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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

愛せない存在を消す方法

ミステリー的な作品ですが、ミステリファンは読まないほうがいいと思います。謎解きしているヒマがないのですから。

※この作品は原稿用紙約90枚分です。



   回想1


 ある初夏の日、私は息子の殺害を決意した。

 私の家族は現在のところ三人しかいない(もうすぐ二人になる予定だが)。

 夫とはもう何年も前に別れて、二人の息子を私は引き取った。

 私は専業主婦で収入はないが、父が資産家なので金には不自由しない。

 子供の頃は父を嫌ったものだが、今は逆に好きだ。父がいなければ、私は息子を引き取って養うことができなかった。それどころか私自身、生きていけなかったかもしれない。

 とにかく父には感謝している。

「パパ」と呼んであげたっていい。


 私は一番上の息子、ケンジを溺愛している。

 あの男との結婚生活における、唯一の成功がケンジだろう。あの男との結婚生活は、ほぼ百パーセント失敗だった。

 お見合い結婚だったわけだが、彼は最初のうち──ことに見合いの時は、とても誠実な、いい男だった。

 顔は二枚目とは言えなかったが、何か惹かれるものがあったのは確かだ。父の選んだ男ということで何となく抵抗を感じていたのだが、いつのまにか恋に落ちていた。

 あの頃はそれが運命なのだと頑なに信じたものだった。

 父が連れてきただけあって経済力は十二分にあったし、結婚には何の問題もなさそうだった。

「早く身を固めておいた方がいい」という父の忠告はいささか気にくわなかったが、見合いから約一ヶ月後、私たちは結婚した。

 私は十九、彼は二十五だった。

 結婚してすぐ彼の態度が変わった、というわけではなかった。変化は分からないほどゆっくりと、しかし確実に起こっていった。

 結婚して約一年後、私は二十歳でケンジを産んだ。

 その頃はまだ夫は優しく、妊娠中はよく世話をしてくれた。産まれてからも、子供の世話──オムツを替えたりミルクを与えたり、もよくやってくれた。

 教育にも熱心で、「この子は世界一良い子になるように育てよう!」と意気込んでいた。私もそのつもりだったので、二人で徹底した教育をした。ただし、あまりに過剰な教育は人格に悪影響を及ぼす原因になると、どこかの医者が言っていたので、あくまでほどほどに教育した。

 習い事はピアノのみに絞り、できるだけ家庭での教育を優先した。最初はいろいろなことにチャレンジさせ、興味をひいたものにのみスポットをあてて教え込んだ。

 無論、めいっぱいの愛情も注いだ。

 結果、ケンジは本当によくできた子供に成長した。スポーツはやや苦手だったが勉強はよくできたし、何より真面目に育ってくれた。反抗期もなく、「あなたの息子さんは本当によくできたお子さんね」とよく言われた。私と夫は、ケンジに精一杯の愛情を注いだ。

 しかし今思えばそれがよくなかった。

 私たち夫婦は、ケンジが産まれた数年後に次男を授かったが、ケンジを愛するあまり、子育てがおろそかになっていた。

 そうでなくても夫は段々とよそよそしくなっていて、私たち夫婦の会話のほとんどがケンジのことについてだった。

 次男が育つにつれて、夫の態度が冷たいものに変わっていった。いつのまにかケンジに対する愛情もなくなってしまったようだった。一度、「あなたはケンジを愛してないの?」と問うたとき夫は、「僕は会社で忙しくてケンジと遊んでやれない。その点、キミはケンジとずっと一緒にいて、ケンジを独り占めにしているようだ」と言った。あくまでも仕事のせいにしたいらしかったが、仕事が休みのときでもケンジと話すらしなかった。そして、私たち夫婦の愛もとうの昔に冷めきっていた。ケンジが産まれていなかったら、もっと早くに別れていただろう。

 次男が五歳になる頃、夫はとうとう離婚を切りだし、私はそれに承諾した。私は離婚の条件に、二人の息子を引き取ることを挙げた。次男にはさして愛を感じていなかったが、ケンジの弟だし良い子に育つだろうと思ったのだった。

「いいよ」夫は即座に承諾した。息子には未練がなかったのだろう。

 もちろん、私にも。




   回想2


「お母さん。カケルは今日も学校に行かないつもりですよ」

 朝食をとっているとき、ケンジが次男の登校拒否を報告してきた。次男は、もう何年もヒキコモリを続けている。

 そういえば次男の名前は「カケル」だったわ、と私は思った。

「そうみたいね。ケンジはあんなふうになっちゃダメよ?」

「はい、お母さん」

 ケンジは微笑した。

 本当に良くできた子供に育ったものだ。

 良くできた、と言ってもガチガチの礼儀作法を身に付けたような「おぼっちゃま」ではない。誰だって分かるような基本的なマナーを守っているだけだ。礼儀作法にうるさすぎる人間は一般社会では嫌われてしまう。あくまでほどほど、が肝心なのだ。そういう意味でケンジは良くできた子供だった。

 ……いや、もう大学生なのだから子供ではないか。

「では、行ってきます」

 朝7時。ケンジが大学に出かけた。

 大学までは自転車で一時間近くかかる。公共交通機関を使えばいいのに、「いえいえ、運動になりますから」と言って、そうしない。

 お金はあるのだからそんなに無理をしなくてもいいのに。

 まあ、私がそう言えば、

「いえいえ、いつどんなことになるか分かりません。おじいさまの会社が突然倒産してしまうかもしれない。そんなとき、この節約したお金が役に立つはずです」

 などと言うのだろう。

 外は暑いだろうに……。

 あの男の誠実さは嘘だったが、ケンジは本当に誠実だ。

 それに引き替え……。

 私は二階の次男の部屋がある辺りをにらんだ。

 あそこに忌々しい男が棲んでいる……。

 次男のカケルは夫と別れたとき、まだ五歳だった。

 そのころはまだ、そこらへんの子供と同じように見えた。しかし小学校に上がるころから、子供特有の活発さや無邪気さといったものが消え始め、徐々におとなしい子供になっていった。二年生のころには、根暗と言えるほど暗くふさぎこむようになり、めったに外に出なかった。友達もほとんどおらず、部屋にこもることが多くなった。三年生のころには、完全な孤独になり、担任の先生にも「もっとおうちで教育してあげて下さい」と言われた。

