香澄の動揺
八歳の香澄は、幻士郎と近くの森に来ていた。
紅道と水杜は、家族ぐるみの付き合いをしており、子供同士の二人は家を出て森へと遊びに来たのだった。
「ねえ、香澄ちゃん……もう帰ろうよ…」
「恐いの? 幻ちゃん」
「だってさ、森に入っちゃダメって言われたじゃない」
眼鏡をかけた香澄は、幻士郎を小馬鹿にしたような笑みを返した。
「そんな事言って、本当は恐いんでしょ」
「だ…だってさ……」
俯いて言葉を濁す幻士郎に、香澄は手を出した。
「それじゃあ、わたしが手をつないであげるから」
「う…うん」
二人はそれから、手をつないで森を散策した。森をしばらく散策した後、二人はもう陽が暮れ始めているのに気が付いた。
「ねえ、香澄ちゃん。もう帰ろうよ」
「う、うん」
手をつないだまま、二人は急いで帰路に着いた。森の終わりが見え始め、外からの明かりが差す。その時だった。
「――!」
不意に、香澄の手を握る幻士郎の手が、急にきつくなる。
「幻ちゃん?」
幻士郎は、森の出口傍の茂みを睨んでいた。
「何かいる」
幻士郎の言葉に、香澄も目を凝らした。何か影のようなものが蠢いている。その影が、不意に大きくなり二人の前に姿を現した。
「ひっ!」
香澄は恐怖の声を洩らした。幻士郎は、香澄をその背に庇うように前へ出た。
「邪霊だ」
「幻ちゃん――恐い!」
邪霊はあちこちに点在するものだが、人に危害を加えることもある。やがてそれが大きくなり、集まって融合すると『魔』になると香澄は聞いていた。
「大丈夫だよ」
幻士郎は振り返って、香澄に微笑んだ。その笑顔に、香澄は心を奪われた。
邪霊が手のようなものを幻士郎に伸ばしてくる。香澄は息を呑んだ。しかし幻士郎は臆することもなく、その手を振り払った。
「火焔!」
幻士郎が掌を前に出す。その手から、驚くほどの業火が放出された。
炎に包まれた邪霊は、すぐに消えていった。
「香澄ちゃんのことは、僕が守るよ」
驚く香澄に対し、幻士郎は振り返って微笑んでみせた。
*
「――そんな事があってから、ずっとわたしは幻士郎くんを頼りにしてたのよ」
香澄は幻士郎を見つめてそう言った。
(そう…そうなのよ、幻ちゃん。わたしは離れてからも、ずっと幻ちゃんのことを想っていたの……)
そんな想いを口にはできず、ただ見つめる香澄に対し、幻士郎は困惑の表情を見せた。
「それ……ほんとにぼく?」
「もう! 幻士郎くんってば!」
香澄は唇を少し尖らせた。香澄がそんな表情をしてみせることに幻士郎はちょっと驚きをみせた。
「けど……六年前の事件があって、幻士郎くんはお爺さんの家に引き取られて会えなくなってしまった。わたしは……大人になって幻士郎くんと会った時、幻士郎くんが幻滅しないように、立派な魔明士なろうと努力したの。わたし…幻士郎くんに逢える日を、心待ちにしてた。それで水行氏の宗家戦にも勝って、跡目になったのよ」
「……じゃあ、水杜さんは、再会したぼくに幻滅したよね?」
幻士郎の問いに、香澄は首を振った。
「そんな事ないわ。やっぱり幻士郎くんは、優しくて強い幻士郎くんだった」
「あの時は――大ちゃんを傷つける奴だったから、必死で……」
そう口にして、幻士郎はふと思い出したように言った。
「あ、そうだ。大ちゃんから、誕生日プレゼント貰ってたんだ」
(大ちゃんから、誕生日プレゼント?)
香澄は眉をひそめた。
そんな香澄には気付かず、幻士郎は立ち上がると鞄からプレゼントの小箱を取り出した。リボンを外して蓋を開ける。
(何これ? なんか可愛いプレゼントじゃない。普通、男の子が男の子に、可愛いプレゼントなんか送る?)
