紅道幻士郎
校門へと向かっているのは談笑しながら歩く、女子生徒の集団である。しかしその中に一人だけ、小柄な男子生徒が混じっていた。
「今日も、幻ちゃんのケーキ、美味しかったねー」
「そう? 良かった。けどチョコレートの扱いって難しいよね」
そう言って男子生徒――紅道幻士郎はにっこりと微笑んだ。
顔だけ見れば美少女かと思うような可憐さである。
少し茶色めのサラサラな髪。整った面立ちに細い顎。マツエクなしでも目立つほどの長い睫毛の下に、何故かいつも光沢を放っている大きな瞳。
周囲の女子に決して負けてない顔の造作である。幻士郎は周囲の女子に溶け込んで談笑していた。
「そうは言っても、幻ちゃんのチョコ・デコレートは完璧でした」
「熱の扱いが上手っていうかね。幻ちゃんて、火加減が上手なんだよなあ」
「そうそう、一番いいところで、いつもちゃんと止めてる。だからスポンジも、焼き上がりのふっくら感が凄いのよねー」
「いやあ、嬉しいなあ」
幻士郎は相好を崩した。幻士郎はお菓子同好会のメンバーである。メンバーの男子は幻士郎一人。けど、そんな事は気にせず、幻士郎はお菓子造りを楽しんだのだった。
校門を出たところで、幻士郎はふと視線の先に一人の男子学生を見つけた。
「あ、ぼくここで帰るね。じゃあね」
「じゃあねー、幻ちゃん」
手を振る女子たちに手を振り返すと、幻士郎は先を行く男子に走って追いついた。
「大ちゃん、今、帰り?」
「お、幻士郎か。今日はーーお菓子同好会か」
声をかけられた男子学生が、後ろを振り返ってそう言った。
「うん。大ちゃんは空手部の帰りだね」
幻士郎は男子学生の隣に、嬉しそうに並んだ。
男子学生は若月大樹。幻士郎の幼馴染である。
「お前、いっつも甘い匂いすんな」
「お菓子造った帰りだから。食べる? チョコクッキーあるよ」
そう言うと幻士郎は手提げ鞄から、ごそごそとクッキーを取り出した。
「はい」
「サンキュー」
大樹が無造作に口に放る。食べる様を嬉しそうに見ていた幻士郎だが、大樹が呑み込んだ後にため息をつくのを見て目を丸くした。
「どうしたの? 美味しくなかった?」
大樹は首を振ると、がくりと首をうなだれて幻士郎の肩に腕を置いた。
「甘さが沁みる……」
「えぇ?」
「聞いてくれよ、三年の高坂美麗先輩…やっぱり、相模部長とつきあってたんだぜ!」
「あ~……」
幻士郎は苦笑して見せた。
「入学以来、入部して二ヶ月。おれは美麗先輩に見てもらおうと必死に頑張ってきたのに!」
「え、個人戦出たいからじゃなかったの?」
「いや、それもあるけどさーー」
大樹がそう言った時、不意に後ろから追い越していった人物が振り返った。
「若月!」
振り返ったのは、強面の男子生徒である。
「あ、二階堂先輩、お疲れ様です」
大樹は軽く挨拶をしたが、声をかけられた二階堂の方は、怒りのこもった目を大樹に向けたままだった。
「俺はお前が代表だなんて認めてない。お前を認めた部長も、俺は認めないからな」
二階堂は憎々し気にそれだけ言うと、歩き去っていった。
幻士郎が心細げに口を開く。
「大ちゃん、大丈夫、あの人?」
「気にしてないよ、おれの方が強いし」
「もう。そんな事言ったら、余計な恨み買うからねっ。ちゃんと気をつけて」
そう言って幻士郎は、唇を尖らせた。その様子を見て、大樹が口を開く。
「……お前、本当に可愛い奴だな。女の子だったら、ほんと彼女にしたのに」
「残念だったねっ」