 私はそれでも、ただ奥手なだけだろう、とタカをくくっていた。それよりも、ケンジに夢中だったのだ。

 ケンジは語るまでもなくとても理想的な生活をしており、親の私が何か口出しする必要はまるでなかった。

 それどころか、逆に私が注意されることすらあった。

「タバコは体に毒です。やめたほうがいいですよ」

「ジュースは糖分の、カップ麺は塩分の、摂りすぎになります。ひかえたほうがいいですよ」

 などなど。

 と言っても口うるさいということはなく、それこそ本当に忘れたころに、そうした忠告をしてくれるのだ。

 出来の悪い弟のことも心配していた。

 私は、「子供は多感だから色々あるのよ。そっとしておいてあげましょう」と言いきかせた。

 カケルは五年生ごろから部屋にこもりっきりになった。

 ときどき買い物に出かける以外は、ずっと部屋で過ごすようになった。

 いわゆる、ヒキコモリだ。

 さすがの私も、心配になった。

 しかし彼は私にとりあわず、部屋に入れることさえ拒んだ。

 だから、私はそれ以来、彼の部屋を見たことがない。

 一度、電気屋さんが来て電話線がどうとか言っていたから、インターネットに接続しているかもしれない。

 そうなると、利用額の請求がくると思うのだが、お金のやりくりは今ではケンジに任せっきりなので、分からない。

 まあそれはいい。彼が何をしようと本人の勝手だ。

 しかしその勝手な行動が原因で私が困らなくてはならないなんて、絶対におかしい。

 次男カケルの変なウワサが流れ始めたのは、彼が中学に入学したころだった。

 小学校から成績が悪くなる一方だった彼は、市立の中学校に上がった。

 小学校の卒業式にさえ出なかった彼だが、どういう風のふきまわしか中学の入学式には出席した。

 しかし入学式の最中、彼は奇行に走った。

 彼は席についている間中、うなだれたようにうつむき、微動だにしていなかった。

 それが、先生が注意した瞬間、

「怒らないで! 僕は何も悪いことはしてない! お願いだ!」

 と、大声で叫んだのだ。

 声は体育館によどみなく響き、それを聞いた会場中が、その様子にあっけにとられていた。

 注意した先生はどうしていいか分からず、気まずそうに席に戻っていった。

 不穏な空気が立ち込めるなか、式はその後、何事もなく終わった。

 式の間、彼が顔をあげることは二度となかった。

 それ以来、彼が奇行に走ることはなかったが、悪いウワサが立ち、どんどん広まっていった。

 彼は入学式以降、学校に出なかった。そのため、ウワサは改善されることなく広まり続けた。

「頭が狂っている」

「ヒキコモリ」

「妄想と現実の区別がついていない」

 そういった本人だけのウワサなら、まだ良かった。しかしそれだけに留まらないのが、ウワサの恐ろしいところだ。

「親に虐待されている」

「親に捨てられた」

「親は人間じゃない」

「一家全員で頭が狂っている」

「呪われた家」

「魔女の家系」

「代々きつね憑き(または犬神憑き)」

 ウワサの対象は親である私に移り、家族・家柄へと拡大していった。

 そして、夢と現実の区別もつかないのか、ウワサはさらに、ありえない方向へとエスカレートしていった。

 こんなウワサをするほうこそ、頭が狂っているのではないか。

 私は何度もそう思うことで、精神を支えていた。

 しかしそれももう限界だ。

 ケンジは、「気にしないほうがいいですよ」と言ってくれたが、考えまいとすればするほど、私の心はすさんでいった。

 もうダメだ。

 もう()えられない……。

 いったい……なんで私がこんな思いをしなきゃならないの……?

 そう考えたとき、ある一つの名前が脳裏に浮かんだ。

 カケル……。

 そうよ! 全部あいつが悪いのよ……!

「カケル」

 その忌々しい響きに、私は底知れぬ怒りをおぼえた。

 すべて……こうなったのは全て、あいつのせいだ。

 私の心を傷つけたのはあいつだ。

 あいつだあいつだあいつだあいつだ…………!!

 考えれば考えるほど、あいつが憎かった。

 私は狂気につつまれ、もしもあいつが目の前にいれば、殺していたことだろう。

 さいわい彼はヒキコモリで、顔を合わすことは滅多になかった。




   回想3


 昨日、私が人目におびえながら――そのときにはもう黒いウワサが町内に広まっていた――買い物をした、その帰り道。私は偶然に主婦たちの井戸端会議を見てしまった。

 気づかれないよう、道の角に隠れる。

 また私たちのウワサ話だろうと思い、すぐに別の道を通って帰るつもりだったが、ある一言が私をその場に釘付けにした。


「知ってる? あの魔女の家系だっていう家族の話」


 それまでは何をしゃべっているのか分からなかったのに、その言葉だけはよく聞こえた。

 そして、その先の会話なんて聞きたくないのに、私の体は動こうとしなかった。

 嫌だ! 聞きたくない! どうせまた酷いウワサ話を聞くことになるのだ。

 動け! 動いてくれ! 私の足……。


「あら、私が聞いた話では、宇宙人だっていう話だったわよ?」

「ええー!?」

「そうなの? じゃあ何のために地球へ来たのかしら」

「決まってるじゃない。悪いことをして、警察のような機関に追われて、この辺境の星――地球に逃亡してきたのよ」

「宇宙犯罪者ってやつか……」

「ちょっと待って。いつ地球が辺境の星になったのよ?」

「それはね、たしか……。

 そう、宇宙……連盟だったかしら、何かそういう宇宙を統轄する大きな組織があって、その組織が宇宙に方角を定めたのよ。

 三次元空間だから座標軸は三本で、正負の区別をつけると六つの方向に分類できるでしょ。たぶん、本部をO点に定めるんだけど、そうすると、地球はある方角の端っこに位置するらしいの。

