命と向き合う
痛む身体を無理やり起こして、幻士郎は九岳の促されるままに庭へ出た。
「今日から薪割りをやれ」
九岳がそう言って示した先には、山のように積まれた丸木があった。九岳がそこから一本取って、台座代わりの切株に置く。九岳は傍らの長い柄の斧を取ると、振りかぶって一閃した。
パン、と乾いた音がして、丸木が半分に割れた。
「わあ」
「こういう感じだ。やってみろ」
手渡された斧を持つと、ずっしりと重たくて幻士郎は驚いた。しかし気を取り直して、切株に置かれた丸木を見つめる。
息を吸って斧を振りかぶる。
「えいっ!」
狙いを定め、斧を振り下ろす、と、丸木の端に当たり、丸木があらぬ方向へ飛んでいった。その先には、九岳の膝がある。
あ、と幻士郎が思った瞬間、九岳の足が跳ね上がり、飛んできた丸木を足裏で蹴り飛ばした。
「……おい」
「ご、ごめんなさい!」
幻士郎は涙目になって頭を下げる。その幻士郎に、九岳が言った。
「いいか、今は俺に跳んできたから防御できたが、お前自身に飛んで来たらどうする?」
「あ……」
幻士郎は顔を上げて、九岳を見た。九岳は厳しい顔つきをした。
「お前は剣術をやったんだろう? 木刀の素振りを想い出せ。まず、力を抜いて振り上げろ。そして腕の力で狙おうとするな。腰をきちんと据えて、斧の重さにまかせて振り下ろせ。やってみろ」
幻士郎は言われた通りに、斧を振り上げる。右足をぐっと前に出し、腰を据える。そして敢えて力は抜いて、斧を重力と斧の重さに任せて振り下ろした。
パン、と乾いた音がして、丸木が割れる。
「わぁ、割れた! 割れましたよ、師匠っ!」
「いちいち喜んでたら、この数が割れないぞ。お前は身体の使い方の基礎はできてる。姿勢をよくして、力を抜いて、無心に割れ。俺は今日の飯を取って来る。やっとけよ」
「はい、師匠!」
九岳がその場を去った後、幻士郎は無心に薪を割っていた。次第に要領を掴み、本当に意識しなくても考えなくても割れるようになる。そうなってから、幻士郎は山に来る直前の事を想い出した。
*
「――一ヶ月、お前を宗家戦で戦えるようにするのに修行する必要がある」
九岳の言葉を受けて、幻士郎は声をあげた。
「ぼく、頑張ります!」
「しかし山に修行に行くのはいいが、その間学校はどうするんだ?」
疑問を口にしたのは幻雲である。そこで白川博子が口を開いた。
「あ、幻士郎くんが休みの間は、幻士郎くんの記憶を生徒から封じます。で、復帰したら、また記憶を戻すという事で」
なるほど、と頷いた幻雲だったが、幻士郎は声を上げた。
「けど先生、ぼく、毎日大ちゃんのお弁当を作ってるんですけど」
「え? そうなの? 大ちゃんて若月くんのことよね。若月君と、その家族の記憶も少しいじっておくわ」
「大ちゃんが、ぼくの事を忘れちゃうの……?」
博子の言葉を聞いて、幻士郎は少し悲し気な顔をした。それを見て博子は微笑して言い添える。
「忘れると言っても一時的なものよ。貴方が復活したら、ちゃんと元に戻すから。あと、帰ってきた後に、ちゃんと勉強してもらいますからね」
えぇ、と幻士郎は抗議の声をあげたが、それは無視された。
*
薪割りをあらかた終えた頃、九岳が戻ってきた。
「おい、ついてこい」
幻士郎は言われるがままに九岳の後についていく。九岳は山道を進んでいくが、やがてある場所に出た。
「ひ……」
幻士郎は悲鳴を呑み込んだ。
そこには、鹿の死体が横たわっていたのである。
「し、師匠、これは?」
「これからの俺たちの食料だ」
九岳はこともなげに言うと、鹿の死体を持ってきた棒に結わえ始めた。
「え? た、食べるんですか? この…鹿を?」
「そうだ」
九岳は鹿の手足を、棒に結わえていく。その様子を見た幻士郎は、気持ちが口をついて出た。
「可哀そう……」
九岳が幻士郎を見る。幻士郎は、気まずい気持ちで、頭を下げた。
「ご、ごめんなさい」
