虎落笛(7)
二本松藩の泰平の眠りを醒ましたのは、尊皇攘夷の嵐だった――。
文久2年、思いがけず名家を継いだ二本松藩の番頭、大谷鳴海の視点から二本松藩内における幕末動乱、そして天狗党騒乱について描きます。
【主要登場人物】
大谷鳴海……主人公。義弟の縫殿助の死により彦十郎家を継ぎ、詰番・番頭と出世していく。
<彦十郎家>
りん……鳴海の妻
二階堂水山(信義)……鳴海の義兄であり、先代彦十郎。鳴海の父親代わりを務める。
二階堂衛守……鳴海の義弟
大谷信吉(養泉)……鳴海の実父
玲子……水山の妻。鳴海の養母
志津…… 鳴海の義姪
那津…… 鳴海の義姪
<上司・同僚>
大谷与兵衛 …… 六番組番頭。大谷家本家の当主
大谷志摩 …… 詰番。与兵衛の息子
丹羽丹波 ……二本松藩家老座上
日野源太左衛門 …… 二本松藩家老
丹羽和左衛門 ……郡代
丹羽新十郎…… 郡代見習い。和左衛門の養子
羽木権蔵…… 郡代
丹羽一学 …… 番頭。後に家老に出世
樽井弥五左衛門 ……詰番
種橋主馬介…… 四番組番頭
小川平助…… 山鹿流の兵法学者。出陣時には物頭も務める
三浦十右衛門(義制)…… 藩の砲術指南役
種橋主馬介…… 四番組番頭
日野大内蔵…… 二番組番頭
成田外記衛門……日野源太左衛門の使番
佐倉源五右衛門…… 六番組使番。弓術の達人
小澤長右衛門……江戸藩邸詰
<五番組の部下>
大島成渡……弓術・剣術や経済感覚に優れている
笠間市之進 …… 糠沢組代官
丹羽権太左衛門 …… 長柄奉行
水野九右衛門…… 五番組物頭
原兵太夫…… 弓術師範の免状持ち。旗奉行も兼任する
杉内萬左衛門……鍛冶奉行。奥右筆も兼任
小笠原是馬介……手働衆の一人。伊東流槍術が得意
大谷右門……与兵衛の次男
井上勘右衛門…… 五番組使番
松井政之進…… 五番組使番
<二本松藩内の勤皇思想家>
藤田芳之助……剣豪として知られた藤田三郎兵衛の孫
三浦権太夫(義彰)……丹波や藩公にも直言を辞さない
安部井清介……父子共に勤皇思想の持ち主。
<商人>中島黄山(長蔵)……二本松藩の御用商人。城下で蚕種業を営む
宗形善蔵……針道の富豪。生糸の買付問屋を営む傍ら、貸金業も営む
<水戸藩・守山藩関係者>
猿田(田中)愿蔵……水戸藩の郷校時雍館の代表。天狗党
藤田小五郎……水戸藩の改革派、藤田東湖の四男。天狗党
三浦平八郎……守山藩の顔役
武田耕雲斎(伊賀守)……水戸藩執政
山野辺義芸……助川海防城主。元水戸藩執政
<水戸藩関係者(諸生党)>
戸祭久之允……大沼海防陣営掛
寺門登一郎……元博徒。太田より出陣し、民兵を率いて戦う
内藤弥太夫……太田守備隊軍監。日立方面の天狗党討伐責任者。
相羽九十郎……山下防御掛
佐治七右衛門……太田御殿固め役
筧助太夫……水戸藩家老
市川三左衛門……諸生党筆頭の水戸藩家老。
<その他>
丹羽長国……二本松藩第十代藩主
水野勝知(日向守)……長国公の実弟。結城藩主
十二月十六日、鳴海は針道村へ赴いた。この日は公休日であるが、朝早くから紋付袴を身につけ、髷を整えた。予定通り宗形家で、彦十郎家と三春の春山家の結納の取り交わしが行われるのである。
「それでは、行って参る」
家格では劣る先方に気を遣い、鳴海は単身で針道に向かうつもりだった。既に前日、宗形家に人を遣わして結納の品を運ばせてあるので、後は鳴海が行くだけである。
「何卒、先方様によろしくお伝えくださいませ」
玲子が深々と頭を下げた。
「婿殿の御尊顔を、楽しみにしております」
