唆魔妖
幻士郎と香澄は屋上へと駆けあがった。屋上の扉を開けると、そこには多くの地蜂が飛び交っていた。床には男子生徒が数人倒れている。彼らは苦しみながら、蛆を吐き出していた。
「杉田朱美さん!」
幻士郎は、そこに立って男子生徒を見下ろしている女生徒に呼びかけた。女生徒がゆっくりと振り返ると、その顔が地蜂の姿に変わっていった。
幻士郎はそこに倒れている男子生徒を見て言った。
「ここに倒れているのは、君の友達じゃなかったのか?」
不意に、その姿が元の朱美に戻る。そして朱美は金髪に染めた髪を振り乱すと、大声で笑い始めた。
「友達ですって! こいつらが? こいつらは、あたしが遊ぶ金を出してやって、ちょっとHなことさせてやったら、ちやほやするようになっただけよ」
「それでも……君らは仲良くやってたんじゃないの?」
幻士郎の額から方眼が消え、幻士郎は悲し気な表情で朱美に訊ねた。朱美は幻士郎の言葉に、憤って声を上げた。
「こいつらは――特にコイツ!」
朱美は足元の、茶髪をサボテンのように尖らせている男子生徒を蹴り上げた。男子生徒は、苦痛に呻く。
「コイツ――ケンヤはあの狭山若菜の彼氏、ってことになってるわ」
「狭山さんの?」
「罰ゲームでね! ジャンケンに負けた奴が、あの地味グズの狭山若菜に告白する。そういう罰ゲームよ。ケンヤは告白したわ。そうしたらあの子、何て言ったと思う? 『…よろしくお願いします』って消え入りそうな声で言ったのよ」
朱美はゲラゲラと笑い出した。
「あの子、自分が本当に男に好かれるなんて思ってたのかしら。とんだお笑いだわ。あたしたちはその様子を見てゲラゲラ笑ってた。で、『彼女』である狭山に色々させる事にしたのよ。『彼女なら当然でしょう』ってね」
「……」
幻士郎は悲しそうに顔を曇らせた。朱美はしかしさらに憤りを増したように、声をあげた。
「そうやってあいつを笑いものにして、男の子たちはあたしに、ちやほやしてた。けど…ある日聴いたのよ。陰でこいつらが、あたしを『彼女になんかしない』って話してるのを」
そう口にしてるうちに、朱美の顔が変化し始めた。顔のあちこちが膨れ上がり、地蜂の顔になっていく。
「『あいつを彼女にするくらいだったら、狭山の方がマシ』。そう言って、コイツは笑ったわ。周りの男の子もみんな笑ってた……。コイツらは友達でも何でもない、あたしを利用しただけの奴らよ! こいつらを骨の髄まで喰わせてやる! それが当然の報いよ!」
そう言い放った瞬間、地蜂の群れが幻士郎に向かって襲来してきた。
「幻士郎くん!」
香澄が冷気を放射して地蜂を空中で凍結させる。それが飛散してしまう後ろで、幻士郎は朱美に向かって言った。
「けど、だったら彼らだけでよかったんじゃないの? どうして関係ない人たちまで巻き込んでるの?」
「誰もあたしの事を、本当に大事にしない!」
地蜂と化した朱美の背中から、多くの式魔地蜂が飛び出す。
幻士郎の額が割れ、方眼が紅い閃光を放った。
「どいつもこいつもみせかけだけ! うわべばっかり! どいつもこいつも、痛い目を見ればいいのよ!」
「火焔!」
幻士郎の手から放たれた火炎が、地蜂を焼く。しかし地蜂の大群はそれ以上に多く、幻士郎の身体を襲った。
「冷気障壁!」
幻士郎と香澄の身体を、ドーム状の冷気の壁が包む。地蜂の群れはそこにぶつかって遮断された。
「幻士郎くん、この唆魔多怪は実は相性の悪い相手よ」
「相性? 五行の?」
「いいえ、この唆魔多怪が使ってるのは呪力。これが私たちの方力に対して、優位なのよ」
「そうなのか……」
冷気障壁の中で、幻士郎は呟いた。
「私たち討魔衆の使う力は三つあるわ。方力・気力・霊力。この三力はジャンケンのように対応してる。方力は気力に強く、気力は霊力に強く、霊力は方力に強い。これに対応する唆魔の方にも三力ある。魔力・妖力・呪力。つまり――」
「方力は呪力に弱い?」
「そういう事。この前のカメレオンは自分の肉体を変化させる妖力タイプだった。この地蜂は呪力系。しかもこの相手は――どういう訳か上級唆魔多怪だわ」