 日本は地球で東の端の方に位置してるでしょ? 地球もそんな感じなのよね」

「へぇ〜……」

「で? いったいどんな悪いことをして地球に逃げてきたのかしら。まさか、殺人じゃないでしょうねえ……」

「まあ、それもあるかもしれないわね」

「え!?」

「分からないのよ。でも色々なウワサが飛び交ってるわ」

「どんな……?」

「そうねえ……私が知っているだけでも――

 主要惑星を破壊したテロリストだとか、連続殺人犯とか、研究機関に所属していたけど大量殺戮兵器を作ろうとしていたことが発覚したとか、呪術の研究をしていて共同研究者を呪い殺したとか……とにかく色々言われてるわ」

「………………」

「でもね、これらのウワサには、一つ誤解が含まれているの」


 得意げなその声に、私はなぜか身構えてしまった。


「ど、どういうこと……?」

「一家全員がそう――というわけではないのよ。

 私ね、偶然、あの家の長男に会っちゃったの。

 でも彼はどう見ても好青年でね、私が買い物のしすぎで荷物を持てずに困っていると、『荷物、お持ちしましょうか?』って声をかけてくれたの。そのときはどこのおぼっちゃんか分からなかったから、手伝ってもらったわ。結局、家まで持ってもらっちゃったんだけど、彼、途中で『ぼくの家はここなんです』って、指差して言ったの。

 見てびっくり。それはウワサのあの家だったのよ。

『いろいろ大変ね……』って言ったら、『いえいえ、大丈夫です』だって。

 本当に、良い子だったわ」


 その瞬間、私は救われた気持ちになった。

 悪いウワサばかりじゃない。ケンジは、こうして認められている。ケンジだけでも、悪いウワサから除外されれば、私はそれでいい。

 良かった……。

 しかしそれは一瞬で……ほんの一瞬で……。

 運命は残酷に、無情に私を支配しているのだと、直後に知った。


「へぇ〜、それはもう完璧すぎるくらい良い子ね……。

 でも、それだと逆に怪しくない?」

「え?」

「今どき、そんな若者がいるかしら。その子、若いんでしょう?」

「そうねえ……ハタチ手前に見えたわ」

「でしょう? あんな頭の狂った一家に、そんな良い子がいるんあんて、変じゃない?

 それに、なんでわざわざ家を教えたのかしら。悪いウワサが立ってるってことは本人たちも知っているはずよ。わざわざ自分が狂人の家の子供だって教えるのは、おかしいと思わない?」

「そう言われてみれば……」

「彼らは宇宙人なんでしょう? 地球にない道具や人間にない身体的な能力をもっているはずだわ。

 ……こうは考えられないかしら。つまりね、入学式の騒動以来、好ましくないウワサが立ってしまった。このままでは自分たちの正体に気づかれてしまうかもしれない。早く弁解してしまわないといけない。

 そこで彼らは気づくの。自分たちには変身能力があるってことに。

 考えてもみなさい。宇宙人が地球人の――それも日本人の顔をしているなんて変じゃない。彼らはここへ逃亡してきてすぐ、人間に化けたのよ。

 その変身能力をつかって、日本人の思う理想的な好青年を演じて、自分の家を教える。そうすれば徐々に悪いウワサが、好青年のウワサに打ち消されると考えたんじゃないかしら」


 しばらく沈黙が続いた。私は涼しい影に隠れていたのに、汗がふき出していた。

 冗談じゃない。

 せっかく救いが見えてきたのに、また悪い方向へ話が向かっている……。

 やがて一人が会話を再開した。


「すごいわ! 私もなぜわざわざ家を教えたのか疑問に思っていたんだけど、それで説明がつくわね。

 ……そうよ! あれは演技だったんだわ。上村さん、すごいじゃない!

 やっぱり、あの家は悪魔の家なんだわ」

「そうね!」


 そんな……あの優しいケンジまで……。悪魔だなんて……。

 私は怒っていいのか悲しんでいいのか分からない心境だった。

 しかし会話はこれで終わりではなかった。


「あら、井上さん!」

「あら」

 井上という奥さんが通りかかったらしい。

「井上さん、今ね、あの家のことで話してたんだけど……」

「あの家って、ケンジくんっていう息子さんがいる家よね。いろいろ悪いウワサの立ってる……」


 ケンジ、という言葉に、私は息がつまりそうになった。


「ケンジくんって、ウワサの発端になった子?」

「違うわ。ケンジくんはあの家の長男でね、とっても良い子なのよ。ウソみたいでしょう?」

「そっか、あの悪魔の詐欺師は、ケンジっていうんだ……」

「悪魔?」

「あのね、井上さん。私たち今その子の話をしてたんだけどね、ちょっと聞いてよ。

 実はね…………」


 聞きたくない……!

 その先はもう、聞きたくなかった。

 私の願いが通じたのか、私の足は動くようになっていた。

 その場から逃げ出したい思いで、私は必死に走った。わきめもふらず、ただ一心に走った。

 もう嫌だ。もうたくさん!

 なぜあの子が……ケンジまでが悪いように扱われなきゃいけないの……。

 悪魔だなんて……そんな……。

 苦しかった。心臓が悲鳴を上げていた。

 走ったからではない。

 私の心が悲鳴を上げ……泣き叫んでいたのだ。

 私は涙の流れる顔をそのままに、家まで走って帰った。



   回想4


 ベッドの上で私は考えていた。

 なぜ? なぜこんなことに……?

 私はとうに答えの出ている疑問を思い浮かべた。


『あの悪魔はケンジっていうんだ……』


 残酷な言葉が、脳裏によみがえる。

 あの子が……ケンジが、悪魔だなんて……そんな……

 どうして……?


『ウワサの発端になった子?』


 ウワサの発端になった子……?

 ――そうだ、あいつだ。次男のカケルだ!

