脱藩者(2)
二本松藩の泰平の眠りを醒ましたのは、尊皇攘夷の嵐だった――。
文久2年、思いがけず名家を継いだ二本松藩の番頭、大谷鳴海の視点から二本松藩内における幕末動乱、そして天狗党騒乱について描きます。
【主要登場人物】
大谷鳴海……主人公。義弟の縫殿助の死により彦十郎家を継ぎ、詰番・番頭と出世していく。
<彦十郎家>
りん……鳴海の妻
二階堂水山(信義)……鳴海の義兄であり、先代彦十郎。鳴海の父親代わりを務める。
二階堂衛守……鳴海の義弟
大谷信吉(養泉)……鳴海の実父
玲子……水山の妻。鳴海の養母
志津…… 鳴海の義姪
那津…… 鳴海の義姪
<上司・同僚>
大谷与兵衛 …… 六番組番頭。大谷家本家の当主
大谷志摩 …… 詰番。与兵衛の息子
丹羽丹波 ……二本松藩家老座上
日野源太左衛門 …… 二本松藩家老
丹羽和左衛門 ……郡代
丹羽新十郎…… 郡代見習い。和左衛門の養子
羽木権蔵…… 郡代
丹羽一学 …… 番頭。後に家老に出世
樽井弥五左衛門 ……詰番
種橋主馬介…… 四番組番頭
小川平助…… 山鹿流の兵法学者。出陣時には物頭も務める
三浦十右衛門(義制)…… 藩の砲術指南役
種橋主馬介…… 四番組番頭
日野大内蔵…… 二番組番頭
成田外記衛門……日野源太左衛門の使番
佐倉源五右衛門…… 六番組使番。弓術の達人
小澤長右衛門……江戸藩邸詰
<五番組の部下>
大島成渡……弓術・剣術や経済感覚に優れている
笠間市之進 …… 糠沢組代官
丹羽権太左衛門 …… 長柄奉行
水野九右衛門…… 五番組物頭
原兵太夫…… 弓術師範の免状持ち。旗奉行も兼任する
杉内萬左衛門……鍛冶奉行。奥右筆も兼任
小笠原是馬介……手働衆の一人。伊東流槍術が得意
大谷右門……与兵衛の次男
井上勘右衛門…… 五番組使番
松井政之進…… 五番組使番
<二本松藩内の勤皇思想家>
藤田芳之助……剣豪として知られた藤田三郎兵衛の孫
三浦権太夫(義彰)……丹波や藩公にも直言を辞さない
安部井清介……父子共に勤皇思想の持ち主。
<商人>中島黄山(長蔵)……二本松藩の御用商人。城下で蚕種業を営む
宗形善蔵……針道の富豪。生糸の買付問屋を営む傍ら、貸金業も営む
<水戸藩・守山藩関係者>
猿田(田中)愿蔵……水戸藩の郷校時雍館の代表。天狗党
藤田小五郎……水戸藩の改革派、藤田東湖の四男。天狗党
三浦平八郎……守山藩の顔役
武田耕雲斎(伊賀守)……水戸藩執政
山野辺義芸……助川海防城主。元水戸藩執政
<水戸藩関係者(諸生党)>
戸祭久之允……大沼海防陣営掛
寺門登一郎……元博徒。太田より出陣し、民兵を率いて戦う
内藤弥太夫……太田守備隊軍監。日立方面の天狗党討伐責任者。
相羽九十郎……山下防御掛
佐治七右衛門……太田御殿固め役
筧助太夫……水戸藩家老
市川三左衛門……諸生党筆頭の水戸藩家老。
<その他>
丹羽長国……二本松藩第十代藩主
水野勝知(日向守)……長国公の実弟。結城藩主
「今しがた、郡山宿の検断今泉久三郎より、守山領の欠け入り寺に藤田芳之助が駆け込んだとの知らせがあり申した」
鳴海は、血の気が上るのを感じた。かねてより、鳴海が「手合わせ」と称しながら様子を伺っていた相手である。他領に逃げ込んだということは、すなわち脱藩を意味した。
「あの馬鹿者!」
思わず駆け出そうとした鳴海の肩を、与兵衛が押さえつけた。その力は、歳の割に強い。
「新十郎。詳しく申せ」
報告を受けた丹波も、顔に血色を上らせている。芳之助の祖父である藤田三郎兵衛は、丹波の祖父である貴明がとりわけ目を掛けていた者だった。元は相馬中村藩の出であり、貴明の取りなしによって、従来より二本松藩にあった藤田八郎兵衛家の分家として、藤田三郎兵衛家が認められた経緯がある。芳之助の脱藩は、二本松藩に対して恩を仇で返したのも同然であった。しかも、駆け込んだ先が火種含みの水戸藩とつながりが深い、守山藩ときている。
かねてより、鳴海は芳之助の「剣術修行のために水戸表へ遊学したいので、丹波に取り成してほしい」との嘆願を却下し続けてきた。芳之助が歳を取りすぎているというのが表向きの理由だったが、日頃の言動から、芳之助は祖父である藤田三郎兵衛の行動を擬えようとしているのではないかと、警戒していた矢先でもあった。
