大樹の違和感
明けたばかりの眩い朝陽が差し込む森の中を、幻士郎は勢いよく駆けていく。背中には背負子を背負っている。幻士郎が見ているのは先の方だが、足元の木の根や石の状態は把握している。
大して息切れすることもなく滝つぼに着いた幻士郎は、冷たい水で顔を洗うと一口清涼な水をすすった。
「美味しい! さあて、今日は半分より…ちょっと多め」
幻士郎は背負子から桶を降ろして水を汲んだ。半分より多めに水を入れた桶を担いでも、それなりの速度で幻士郎は森を帰る。
山にこもって、二週間が過ぎていた。
その間に、幻士郎の森を駆ける速度は上がり、運ぶ水は増え、薪を割る速度も量も増えていた。小屋に帰った幻士郎は薪を割ってしまうと、朝御飯の支度にとりかった。
「フン、フフン、フンフン~♪」
鼻歌を歌いながら、幻士郎は竈に薪をくべて飯を炊き、味噌汁を作る。味噌汁の具材には先日採った山菜が入り、それと鹿の干し肉を戻した野菜炒めを作る。
「おう、戻ったか」
「あ、おはようございます、師匠っ」
幻士郎は振り返って、寝起きの顔の九岳に微笑んだ。そのあまりの可憐さに、九岳が一瞬鼻白む。
二人で囲炉裏に座り朝食を食べながら、幻士郎は九岳に問うた。
「どうですか、師匠?」
「ん? ……ああ、美味いな」
「えへへへ」
幻士郎は嬉しそうに笑う。
「どうも、お前には修行中っていう緊張感がないな」
「だって、食事くらい楽しみながら作りたいし、食べたいじゃないですか。それくらいいいでしょう?」
上目遣いに覗き込む幻士郎から目を逸らし、九岳は渋い表情で味噌汁をすすった。
「水が半分以上になったから、今日は真気流の素振りを教える」
「はいっ」
稽古の時は真剣な顔つきで、幻士郎は九岳の顔を見た。
「まず、この薙刀で素振りをやれ」
九岳がそう言って渡したのは、木製の薙刀だった。
「え? 剣じゃなくて、薙刀?」
「真気流には剣術、薙刀術、小太刀術、柔術、剛術とある。全てが同じ型の動きで、使う得物を替えることができるんだ。ちなみに、火蓮真機流は剣術だけだったが、お前に教えるのは本来の真気流だ」
幻士郎の問いに九岳は答えた。
「真気流には気力の用法しかない。それに方力を合わせたのが火蓮真機流だ。お前は剣術の素振りを知っているから、九本の基本振りは判っているな?」
「はい。上下振りと、八相振り、横振り、斜め振り、振り返しの左右です」
「うん。剣は右手を前に持ったまま持ち替えることはないが、薙刀は状況に合わせて左右を持ち替える。つまり十本になる。薙刀の方が複雑な手の内が必要だが、これを学ぶと剣の理合いの理解も深まる。薙刀を持ってみろ」
九岳に言われて幻士郎は薙刀を持ったが、剣のように構えようとすると長すぎて身体につかえる。
「薙刀は真半身になって構える」
九岳の構えを見ると、身体は真横になって、顔だけが正面を向いている。幻士郎もそれを真似た。
「まず上下振り。足を揃えながら身体を真正面に向け、普通に振りかぶり、足を引き戻しながら切り下す。ただし右をやったら、途中で左を前に持ち替えろ」
幻士郎は言われた通り、それを実践した。
「次は八相、上の手は耳横で、下の軸手は腰骨につける。それが薙刀の八相の構えだ。ここから身体の半身を入れ替えながら斜めに斬り下ろす」
右前から左前、左前から右前へ。次の横振りも脇に構えて、同様に左右に入れ替わりながら水平に振る型で、斜め振りは斜めに斬り上げる形だった。
「最後に振り返し。これは手の内を柔らかく使うが、剣なら相手の太刀を受け流す型で使う形だ。構えた処から、切先を落としながら剣を振り上げ、腕に添えた剣で相手の太刀を受け流すだろう。あれを長い薙刀でやる」
薙刀を持った軸手を放し、すっと前手に寄せるとともに切先を落とす。と同時に、手を頭上に振りかぶり、薙刀を縦に円回転させるように、振り下ろす型だった。