鳴海は冗談めかして言うと、馬に跨った。どんよりとした雪雲から風花が舞っているものの、積もるほどの天候ではない。
一刻もかからずに針道の宗形屋敷に着くと、既に春山家の者も到着していた。
「お初にお目に掛かります。それがし、三春家中の春山伝七郎と申します」
若者がきびきびと口上を述べた。目元がやや涼し気な、賢そうな男である。那津の夫となる人物だ。春山家は郷士格の家柄と言うが、所作も無駄がなく、美しい。この男であれば、安心して那津を任せられるだろう。
「遠路御苦労でござった。大谷鳴海と申す」
鳴海は、ゆったりと笑った。敢えて、番頭の名乗りは挙げなかった。
三献を交わし、三宝に載せられた寿留女や長熨斗、末広などの縁起物を受け取ると、鳴海はやはり三宝に載せた水引を勧めた。水引の中には、春山家への袴料として幾ばくかの金銭が包んである。
善蔵とその妻によってそれぞれが引き渡されると、結納の儀式は終了である。後は婚儀の日を待つばかりとなった。
伝七郎はいわば鳴海の義弟になるわけだが、他藩の者故、今後どれほど那津の顔を見られるかは分からなかった。そこが、先に嫁いだ志津の場合とは違う。生意気な面もあるとは言え、那津もまた、幼い頃から鳴海によく懐いていた。口には出さねど、一抹の寂しさを覚えずにはいられない。
「大谷様。此度は誠に私のような者に那津様を娶せて下さり、恐悦至極にございます」
固い口上を述べる未来の義弟の盃に、鳴海は笑いながら祝い酒を注いでやった。
「鳴海、で良い。これから伝七郎殿も我が身内になるのだから。それに、二本松は大谷の姓を持つ者が他にも大勢おる故、名で呼んでもらわぬと誰が誰やら分からなくなる」
鳴海の言葉に、伝七郎が頬を緩めた。傍らで、媒酌人の善蔵も吹き出す。
「確かに、失礼ながら二本松では御名でお呼びにならないと、誰のことだか分からなくなりますな」
「であろう?」
鳴海は、いちいち指を折ってみせた。彦十郎家の他に、道を挟んだ向かい側の本家には、与兵衛、志摩、右門。彦十郎家には、名字を異にするが志津の実兄である衛守もいる。その他に分家が幾つもあるから、名で呼び習わしてもらわないと、当人も混乱するのだ。
鳴海の気さくな振る舞いに安堵したのか、名残惜しそうにこちらを振り返りながら、伝七郎は三春への道を帰っていった。
その姿が見えなくなると、鳴海はほっと息をついた。
「――いい若者ですな。あの様子ならば、那津とも上手くやっていけましょう」
鳴海も、心底安堵した。さすがに、妙な男に義姪を嫁がせるのは嫌である。
それまでにこにこしていた善蔵が、ふと真顔になった。
「そう言えば、鳴海様。現在の御身分は、名乗られなかったのですな」
鳴海は、肩を竦めた。
「いずれは分かるであろうが、それがしが藩の重鎮と知れば先方が気を遣うと思うてな」
「なるほど……」
鳴海なりの、春山家への気遣いである。
「ですが鳴海殿……。此度の御婚儀といい、番頭へのご出世といい……。慶事ではございますが、御手元は大丈夫なのでございますか?」
鳴海は、顔を顰めた。
「嫌なことを申すな」
本音を言えば、全然大丈夫ではない。大身の家にしては慎ましい嫁入り道具は、鳴海の番頭就任の祝い金から消えていった。城下の中屋への返済も、ようやく終わったばかりである。鳴海の預かり知らぬところでは、縫殿助もこの善蔵からも借りていたようであるし、彦十郎家全体では、一体いくらの借財が残っているものか、さすがに心配である。
「水府浪士らの動き次第では戦支度を命じられるかもしれぬと、新十郎殿とも先日話したばかりだ」