新十郎によると、遠乗りと称して郡山宿までふらりとやってきた芳之助は、そのまま阿武隈川の阿久津の渡しに向かい、水馬の技術を駆使しながら、悠々と対岸の守山藩領に上陸したという。だが奇妙なことに、守山側からは、追手が差し向けられることはなかった。この一事からしても、予め芳之助は守山藩の誰かと通じており、かねてより脱藩を計画していたものと見える。
現在芳之助は、欠け入り寺の一つである安養寺に匿われているらしい。欠け入り寺というのは、犯罪者などが駆け込んだ場合、寺が罪人の出頭や自首を促す役割を担わされているというものだ。寺に一種の治外法権を認めているものであり、たとえ役人と言えども、容易には手出しできない。二本松藩にはない守山藩独自の制度であり、芳之助はその制度を巧みに利用したのだった。
他領の駆入寺に逃げ込まれた以上、現在の新十郎の地位では手出しできない。それなりの重職にある者が行かないと、引き渡してもらえないだろうというのである。
「大谷鳴海。新十郎と共に守山に行って参れ」
丹波が、厳しい声色で鳴海に命じた。
「承知」
丹波に言われるまでもなく、鳴海は自分が赴くつもりだった。かねてより芳之助を警戒していた鳴海の面目も、丸潰れだったからである。
城の片隅にある馬房から自分の馬を引き出すと、鳴海はそのまま騎上の人となった。このところ雨が少なく、怒りに任せて馬を疾走させるその足元には、もうもうと土埃が舞い上がった。新十郎も同じように、後から馬を駆けさせてくる。
「してやられましたな」
背後から馬で追ってくる新十郎の声にも、苦々しさが滲んでいる。郡代見習いの地位にある新十郎にとっても、脱藩者を出したというのは失点に違いなかった。
「あれは、以前から水戸に遊学させろといって聞かなかった。だが、急に思い立って水戸へと言い出したわけではあるまい。以前より唆していた者がいたはずだ」
鳴海の言葉に、新十郎が横に馬を並べて鳴海の顔を見た。
「それが、守山藩の手の者だったと?」
鳴海は肯いた。
「以前から、丹波様は勤皇派の様子を探られていた。水戸の天狗者らは、三春領にも随分と入り込んでいるらしい。三春に入り込んでいるのならば、二本松にも潜入させていると考えるのが自明」
新十郎の顔も、険しさを増した。
「先程、小書院の間から聞こえ漏れてきた三浦平八郎ですが、薩摩の尊皇派ともつながりがあると聞いたことがあります。悪名高い、月照や西郷吉之助とも、交わりがあるとの由」
鳴海は新十郎の言葉に、思わず手綱を引いて馬の歩みを止めた。
「それはまことか」
両名とも薩摩の倒幕思想の危険分子として、藩主である島津久光から処分命令が下されたという噂は、鳴海も耳にしたことがあった。そのような危険分子と、隣藩の高位にある者が関わりがあるとなれば、話は穏やかではない。
「やはり、丹波様から伺ったことがあります。丹波様は公にお供して何度か江戸に在府されていたこともお有りですからな。藩内では嫌われておりますが、あれで藩公への忠義心は篤く、藩に関わることの情報収集には熱心な御方ですから」
丹波に対する悪口は聞き流すことにして、切れ者と評判の新十郎の言葉は、鳴海にも納得がいくものだった。
「藤田も、とんでもない者に引っ掛かったものだ」
唇を引き結ぶと、鳴海は黙って再び馬を進めさせた。
やがて、前方に阿武隈川の大河が見えてきた。阿久津の渡しで船頭に船賃を払い、舟を出させた。舟の中から手綱を巧みに操り、嫌がる愛馬を宥めながら泳がせて向こう岸に上陸すると、二人は再び馬に跨り、安養寺の方へ馬首を向けた。そして、安養寺の門前には既に数名の兵士と、肩衣をつけた立派な風体の初老の男が待ち構えていた。
「あれが……?」
鳴海は、新十郎に尋ねた。新十郎が、肯く。
「守山藩の三浦平八郎殿と見受けました」
あらかじめ、二本松藩から追手が繰り出されるのは予想していたのだろう。ここで待ち構えていたことからしても、守山藩に芳之助を匿う意図があるのは明白だった。