「強く握り込まない事は、薙刀では極めて重要だが、同じように剣でも自在さと速さを生み出す。薙刀の振りをやったら、剣。剣の振りをやったら薙刀を振り、相互の関連性と違い、その本質を見極めろ。ただただ量をこなすのではなく、お前がどれだけ考え、意識的に感じたかが、そのまま力量につながると思え」
「はいっ、師匠」
幻士郎は極めて真剣な表情で、強く返事をした。
*
(何かがおかしい……)
大樹は日々の生活の中で、言いようのない欠如感、違和感を感じていた。だが、それが何に起因するものか判らない。
空手部の主将は怪我で大会を欠場したが、代わりに出た大樹も準決勝で相手に敗れた。そもそもだが、何か大会に乗り気でない自分がいる。それが何故なのか、大樹本人にも判らなかった。
稽古を終えて帰る大樹は、ふと帰宅する女子の集団に眼を止めた。三人の女生徒が談笑しながら歩いている。
(お菓子同好会の連中か)
一瞬、嬉しい気持ちがこみ上げて声をかけそうになる。が、ふとその必然性のなさに気付いて、大樹はその行動をやめた。
「なんだ? あいつらに声なんかかけて――おれは何しようってんだ?」
大樹はその場に立ち尽くし、横を通り過ぎていく女生徒たちを見送った。
(あの中に、誰かいない気がする……)
そう思った大樹は、その考えの意味のなさに気付いて舌打ちした。
「ちぇっ、どうなってんだ、おれは!」
大樹は苛立ちをぶつけるように、傍の木を殴った。
拳が痛みに痺れる。
「ちっ――」
(もうちょっと、サンドバックでも打って帰るか)
大樹は踵を返して体育館傍の武道場に戻ろうとした。その曲がり角の手前で、話し声がする。
「――あの紅道幻士郎が、山で修行してるって?」
それは男子生徒の声だった。その声を聴いた瞬間、大樹の心臓が大きく脈打った。
(なんだ)
「らしいわよ。魔滅士の中でも六滅魁の一人、剣王院九岳に習ってるって話だわ」
答えたのは女子生徒の声だった。その内容はまったく判らなかったが、大樹はたださっき耳に入った名前を聴いて、心臓が早鐘を打っていたのだった。
「ヘッ、あのしょぼい紅道幻士郎が今更修行したところで、そんな付け焼刃で何かできるはずもねえ。しかし――水杜といい、六滅魁といい、寄ってたかって手を貸すのは気に入らねえな」
「紅道幻士郎といえば六年前の事件の当人だからね。注目の的なんじゃない?」
「……気に入らねえ」
忌々しそうに呟いた男の声をよそに、大樹はその名前をはっきりと意識した。
(紅道幻士郎)
大樹は胸を抑えた。
(どうしたんだ? 胸が痛む! その紅道幻士郎って名前を聴くと――おれは、いてもたってもいられない気持ちだ)
大樹は締め付ける胸の想いを抑えるように、拳を握った。
「紅道幻士郎……それが一体、誰なのか、あいつらに訊かないとーー」
大樹が二人の前に出ようとした時、女子生徒が携帯電話に出た。
「はい? 唆魔が出た? はあい、判りました」
女生徒は携帯をしまうと立ち去る素振りを見せる。男子生徒がその気配を察し、自らも動く気配を見せた。
「察知すると連絡が入るのか? いいご身分だな」
「ふふん、火高の情報網を甘くみないことね」
女生徒が走り出す。男子生徒もそれを追うように走り出す。
「あ――待てっ」
大樹は二人を追いかけようと走り出した。しかし、二人が恐ろしいほどに速い。
「くそっ、あいつら、なんて速さだ」
大樹は普段から鍛えている。足も学年で1、2を争うくらいに速く、陸上部からスカウトされたこともある。その大樹がまったく追いつけない。
(けど――あいつらが何か知っている。紅道幻士郎のことを)
大樹は必死に二人の走りに喰らいついた。やがて二人が見えてくる。それは人気のない路地だった。
二人の目の前に、一人の男が立っている。眼鏡をかけて無地の白いシャツを着た、太目の男だった。
「あんたね、唆魔に憑りつかれてるのは?」
眼鏡の男がぼんやりと二人を見る。と、その顔が膨れ上がり変貌していった。顔も全身も黒くなり、やがてその姿は――巨大な蟻に似たものになった。
(なんだ、あれは?)
大樹は驚愕したが、その声をなんとか押し殺した。