 あいつが……あいつがすべて悪いんだ。

 全ての……この悪夢のような現実の原因は、あいつだ。

 あいつが私たちを、おとしめたのだ。

 あいつが……なにもかも……

 ………………


 気がつくと、今日になっていた。

 昨夜考えたことは、夢だったのだろうか。

 それとも現実?

 しかしそれは、もうどうでもいいことだった。

 なぜなら私のカケルへの(うら)みの念は、隠し切れないほどに膨らんでいたからだ。

 私はあいつが憎い。

 憎くてしょうがない。

 このままでは……このままではいけない。

 なんとかしなければ。

 何をすればいい……?


『ウワサのもとを絶て』


 その声は、どこからともなく聞こえてきた。

 しかし私は違和を感じなかった。

 きっとそれは、私の内側からでた言葉だったのだろう。

 そう――私はとっくに気づいていたのだ。

 どうすればよいのか。

 ウワサのもとを絶てばいい。

 つまり、カケルを殺してしまえばいいのだ。

 そうすれば元凶はいなくなり、ケンジの好青年というウワサが、悪いウワサを浄化してくれるだろう。

 きっと、そうだ。

 そうに違いない。

 そうだ。私たちにはまだ救いが残されているのだ。

 はは、ははははははは…………。


 私はこうして、次男カケルの殺害を決意した。







   現在1


 私の家は、閑静な住宅街にある。

 マイホームは、心安らぐような静かな場所に建てたかったのだ。

 しかしそうした静かな場所ほど、実はうるさい。

 おばさん同士の会話――いわゆる井戸端会議が頻繁におこなわれるのだ。

 周りが静かなぶん、会話がしやすいのだろう。

 井戸端会議が多いということはつまり、ウワサが広まるのが早い、ということだ。

 そしてウワサというものは非常に無責任で、内容はどんどんと雪だるま式にエスカレートしていく。それも、悪い方向へ。

 外に出ると、どうしてもウワサを耳にしてしまう。

 恐くて外に出られない。

 かといって中にいても、ウワサが言霊となって、呪いのようにまとわりついてくる。

 もうほとんどノイローゼだった。

 私は一刻も早く平穏を――あらゆる意味での平穏を取り戻さなければならなかった。

 要するに、できるだけ早く、あいつを殺さなければならないのだ。

 しかしその方法がなかなか思いつかなかった。

 ただ殺したのでは、私は刑務所行きになってしまうだろう。

 それではだめなのだ。

 いかにしてあいつのみを削除するか。

 カビキラーでカビを落とすように、あいつを消してしまわなくてはならない。

 これは難しい問題だ。

 そうやすやすと完全犯罪――しかも殺人が成功するわけはない。

 馬鹿な私がいくら考えたところで、そんな方法を思いつけるはずないのだ。


 今日は土曜日で、朝の10時だった。

 私はとりあえず、一階のリビングに下りて朝食をとることにした。

 リビングには食卓用のテーブルがあり、メモ用紙一枚と新聞が広げて置かれていた。

 メモにはケンジの字で、

『お母さんへ

 友達の家でおこなわれる勉強会に行ってきます。

 夕方の4時ごろ帰ります。

 ケンジ』

 と、書かれていた。

 ケンジは外出するとき、必ずメモを残していく。

 別にこちらが頼んだわけでもないのに……よく気が利く子だ。

 私は一杯だけ水を飲んで、新聞に目を移した。

「インターネットで集団自殺」という見出しが目立っていた。

 ――そうだ!

