6. そして、視点が変わる時
母との何気の無い会話。
酔いもあり、心の関を切ったように、涙が溢れ出す。
本人にも自覚のない涙。
無理し続けていた心が、無償の絆に触れ、文乃は我慢することをやめた...。
お母さんから電話があった。
他愛もない話。
ご近所さんがどうとか、たけのこ掘るのに足が痛くてキツくなったとか、飼い犬が元気すぎてうるさいとか。
そして、文乃が戻ってきてくれたら嬉しいねとか....。
途中から泣いてた、私。
泣いてるつもりもなく、気づいたら涙で胸元が濡れてたの。
私の様子を察したのか、お母さん少し困惑してたけど、途中から慰めてくれてたよ。
あー。
昔の嫌なこと思い出しちゃったから残ってたかな...。
結構疲れてもいたし、ちょっと酔ってたし....。
どうにも感情抑制できてなかったんだろうなぁ...。
お母さん「フミが家を出てから結構経ったねぇ。社会勉強はもうしっかり出来とっとじゃなかと?戻ってくっとよかたい。一人前になった一人娘がそばに居れば、あたしゃ頼もしかし、何より嬉しかよ。」
いつも変わらずにおせっかいしてくれて、
いつも変わらずに心配してくれて、
時々うるさくてげんなりすることもあるけど、
いつも変わらずに、迎え入れてくれて。
いつも変わらず離れてても、一番近くで大事に思ってくれていた。
なんでもないこと話してたはずなんだけど...
知らない間に、涙...、流れてたんだ....。
すごく嬉しくて。
当たり前に心配してくれるのがすごく嬉しくて...。
とても暖かくて....。
...あーあ、こんなにまで思い詰めないと、大事なものって見えてこないんだなぁ〜、勉強になったわ...。
....結局、何がきっかけで涙がこぼれたのかは、よくわからない。
お母さんの言葉、気遣い。
そういうあったかさが、私の心の琴線に触れてたんだね。
気づいたら嗚咽をあげて泣いてたの。
私、何のために一人暮らしをしたかったのか。
何のために、家を出たのか。
今となっては、なぜ外に出たかったのかはわからない。
きっと若気の至りとか、なんとなくみんなも出るからってだけで、別に理由も理屈なんてものも無かったんだろう。
大人になったら一人暮らしするんだ。
いつまでも家族と一緒にいたら一人前になれない。
みんなもそうしてる。
なんの確信がある訳でもない、浅はかな若い頃の勢いだけで県外に出てきたけど...。
新鮮で楽しく感じたのは最初だけ。
時が経って残っていたのは、
消耗し切った心と、
なんの達成感もない、無力感だった。
...まぁ、確かに、全てが無駄だったなんて言うつもりは無いよ、すごく勉強になったとは思うよ。
でも、それでもお母さんにとっては、ずっと心配をかけていたんだろうなって、今になって思える。
いつも電話口で心配してくれたり、里帰りした時に、黙って愚痴を聞いてくれていたお母さん。
いつも私が帰省したら、笑顔で嬉しそうに話しかけてくれるお母さん。
ずっと芯から気にかけてくれていたんだよね...。
いつの間にか、お母さんも結構な歳になっていた。
お父さんももう居ない、いつかは世話をする時が必ず来る。
なら、早い方がきっと良い。
もちろん現実から逃げたいって気持ちがあって、それを言い訳にしている部分があるのも間違いない。
正直、私は負け犬って奴だろう。
現実に憤りを覚えても、変えようとする気概もなく逃げ出そうとしている。
まさに、...負け犬なんだろうな。
うん。
でもさ、向こうも帰ってきてくれたら嬉しいって言ってるし、心配してる人と、心配かけてる人、お互いに心配がなくなって、スッキリするんなら悪いことじゃないでしょ?
...って、なおも言い訳がましいね。
だってだって、新しい生活基盤整えるのなら、早いほうが良いじゃん!若いうちの方がさ!
...はは、流石にしつこいか。
正直な話、今の職場には、何か熱意があって入社したわけじゃない。
何となく自分にも出来そうで、
なんとなく面接に受かって、
給料にも特に不満がなかったから入社を決めて、
そしてただただ続けてきただけだ。
初めの頃は覚えるのが楽しくて、やりがいを感じていたのは間違いないけど...。
けど、いつからかな...。
...そう、先代社長が急逝するまで...だ。
先代が仕切っていた頃、あの頃は、やりがいがあったな。
この人のためなら、会社を盛り上げたいって思えてた。
でも、その先代もいなくなり、
いつしかやりがいの気持ちは機械的な処理へと変化していき、年数を重ねるほどに持ちたくもない重荷が増えてゆき、
ただひたすらに利益を増大させるためだけのコマとなっていった。
...私も、同僚達も。
そう。仕事への向き合い方が、いつしかただの処理になっていた...。
今、私の仕事への想いを支えるものは、もう無いと悟り、実感した。
仕事に向き合う為の、心の最後の何かが折れた今は、もう何も無い。想いは虚無だ。
今後、やりがいや未練を感じる事はもう無いだろう。
10年程も居た職場には、虚しく冷たい風が吹く。
そこにはもうすでに、心は無い。私の居場所も無い。
未来が見えない。心が拒絶をしている。
.................。
そして私は決めた。
その日私は、退職願いと届けを書き上げ、封書へと収めた。
後押しにより、見通しがなく曖昧だった世界に日が降り注ぐ。
不明瞭だった想いが解け行き、文乃は気持ちを固める。
まだまだ行先は見えてこそいない。
だが、新しい未来へと、たしかな次への一歩を踏み出すきっかけとなったのである。
文乃の世界は、確実に動き始めた...。