江戸震撼(8)
二本松藩の泰平の眠りを醒ましたのは、尊皇攘夷の嵐だった――。
文久2年、思いがけず名家を継いだ二本松藩の番頭、大谷鳴海の視点から二本松藩内における幕末動乱、そして天狗党騒乱について描きます。
【主要登場人物】
大谷鳴海……主人公。義弟の縫殿助の死により彦十郎家を継ぎ、詰番・番頭と出世していく。
<彦十郎家>
りん……鳴海の妻
二階堂水山(信義)……鳴海の義兄であり、先代彦十郎。鳴海の父親代わりを務める。
二階堂衛守……鳴海の義弟
大谷信吉(養泉)……鳴海の実父
玲子……水山の妻。鳴海の養母
志津…… 鳴海の義姪
那津…… 鳴海の義姪
<上司・同僚>
大谷与兵衛 …… 六番組番頭。大谷家本家の当主
大谷志摩 …… 詰番。与兵衛の息子
丹羽丹波 ……二本松藩家老座上
日野源太左衛門 …… 二本松藩家老
丹羽和左衛門 ……郡代
丹羽新十郎…… 郡代見習い。和左衛門の養子
羽木権蔵…… 郡代
丹羽一学 …… 番頭。後に家老に出世
樽井弥五左衛門 ……詰番
種橋主馬介…… 四番組番頭
小川平助…… 山鹿流の兵法学者。出陣時には物頭も務める
三浦十右衛門(義制)…… 藩の砲術指南役
種橋主馬介…… 四番組番頭
日野大内蔵…… 二番組番頭
成田外記衛門……日野源太左衛門の使番
佐倉源五右衛門…… 六番組使番。弓術の達人
小澤長右衛門……江戸藩邸詰
<五番組の部下>
大島成渡……弓術・剣術や経済感覚に優れている
笠間市之進 …… 糠沢組代官
丹羽権太左衛門 …… 長柄奉行
水野九右衛門…… 五番組物頭
原兵太夫…… 弓術師範の免状持ち。旗奉行も兼任する
杉内萬左衛門……鍛冶奉行。奥右筆も兼任
小笠原是馬介……手働衆の一人。伊東流槍術が得意
大谷右門……与兵衛の次男
井上勘右衛門…… 五番組使番
松井政之進…… 五番組使番
<二本松藩内の勤皇思想家>
藤田芳之助……剣豪として知られた藤田三郎兵衛の孫
三浦権太夫(義彰)……丹波や藩公にも直言を辞さない
安部井清介……父子共に勤皇思想の持ち主。
<商人>中島黄山(長蔵)……二本松藩の御用商人。城下で蚕種業を営む
宗形善蔵……針道の富豪。生糸の買付問屋を営む傍ら、貸金業も営む
<水戸藩・守山藩関係者>
猿田(田中)愿蔵……水戸藩の郷校時雍館の代表。天狗党
藤田小五郎……水戸藩の改革派、藤田東湖の四男。天狗党
三浦平八郎……守山藩の顔役
武田耕雲斎(伊賀守)……水戸藩執政
山野辺義芸……助川海防城主。元水戸藩執政
<水戸藩関係者(諸生党)>
戸祭久之允……大沼海防陣営掛
寺門登一郎……元博徒。太田より出陣し、民兵を率いて戦う
内藤弥太夫……太田守備隊軍監。日立方面の天狗党討伐責任者。
相羽九十郎……山下防御掛
佐治七右衛門……太田御殿固め役
筧助太夫……水戸藩家老
市川三左衛門……諸生党筆頭の水戸藩家老。
<その他>
丹羽長国……二本松藩第十代藩主
水野勝知(日向守)……長国公の実弟。結城藩主
「――全く、あれほど政争に巻き込まれるなと申したろうが」
その日鳴海は本家の夕餉の席に招かれて、ついでに与兵衛に叱られた。鳴海も、耳が痛い。無論、側には志摩もいる。
「父上。鳴海殿を責められるのは酷でしょう。あれはどうしようもないですよ」
志摩が鳴海を慰めるように、徳利から酒を注いでくれた。
「鳴海殿が守山との因縁に巻き込まれてしまったのは、事故のようなもの。悪いのは、私念を他藩に持ち込み、同志を増やそうとした守山の三浦ではございませぬか」
「全く、いい迷惑だ」
志摩の杯を受けながら、鳴海も酒を注ぎ返してやり、ぼやいた。
「――あの親子は、もう駄目かもしれぬな」
与兵衛が、嘆息した。与兵衛の言う「親子」が和左衛門と新十郎の関係を指すのは、明らかだった。
あくまでも「農民主体」で物事を捉えようとする和左衛門と、現実主義者である新十郎。そこへ、水戸の尊攘過激派も加わってくるとなれば、各々の面子も関わってくる。皆の面前で揉めてしまったからには、与兵衛の言うように関係の修復は難しいかもしれない。
出来れば藩論を割りたくないのは、与兵衛も同じに違いなかった。だからこそ、昼の席でさり気なく助け舟を出してくれたのだろう。
「どちらの御仁も、民を思う心に偽りはございませぬが……」
鳴海の愚痴に、与兵衛も肯いた。その顔には、憂慮の色が濃い。
「民は農民だけではない。商人や在郷士分の者らも、また民であることには変わらぬ。それらの者の利や貢献も考慮してやらねば、藩を揺るがしかねん。難しいな」