幻士郎は笑ってみせた。
*
降ってきた木刀を鎬ではすかいに受け、相手の木刀を逸らしながら自分の木刀を相手の喉元に差し込む。それを察した相手が後退するところを追い込む。相手が木刀を払うのを上段に振りかぶって躱し、がら空きになった頭へ打ち込む。
幻士郎の木刀が、ピタリと祖父の白髪頭の上で止まった。
「うむ、今日はここまで」
短くした白髪の相手は、幻士郎の祖父・幻雲である。痩身の体躯は年齢とは裏腹に引き締まっており、顔には武人らしい厳しさがにじみ出ていた。
向かい合って座ると、幻雲は小箱を幻士郎に差し出した。
「明日はお前の十六歳の誕生日であろう。これをお前に譲る」
「え? お爺ちゃん、誕生プレゼントだったら誕生日に送るもんだよ」
「それでは遅い。いいから開けて見なさい」
幻士郎は黙って小箱を開けた。中には、鎖がついた木のブローチが入っている。そのブローチの中心は、大きめの赤い宝石のような石が嵌められていた。
「これ何? お爺ちゃん」
「火蓮石だ。火蓮真機流の継承者が持つ物だ」
「お爺ちゃん! こんなの貰えないよ。だって、ぼくの武技は、まだ全然、未熟だし」
「それが判ってるならいい。とにかく持ってなさい。特に、明日は肌身離さず身に着けるのだぞ」
幻士郎は納得しかねる表情をしながらも、そのブローチを受け取った。
稽古が終わった後に、幻士郎は夕飯を並べた。夕食を作るのは、いつからか幻士郎がやるようになっていた。食事造りは苦にならず、むしろ好きだったからである。
カレイの煮つけを食べる祖父に、幻士郎は言った。
「ねえ、お爺ちゃん」
「なんだ」
「ぼくねえ……将来、パティシエになりたいと思ってるんだけど」
「パテーーとは何だ?」
「ケーキを作る人だよ」
幻士郎はにっこりと微笑んだ。しかし幻雲の渋い表情を見て、真顔に戻る。
「……駄目かな?」
「いや、お前がそう思うのなら、それでいい」
幻雲は、幻士郎を見つめながら、そう言った。
*
重苦しい。全身が重い泥に浸かっていて、自由に動かすことができない。
泥がまとわりついて、呼吸をする鼻も口も上手く息を吸い込めない。息苦しさを感じながら、幻士郎はただ手足をばたつかせたもがいた。
「――苦しいのかい?」
不意に、幻士郎の耳の傍で、微かに息を吹きかけるような囁き声がした。
幻士郎は驚いて、声のした右を振り向いた。
何も…誰もいない。
「お前は、私のものだよ」
今度は背後から声がする。幻士郎は恐ろしさに身を強張らせた。
二本の手が、背後から回され幻士郎の身体を包む。
(冷たい腕だ)
手は幻士郎の身体を撫でまわしていた。
「や…やめて……」
幻士郎はその腕を捉えると、身体から引き離した。振り返って、自分を捕らえていた者を見る。
紅い、三ヶ月のように微笑む唇。
腰まである長く伸びた銀髪。その直毛の隙間から、黒い、闇のような眼がこちらを覗き込んでいた。
恐怖を感じながらも、幻士郎は問うた。
「あなたは…誰?」
「くりゅう」
唇が、さらに弓なりに反る。
幻士郎は恐ろしさに、背を向けて駆け出した。
「――わぁっ」
目覚めた。身体を起こした幻士郎は、自分が夢を見ていた事を理解した。しかし、布団の上ではない。
「……何処?」
頬に砂がついている。立ち上がった幻士郎は自分がパジャマのままで、しかも裸足で来たことに驚いた。
辺りを見回す。見覚えのある公園だという事は判った。
(なんでこんな処に? ぼくが…自分で歩いてきたの?)
