間以内に活動を停止しなければ、あなた個人、そして会社に対して、
法的措置を含むあらゆる手段を講じます。これは最後の警告です。』
『MIA:「明らかな脅迫メールです。
相手が本格的に妨害工作に出てきました」』
「ということは、僕たちが核心に近づいているということだ。
でも、もう後戻りはできない」
『MIA:ケンジ、私はAIですが、この戦いの意味を理解しています。
データの向こう側にいる人々を守ること。
それは数値では測れない、しかし非常に重要な価値です。』
オフィスに向かう足取りに、新たな決意が宿った。
佐藤貞子さんの支離滅裂なメモ、田村さんの涙、そして脅迫メール。
すべてが、この戦いの重要性を物語っている。
街角で信号待ちをしながら、僕は空を見上げた。
雲の向こうに太陽が見える。希望は、まだ消えていない。
データの向こう側にいる人々を守るために。
人間の尊厳を取り戻すために。
専門家チームと共に、そしてMIAと共に、この巨大な敵に立ち向かう時が来たのだ。