山岳修行
バイクの背中で剣王院九岳の腰に捕まったまま、既に一時間が経つ。痺れを切らして幻士郎は声を上げた。
「ねえ、九岳先生、何処に行くんですかっ?」
「その先生っての、やめろ」
「じゃあ、九岳師匠! 何処へ行くんですか?」
「……修行っつったら、山に決まってんだろうが」
少し不満げな様子で、九岳はそう答えた。
バイクは山奥に入り、山道をうねるように進む。路面に当たるんじゃないかと思うほど傾けるバイクの角度に慄きながら、幻士郎は必死で九岳の腰にしがみついた。
やがて山道が尽きたところで九岳はバイクを停める。そこには小さな木造の小屋があった。九岳はその扉を開けると、バイクを収納する。
「ここからは歩きだ」
「え?」
驚く幻士郎をよそに、九岳は峠道に入り込んでいった。幻士郎は慌ててその後についていく。
九岳は大きなリュックを背負っていたが、その歩みはよどむところがない。自分の荷物が入ったリュックを背負った幻士郎は、ついて行くのがやっとだった。
やがて二時間も道なき道を登りきると、不意に一件の山小屋が見えた。クタクタになった幻士郎には、その小さな小屋がオアシスに見えた。
「着いたぞ、荷物をおけ」
小屋に入り込むと、九岳は幻士郎に言った。幻士郎も荷物を置いて、畳にばたりと横になる。
「つ、疲れたあ……」
「おい、立ってみろ」
疲れた体を無理やり起こすと、その幻士郎の尻を九岳が触った。
「ひゃあ! な、な、な、なにするんですかっ!」
幻士郎は顔を赤くして九岳を睨んだ。九岳は構う様子はなく、大腿を触り、両肩を触った。
「な、なに触ってるんですか、やめてください!」
涙ぐみながら幻士郎が抗議する。と、九岳はいかつい顔で睨んで返した。
「見た目は華奢だが――歩いてる間も姿勢は悪くなかった。姿勢を維持する抗重力筋は発達してるようだな」
「こう…重力?」
「お前、爺さんに剣術を教わってたのか?」
真面目な顔をした九岳の問いに、幻士郎は答えた。
「はい。お爺ちゃんの趣味だと思ってたんで、真面目につきあってました」
「なるほど……しかし、運動筋肉はからきしだな。お前はもっと鍛える必要がある。とりあえず、これに着替えろ」
九岳はそう言うと、着る物をよこした。その傍で九岳も服を脱いで着替えだす。隆起した筋肉がはっきりと判る、鍛え抜かれた身体に幻士郎は息を呑んだ。
「早く、お前も着替えろ」
「は、はい」
幻士郎は躊躇しながら上着を脱いだ。
その白い胸元が露わになる。その胸の中央、水月部には大きな傷跡があった。
「お前、その傷は――六年前のものか?」
不意に声をかけられて、幻士郎は隠すように服を着た。
「そ、そうです……」
恥ずかしそうに俯く幻士郎を、九岳は厳しい表情で見つめた。幻士郎に渡された服は作務衣に近いものだった。
九岳は何も言う事はなく、表へ出ていくそぶりを見せた。慌てて幻士郎はついていく。土間に出ると、足元に何かが放られた。
「靴じゃなくて、これからはそれを履け」
それは草鞋だった。九岳が履くのを見様見真似で、草鞋を履く。
表に出ると、九岳が言った。
「休んでる暇はないぞ。夜になる前に水を汲みに行くんだ」
「え? えぇ??」
九岳がそう言うと木製の背負子を背負う。その背負子には大きな桶が結わえられていた。九岳が言った。
「いいか、今日は俺が水を運んでやる。明日からは、これはお前のやる事だ。今日はとにかく、俺について来い」
それだけ言うと、九岳は走り出した。幻士郎は慌てて、その後を追う。
(早い。こんな山道なのに、早すぎる!)