「……何故、謝る? お前はこの鹿を可哀そうと思ったんだろう? その気持ちに偽りがあるのか? ないのなら謝る必要はない。ただ、俺と見解が違うだけだ」
「ご、ご飯は街から持って来れたんじゃないんですか?」
幻士郎はビクつきながらも、九岳にそう言った。九岳は厳しい目で幻士郎を睨んだ。
「街から持ってくる食料に、肉はないのか?」
「そ…それは……」
「お前たちが普段、口にする肉は、誰かが捌いたものだ。つまり、誰かが殺したものだ。お前は普段、買い物をするだけで、その誰かが殺した現場を見なくて済むように生活してる。そうやってお前は、安全で清潔な生活を送ってたんだ。それは、見たくないものを見ないで済む生活だ。だがな、魔明士になるってことは、人が見たくないものを見なくて済むように、影で動くという事だ。当然、それを担う役は、見たくないものも見なければいけない。――お前に、その覚悟があるのか?」
九岳は静かにそう問うた。
「もし、それだけの覚悟がないなら、山を下りて今までの事は全て忘れろ。安心しろ、香澄は俺が責任もって助ける」
九岳の眼は、静寂そのものだった。その瞳に怒りも失望もない。ただ、事実を見据えた上で問うている。幻士郎には、それが判った。
「今、この瞬間の選択が、お前のこれから――その生き方を変える。迷うなら、止めた方がいい。お前がこれから入ろうとする世界は、迷ったり、時間が欲しいと思っているうちに命を落としかねない世界だ。それでも強くなりたいという奴だけ、俺は鍛える」
「……ぼくは、強くなりたいです!」
幻士郎は言った。泣いてもいないし、迷ってもいない。
「ぼくは強くなって、水杜さんを助けます。必ず」
幻士郎は強く言った。すると九岳は、打って変わって何でもないように言った。
「そうか、じゃあこっちの端を持ってくれ。なにせこいつは大型だ。100kg以上ある。一人で持てなくもないが、さすがにしんどいからな」
「はっ! まさか、さっきまでのシリアスな話は、ぼくに手伝わせるための方便?」
九岳は微かに笑うと、鹿を結んだ棒を担いだ。幻士郎はそれを見ると、少しふくれっ面をして逆の棒を担いだ。
「う……重たい…」
九岳が立ち上がると、身長差で幻士郎の方に棒が傾く。幻士郎は泣きながら鹿を運んだ。
小屋の庭まで鹿を運ぶと、九岳は畳ほどの大きさもある板を持ってきた。その上に鹿を据える。
「今から、こいつを捌くぞ」
ごくり、と幻士郎は唾を呑んだ。
九岳は鹿の腹に大きな包丁を入れる。腹を裂くと、内臓をごっそりと取り出した。そのピンク色の生々しさに、幻士郎は吐き気を催した。
「吐いてもいいぞ。だが、この内臓と同じものがお前の腹に入っていて、それがお前を生かしているという事を忘れるな」
九岳の言葉を聞いて、幻士郎は吐き気を堪えた。
「肉から皮を剥ぐんだ。できるんなら、お前も手伝え」
「はい」
もう一本の包丁を手にすると、幻士郎は九岳の手つきを見ながら肉と皮の間に包丁を入れていった。鹿の肉は巨大で、手足、胸の筋肉は発達した赤身の肉だった。脂肪分はほとんどなかった。
「よし、今度はこれを運ぶぞ」
鹿の肉を取り分けるのは、ほぼ一日作業だった。取り分けた肉を大きなザルに入れると、九岳は裏山へと歩いていく。その山腹には扉がしてある洞穴があった。
中に入ると、ひんやりと冷えた空気が漂ってくる。
「あ、涼しい」
「ここは雪室だからな」
それほど大きな洞穴ではないが、よく見ると奥に雪が大量に積んである。その脇には米袋や野菜も積んであった。
「電気がない時は、保存にも工夫が必要だったのさ」
洞穴を出ると、太陽が眩しかった。一つ大きな仕事を終えて、幻士郎は深呼吸をした。その幻士郎に、九岳が言った。
「生きる、という事に、まず真摯に向き合うことだ。生死というのを見つめて初めて、武の意味が判る。…いや、考える事ができる、というべきか。それがまず修行の始まりだ。明日からは、本格的な鍛錬になるからな」
「はい!」
「――今日は、鹿のステーキだ」
九岳はそう言うと、にっと笑ってみせた。




