6 小屋
川畑が運転する四輪駆動のワゴン車に四人は乗って山を目指していた。
助手席には川口が座り川畑と今後の予定についての話し合いを続けていた。
後部座席は谷口が美鈴と座っているが、こちらは話が弾むというわけではなかった。
美鈴のほうからはそれなりに「日本記録おめでとうございます」とか「練習は何時間ぐらいなさってますか」とか話しかけては来るのだが、谷口はそれに対してまともな返事が出来ていなかった。彼の頭の中にあるのは「なんで俺はこんな薄汚いジャージ姿でここにいるんだ」という後悔の念ばかりだった。
大学内はもとより先日の日本選手権に出場の際も同じ姿だったし、新幹線での移動でも彼は着替えることなく同じジャージだった。こと服装において日常と非日常、公と私の区別はなかった。
ゆえに谷口に付き合うマネージャーなどは「タニセン(谷口先輩の意)のお付きは楽でええわ」と公言してはばからない。マネージャー自身はキャスター付きのバッグを使っているが中身は自分のものばかりである。谷口自身は小型のショルダーバッグ一つでどこへでも行ってきた。
だから今日も同じスタイルである。
だがおそらく初めてその不変のスタイルに疑問が生じていた。
「何故俺は肩が触れそうな距離に美少女がいるのにこのようなみすぼらしい格好のままなのだ」
「俺がそばにいるだけで彼女を穢してしまうのではないのか」
などと不毛な事ばかり考えていてまともな会話が出来ないでいた。
谷口に女性に対する免疫がないわけではない。谷口の通う文学部には女性も多いし、なにより部活に行けば女子部員は結構存在する。遠征に付き合ってくれるマネージャーなんか列車や車の中どころか宿泊先まで一緒になるのだ。
なのに過去一度もこんな風に思ったことなどなかった。
要は美少女の制服姿に一目ぼれしてしまったのである。
まともに会話のできない谷口の様子に気が付いたのは川口だ。川畑との会話に一区切りついたタイミングで助け舟を出すことにした。
「谷口くん。そのお嬢さんが川畑さんをサポートして競技会に参加させてきたんやで。この前なんか東京まで一緒に来てたんや」
列車での移動に慣れていない祖父のために付き添っていたらしい。
「じゃあスタジアムにいらしたんですか」
「はい。ですから谷口さんの日本記録の瞬間もちゃんと見てました」
「え、そうなんですか、それは……ありがとうございます」
「あの時はすいませんでした。なんか祖父が谷口さんにつきまとってたみたいで」
「いえ、そんなこと。わたしでよければいくらでも」
「だめだよ谷口君、競技中に選手同士が必要以上に慣れあうのは良くないよ」
「そうですよね、おじいちゃんがなんか谷口さんを気に入っちゃって。帰りの新幹線でも谷口さんのことばかり言ってたんですよ」
「いくら気に入ってもね、投げ方まで変えちゃうのはなあ」
そう言われると返す言葉もない。公平にしても川畑の一投目を見て奮い立った気持ちは二投目以降すっかり消えてしまったのだ。
「まあ、そのあたりのことも今日話せたら良いんだけどね」
いつの間にか車は山道を走っていた。
「ここらからちょっと揺れますよ」
かろうじてアスファルトだった路面が、ついに砂利道に変わったのだ。
木立に囲まれた道をさらに進み、ついに木々が途切れ開けたところに出た。
いかにも斜面を切り開いたような平地があらわれ、その先に小屋がいくつか並んでいる。
「着きましたよ」
小屋のそばへ車を止めて降りた。静けさが車を取り囲み、葉擦れの音が時折届いた。
美鈴がまず小屋に向かって駆けだした。
「おじいちゃん」
声をかけるが姿は見えない。小屋は無人のようだった。