7. 変わらない世界への決別
決意を固めた文乃。
もう、後ろを向くことはない。
新たな一歩に向けて、着実に準備を重ねていく。
朝。
なんでも無い朝。
いつもの日常が、始まる朝。
普通に起きて、普通に出勤する。
いつも通りの会社の朝、いつも通りの日常が始まる...。
ように見えるが。その日はほんの少し、違っていた...。
その日、
自分の管轄以外の、すべての案件を断る。
同期「え?何で?いつも何だかんだ受けてくれるじゃん、頼むよ。」
文乃「あなた同様、自身の仕事が溜まっています。仕事に集中したいので。他に当たってください。では。」
文乃はデスクに集中し、凄まじい速さで仕事を消化していく、そこには欠片さえ、取り付く島もない。
同期はいつもと違う文乃の様子に戸惑い、それ以上声をかけることもできず渋々と去っていく。
後輩「先輩〜、すんません、ちょっとやってもらいたいことが....」
鬼気迫る迫力でデスクに向かい仕事を捌いている文乃は脇目も降らない。
後輩「あ、あの〜...?」
後輩はただならぬ文乃の気迫に気圧され、それ以上声をかけきれずに肩を落として立ち去る。
後輩「なんか、今日の先輩怖えな...。なんだってんだ...?いつもなら頼めばイケるのに...、うぅ〜、これどうしたもんかな...」
文乃は渾身の力を注ぎ込み、自身の仕事を捌いていく。
今日中に目標ラインまで終わらせる。
そこにはいつの間にか失っていた、仕事への情熱のようなものが漲っていた。
文乃「残業が悪だというのなら、もうやらない、やってはいけない。それは社長のポリシーですからね♪」
文乃は少しイタズラっぽく呟く。
もう残業はしない、脇目は振らない、優先するは自分自身。
文乃は退職を決め、覚悟が決まった事により、視野が大きく拓けた感覚があった。
だからこそ、自身の仕事には手を抜かない、自身の跡を濁さない、最後の瞬間まで誇りを持って全力で仕事に取り組む。
そのためにはまず、今の自分の関わる案件を充分に進め、引き継ぎを円滑にする為に整理しておく必要がある。
もはや無駄な気を使っている場合ではない。
心のモヤモヤは取れた。
視界は明瞭になった。
文乃は本来の抜群の処理能力を発揮し、実務処理だけではなく引き継ぎの資料も同時に進めていく。
もう他人に気持ちを取られることはない。
文乃は徹底的に自分を優先する。
もちろん、同僚や後輩の仕事具合には目配せをしながら、崩れない程度にはアドバイスと補助はしている。
が、基本として突き放した姿勢で対応する。
これからは文乃は居ないのだ。
それに慣れてもらわねばならない。
会社に対して見切りをつけた今、もはや何のしがらみも無い。
個人の為す範疇を越えた仕事など、もう気にならない。
それは、あくまで個として為さなければならない社会責任であって、文乃の責任ではないから。
これまでは、
自分がやらなければという責任感で向き合ってきた。
正直、周囲を甘やかし過ぎたと、今にして思っている。
仲間を献身的に助けて、肩を貸し、技術は余す事なく共有し、足りないところは補ってあげる。
そして、全員で成し遂げる。
.....それが正しいと思っていた...。
しかし、現実の仲間っていうものは、いいかげんで他責思考、そのうえ都合良く人を利用するような者だらけ。
こんな環境では、尽くした所で心が枯れるだけ。
自分だけが頑張る必要などないのだ。
結果、それでうまくいかなくても、それはグループ自体の責任であって、文乃としての責任ではない。
みんなにきちんと割り振られているのだから、自身の守備範囲をしっかりとやれば良いだけなのだ。
それは組織だから当たり前なのである。
もちろんそんな簡単に考えていいものではない。
だが、
文乃は退職を決めた、もはや過剰な気配りなど必要もない。
最悪、クビだと言われたところで、それはむしろ喜んで!となるだけだ。怖いものなどあるはずがない。
今更ながら、死をも恐れぬサムライの強さというものを、なんだか悟った気がする。
知らんけど。
そうして一日、勤務終了時間前には充分な目処をつけ、文乃は部長のデスクへと向かう。
文乃「部長、よろしいですか?」
部長「どうした?援護が必要か?あんまり無理してやるなよ?」
文乃「いえ、私の担当範囲には全て目処をつけました。本日を持って、上層部のお望み通りに残業は一切いたしません。」
部長は目をぱちくりさせながら、何を言っているのかわからないと言った面持ちだ。
そして、文乃は一通の封書を渡す
文乃「部長、こちらをお願いいたします。」
退職願い
部長「は....?え、これ、本気かい?」
文乃「こんな冗談なんて、誰もやりませんよ、もう決めたことですので、受理申請だけお願いいたします。」
部長は目を白黒させている、まさか10年近くも勤めた私がこんな急に辞めるなど、夢にも思っていなかったのであろう。
文乃「今日の分の仕事は、きっちり目処がついています。これ以後、きちんと定時で帰りますので会社の意向に背く残業行為は致しません、これまで余分な残業ばかりしてしまい、申し訳ありませんでした!どうもお疲れ様でした〜!」
少し皮肉めいた言い回しで挨拶をする。
珍しく定時に帰る私を見て、皆も目を白黒とさせている。
文乃は足取りも軽く、帰途に着いた。
...翌日。
会社内では、文乃が退職願いを出したことが広まっており、みんなに取り囲まれて質問攻めにあう。
なんでなんで〜?
