エピローグ
「――くそっ、一体、なんだってんだ、あいつらは!」
そいつは走りながら、そう罵った。走っているのは夜中の街、人気のない路地である。
そいつの姿は闇の中の微かな光源に、ぬめって光っていた。全身黒い鱗のない身体に、二本の白い縦線が入っている。顔は――丸くて細長いドジョウ系の魚の顔をしていた。
そのドジョウのような魚顔の男は、より細い路地を見つけると角を曲がり、建物の壁に身を寄せて隠れた。首の横についているエラが、パクパクと口のように荒い呼吸をしている。
「こんな処で…やられてたまるか」
「――いや、君は討魔されたほうがいい」
鈴のような声がした。魚顔の男は上を向く。その建物の外側の非常階段に、少年は立っていた。
少女と見紛うばかりの可憐な顔だちだが、その額には紅い光を放つ方眼が宿っている。少年は白地に紅い紋様の入った討魔装を風になびかせながら、口を開いた。
「君の毒にやられた人が四人も意識不明だ。このままだと君は人を殺めてしまうし、君自体も唆魔妖になってヒトでなくなってしまう」
「上等だよ! オレを馬鹿にしたあいつらなんか、死んでしまえばいい。いや、死ぬべきなんだ!」
「確かに……彼らがやった事はひどいイジメだと思うし、許されない事だと思うよ。けど――その事で、君がヒトを捨てるなんて駄目だよ。彼らのために、君の人生を台無しにしちゃいけない」
そう言いながら、少年は長い羽織をなびかせながら、非常階段から飛び降りた。少年――紅道幻士郎は、音もなく地上に降り立つ。
地面に立つと、幻士郎は唆魔多怪の方を向いた。
「ところで――君はウナギなの? 何で毒を使ってるの?」
「俺はゴンズイだ!」
魚顔の唆魔多怪はそう叫んだ。
「ウナギでもナマズでも、ドジョウでもねえ、ゴンズイだ! ゴンズイは背びれに猛毒を持ってる。こんな風にな!」
ゴンズイ唆魔多怪が左腕を前に出す。その腕に背びれのようなものが生えているが、それが一斉に逆立った。逆立ったセビレから針が発射される。針は幻士郎に直撃した。かに見えた。
「――なに?」
幻士郎の姿がかき消える。
「まやかし、だよ」
闇の中から、幻士郎の声だけが響いた。
「ゴンズイって初めて聞いたよ。そういう魚がいるんだねえ」
どこからか響く声に、ゴンズイ男は辺りを見回す。
「何処だ!」
「魚が好きなんでしょう? 好きなものを、貫けばいいんだよ。それが素敵だと思う」
いつの間にか、横の通りから幻士郎がゆっくりと歩いてくる。ゴンズイ男は歯ぎしりをした後、吐き出すように叫んだ。
「俺の事を素敵だなんて誰も言わねえ! そして、俺の事を、奴らが馬鹿にしやがったんだ。『魚くせぇ、死んだ魚の眼ぇした奴』って!」
ゴンズイ男は、腕から背びれ針を発射する。幻士郎に当たる。はずが、それがすり抜ける。ゴンズイ男は、小さな魚の眼を見開いた。
「気にしないで――とは言えないよね。気になるし、自分を否定されて、悔しくて……辛かったと思う。だけど、相手を殺しちゃいけないよ。今はまだ学校って小さな水槽の中にいるだけで、外にはもっと大きな海が広がってるんだ。だから君も、好きなものを貫いていれば、いつか必ず判ってくれる人もいるし、それが役に立つことも、きっとあるよ」
「教師もそんなような事ばかり言って、奴らを止めようともしない。誰も、俺の今の問題を解決してくれない! 俺はもう、この世界に未練なんかないんだ!」
ゴンズイ男はそう叫ぶと、自分の腕の針を、自分の喉に向けた。
「やめて!」
幻士郎が叫ぶ。
その瞬間、飛来して来た白い霊弾が、ゴンズイ男の腕の背びれを吹き飛ばした。
「な――」
ゴンスイ男が驚いた顔で、飛来して来た先を見る。そこにはもう一人の少年――若月大樹が立っていた。
黒いシャツに黒のデニムで、手に霊弾銃を構えている。大樹は銃口を下げると、口を開いた。
「幻士郎、説得もいいけど早めにカタをつけろ」
「ありがとう、大ちゃん」
そう口にした幻士郎の姿が消える。
と、その瞬間、ゴンズイ男は全身に重い衝撃を受けていた。
目の前に、幻士郎がいる。気づかないうちにゴンズイ男は剣で、首筋を打たれていた。
「い、いつの間に――」
ゴンズイ男はそれだけ言うと、地面に倒れ込んだ。
ゴンズイの姿が消え、男は人間の姿に戻る。その瞬間、跳んできた魔粒を幻士郎はキャッチした。
大樹は黙ってカートリッジを替えると、元ゴンズイ男に忘癒弾を一発撃ち込んだ。
討魔装を解いた二人は、肩を並べて歩いていた。
「なあ、唆魔多怪に説得して意味があるのか?」
「先生が言うには、悪意が減少した方が唆魔の力が弱まるし、回復も早いんだって」
「それであんなまどろっこしい説得してたのか」
大樹は苦笑した。幻士郎はその大樹を、真面目な顔で見つめた。
