姿勢と呼吸
翌日になると、大腿の筋肉痛はだいぶ引いていた。
「よし、じゃあ背負子を担いで走って滝まで行け。水は――まあ、汲んでも汲まなくてもいい。帰りはゆっくりだぞ、いいな」
「はい」
幻士郎は背負子を背負う。それだけでかなりの重量であり、肩に紐が食い込むようだった。
しかしその状態で走り出す。山道を走ると、地面の凹凸が草鞋を通して感じられる。大変ではあったが、幻士郎は朝の山の空気の気持ちよさを、胸いっぱいに吸い込んでいた。
水を10cmばかり汲むと、帰りはゆっくり下る。なんとか無事に帰りついた。
「よし、次は薪割りだ。もう要領は判るな」
昨日の倍以上の量が、そこに用意されている。幻士郎はひたすら薪割りをした。滝までの水汲みと薪割りが終わる頃には、もう昼近くになっていた。
「よし、これを持て」
九岳がそう言って渡したのは、たたまれた白い着物だった。
「今日は滝に入るぞ」
「また滝に行くんですか?」
「今日はもう少し速度を上げるからな。ついて来い」
そう言うと九岳は走り出した。信じられない速さである。幻士郎は朝の自分の走りが、いかに遅かったかを痛感しながら、九岳の背を必死になって追いかけた。
「追うのに夢中になって、足元の注意を忘れるなよ!」
「はい!」
幻士郎は意識を足に向けながら、必死に走った。
やがて滝に着いた頃には汗だくになっている。幻士郎は言われた通り、持って来た白い着物に着替えた。それは白の着流しだった。
同じように着替えた九岳が、滝つぼに入る。
「まず、入ってみろ。水の圧力は相当だから、首に気を付けろ」
轟音の中、滝の真下に入った九岳の隣に並ぼうとする。その頭にごうごうと落ちてくる水が当たった瞬間、
「うっ、わ――」
水の圧力が強すぎて、幻士郎は滝つぼに沈んだ。不意に襟の後ろを引っ張られて、滝の圧力下から移動させられる。
猫のように襟を持たれて、九岳が幻士郎を掴んでいたのだった。
「頭から入るんじゃ駄目だ。何より、首に危険だ。背中を向けて丸くなって滝の下に入り、そこから立ち上がってみろ」
「は、はい」
言われた通り、幻士郎は背中を丸めて滝に向ける。後ろ向きに歩くと、背中と腰に凄まじい量の水があたった。それを押しきって滝の真下に入ると、頭頂部に水を受けながら、幻士郎は立ち上がった。
「くぅ~~」
凄まじい圧力に、頭と肩が上から押される。眼を開けておられず、顔が常に水浸しで、しかも常に押し潰されそうだった。
しばらく耐えていたが、やがて水圧に弾かれるように滝の外に幻士郎は飛び出した。
「水が凄くて――立っていられませんっ!」
「うん、それが判りゃ上出来だ」
九岳は何でもないように滝から出ると、滝つぼの外へ歩き地面に上がった。幻士郎もそれに倣う。
「一旦、元の作務衣に着替えろ。着流しはその辺の木にかけとけ」
着替えた幻士郎に、九岳は言った。
「まず、お前に立ち方を教える」
「立ち方…ですか?」
幻士郎は意味が判らず、そう訊き返した。
「そうだ。滝の下でお前が立っていられないのは、立ち方が弱い立ち方だからだ。滝の圧力に、筋肉で対抗しようとする。これでは長時間、あの圧力に耐えることはできない。筋肉ではなく、骨、姿勢で天地の圧力を己のものとする。それが武術的な立ち方だ」
「……どんな立ち方なんですか?」
「まず、その大きな木に背中を当ててみろ」
幻士郎は言われた通りに大木に背中をつけて立ってみた。
「木と腰の間に、隙間があるだろう?」
「あります」
幻士郎は自分の腰に、手を触れてみる。背中と尻が木に触れていて、腰には手が余裕で通るほど隙間があった。
「その隙間を無くすように、腰を前に入れろ。膝を軽く曲げて、尾てい骨を前に向ける感じだ」
幻士郎は腰を前に出して、背中を触った。木との隙間はかなり狭いものになっていた。
「その腰の形を維持して、頭頂部から糸で吊られてるように、立身中正を保て。背中から腰まで真っすぐに伸びて、腰は足の自由度を増す形だ。その姿勢が、能や狂言でも使われてる姿勢だ」
「そうなんですか」
幻士郎は感心した。
「もう一つ、姿勢を作る方法を教えてやろう」
九岳はそう言うと、小屋の窓際に置かれていた縁台に腰かけた。