疑問に囚われながらも、幻士郎は急いで家に戻った。
*
幻士郎と大樹は同じクラスの、前後ろの席である。前の席が大樹で、その後ろの席が幻士郎だ。窓際に並ぶ二人は、初夏の風が入り込む教室で話していた。
「なんだかお前、疲れた顔してない?」
大樹の言葉に、幻士郎は笑ってみせた。
「ちょっと夢見が悪かったせいかも…。ね、それより今日、何の日か知ってる?」
「何? なんか特別なことあるの?」
大樹の問いに、幻士郎は微笑んだ。
「いや…そんな特別でもないんだけどねーー」
幻士郎がそう言って少し頬を赤らめた時、教室の外から一人の生徒が入ってきた。
「大樹!」
「おう、翔平か。どうした?」
席まで寄ってきた翔平は、大樹に向かって声を上げた。
「聞いてるか? 部長が昨日、大怪我をしたらしいぞ」
「昨日? 一緒に部活やったじゃないか」
「いや、なんでも夜中に呼び出されたらしい。全身打撲で入院していて意識不明なんだって」
大樹は驚きに眼を見開いた。が、傍で聞いていた幻士郎も、かすかに息を呑んだ。
「で、今日はとりあえず部活は中止だって。それを伝言するように言われて来たんだ」
「そうか。ご苦労さん」
そう言って去っていく翔平に、大樹は手を上げて見せた。
「……なんか、大変なことになったね」
「そうだなーー」
大樹は渋い表情をしていたが、ふいに幻士郎に視線を向けた。
「そうだ! 思い出したぞ、今日はお前の誕生日じゃないか」
「へへー、当たりぃ」
幻士郎が笑って見せると、大樹が言った。
「そうだな…今日は部活休みだっていうし、二人でどっか遊びに行くか」
「いいの?」
幻士郎の問いに、おう、と答えた大樹に、幻士郎は笑顔で言った。
「それじゃあね、新しくできたパティスリーがあるんだ。そこに行ってみない?」
「なんだ、パテーーなんとかって?」
「ふふ、お爺ちゃんと一緒」
幻士郎は微笑んだ。
放課後、二人は街中へ出かけ、スポーツ用品店や雑貨店を覗いたり、お目当てのパティスリーでケーキを食べたりした。帰る頃には、もう夕暮れが差し始めていた。
「――結構遅くなったな」
「そうだね、楽しかったね。大ちゃん、ありがとうね。ぼくの誕生日に付き合ってくれて」
微笑みかける幻士郎に、大樹はふと立ち止まった。
「そうだ、忘れないうちに渡しとくよ」
「なあに?」
大樹が鞄の中から、リボンのかかった小箱を取り出す。
「ほいよ、誕生日おめでとう」
「え! さっき買ってたの、ぼくにだったの? ありがとう、大ちゃん……」
幻士郎は感動に目を潤ませながら、大樹を見た。その可憐さに、思わず大樹は赤くなって目を逸らす。
「別にそんな、大したもんじゃないからさ」
「嬉しい、大事にするねっ」
幻士郎がそう微笑んだ時、不意に二人の元に影が差した。
夕暮れに長く伸びた影の先に、男が立っている。
「楽しそうだなあ、おい」
「二階堂先輩…」
それは大樹の先輩、二階堂であった。大樹は少し顔をしかめながら、二階堂に言った。
「今日は稽古休みだったんだから、何しようと自由でしょ。先輩こそ、部長のお見舞いとかいいんですか?」
その言葉を聞いた時、二階堂が口元を歪ませた。
「部長はな……俺がやったのさ!」
大樹は顔を険しくした。
「まさか…けど、部長がそんなに簡単にやられるはずない」
「大したことなかったよ。命乞いして謝ってたぜ。ひぃひぃ泣いてなあっ」
愉快気に笑みを浮かべる二階堂に対し、大樹は怒りの顔になった。
「あんた……」
「そして、お前もそうなるんだよ!」
その瞬間、二階堂の顔に異変が起きた。
顔が突然、ぼこりと内側から膨らむ。その眼が飛び出るかのように大きくなったかと思うと、顔の外側へ離れていく。頭髪がなくなり、代わりに緑色の頭がそこに現れた。