なぜかこの善蔵の前では、鳴海は素に戻ってしまう。それだけ善蔵が魅力ある男でもあるのだが、一方で、衛守らから「注意しろ」と言われたのを忘れていたわけではなかった。
「であれば……」
善蔵は、にっこりと無垢な笑みを浮かべた。
「やはり、それがしが胴元を務める講に入りませぬか?鳴海殿」
来た。鳴海は、顔を引きつらせた。その様子を見て、善蔵は益々笑みを深める。
「今一度申し上げておきますが、ちゃんと配当は全員に回るように計画を組んでおります。だけでなく、手元不如意にも関わらず急に入り用になった場合には、積立の一部を取り崩して充てることもできますよ」
ん?と鳴海は首を傾げた。以前に説明を聞いたときには半ば聞き流していた。あの時は一方的に貸し付けられるのかとばかり思っていたのだが、どうも違うようである。積立ということは、満期を迎えればきちんと鳴海の手元に還元されるということか。
そればかりでなく複利式であるから、毎回受け取る金利の額は年々大きくなっていき、最終的には、最初に投資した額以上の金子が、手元に戻ってくる。
善蔵の淀みない説明に、鳴海は次第に魅入られていった。今売り出しているのは二十口の講であり、そのうち十口は善蔵ら金主の分。五口は、勝手方のくじである。残り五口が並くじで、この並くじが、善蔵が鳴海に勧めているものだった。
「勝手方と申すと、もしや我が藩の勘定方も金を出しているのか?」
鳴海の知らないところで、そのような取引が行われていたとは。何も、鳴海が引け目を感じることはないではないか。
「左様でございますよ。此度の積立の一部は、藩のお台所から出ております」
善蔵は、笑顔を崩さない。その恵比寿のような笑みに気を付けなければと思いつつ、鳴海はつい懐から矢立を取り出してしまった。
「――一口の値段は?」
「二十両でございます。当家へ納めていただく会月は、以前にお話したのと同じ一と七、十一月とご承知おき下さいませ。此度は三年で満期となりますので、少しお安く致しました。満期を迎えたときに全てお返しいたします」
すらすらと講の仕組みを説明する善蔵の手には、いつの間にか大福帳があった。覗き込むと、並くじの空欄は、あと一枠しか空いていない。その空白の右側にある最初の欄には、堂々たる筆跡で「丹羽丹波富教」の名が記されていた。
まさか、あれほど贅沢な暮らしをひけらかしている丹波の名を、ここで見かけるとは。鳴海は可笑しみを押し殺しつつ、つい空白の欄に自分の名を書き入れてしまった。
「よろしゅうございました」
善蔵は鳴海の署名を確認すると、大福帳を閉じた。
「では、質草をお預かりしましょう。何が宜しいですかな?」
その言葉に、鳴海は目を剥いた。
「質を取るのか!?そのようなこと、申しておらなかったではないか!」
「何を申されます。人から金を借りる時に質草をお預かりするのは、世間の常識でございますよ」
涼しげに答える善蔵は、小憎らしいほど落ち着いていた。
「鳴海殿も、番頭としての俸禄が上がりましたでしょう?これから物入りになることも多いでしょうが、懐に入ってくる御給金もそれなりに上がるはずです。なに、本当にお困りの際には質草をお返しいたしますので、ご心配は無用でございますよ」
うっ、と鳴海は言葉に詰まった。そうは言うが、果たして善蔵は本当に返してくれるのか……。
「武士に二言はございますまいな?鳴海殿」
留めの駄目押しをされ、まじまじと恵比寿神の如く無垢な笑顔を見つめながら、鳴海はこの男の真の恐ろしさを、身を以て思い知らされたのだった――。




