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3 日本記録

 老人、彼が川畑という名前なのは川口から聞いていたし同じフィールドで試技をしているのだからわかってはいたが、谷口はどうしても彼を老人として認識してしまっていた。

 その老人の一投目は19メートルラインをはっきりと越えていた。日本人未踏の日本記録だ。遠目にも白髪の老人に見える選手がどんな記録を出すのか注目していたスタンドがどよめくのも当然と言えた。

 それを見た谷口は身震いした。武者震いだ。ついぞ彼に欠けていた闘争心が突然沸き上がったのだ。過去、相撲や重量上げの試合でもどうしても出せなかったものだ。

 初めて目の前で投じられた19メートル超え。自分だって練習でなら何度も出したことはある、ただ公式戦では一度も届いていない。こんなていたらくではオリンピックどころかアジア大会さえ出場出来ないかもしれない。

 だが自分の可能性に着目して強化選手に選んでくれた人たちがいる。その人たちの前で見知らぬ老人に記録で劣るようなことがあっていいのだろうか。勝負に負けるようなことが許されるのだろうか。

 数人の選手が投てきを行ったが皆老人の記録には及ばない。自分の順番を待つ間にも谷口はアップを繰り返した。名前が呼ばれ投てき用のサークルに進む。直径二メートル強のサークルがいつになく広く感じられる。足の位置を確かめ、砲丸を首の横に押し付ける。7.26キログラムを手のひらと顎で挟み付ける。何千回と繰り返して作り上げたルーティンワークだ。

 低く構え静止して一瞬息を止めた。

 巻かれたゼンマイがはじけるように身体が回転し砲丸が空に飛んだ。「✕✕✕!」気合の声が鋭く響いた。

 審判役が白い旗をあげていた。計測係りが砲丸の落下位置に走り確認している。すぐに審判席に行き表示板に数字が出た。場内にはアナウンスが流れた。

 「谷口選手の記録、十九メートル十九センチ。日本新記録が出ました」

 またもやスタンドがどよめき大きな歓声が響いた。

 えーっと、これは老人の記録を越えることが出来たのか。

 谷口は迷った。さっきまでは老人に負けまいと気が昂っていたためか彼の記録が判っていなかった。十九メートルのラインを越えたというだけで頭に血がのぼってしまったかのようだ。

 誰かに聞かなきゃ。サークルを出て知り合いの顔を探してキョロキョロしてしまった。

 「君すごいな」

 その人はいつの間にか谷口の傍にいて嬉しそうな顔でそう言った。

 「きれいな投げ方やな、見惚れたわ。どうやったらあんな風にできるんです」

 この人は誰かな。ジャージ着てるから係員の人やないよな。フォームのこと褒めてくれるんは嬉しいけどな。回転式に変えてもう二年になるけどやっと身についてきた感じやからな。

 「お二人とももうちょっと移動してくださいね」

 あ、係りの人に怒られたやんか。すいません。あれ、ほなこの人は……。

 「老人……さん」


 結局記録としては一投目が最長となって谷口の日本新記録での優勝となった。あの後老人は谷口に付きまとうように話しかけて、ついには回転投げのやり方を教えてくれと言い出した。しかたがないので谷口は何度かゆっくりとフォームを繰り返す羽目になった。驚いたことに老人は次の試技からその回転投げで投げた。もちろん大した距離は出せなかったが。谷口は一投目のような気合が入らず距離を伸ばすことが出来なかった。

 とにかく二位は五センチの差で老人川畑となった。三位の選手は十八メートルに届かないで終わっていた。


 「お二人とも行きましょか」

 いつのまにか川口が現れて二人をスタンド下の通路へと連れて行く。連れていかれた先は記者会見場であった。

 ここ一年、谷口は国内の大会ではほぼ無敵であった。だが記者会見など経験したことがなかった。これが日本記録という結果を出したことなのか。

 会見は川口の仕切りで行われた。記者たちからは次々と質問が出る。

 「谷口さん、今のお気持ちを」

 「自己記録を一気に五十センチ伸ばされたわけですが、何か工夫みたいなものはあったんですか」

 「二投目以降は力が入り過ぎたんでしょうか」

 どうでも良いと言えばどうでも良い質問だな。だがこういったことに誠実に答えることが求められているんだろうな、と思いながら谷口は話した。ここらへんは伊達に長年優等生をやってきていない。

 司会の川口が話題を老人に振り替えた。

 「ほとんどの方はご存じではないと思いますので、こちらから川畑選手のプロフィールを紹介いたします」

 資料として配られたのはA4サイズ一枚だった。それも大きめの字体で半分ほどしか埋まっていない。

 だから一瞬で内容を読み取った記者からすぐに質問が飛んだ。

 「過去の記録が一つしかありませんがどういうことでしょうか」

 「年齢は六十二歳で間違いないんですね」

 「所属先がないんですが」

 老人は緊張する様子もなく微笑んでいるが、マイクに向かって答える様子がない。

 「そのあたりはこちらから補足して説明いたします」

 川口は資料を見ることもなく答えていく。

 「資料に書いておりますように、先般行われました地元の県大会が初めての公式の出場大会です。そこで川畑さんは一位となり今回の日本選手権に出場の運びとなりました」

 「年齢に間違いはありません」

 「過去の学生時代にも陸上競技を行っておられません。また現在企業にも所属されておられませんので全くの個人としての参加となっております」

 じゃあなんで突然地方とはいえ県大会なんかに参加できたんだよ、とは谷口の持った疑問だが、そのあたりは問題にはされなかった。そもそもこの老人は十九メートルを投げたのだ。どう考えてもおかしいだろう。自分が世界記録を出すよりも難易度は高いのではないだろうか。

 そう考えると今日出した日本記録なんて大したことでもないな、と思う谷口だった。


 会見は「この二人をオリンピック強化選手に指定いたします」という発表を最後に終わりとなった。


 

 

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