後ろから近づいて、香澄は箱の中身を覗き込んだ。
中に入っていたのは、細やかなデザインが施された金色のフォークとスプーンのセットだった。
「ふふ……これでスィーツを食べろってことかなあ」
幻士郎が嬉しそうに微笑むのを見て、香澄の毛は一斉に逆立ったような気がした。
(ちょっと、どういうこと! そんな嬉しそうに笑うなんて!)
「ねえ……」
幻士郎が振り返る。と、顔を強張らせた香澄は、思わず幻士郎を睨みつけていた。
「……大ちゃんて、若月くんのことよね?」
「そ、そうだけど」
妙な圧に、思わずたじろぐ幻士郎。
「どういう関係なの?」
「ど、どうって……幼馴染だよ。転校してからずっと友達だし、一緒にご飯食べたり、お風呂入ってお泊りしたこともあるよ」
「一緒にお風呂ですって!」
香澄は目を丸くした。
(なにそれっ! それって…それって、もう恋人同士、みたいな距離感じゃない!)
香澄の頭は沸騰しそうだった。
(あの若月大樹のやつ! いくら幻ちゃんが可愛いからって、幻ちゃんに手を出すなんて、とんでもないや――)
そこまで考えて、唐突に香澄の脳裏に、裸で抱き合う幻士郎と大樹の妄想が沸いて出た。
“大ちゃん…”
潤んだ瞳に長い睫毛の幻士郎が、大樹に囁く。それを抱きとめながら、大樹は幻士郎に凛々しい顔で囁き返した。
“――幻士郎”
(ダメダメダメダメ――っ!)
香澄は胸の中で絶叫した。
(な、な、なんてはしたない! わたしってば、幻ちゃんで、こんなイケナイ妄想をするなんて!)
自分でも判るほど、顔が熱くなる。香澄は火を噴き出しそうなほど赤くなっていた。
「もう……知らない!」
香澄はそれだけ言い捨てると、部屋を出ていった。
翌日、幻士郎の隣に席に、香澄は普通に登校した。前にいた大樹が、香澄に声をかける。
「おやよう、水杜」
爽やかな大樹の声に対し、香澄は眼鏡の奥から冷ややかな視線を送ってよこした。
「……おはようございます」
その雰囲気に、大樹は鼻白んだ。
「…おれ、何か嫌われるような事したか?」
ぶんぶんと幻士郎は首を振る。
(若月大樹、こいつが幻ちゃんを迷わせてる諸悪の根源!)
香澄は憎き相手に、敵意の視線を向けた。
昼になり、昼食の時間になる。香澄は幻士郎に向かって、にっこりと最上の微笑みを向けた。
「幻士郎くん、一緒にお昼にしましょ」
「あ……いつも大ちゃんと一緒なんだ、みんなで食べてもいい?」
「…いいですわよ」
香澄は少し顔を引きつらせながら答える。その後、三人は屋上へと上がった。
(…けど、お弁当は料理も努力したわたしの手作り! きっと幻ちゃんも、わたしのお弁当にメロメロになるわ!)
そのいつもの場所についた幻士郎は、弁当を取り出した。
「はい、大ちゃん」
「おう、いつも悪いな」
笑顔で弁当を渡す幻士郎に、それを当然のように受け取る大樹。しかも大樹が広げたその弁当は――
「幻士郎くん…その弁当、どうしたの? 凄く美味しそうだけど…」
「あ、ぼくが作ったんだよ。水杜さんも、よかったらどうぞ」
香澄は、幻士郎の弁当の彩り、出来栄え、そして味の全てにおいて、敗北を味わった。
(なんてことなの! これじゃあ、お料理で幻ちゃんを魅了する、わたしの作戦が……)
「いつも美味いな、幻士郎」
「そう? 嬉し。ふふ」
そんな香澄をよそに、笑いあう二人。
(なに、このイチャイチャぶりは!)
香澄の眼は、絶望に白くなりかけた。
しかしその時、屋上の隅の方で呻き声がした。
「う……ぐ…ぐぇぇっ…」
一人の女生徒が、床でのたうち回っている。やがてその女生徒は嘔吐した。それは食べ物ではなく、数匹の巨大な蛆だった。
「あれは――唆魔の呪力を受けるもの」
香澄の緊張した声に、幻士郎が眼を向けた。