 インターネットを使えばいいではないか。

 ネットの世界なら、もしかして……。


 私はパソコンを起動した。

 リビングにはデスクトップのパソコンが置いてあるのだ。

 インターネット上には自殺マニュアルとか犯罪指南のサイトがある、と聞いたことがある。

 そういうところを探せば、あるいは殺害方法についてアドバイスをくれる人間に会えるかもしれない。

 犯罪指南があるのだから、殺人の指南だってあるはずだ。

 私は検索エンジンのページを開いて、『殺人指南』で検索してみた。

 いくつかのサイトがひっかかったが、殺人の方法を提示しているサイトや、「殺人の指南なんてとんでもない!」といった批判サイトが見つかっただけだった。

 他の言葉でも色々ためしてみるが、これだ、というサイトはなかなか見つからない。

 結局、殺人関係では最大手だろうと思われるサイトの管理人宛に、「こもち主婦」という名前で、『息子を殺したいのです。ご教示下さい』というメールを送るだけに終わった。

 やはり、パソコンに詳しくない私では無理なのだろうか。


 時計を見ると、午後一時をまわっていた。

 ケンジは出かけているから昼食を用意する必要はない。

 すこし目が疲れている。

 私は仮眠をとるために、二階の自室に戻った。

 カーテン越しの陽光に包まれてベッドに横になったとき、気づいた。

 今日はまだ何も食べていない。




   現在2


 ノックの音で目が覚めた。

 誰かが部屋のドアを叩いている。

 誰かといっても、カケルのわけはないから、ケンジだろう。

「お母さん、もう五時ですよ」

 案の定、ケンジの声がして、私は安堵した。

「はいはい。ありがとうね、ケンジ」

 私はそう言って立ち上がった。

 少し頭がくらっとするが、疲れはとれたらしい。

 仮眠のつもりが四時間も寝ていたのかと思うと、自分でも笑ってしまう。

 ドアを開けると、ケンジが笑顔で言った。

「おはようございます。買い物、済ませておきました。ついでに洗濯物もたたんでおきましたよ」

「まあ、ありがとう、ケンジ。勉強して疲れているところ、悪いわねえ」

「いえいえ、平気ですよ」

 彼はレシートを差し出した。

 見ると、予算オーバーしていた。

 ケンジにしては珍しい。計算を誤ったのだろうか。

 私がだまっていると、ケンジが言った。

「ああ、今日は少し豪華にしてみました。お母さん、疲れているようだから」

「まあ……お金、足りなかったでしょう?」

 私は息子の心遣いに感動しつつ、言った。

 ケンジは買い物に予算の分しかもっていかない。

「大丈夫です。僕の小遣いを使いましたから」

「だったら、お金、返さなくちゃねえ」

「いえいえ、僕のおごりですよ」

「悪いわねえ」

 ケンジはまたいえいえ、と言ってリビングへ下りていった。

 いいにおいがする。

 どうやら夕食まで作ってくれたようだ。

 本当に、何でもやってくれる。それも、さりげなく。

 変だけれど、我が子とは思えないほど、良い子だ。


 ――と、私はそのとき気づいた。

 ケンジとカケルは、全く正反対だ。

 ケンジは良すぎるくらい良い子で、カケルは悪すぎるくらい悪い子。

 まるで二人分の善悪を、バランスを無視して一人は善だけ、もう一人は悪だけ、というように分けてしまったような……。

 だったらなおさら、カケルは――悪は要らないだろう。

 悪だけの人間なんて、危険極まりない。

 逆に、完全なる善であるケンジは、何としてでも生かしてやらなければならない。

 ましてや、悪の影響で評判を悪くしてしまっていいわけがない。

 悪は……滅びるべきだ。




   現在3


 私はリビングのソファに座って、ぼーっとしていた。

 眠気がなかなかやってこなかった。

 ケンジはもうとっくに寝てしまった。

 カケルはいつもどおり、食卓に顔を見せなかった。

 食事は自分で用意しているらしいが、彼の部屋にキッチンはない。

 冷蔵庫もないはずだ。

 外出するのは月に一、二回程度で、大量の食品を買い込んでいるようにも見えない。

 一体、何を食べて生活しているのだろうか。

 そういえば今まで考えたこともなかった。

 虫でも食っているのか。

 ヒキコモリになる前はどうだっただろう。

 比較的少食だったような気もするが、よく覚えていない。

 そもそも、彼のことなどほとんど考えたこともなかった。

 いてもいなくても同じ、感覚的には空気のような無の存在だった。

 初めて意識したのは、もしかしたらヒキコモリを始めたときだったかもしれない。

 ともかく私は、彼のことをないがしろにしすぎた節がある。

 けれども一応、世話はしたし、きつく叱りつけた覚えもない。

 何かがトラウマになってあのようになったとは思えない。

 彼はごく自然に、悪へと成長したのだ。

 それはまあ、私がしっかりしつけしていれば、こうはならなかったかもしれない。

 しかし、私だってまさかこうなるとは思ってもみなかったのだ。

 不可抗力だろう。

 私は彼を殺すが、恨むならそのような運命を与えた、神様を恨んでほしい。

 そうだ。

 私が彼を殺したところで、私が恨まれる筋合いはない。

 悪いのは彼のほうだ。

 私たち家族を、ここまで追い込んでしまった彼自身が悪いのだ。

 いうなれば、殺されかけて、逆にその相手を殺してしまうのと同じだ。

 正当防衛だろう。

 法律は無慈悲だからそんなことは認めてくれないかもしれないが、私はやむをえず彼を殺すのだ。

 そう――やむをえず……。


 ぽっかりとできた暇な時間は、私にそのようなことを考えさせた。


 私はふと思いついて、パソコンを起動した。

 まだかもしれないが、もしかしたらメールの返信が来ているかもしれない。

 あ……。

 私はいくぶん、驚いた。

 メールが二通、それも、別々のアドレスから届いていたのだ。

 一通目。

 差出人は「Yoshikawa」、件名は「ご紹介に預かりました」となっている。

 めんどうなので、「吉川」と呼ぶことにする。

 二通目。

 差出人「ワタル」、件名「はじめまして」。

 下の名前、というところに好感がもてる。

 とはいえ、殺人に関与しているような異常者に好感を持っても仕方ないが。

 まずは吉川のほうを読んでみる。


『はじめまして。ヨシカワ、と申します。

 殺人系サイト最大手「切る斬るKILL」の管理人氏よりお話を伺いまして、こうしてメールした次第です。

 管理人氏は大変ご多忙のため、私、ヨシカワと――もう一人(どなたかは分かりませんが)に、あなたの件を任せる、とおっしゃっていました。

 ただし、私ども二人ともが協力するとなると、あなたは二度も同じことを書かなければならなくなるわけで、それは面倒でしょう。

 また、私ともう一人の方には面識がありませんし、お互い協力できるとは思えません。

 よって、私かもう一人の方か、あなたに選んでいただきたいのです。

 もちろん、かの有名な管理人氏のご紹介ですから、どちらも信用できる人間かと思います。

 どちらか一方、お選びになった方に、ご返信ください。

 ちなみに、自分で言うのも何ですが、私はこと殺人に関してはかなりのプロです。

 殺人のエキスパート、と言っても過言ではないでしょう。

 それでは、ご返信、期待しております。』


 なるほど。それで二通も届いていたのか。

 それにしてもこの管理人は粋な人だ。

 紹介するのは一人でいいはずなのに、わざわざ二人も用意して私に面接させてくれるとは。

 私は気をひきしめて、ワタルのほうもチェックした。


『ワタルです。

「切る斬るKILL」の管理人さんに頼まれてメールしました。

 ボクはまだ二十代半ば、と若いですが、もう一人の人より頭がキレます。

 もう一人が誰なのか知りませんけどね、そんなことは関係ないですよ。

 なにせ、ボクはもう、殺人の手助けを何十回とやってるんです。

 そのどれもが、成功に終わっています。

 しかも、ボクは結構、ヒマ人です。

 ボクは自分から進んで殺人の手助けなんかしません。

 管理人さんから依頼があって、初めて手助けするんです。

 以上です。』


 まず最初に思ったのは、二人とも全くタイプが違う、ということだった。

 吉川は名前が横文字表記のくせに、妙に日本的な形式ばった文体だ。

 それに比べて、ワタルは少し自信過剰のけがあるが、話しやすそうな印象だ。

 私はさして迷うことなく、ワタルに返信した。


『こもち主婦です。

 ワタルさん、あなたに決めました。

 よろしくお願いします。』


 返事は驚くほど早く届いた。


『ワタルです。

 じゃぁ、まず、あなたの置かれている状況と、要望を教えてください。』


 こうして、私とワタルの密談が始まった。


『家族構成は息子二人と私の三人家族。

 長男はありえないくらい良い子(十九歳)。

 次男はありえないくらい悪い子(十三歳)。

 次男は非暴力的だがヒキコモリ。

 中学の入学式のみ出席し、奇行に走った。

 それによって、悪いウワサが発生、すぐに町内に広まった。

 ウワサはエスカレートしていき、もう耐えられないほど。

 そこで、次男を消すことを思いついた。

 ……とまあ、こんなところです。

 私の決心は固いです。

 一刻も早く、次男を殺したいのです。

 よろしくお願いします。』


 ワタルの返信は例外なく早かった。


『了解。

 経緯は分かりました。

 あとは、あなたの家のある土地周辺の環境(都会・田舎、騒音の有無など)とご自宅のだいたいの構造が分かれば助かります。

 大丈夫。

 身内の殺害というのは案外、容易なものです。』


 私は一刻を争って、夜通しメールを送った。


『どちらかというと、都会です。

 閑静な住宅街で、騒音はありません。

 家は少し広めの二階建てで、一階にリビング、キッチン、浴室などがあり、二階にそれぞれの自室があります。

 一階が共同生活の場、二階がプライベートの場、といったところでしょうか。

 ただし、次男にとっては自室が両方の意味を持っていますが。』


『二階の各部屋の配置は?』


『階段を上がってすぐの正面に私の部屋、右隣に長男の部屋、廊下がそのまま右の方に伸びていて、その突き当たりの左側に次男の部屋、があります。』


『OK.