「香澄ちゃん、防御に力を使い続けて大丈夫なの?」
幻士郎がそう訊ねた時、香澄は驚きに眼を見開いた。
「今……香澄ちゃんって――」
「何か悪かった?」
香澄はぶんぶんと首を振り、嬉しそうな表情を浮かべた。
「なんか……方眼が出た時の幻士郎くんて、昔の幻ちゃんみたい。私、嬉しいわ」
「そう? よかった」
幻士郎がそう微笑んだ後、香澄は真面目な顔に表情を戻した。
「防御には薄く力を発揮し続けるから大丈夫。けど、もう方力もあと少しが限界。このままじゃ相手の数が多すぎて攻撃は難しいわ」
「どうする?」
香澄は制服の胸元から、懐刀を取り出した。
「これを使って」
「いつも持ってるの?」
目を丸くした幻士郎に、なんでもないように香澄は答えた。
「薙刀家は近間に入られた時のために、懐刀を持ってるの。幻士郎くんの力は強いけど、大きく発散し過ぎてる。この懐刀に方力を集中して、一撃で相手を倒して。私は障壁を解いたら、周りの地蜂を拡散させて道を作る。その時に幻士郎くんは出て」
「判った」
そう答えると、幻士郎は香澄の手から懐刀を受け取った。その鞘を抜き制服の内側にしまうと、幻士郎は方力を発揮し始めた。
「ハアアアアア――」
方眼が紅く光り、懐刀が炎をまとう。やがて幻士郎は頷いた。
香澄が障壁を解く。と同時に、冷気を周囲に拡散した。
「氷紋烈波!」
周囲にいた地蜂の群れが凍結しボトボトと落ちる。その中で、唆魔多怪に向かう血路が開けた。
幻士郎が凄まじい速さで急進する。その速さに地蜂唆魔多怪は反応できていない。幻士郎は、手にした燃える懐刀を突き出した。
「――危ないっ!」
香澄の声が上がった。幻士郎は進みながらも横目で声の方を見る。
気が付くと、香澄がすぐ傍まで来ていた。
幻士郎を庇うように、大きく手を広げている。その身体を向けた先から、何かが飛来してきている。香澄はそれから身を挺して幻士郎を守ろうとしていた。
(何?)
泥の塊のようなものが飛んできている。それに気を取られた幻士郎の手元が狂い、中心を狙った懐刀は唆魔多怪の脇腹をかすめた。
「ぐっ、貴様ァッ!」
唆魔多怪が呻く。その瞬間、泥の塊が一発、二発、三発と香澄の身体を襲った。
「くっ――」
「香澄ちゃん!」
幻士郎は足を止めて香澄の肩を支えた。しかし支えるまでもなく香澄の身体が硬直する。
「あ、あ……」
泥が当たった箇所から、香澄の身体が灰色に変色し石化していこうとしていた。
「香澄ちゃん! 一体――」
幻士郎は泥が飛来してきた方を見やった。
一人の男が立っている。
男は長めの灰色の髪を風になびかせていた。その顔は薄く緑に染まり、首から鱗模様がせり上がっている。金色の眼は瞳が針のように細く尖っていた。緑の鱗が見える上半身には紫色のマフラーだけをまとい、下半身は黒いデニムを身に着けている。奇怪なのは、その左腕が大蛇の顔になっている事だった。
「……誰だ、お前は!」
男はにやりと笑うだけで答えない。その左腕の蛇を向けると、蛇は牙を剥いて口を開くと、泥を吐き出した。幻士郎は懐刀で、飛んでくる泥を切り飛ばす。
「唆魔妖……何故…こんな処に――」
石化しようとしている香澄が声を洩らす。幻士郎は振り返って香澄を見た。既に足元が固まり、石化は全身に及ぼうとしている。幻士郎は焦りの声をあげた。
「香澄ちゃん、しっかり!」
「幻ちゃん……逃げて――」
そう口にする香澄の顔が石化していく。その眼元に寂しげな色を見せた瞬間、香澄の全てが石化した。
「香澄ちゃん! ――貴様、香澄ちゃんを元に戻せっ!」
幻士郎は新たに現れた敵に懐刀を持って向かっていった。突き込んだと思った瞬間、相手の身体がいなくなる。一撃、二撃と幻士郎の攻撃が躱される。見ると、足が急に軟体化したように曲がり、それを利用して素早く攻撃を躱している事に気付いた。
「何だ、お前は?」
幻士郎の問いに、敵は口元に笑みを浮かべた。
「唆魔妖の――牙羅蛇さ」
幻士郎は、険しい顔で相手を睨みつけた。