1-1 ドラゴンさんこんにちは
目の前には延々続く木々。その名もファブの森という。さらに向こうには天高くそびえ立つ山々。山頂にはうっすらと雲がたなびき、絵画のような雰囲気を滲ませている。クララホルト侯爵領の西端は、ほとんどをこの鏖竜山脈によって占められていた。
エヴェリーナが、ハウベ大公領でも王室直轄領でもない地方に向かったことに理由はない。ただ一攫千金を狙うなら東に限るという噂を耳にしたことがあったからだ。
間違ってはいない。国中から冒険者の集う地だからだ。あそこには多数のダンジョンがある。
ダンジョン。魔物怪物の住まう迷宮。命を種銭にした冒険者という博打打ちに宝箱という報酬を与える地。荒稼ぎを狙うものたちは、その大半が鏖竜山脈を目指していた。ただ貴族のお嬢様にとっては、あらゆる意味で馴染みがない。
彼女だってそんなことは分かっている。それでも他の場所に行くよりは、多少なりとも金と力が手に入る方がいい。復讐するには先立つものが必要なのだ。
エヴェリーナは同年代に比しても才気走っており、頭は回る方だ。それでもまだ世の中というものがいまいち理解できていない。鏖竜山脈で稼げるというのは、危険と隣り合わせだからである。
「あー……お腹減った……」
固くなった土と馬車の轍を踏みしめながら、早くも彼女は空腹という危険に見舞われていた。持ってきた食料は底をつき、路銀も心許ない。馬車もなにも使わず、ただ歩いて出奔したことが裏目に出た。
「今から引き返して……できるわけないか」
使用人たちはともかく、父は入れてくれまい。特にシルミナは絶対に邪魔するであろう。去り際に見せた表情からも明らかだ。
あのツラを思い出すと力が湧いてくる。エヴェリーナはあらためて歩み続けると、街道を折れ、森の中に入った。
森林内は視界が悪いが、いくつもの小道が伸びている。冒険者たちが踏みしめ、自然と作られたのだ。
腹減った腹減ったとつぶやきながら先を行く。自然と頭は垂れ、前を向かずに歩き続けた。知らず知らずのうちに小道すら外れ、木や繁みの奥へと向かう。無意識のうちに鏖竜山脈の麓、しかもめったに人がいかない方面へ進んでいた。
「もう本当にお腹減った。限界……」
不意に頭上が陰る。同時に声が降ってきた。
「人の子よ、なにゆえ我が安寧の地に足を踏み入れる」
やけに重々しい声。エヴェリーナは顔を上げる。
竜がこちらを見つめていた。
長大な翼としなやかな尻尾。二本の角は天を指し、いまにも貫きそう。くすんだ赤い鱗は全身を覆い、なにものにも犯されない不動を誇っている。そして紅玉の瞳は、じっとエヴェリーナに向いていた。
眼前にそびえるのは噂に聞く伝説の古代竜。近寄るものを皆殺しにする、鏖竜の由来となった支配者。幾多の冒険者を退けたダンジョンの王であった。
「再び問う。人の子よ」
空気が震え、まるで頭に直接語りかけているよう。
「なにゆえ我が大地を犯す。余が百年ぶりに玉座を離れ、陽の下の空気を吸わんと気まぐれをおこした途端、立ち塞がるか。その意気は認めるも、我が爪に切り裂かれて終わるであろう。ただちに踵を返し、立ち去ればよし。さもなくば森の中で骸となる末路へと……」
エヴェリーナは聞いていなかった。
「食べ物……」
「なに?」
「食べ物ー!!」
「なんだなんだ!?」
彼女はだらしなくよだれを垂らしながら飛びかかる。ドラゴンは自分の脚に噛みつこうとする少女を、仰天しながら眺めていた。