 つまり、各部屋は一直線に並んでいるわけですね。

 分かりました。

 あとは、毒薬さえあれば殺せますよ。

 一刻も早く、とおっしゃってましたよね。

 毒薬をお届けしますから、住所を教えてください。

 明日(日付変わって今日ですが)には殺せますよ。

 いいですか。

 まずですね…………』


 このあとには、殺害の手順が記されていた。

 あまりに単純な計画で、私は驚いた。

 これなら、私はほとんど危ない橋を渡る必要がない。

 ワタルの提示した方法は、こうだった。


 まず、ワタルが午前五時までにポストに毒薬を入れておいてくれる。

 私は五時ごろにポストから毒薬を回収する。

 その後、私は万全を期すために八時まで仮眠をとる。

 起きて、ケンジが家にいるかどうかを確認する。

 このとき、ケンジがいれば、外出させなければならない。

 犯行中、ケンジが家にいてはいけないのだ。

 ケンジの外出を確認したら、リビングの冷房を切っておく。

 すると室温が上昇する。初夏なので相当、暑くなるだろう。

 次に、透明のコップに水と毒を入れてよく混ぜ、氷を入れて冷やしておく。

 はたから見れば、氷水にしか見えないだろう。

 あとは、次男カケルをリビングに呼び出して話をしていれば、彼は勝手に毒入り水を飲んで、死んでくれるだろう。

 死体となったカケルをシーツかなにかでくるんで、車のトランクに入れておく。

 ケンジが帰ってきたら、ちょっと買い物に行ってくるからと言って、死体を乗せた車で出かける。

 ワタルの指定した近くの山小屋にカケルと毒の入っていた容器を置いて、帰る途中で買い物をして家に帰れば、私の仕事は終わりだ。

 それ以降の処理は、すべてワタルがやってくれる。

 具体的には、死体を遠くの土地まで運んで地中深く埋めておくらしい。

 そうすれば、私にはアリバイができて、捕まることはない。


 完璧だ――と思った。

 単純な作業だが、証拠は残りそうにない。

 何より、あいつが自分で毒を飲むというのが、おもしろいではないか。

 私がミスさえしなければ、百パーセント大丈夫だろう。

 さすが、大口をたたくだけのことはある。

 私は妙に感心してしまった。

 緊張か喜びか、興奮して寝付けなかった。

 ……ついに、この日がやってきた。

 まさかこれほど早く殺せるとは、夢にも思っていなかった。

 私はてっきり、推理ドラマのような大掛かりな計画が必要なのだと思っていた。

 まさかこれほどあっけなく、人が殺せるなんて……。

 これでは、殺人事件が絶えないのも当然だろう。

 こんなにも簡単に殺せてしまうのだ。

 恨みのある相手を、片っ端から殺してしまえばいいではないか。

 ……人間の命とは、この程度のものなのか。

 まるで虫ケラのように、散りゆくものなのか。

 そうだ……その程度のものなのだ。

 ……憐れだな。

 恨みを買ったがために消されるカケル……。

 いや、悪魔――か。

 憐れな悪魔よ、我がために滅びよ。

 ふはは。ははははははは…………。


 気づくと、五時になっていた。

 パソコンは起動したままになっており、画面にはワタルの残した最後のメールが表示されていた。


『もう一度言っておきます。

 身内の殺害というのは案外、容易なものです』




   現在4 


 私は予定通りポストに入っていたそれを握り締めて眠った。

 それは紙で包装されており、案外小さかった。

 今夜は熱帯夜らしいが、冷房が効いているから涼しい。

 計画がうまく行きそうだ、という安心感からか、私はすんなり眠りにつくことができた。

 計画の成功を天に祈るまでもなかった。


 私は予定通り、八時に起きた。

 ケンジの部屋を確認すると、彼はいなかった。

 リビングに下りてみるとテーブルの上にメモ用紙があり、

『お母さんへ

 少し出かけてきます。

 12時ごろ帰ります。

 ケンジ』

 と書かれていた。

 よし、あと四時間近く余裕がある。

 リビングの冷房は切るまでもなく、ついていなかった。

 蒸し暑さに苦しみつつ、透明のコップに水を注ぎ、毒を入れる。

 毒は小さなプラスチック容器に入っており、白い、粉末状の薬で、ごく少量だった。

 水は少なめにしておいたが、簡単に溶けきった。

 氷を多く入れて、準備完了。

 カケルをリビングに呼び出すのに、どれくらい時間がかかるか分からない。

 思いのほか時間がかかって、水がぬるくなってしまってはアウトだ。

 だから、水を少なく、氷を多くした。

 これは私の独断だが、計画に不都合ではないだろう。

 急いでカケルの部屋の前まで行き、深呼吸してからドアをたたいた。

 これからが正念場だ。

 私は息を呑んだ。

 胸の鼓動は早くなっているようだった。




   現在5


「はーい」

 カケルは驚くほど素っ気なく返事をした。

 兄弟だから当然かもしれないが、ケンジと声が似ていた。

 私はそのことに動揺し、

「お母さん? お母さんでしょう?」

 と声をかけられるまで、思考が停止していたようだった。

「何か用ですか?」

 カケルの言葉遣いは、意外にも丁寧だった。

 顔が見えないからか、まるでケンジと話しているような錯覚をおぼえた。