「けど、さっきは危なかった。自殺しようとするなんて思ってなかったんだよ。ありがとう、大ちゃん。大ちゃんがいてくれて、本当によかった」
そう言って微笑む幻士郎に、大樹は問うた。
「ま、本来は水杜の役なのかもしれないけどな――水杜はどうしたんだ? 学校もやめちまって」
「水杜さんは完全に回復したんだけど――もう一回、修行しなおすって」
そう言うと、幻士郎は俯いた。
「どうしたんだ? 水杜に、何か言われたのか?」
「……『幻士郎くんの隣に立てるように、頑張る』って――」
恥ずかしそうにそう口にした幻士郎を見て、大樹は微笑んだ。
「そうか。あいつも思う処があったんだな。……あの宗家戦の時の、男の先輩は?」
「赤羽先輩は――なんだか行方が判らないらしいんだ」
大樹は神妙な顔で、幻士郎を見た。
「治療中に病院を抜け出して、それきりなんだって……実家の方でも探してるらしいんだけど、見つからない。もう、赤羽の頭首さんは、息子を勘当するって言ってるみたい」
「なんだか、大変だな」
大樹は苦い顔をしてみせた。それを見て、気を取りなおすように幻士郎が口を開く。
「けど、ぼくは大ちゃんが討魔を手伝ってくれて、凄く助かってる。大ちゃんには秘密にしなくてもいいって許可も出たし。――大ちゃん、これからもよろしくねっ」
「その事なんだがな、幻士郎」
大樹が、真面目な顔で幻士郎を見つめた。幻士郎は、その表情に息を止める。
「お前と討魔するのは、今夜で一旦終了だ」
「ど――どうして!」
幻士郎は泣きそうな顔で大樹を見上げる。大樹はその瞳を見つめ返した。
「おれは……討魔衆になることにした。夏休みと同時に、修行に入る」
「しゅ、修行って――大ちゃん、魔明士になるの?」
「いや、おれは魔滅士を目指す。もう、弟子入りする先生も決まってるんだ」
「それって、もしかして――」
幻士郎の代わりに、大樹は言葉を継いだ。
「そう、剣王院九岳先生だよ」
大樹は幻士郎から目を離すと、月夜を見上げながら歩き始めた。
「お前と違って、おれはそんな家系に生まれてないから、本当に一から鍛えてもらう。実際、なれるかどうかも判らないって、先生にはっきり言われた。二ヶ月修行して見込みがなかったら、そこで中止。それで見込みがあったとして、ようやくそこから本当の修行だと。おれの事は寄宿舎に入ったと母さんには思わせて、学業の方はオンラインでやるんだってさ。だからさ――」
大樹は足を止めて、幻士郎を振り返った。
「今度会う時は、俺がもっと強くなってる時。そうじゃなかったら……多分、お前の事も忘れてる」
「大丈夫だよ!」
幻士郎は力強く言った。
「大ちゃんならきっと、修行もやり遂げる。それに、ぼくの事も忘れてたけど、想い出したじゃない」
「そう…だな」
大樹は笑ってみせた。
「じゃあ、待っててくれよ、幻士郎」
「うん。ぼく、待ってるよっ!」
幻士郎も、微笑みを返した。
*
女生徒は、恐怖に震えならがら夜の校舎を走っていた。
「はぁ、はぁ、はぁっ――」
真っ暗な中に響くのは、自分の呼吸音のみ。女生徒は走り疲れて、肩で息をしながらその場に座り込んだ。
「もう……やめて! あたしが何をしたっていうのよ!」
シャキン、シャキンと、ハサミを鳴らすような音が聞こえる。女生徒は恐怖に涙ぐみながら、その音が近づいてくる廊下を凝視した。
闇の中から、その姿が現れる。
それは上半身が異様に大きな、蟹の形をした化物だった。化物は巨大なハサミを鳴らしながら、人間の足で歩いてくる。蟹は何処か判らない口で怒鳴った。
「お前が、オレを無視した罪を、思い知らせてやる!」
「ヒ……」
女生徒が恐怖に息を呑んだ時、闇の中で別の声が響いた。
「蟹のくせに、まっすぐ歩けるんだね」
その涼やかな声に、女生徒は辺りを見回す。と、すぐ後ろに気配がした。
「――えっ」
いつに間にか、しゃがみ込んだ少年の顔が、女生徒のすぐ傍にある。息もかかりそうなほど近くで、少年は微笑んだ。それは可憐と言ってもいいほどの美少年であり、その少年は優しげに女生徒を見つめた。
「恐かったね? もう、大丈夫」
「え……ええ?」
少年は女生徒を立たせると、蟹に向き直った。そのまま無造作に、蟹に向かって歩いていく。
「女の子を脅すなんて、最低だよ」
「だ――黙れぇっ!」
蟹は巨大なハサミで少年の首を挟もうとした。そのハサミが閉じて、首がちょん切られる。そう、思われた瞬間、少年の姿がかき消えた。
「まやかしだよ」
静かな声がした、瞬間、蟹が倒れる。その背後に、少年は立っていた。蟹が人の姿に戻り、動かなくなる。
少年は女生徒の方に歩み寄ってきた。
「大丈夫、怪我ない?」
「だ――大丈夫です」
女生徒は戸惑いながら、そう答える。しかし、その後に、言葉が口をついて出た。
「あの……あなたは一体?」
「まやかし…幻士郎」
幻士郎は、そう微笑んだ。