「……カメレオン?」
大樹はその姿を見て呟いた。確かにその頭はカメレオンのようで、二階堂は離れた目を別々にぐりぐりと動かしていた。
「だ、大ちゃん……」
幻士郎が恐ろしさに声を洩らす。大樹は幻士郎を庇うように前へ出ると、微かに後ろを向いて声を上げた。
「幻士郎、逃げろ」
「けど、大ちゃんは……」
「いいから逃げろ!」
大樹の言葉に押されるように、幻士郎は背後に向けて走り出した。
「カッコイイなあ、お前」
嘲るように二階堂が口にした瞬間、大樹は凄まじい衝撃を腹部に受けて、後方へ吹っ飛んだ。
走っていた幻士郎の足元に、吹っ飛ばされた大樹が倒れ込む。
「大ちゃん! 大丈夫!」
幻士郎は倒れた大樹にしゃがみ込んだ。
「な…んだ、今のは」
苦痛に顔を歪めながら上半身を起こした大樹は、二階堂が長い舌をうねらせながら近づいてくるのを見た。
しゅるるるとその舌が引っ込む。大樹は立ち上がった。
「へっ」
カメレオンの舌が凄まじい速さで飛んでくる。大樹はその舌を、下段受けで叩き落とした。
「やるねえ。部長は一つも受けられなかったがな。けど……これならどうだ!」
カメレオンが連続攻撃を放つ。その攻撃は大樹の膝、脇腹、右肩、左頬を立て続けに打ち込まれた。
「ぐぅっっ」
「どうだ? 命乞いして謝れよ、『いい気になって、すみませんでした』ってな」
大樹は何も言わず、ただカメレオンと化した二階堂を睨みつけている。その様子に業を煮やしたカメレオンは、突然、舌を伸ばした。
「あっ、あぁっ!」
その伸ばした舌は、幻士郎の身体を捉えていた。幻士郎を捉えた舌は、幻士郎の身体に巻き付いて宙に浮かべている。
「お前が謝らないなら、こいつを絞め殺してやる」
「止めろっ! 幻士郎には手を出すなっ!」
大樹は叫んだ。その間に、カメレオンの舌は幻士郎の首に巻き付き、その頬を舐め回していた。
「うっ…うぅ……」
幻士郎が呻き声を上げる。カメレオンは笑い声とともに、大樹に向かって言った。
「土下座して、地面に頭をつけて謝れ! こいつが死んでもいいのか!」
カメレオンの声に、大樹は地面に跪くと頭を地面につけた。
「……いい気になって…すいませんでした……」
「ハッ、ざまあねえなあっ!」
カメレオンは幻士郎の身体を地面に捨てると、舌を鞭のように振り上げて上から大樹の背に叩きつけた。
「ぐっーー」
「痛いか? その痛みで、自分の弱さを思い知れ!」
伸びる舌が、何度となく大樹の身体を打ちのめす。しかし大樹は、打たれながらも声を上げた。
「弱いのは……あんたの方だ…」
「あん?」
「自分の弱さを認められず……怪物の力に頼るあんたは、いつまでたっても本当に強くなることはできない……」
カメレオンの顔色が、憤怒に変わった。
「貴様ッ! 殺してやるっ!」
舌は大樹の首に巻き付き、そのまま宙吊りにした。
「ぐ……」
もはや大樹は、呻き声をあげることさえできなかった。
身体を起こした幻士郎は、顔色が変わっていく大樹を見て悲鳴を上げた。
「大ちゃん! やめて! もう、やめてっ!」
しかしカメレオンは、聞く耳ももたず大樹の首を締め上げていく。幻士郎は泣きながら叫んだ。
「やめて、大ちゃんが死んじゃう!」
幻士郎は立ち上がった。大樹の顔が青黒くなってきている。もう、意識もあるか判らなかった。
「やめろぉっ!」
幻士郎が爆発的な叫び声を上げた。その瞬間、幻士郎の身体が赤い光に包まれる。
と、次の瞬間には、幻士郎は大樹の傍でカメレオンの舌を掴んでいた。
「なに? いつの間にーー」
驚愕するカメレオンをよそに、幻士郎の手が炎に包まれた。