 私はそんな自分の感覚を否定した。

 そんな馬鹿な。

 ケンジとカケルが似ているわけがない。

 二人は相反する、対極の存在だ。

 きっと緊張で感覚が狂っているのだ。

 私は気をとり直して、

「話があるの。大事な話よ。お願いだからリビングに来てちょうだい」

 と言った。

 大丈夫、声は震えていない。

「……大事な話なら、ぼくの部屋でできますよ」

 意外な反応に、私は驚いた。

 ダメだ。リビングに来てもらわないと。

 私は焦った。やはりここが難関か。

「あなたの部屋を見てしまっては失礼でしょう。いろいろ、プライベートな物もあるだろうし……」

 突然、ドアがガチャリと開いた。

 私は驚きで、後ずさった。

 ドアは完全に開け放され、私の目にカケルと彼の部屋が映った。

 そこにはケンジより少し背の低い、長髪でボサボサ頭の少年が立っていた。

 そして、部屋は意外にも質素だった。

 ――いや、違う。部屋の半分ほどが暗幕で仕切られていて見えないのだ。

「いえいえ、この通り、平気ですよ」

 カケルはケンジの口癖を真似て、そう言った。




   現在6


 部屋の見えている側半分は非常によく整理されていて、ベッドとちゃぶ台、そして座布団が一枚あるだけだった。

 奥半分は、やはり暗幕で完全に遮断されている。

 私が仕方なく部屋に入ると、カケルはきちっとドアを閉めた。

 鍵はかけなかったので安堵する。

 カケルは私に座布団にかけるよう、手でうながし、自身はベッドに腰掛けた。

 ちょうど、ちゃぶ台をはさんで向き合うかたちとなる。

「で、大事な話というのは何でしょう?」

 私はあらかじめ用意しておいた話を始めることにした。

 途中で、「やっぱりここじゃ居心地が悪いわ。リビングに行きましょう」と言えばいい。

 そんなことを思いついた自分自身に驚いた。

 私の頭もまだまだ捨てたもんじゃない。

 いくぶん自信を取り戻して、私は話を始めた。

「話というのはね、あなたのことよ」

「ぼくのこと……?」

「そう。まあ、あなたの将来のことね」

「はあ……」

 私は、さてどのタイミングで切り出そうかと考えながら、話を進めた。

「あなたは将来、何をしたいの?」

「いや……う〜ん」

 カケルは頭をかかえて悩んでいるようだった。

 よし、会話の主導権は今、私が握っている。

「決まってないのね?」

「いや、そういうわけじゃ……ないんですけどね」

「じゃあ、教えてくれないの?」

「いえいえ、絶対に教えないとは言いません。ただ……」

「ただ?」

「今は……まだ言えないんです」

「そう」

 しばらくの間、沈黙が続いた。

 チャンスだ。

 私は意を決して、切り出した。

「ねえ、ちょっといいかしら」

「何でしょう?」

「失礼なことを言ってしまうんだけど、やっぱりリビングでお話ししましょう。ここじゃ、なんとなく居心地が悪いの。ね、お願い」

 カケルはしばらく押しだまってから、口を開いた。

「でも、リビングだと兄さんに気づかれてしまいますよ。

 いくら兄さんでも、こんな話、聞かれたくありません」

「それなら大丈夫よ。ケンジは出かけているわ。十二時ごろ戻るってメモに書いてあったから、まだ時間はあるわよ」

 そう、まだ時間はある。

 おまえを殺すための時間は……。

「そうですか。兄さんが外出……。昨日も出かけていたのに、二日連続なんて、変じゃないですか?」

 何を言っているんだ、おまえは?

 ケンジはおまえと違って、友達が多いんだ。

 それに、今日は少し出かけるだけだってメモにあったんだぞ。

「そうかしら? 今日は少し出かけるだけだって書いてあったから、変じゃないと思うわよ?」

「そうですか……そうですね。

 あ、ちょっとすみません。友人にメールするのを忘れていました。ちょっと失礼……」

 カケルは自分のケータイをつつき始めた。予想外に、ボタンを押すのが遅い。

 その様子を少しイラつきながら眺めていて、気づいた。

 いつのまにか、リビングへ行こうという私の申し出がはぐらかされている。

 しまった。

 でもなぜ……?

 カケルが意図的にはぐらかしたのだとすると、一体どんな理由で……?

 なぜ、リビングに行こうとしない?

 なぜ、おとなしく死んでくれない?

 ――はっ、まさか。

 気づかれた?

 私が殺そうとしていることが、バレた?

 いや、そんなはずはない。

 そんな素振りは、今まで見せたことがなかったはずだ。

 ただ単に、リビングが嫌なのか?

 それとも、自分の部屋でないと落ち着かないのだろうか。

 いや、それならそうとはっきり言えばいいはずだ。

 他に理由があるはず……。

 いや、こうも考えられる。

 私がこうしてカケルと話すのは数年ぶりだ。

 今になって突然話しかけてきた私を、(いぶか)っているのではないだろうか。

 くそっ、このガキが!

 立派に抵抗しやがって!

 早く……早く死んでしまえ!

「あの……お母さん? 大丈夫ですか?」

 カケルがおびえたような声をかけてきて、私は我に返った。

 いけない。

 つい、感情に呑まれてしまった。

 冷静にならなければ。

 まだ時間はあ――


 ぅぃいぇえああ――――――!!