「座ってみろ。そしたら、まず適当にそこから立て」
幻士郎は言われた通り縁台から立つ。
「今の姿勢の感じを覚えておけ。次は座ったら、頭を下に下げて、両手を地面に伸ばせ。そして両手を下に下げたまま、腰を上げろ。そして上半身を起こす」
幻士郎は言われた通りの立ち方をした。
「どうだ、違いが判るか?」
「判ります。腰を入れたさっきの立ち方に近い姿勢になってます」
「その姿勢を維持して、動けるようになるのが重要だ。強い立ち方が、強い力を生み出す」
そう解説した九岳に、幻士郎は疑問をぶつけてみた。
「けど師匠、学校ではこんな姿勢、習いません」
「学校が教えるのは、近代化以降に西欧の物まねで輸入した、全身を緊張させて硬直した姿勢だ。日本には古来からの、最も動くのに適切な姿勢というものが継承されている。お前はそれを学べ」
「はいっ」
幻士郎はその姿勢を維持しながら、あちこちと動いた。股関節が前に向いた状態は、細かい動きができる事を幻士郎は再認識した。
「じゃあ、もう一度着替えて、滝に入ってみろ。筋肉で滝に耐えるんじゃなく、骨格と姿勢で滝と一体化しろ」
「判りましたっ」
幻士郎は滝つぼに入り、滝の下で立ち上がる。今度は姿勢で滝の圧力に耐えるため、滝の圧力にも耐えて立ち続けることができた。
「水の圧を意識するな。水の流れの一部になるつもりになれ」
(水――)
幻士郎はそう意識した途端、水杜香澄のことを想い出した。
(水杜さん――ぼくを助けようとして…石になった)
眼鏡をかけた香澄の、様々な表情が頭に浮かんできた。
幻士郎を助けて現れた時の顔。その後の微笑み。唆魔多怪と戦う時の、凛々しい表情。大樹に対しての澄ました表情。幻士郎のお弁当を見た時の、驚きの表情。
(ぼくが必ず……助けるんだ)
滝の中で、幻士郎は茫漠とした意識で考えた。感覚が無くなってきている。幻士郎は水と一体化したような気がしていた。
「あ――」
不意に、滝から引っ張り出され、幻士郎は滝つぼの底に手をついた。九岳の声が飛んだ。
「冷えすぎだ。低体温症で死ぬぞ」
「え……?」
九岳に引っ張られ、幻士郎は陸に上がった。
身体が冷え切っている。ガタガタと震える身体を自分で抱きしめ、小さくなって縮こまった。
「濡れた着物を着替えろ。寒くなって出てくるかと思っていたが……これを羽織っておけ」
幻士郎は歯の根が合わずガチガチといわせながら、濡れた着物を着換えた。九岳がよこしたのは、自分の作務衣だった。それを急いで着込む。しかし、まだ寒気は収まらない。
「寒い……」
「まだ早いと思ったが仕方がない。爆発丹田呼吸を教える」
「ばくはつ?」
幻士郎は首を傾げた。
目の前に九岳が胡坐で座り込む。人差し指と親指で輪を作り、それを軽く膝の上に置いた。
「同じポーズをとれ」
幻士郎は言われた通りにする。
「まず普通の腹式呼吸をしろ。息を吸った時に腹を膨らませて、息を吐きながら腹を凹ます。――そうだ。鼻で息を吸って、口で吐く。それを大きく、1,2,3,4,5のタイミングで、最後の5を強く吐き出せ。その時、腹を凹ませるのではなく、逆に膨らみを維持して吐き出すんだ」
幻士郎は言われた通りやってみた。1から4までは普通の腹式呼吸。しかし最後の5は、腹に力を入れて、膨らんだまま吐き出す。
「いいぞ、もっと強く。全身の空気を吐き出すつもりで、最後に吐き出せ。その勢いが、全身に熱として駆け巡るイメージを持て」
強く。もっと強く。そう意識しているうちに、幻士郎は身体が熱くなっているのに気付いた。もう、震えもないし、歯も合っている。
「よし、今度は立ってそれを実行しろ。座っていると自然に腹式呼吸になるが、立っている時は意識しないとできないぞ。立ち方は無論、教えた通りの立ち方だ」
「師匠、熱いです」
幻士郎は師匠の大きな作務衣を脱いで返した。立って言われた通りの呼吸を繰り返す。全身から汗が出るのではないかと思うほど、身体が熱くなってきた。
九岳が不意に、幻士郎に手を伸ばす。ヘソの下あたりに、掌を当てている。九岳が静かに息を吸い込んだ。
「ハッ」
九岳の気合と共に、幻士郎は全身が一気に燃える程熱くなるのを感じた。