結婚?
仕事はどうするの?
などなど。
...正直面倒くさい。
一個一個答えて、次第に落ち着いていく。
とりあえず、一身上の都合という事にしておいた。
その日はようやく状況が呑み込めたのか、少し申し訳なさそうな部長から、数回の引き留めにあった。
が、丁寧にお断りしまくった。
部長はなんだか焦っているような、残念そうなような感じだ...。
だが、断る。
まぁ、ベテランのオールラウンダーで実戦力の一人が居なくなる訳だから、間違いなく仕事のバランス、リズムはくずれる。
当面は戦力が激減することにはなるだろう。
おそらく色々不具合も起きるだろうけど、引き継ぎはキッチリと完了させるし、出た後の事などは知らん。
そのために組織と言うものがあるのだから、みんながんばって!としか言えんです。
まぁ、私のやってたことをしっかりと分担して、多少の残業をすれば何も支障はないでしょう。
私みたいな凡才になんとかこなせてたのだから、身を入れてやれば、高学歴のみんなは普通に回せるはずだよ。
そう、別に私にしか出来ないことをやっていたわけでは無い。誰でも出来ることをやっていただけだからね。
.......
数日後、退職願いは受理され、あらためて退職届を提出する運びとなった。
私はこの後、一ヶ月ほどの残務処理、引き継ぎ期間を経て、それから有給消化に入る事となる。
後輩「先輩〜、なんで辞めちゃうんですかぁ〜?男でも出来ちゃったんすかぁ?僕らのことが嫌いになったんですか?さみしいっすよ〜!まだ一緒に呑みとかもいってないじゃないですかぁ〜!」
「う〜ん、むしろ元から嫌い」
とは言えないので、適当にあしらってはいるが、ココとおさらばできると思うと、不思議な事にこんな奴らでも変な愛着を感じてきてしまう。
文乃「大丈夫、キミなら本気出せば何でもこなせるよ♪キミのコレからの可能性と奮起に、期待してるよ♡」
などと、なんだかわけのわからない、思ってもいないようなことを垂れ流す。
コレが社会人として染みついた、空気を読むというか、社交辞令というやつか?
後輩「先輩〜(泣)」
後輩を宥めて仕事に戻らせ、私は実務処理の傍らレポートの作成や片付けなどもどんどんと進めてゆく。
と、
のたのたと、物体が接近してきて、開口一番...。
先輩「なんか辞めるらしいのぅ?ここ辞めてお前になんかできるんか?どこ行っても、ひとつ事で?!」
見下した態度で先輩がなんか言っている。
文乃はにっこりと笑顔を作り、言う。
文乃「これまでご厚情賜りまして、大変にお有り難うございました〜♪ 私のいなくなった分、先輩、みんなをしっかりとサポートしてあげてくださいね〜♡たっくさん仕事はありますからね〜♪」
コイツの嫌味など、もはやすでにどうでも良い、そんな雑音など私にはもう届かない。
いつもなら聴き流すところだが、私は余裕たっぷりに言って聞かせてやった。
言葉に詰まったような、苦虫を噛み潰したかのような顔をして、舌打ちをしながら先輩は去っていく。
そうして心置きなく、残された時間を仕事に注いでゆく。
ここ数年感じたことのない活力とやる気が、身体中から溢れている。
...確かに不安はある。
でも、若い頃には気づけなかった家族という絆がある。
そして、年齢的にもまだまだこれからだ。
新しい一歩を踏み出すのに年齢は関係ないとは言うが、できる限りに早い方が、間違いなく有利なのは明白だろう。
私は会社での残された義務と、引越しの準備を鼻歌まじりにこなしながら、ココでの最後の時間を堪能しながら過ごした。
重荷を捨て、身軽になった文乃。
新たな世界は文乃に何をもたらしてくれるか。
長らく無くしていたワクワクと、胸の高鳴りが、文乃を新しい世界へと導いていく。