ただの気まぐれよ
「ここか……」
朝から続く暗澹たる気持ちはもはや心地良く、新品の上履きの底と、年季の入った廊下とが奏でる音はどこかうわずっている。どんな気持ちなのだろう、落ちかけた太陽が丁度辺りに朱を入れて、俺の思考を遮った。
気が付けば「音楽室」と教室札のある扉の前に来ていた。いや、気が付いたら来ていたわけじゃなくて、自分から来たわけなんだけど。そう表現できるくらい、今の俺は何も考えていなかった。
とりあえず、この扉を開く前にもう一度手にしている「コレ」を確認してみる。
『放課後、音楽室に来てください。 待ってます』
「コレ」には綺麗だが、どこか可愛らしさのある文字でそう書いてあった。差出人の名前はどこにも書いてなかった。ただ一行、この一行だけ。
少し、いや、非常に怪しい「コレ」は大体「アレ」だと相場は決まっている。なにせ舞台は幾多の青春が繰り広げられる場所、高等学校なのだから。かつての偉い人もこう言ったのだ。『もし私が神だったら、私は青春を人生の終わりにおいただろう』と。
だがしかし――。
いや、ちょっと落ち着いて考えてみてくれ。舞台は整っている、小道具も完璧だ。だけど、役者は? 役者が足りないのだ。俺は主人公にふさわしくないし、相手も誰だかわからない。まして動機もよくわからない。俺は一年生、入学してまだ二週間も経たない新入りに用のある人間なんているのだろうか? 一目惚れ? そんなものは一時の気の迷いだ、きっぱりと断って…… いや、まぁ友達からならいいかな…… なにせ友達は大事だからな……
って、全然落ち着けてないじゃないか。兎にも角にも、この扉を開いてみなければ何も始まらない。ええい、ままよ――。
数々の偉大な音楽家の肖像画、物静かに佇むグランドピアノ、あらかじめ五線譜の付いた黒板。見たことがあるものがどれも新鮮に思えるように配置されていて、その真ん中に人影がぽつり。音楽室に差し込む夕日が長い髪に反射し、艷やかに揺れている。
「あら、ちゃんと来てくれたのね」
夕日のせいで、眩しくて見えなかった。音楽室に舞う埃と、振り返るその人の影だけが俺に見える全てだった。それだけなのに、とても強烈に俺の脳裏を焼いた。これは美しい、と表現すればいいのだろうか。どう形容したらいいのかわからない感情が湧き上がった。その時俺は口を開けてその光景を見ていたかもしれない。
「ほら、その手紙。 びっくりした? もしそうだったら、ごめんなさいね」
顔の見えない少女は手を後ろに組んで少し、上半身を前かがみにして言う。きっと微笑んでいるのだろうと思う。少女がどう動いても差し込んでくる夕日が俺の視界を邪魔する。じれったい、俺は平安時代の貴族じゃない、どうしてこんなにもいじらしく思っているんだろうか。
「あの、あなたは……」
とりあえず、この少女について知らなくてはならない。どうしてこの手紙を書いたのか、用件は何なのか。
「私はアリス、御子柴アリスよ。 この学校の二年、いや、もう三年生だったわね」
上級生か、からかっているのならまぁ、不幸でしかない。このセンパイが卒業するまで、俺は上級生のおもちゃにされてしまうかもしれない…… 俺は目の前の謎の上級生に悟られないよう、辺りを見回した。このセンパイの友人達が何処かに隠れてこれを見ているかもしれないと思ったからだ。しかし、そんな予想は外れたようで、他に人影はなかった。少し安堵して、俺は質問した。
「センパイは、どうして俺なんか呼び出したんですか、どんな要件で」
「それはね、どうしようもなく退屈だったからよ」
「はい?」
声変わり期真っ最中の中学生のような声が出てしまった。い、意味がわからない。もう少しこの人の話を聞くべきだろうか、それとも今すぐ帰っていいだろうか。
「あなた、言っておくけれどね、高校生活なんてそんな浮かれたもんじゃないのよ、毎日同じ時間に起きて、同じ時間に家を出る。それから決まった科目を決まった時間だけこなして、決まった時間だけ休んで、クラスメートと他愛もない会話をする。帰ったらご飯食べてお風呂に入って宿題をこなして寝る。一週間七日間のうち、五日間がこれなのよ」
「それがどうしたんです。 それと、俺をここに呼び出すのとなんの関係があるんですか」
「だから、そんなつまらない日々を払拭したかったのよ。そうやって気まぐれに、それを適当に選んだポストに入れてみても、なんにも悪くないでしょう?」
センパイはそれ、と言って俺の持っている手紙を指差す。しまった。とんだ電波系お嬢様だったようだ。ちなみに、ここでいう「ポスト」とは俺達がいう所の「下駄箱」に相当するらしい。どうやら差出人も宛名もないこの手紙はこの学校に三百程ある「ポスト」の中から一つ選んで投函された、ということみたいだ。そして見事当選したのが俺、というわけか。
「ってことは、俺はセンパイに気まぐれで呼ばれたってことですか……」
ふざけんな、朝からずっとそわそわしていた分のエネルギーを返せ、と思ったがすぐにどうでもよくなってしまった。湧き上がる怒りよりも、押し寄せてくる疲れの方が大きかった。俺は大きく溜息を付いて、質問した。
「それで、俺はなにをすればいいんですか」
「勿論、決まっているわ。 この私と付き合いなさい」
「はい、わかりました――ってええ?!」
助詞というのはとても重要である。「私は」「私を」「私に」など、一音違うだけで全く意味が変わってくる。「私と」というのは、私に伴って、一緒に、というニュアンスになるわけだが、この場合よく誤解を招くのが「私に」と「私と」を聞き間違えたときである。そんな日にはただ一緒に買い物に行っただけなのにデートをしたと思い込んでいる、悲しい道化師が完成してしまう。
今この人は「この私”と”付き合いなさい」と言った。間違いない。わかりましたと返事をした後に気が付いた俺は、この人が「この私”に”付き合いなさい」と言ったのだと思ったのだ。なんてこった、嬉しい道化師の完成だ。
「ふふっ、結構恥ずかしいのね、これ。 それじゃ、今後ともよろしくね」
「えっ、あの、それは」
なんだか凄く可愛らしい動きをしたと思ったら、急に俺の方に近寄ってきて、手を掴まれた。先輩はさっきまで見ていたよりも小柄だった。少し見上げるようにした先輩の頬は赤らんでいた。小さな口は緩く上がり、整った眉は凛々しく、大きな瞳はこちらを吸い込むかのように見開いていた。
人形……そんな単語が頭に浮かんだ。今度は自分の心臓の音が聞こえてくる。それは次第に大きくなって、波を打つ。さっきまでの予想外が全てその波に収束していった。
「ありがとう」
気が付いたら先輩は手を離し、音楽室の扉の前に立っていた。
「明日もこの時間にここで会えるかしら?」
「えっ? は、はい」
気が付けば返事をしていた。
「ありがとう、それじゃ、また明日」
先輩はまたお礼を言って、音楽室を出ていった。俺は返事をすることも、追いかけることもせず、その場に立ち尽くした。
「なんだったんだいまの……」
グランドピアノはもちろん、偉大な音楽家達も返事をしてくれない。窓の向こうにある太陽はもう見えなくなって、明るさだけが残っていた。
この静けさは嵐が過ぎ去った後のものなのか、それとも……。