道と言えないような獣道を、九岳はなんでもないように走っていく。幻士郎はついて行くのがやっとだった。
「ヘバるな! 俺はこれでも、相当加減して走ってるんだぞ」
(う、嘘でしょ)
息を切らしながら、幻士郎は山道を走った。
(足の裏が――痛いよ)
普段の靴と違い、草鞋が薄い。地面の凸凹が直接に足裏に伝わる感じで、とにかく刺激が強かった。尖ってる石などを踏むと痛いので、幻士郎は注意して走るしかなかった。
やがて30分も走ると、何か轟音が聞こえてきた。
視界が開けると、目の前に大きな滝がある。幻士郎はその雄大さに、圧倒された。
「……凄い…」
高さがどれくらいあるのか判らないが、相当の高さだった。水量も多く、辺りは水が落ちる轟音に包まれている。
「此処の水は綺麗だ。飲んでみろ」
九岳はそう言うと背負子を降ろし、手ですくって滝つぼの水を呑んだ。ごくり、と喉を鳴らす。それを見た幻士郎は、自分も走ってきて喉が渇いていたのを想い出した。
「美味しい……」
水を飲んで、幻士郎は恍惚となった。滝つぼから飛び散る飛沫が、辺りに霧のように充満している。その顔にあたり、身体を覆う水分が、疲労を癒すようだった。
「おい、試しに背負ってみろ」
桶に水を入れ、蓋をして背負子に結わえた九岳が、幻士郎に言った。幻士郎は背負子の紐に身体を入れ、立ち上がろうとした。
「……立てませんー」
「フン、まあそうか。もういい」
幻士郎が身体を離すと、九岳は片手で背負子を取り、何でもないように背負った。
「ええーっ!」
「最初はそんなもんだ。明日からはお前が運ぶんだぞ」
「む、無理ですぅ」
「判ってる。だから最初から満杯の水を運ぶんじゃない。少しずつ水を増やすんだ。だが一ヶ月後には、お前も満杯の水を運べるようになってないと駄目だ」
九岳の厳しい表情に、幻士郎はごくりと唾を呑むと頷いた。歩きだした九岳が、幻士郎に言葉をかける。
「いいか、滑落事故は下山の時が多い。下りこそ気をつけろ。下りはゆっくり降りるから、とにかく足元に注意するんだ。登りで脚が疲労してるから、自分の筋力を信用するな」
確かに、もう足に震えがきていた。登りとは違い、九岳は下りはゆっくりと、一歩ずつ下っていた。幻士郎は疲労感と戦いながら、ゆっくりと山道を下った。
やがて山小屋に帰りつくと、幻士郎は倒れ込むように床に転がった。全身疲労で、もう動けなかった。
「飯ができるまで休んでろ」
九岳がそう言うのが、遠いところから聞こえるようだった。何を食べるんだろう――と思っているうちに、幻士郎の意識は途切れた。
*
目覚めると、幻士郎は自分が布団に寝かされている事に気付いた。
何か匂いがする。そして朝だった。そう言えば、昨日何も食べないまま寝てしまった、と幻士郎は気付いた。
起き上がろうとした幻士郎が小さな悲鳴をあげる。大腿に猛烈な痛みが走ったのだった。
「い,痛いぃ――」
ひどい筋肉痛だった。その声を聴いてか、隣室にいた九岳が声を上げた。
「起きたのか」
「…お、おはようございます」
大腿だけでなく、ふくらはぎも痛い。立ち上がろうとしたが、あまりにも痛いので、幻士郎は這って隣室へ移動した。
隣室には囲炉裏がある。その囲炉裏に上から吊るされた鍋がかけてあった。匂いはそこからしてるのだった。
「立てないのか?」
九岳がじろりと睨みながら問うた。
「かなり痛いです」
「足首を痛めたような痛さか?」
「いえ、筋肉痛です。こんなになったの、初めてです」
「痛めてないならいい」
九岳はそう言うと、鍋の木蓋を取り、中の粥を椀によそうと幻士郎に差し出した。
「筋肉痛は筋肉が破壊された証だ。それから超回復することで、筋肉は発達する。そのためには、たんぱく質が必要だ。喰え」
幻士郎は差し出された椀を見た。中は肉と米と何か判らない菜が煮込まれている。よく判らなかったが、美味そうな匂いがした。腹が猛烈に減っていた幻士郎は、とにかく粥を食べた。
「おかわり!」
「……お前、意外に肚が座った奴だな」
九岳が苦笑しながら、幻士郎におかわりを渡した。幻士郎はそれをかきこみながら言った
「食べることも修行ってことですよね? ぼく頑張りますっ」
無心になって粥を食べる幻士郎に、九岳は目を細めた。