「二本松は身分については案外緩いですからね。郷士や商人と言っても我々より遥か昔からこの土地に住んでる者らであれば、たとえ身分が低かろうと、その力は侮れませんし」
志摩の言う通りである。一口に丹羽家と言ってもその祖先の出自は様々で、丹羽本家や大谷家の祖先は尾張の出だ。二本松に腰を据えたのは三代目藩主光重公の頃の話であるが、その前の二本松において、仙台藩祖である伊達政宗が当地を隷属させた関係で、政宗に滅ぼされた豪族らの末裔が、現在の二本松藩の郷士や商人となっている例も多いのだった。そのため、表向きの身分は郷士や商人でありながら武士として誇り高い者らも多く、大身の者らも一抹の遠慮がある。そしてそれらの者たちは、影から二本松の財政を支えている。その辺りの機微への理解が、和左衛門には足りない。
そのような和左衛門に、新十郎も随分と我慢を強いられていたのだろう。実の親子でなければ、尚更である。鳴海も水山とは義理の親子のようなものだが、水山が養泉や鳴海に気を遣ってくれていたからこそ、彦十郎家は円満なのだと思い知らされた。
「それにしても、お主も随分と見込まれたものだな」
与兵衛が苦笑を浮かべた。
「執政職は、御免被ります」
鳴海は首を振った。家格からすれば、いずれ彦十郎家に家老職のお鉢が回ってきてもおかしくない。今までの例からすれば、鳴海がある程度詰番としての経験を積んでから番頭、そして家老に進むはずなのだが、いくら当主が急死したからとはいえ、一介の広間番だった鳴海が詰番に回されたのも異例なのだった。順番からすれば、鳴海ではなく衛守辺りが彦十郎家当主となるのが妥当だった気もする。今更ではあるが。
「そう申すな。今やお主は、名実共に彦十郎家の当主ではないか。よもや、国政のことまで心得ているとは思わなんだぞ」
与兵衛はそう述べて、目を細めた。幼い頃からよく知っている与兵衛から「当主」として扱われると、何やらこそばゆい。
「確かに。擬戦では鳴海殿に勝ちましたが、政局のこととなると、私はさっぱりですし」
志摩が感心したように述べる。だが、鳴海の本心としては微妙だった。
「和左衛門殿のお言葉ではございませぬか、二本松武士の本分は民の撫育でありましょう。その方途を突き詰めていくと、尊攘の考えもある程度理解せねば次の一手を考えられぬというだけでございまする」
「なるほどのう……」
与兵衛が、盃を口元に運ぼうとしていた手を止めた。本気で、何かを考えているらしい。
「では、鳴海殿が考えられる次の一手は?」
からかうように、志摩が口元に笑みを浮かべた。志摩の言葉に釣られて、鳴海も考えを巡らす。
恐らく、幕府が五月十日に攘夷決行と号令を出したとしても、それを実行に移すのは攘夷の気風が強い藩のみ。水戸や藩主慶篤の兄弟が養子に入っている備前(岡山)、因州(鳥取)あたりか。もしくは、以前より水戸の過激派とつながりが強いと噂されている長州。または、イギリスと諍いを起こした薩摩。それらが蠢くとすれば、自ずと尊攘派の心の拠り所である帝のおわす京が舞台となる。
「朝廷は、帝の御威光を広く天下に示したい。であれば、いずれ何らかの名目で朝命と称し、諸大名を直接京に呼びつけるのではございますまいか」
与兵衛が、じっとこちらを見ている。
「――続けられよ」
「その折に、政局の見極めに優れた御仁、そして武勇の経験に長けた御仁を京に遣わし、諸藩の動きを見極めるべきかと存じます」
「お主の申す諸藩とは、水戸も含めてか?」
「水戸も守山も含めてで、ございます」
鳴海は、じっと与兵衛の返答を待った。その考え込む様子は、一端の政治家である。「政治に口を挟むな」と言いつつも、結局、番頭職である与兵衛も政局については定見を持たざるを得ないようだった。
「――その言葉、折あらば御家老方に申し伝えよう」
与兵衛は、本気で鳴海の言葉を取り上げる気なのだと、鳴海は悟った。それ程までに、今の政局は読めない。
「よろしくお頼み申す」
ようやく、与兵衛が鳴海の注いだ杯に口をつけた。親類同士の気楽な酒の席のはずが、いつの間にか本気の政治談義になっている。その事実に気付くと、改めて自分の立場というものを考えさせられた。
「やはり父上の申されるように、鳴海殿は彦十郎家の御当主ですね。敵いませぬ」
側で鳴海の言葉に耳を傾けていた志摩は、笑いながら更に鳴海の杯に酒を注いだ――。




