0-2 シルミナの微笑み
なんとか笑みを抑えなければならない。それでもにやけてしまうので、シルミナはハンカチで口元を押さえた。それがディロックには、姉を失った悲しみだと受け止められていた。
「大丈夫かい」
「はい……ディロック様」
「様なんてつけなくていいよ。僕たちはもうすぐ夫婦になるんだ。だからいらない。いいね」
「はい、ディロック」
ディロックはにこりとする。シルミナは顔を伏せた。
どうしても笑ってしまう。なにもかもうまくいった。エヴェリーナにくっついてあちこちを回り、周到に観察してきたのだ。あの女はすぐに召使いや庭師のような下層民と話をしたがる。だからハウベの城で、様々なことを吹き込むのも容易だったのだ。
エヴェリーナのことは元々嫌いだった。声が大きくて態度もでかい。自分より年上なだけで、跡継ぎと思われている。侯爵や侯爵妃の血を受け継いでいないのに、侯爵領を得ようとしていた。
それだけでも我慢できないのに、さらに大公領まで手中にしようとは。
父は侯爵家のさらなる繁栄を狙い、ハウベ大公との繋がりを求めた。姉は普段がさつで人の言うことなど聞かないくせに、こんな時だけ物分かりが良くなった。お家のためだと割り切って、お人好しのディロックと婚約してしまったのだ。
本当は全て自分のものになるはずなのに。
父と母から生まれた自分のもの。
姉と称する女になぜ渡すのか。
母は自分に話してくれた。名門の実家が困窮して、貴族の名を汚しそうになっていたことを。ああなってはいけないと常に言い聞かせ、公の場で実家のことをひとことも口にしなかった。汚らわしく、忘れたい存在であるかのように。
そしてクララホルト侯爵の後妻に収まり、これを手放してはいけないと我が子に言い聞かせた。
シルミナは母親の言葉を忘れなかった。「貧乏ではない」だけではなく、「富貴になる」ことを目指した。そしてそれらを他者に分かち合いたくなかった。
だからエヴェリーナは邪魔でしかなかったのだ。
「婚姻前に、しなきゃいけないことがある」
はっとしてシルミナは顔を上げる。ふと心に不安がうずく。なにか失敗をしただろうか。
ディロックは彼女の心の動きを察することなく、話し続けていた。
「ダンジョンの探索だよ。王国の貴族は結婚式前にダンジョンを探索して、勇を示さないといけない。知ってるよね」
「はい……」
「そろそろ準備しないといけない。なあに、形だけのものだから、すぐに帰ってくるよ」
シルミナはうなずきながら、なんて面倒くさいんだろうと思っていた。王国の初代国王は大陸各所のダンジョンを回り、財を得てから国を興した。やがてこれは伝統となり、王国に住まう全ての貴族のたしなみとなった。
しかし今の時代、どんな意味があるのだろうか。最近は形骸化していて、簡単なダンジョンを一回りして帰るだけになっている。死と隣り合わせのダンジョンは、危険をものともしない冒険者たちが探索していた。
わたくしは今から心配です。どうかお怪我をなさらないでください。シルミナは通り一遍の言葉を口にすると、自室に戻った。
ふかふかのベッドに身を投げ出す。身体を包み込んでいる。ふんわりと温かい。幼少時に使っていた、ぺしゃんこの藁を引いただけの寝床とは大違いだ。
この生活を手放したくない。そのためにはどんなことでもするつもりだった。
しばらく天蓋を見つめてから身体を起こす。彼女は城の兵を呼ぶ。そしてなにごとかを命じた。
一週間後。
兵が帰ってきた。婚約者のディロックにも、父のグロームにも内密にしていたので、夜中に報告を受けた。
「ご命令通り、後をつけました」
「エヴェリーナはなにをやってるの?」
「街道沿いに進み、鏖竜山脈に向かった模様です」
「鏖竜山脈……」
シルミナは口の中で呟く。クララホルト侯爵領の僻地にある山地である。急峻で住む人もなく、登攀には体力も時間もかかるので、街道は迂回するように作られている。
あそこはダンションが多い。理由は分からないが、数多くの秘宝伝説と一緒に流布されている。そのためよく冒険者たちの目標となっていた。
挑む冒険者は多くとも、戻ってくるものは少ない。大半が未踏のままだ。簡単なダンジョンもあるが、そのようなところは宝などなにも残っていない。
なによりあそこには伝説があるのだ。そしてその伝説のため、数々の冒険者が挑み、跳ね返されてきたのである。ディロックが入るような簡単なものとは違う、本格的なものが。
「お姉様はどうするつもりなの?」
「奥のダンジョンに入っていくところまで確認しました。出てきた様子はありません」
「そう……ご苦労様」
兵を下がらせる。一人になると、シルミナはにやりとした。
「死に場所を見つけたようですね、お姉様」
そして今度は、声を上げて笑った。