 雷のように大きな叫び声が響いた。

 なんだろう、と思う前に私は悪い予感がして、リビングへ走った。

 階段を転げ落ちそうになりながらも、なんとかリビングにたどりつく。

 そして私は意識を失った。







   手記1


 私がこのような手記を残したのは、なにも罪の意識があったからではありません。

 ただ、この記念すべき出来事の「真相」を何かのカタチにして残したかっただけなのです。


 去る、二〇〇五年七月四日。

 私は一人ぼっちになりました。

 それまでは、母マサコ、兄ケンジとともに、一つ屋根の下で暮らしていました。

 しかしその日、兄は死に、母は兄を失ったショックで記憶喪失になったのです。

 兄は後日、火葬のうえ、墓に埋葬されました。

 母は、その日のうちに、刑務所へと連行されていきました。

 母が逮捕されたのは、殺人未遂のためでした。

 リビングのパソコンのメールボックスから、次男殺害の計画を練る内容のメールが発見されたのです。

 兄の死は、事故として処理されました。

 死因になったのはもちろん、水に溶かされた毒薬でした。

 そうです。母が私を殺すために用意した毒薬です。

 母は私を殺すための毒で、兄を――最愛の息子ケンジを死なせてしまったのです。

 母は相当大きなショックを受けたのでしょう、今もまだ記憶を失ったまま、牢獄の中にいます。

 この事件は、悲運な偶然のもたらした悲しい事件としてニュースにとりあげられました。

 しかし――それは間違いだと言えるでしょう。

 なぜなら、この事件は事故などではなく、ある一人の人間によって仕組まれた、計画殺人だったのですから。


 それでは、犯人は――この事件の真犯人は誰だったのでしょう。

 考えられる容疑者は、実は無数に存在します。

 事件の当事者は一見、家族全員と次男殺害の計画を企てた張本人であるワタルと名乗る人物の、計四人に見えます。

「切る斬るKILL」の管理人氏と、もう一人のヨシカワという人物を入れるとしても、計六人。

 しかしここで、一つの新たな事実を加味します。

「切る斬るKILL」というサイトは、存在しません。

 元からなかったのです。

 だから、そこの管理人という人物も存在しません。

 では、その管理人氏に紹介されたという、ヨシカワとワタルは、一体何者だったのでしょう。

 このことについては警察も頭を悩ませましたが、結局分からずじまいです。

 しかし、この謎は後ほど明らかになります。

 ともかく、管理人を省くと五人になります。

 しかしよく考えてみてください。

 母マサコは、たしかにメールを送りました。それは送信記録にも残っていました。

 つまり、管理人はたしかに存在します。

 これは先に述べたことと矛盾しているようですが、していません。

 ともかく、母がメールを送ったのは事実ですから、そのメールを受け取った相手が存在するはずです。

 その相手は管理人なのですが、混乱を避けるために、その相手を仮にAとしましょう。

 ここからは仮定の話です。

 Aはメールを受け取とったが忙しくて自分では応対できなかった、としましょう。

 するとAは、ほかの仲間たちにメールの内容を伝えて、「誰か応対してやってくれ」と頼むかもしれませんね。

 そうすると、間接的にもその仲間たちは事件に関わったのですから、容疑者といえるでしょう。

 その仲間たちが、Aと同じように仲間に呼びかけたとすると、またその仲間たちも容疑者ということになってしまいます。

 その繰り返しで、容疑者は無限に増えていくわけですね。

 そうです。これは極論です。

 しかし事件を解こうとする者は全ての可能性を考慮した上で推理しなければならない。

 それが推理の鉄則でしょう。

 でもそれは、厳密には不可能なのです。それを示しただけです。

 さて、気をとり直して、今度はほどほどに考えましょう。

 容疑者は家族全員と計画をたてたワタルの計四人。

 ただし、実行犯であるマサコと被害者のケンジは容疑者から除外できます。

 よって、残ったのはワタルと私――次男カケルということになります。

 先走ってしまいますが、ワタルというのは私のでっち上げた人物です。

 そうです。犯人は、この一人なのです。

 私です。

 真犯人は、ワタル=カケル=私なのです。




   手記2


 真犯人が私である、というのは紛れもない事実です。

 共犯者も存在しません。

 いや、実際に動いてくれたのは、母マサコですから、彼女が共犯といえばそうですが、彼女は私の駒に過ぎません。

 それでは、そろそろ真相を語っていきましょう。

 この手記を私以外の誰かが見ることはおそらくないでしょうが、もしもそんな人間が存在すれば、私の長い前置きにすっかり頭を混乱させてしまっているかもしれません。

 そこのあなた、大丈夫ですよ。

 これからは真実をありのままに話しますから。


 私が母マサコの殺意に気づいたのは、二〇〇五年七月二日のことでした。

 私は自分の悪いウワサが広まっていることを知っていました。

 というか、ウワサを作ったのはそもそも私自身だったのです。

 私は自ら奇行に走り、あのようなウワサがたつよう、煽動しました。

 その理由は、後ほど明らかになるでしょう。

 ともかくウワサを作ったのは私ですから、母が私を憎むだろうことは想像に(かた)くありませんでした。

 私は入学式の翌日から、母を監視しました。自室の窓から望遠鏡で。

 いつ母が私に殺意を抱くか、見定めたかったのです。

 つまりこの計画は、もう三ヶ月も前から実行され始めていたのです。

 一日中監視するとなると、当然、一日中部屋にこもりっきりになります。

 突然引きこもりを始めると変に勘ぐられてしまうかもしれないと思った私は、小学校二年のときから時々やっていた引きこもりを、五年になってからは毎日やることにしました。


 私が母の監視を始めて三ヶ月が過ぎた七月二日。

 ようやくその時がきたようでした。ようでした、というのは、直接母に確かめたわけではないから本当のところは分からない、ということです。

 その日。母は近所のおば様たちの会話を、道の角に隠れて聞いていたようでした。

 しかし、しばらくして突然走り出し、最短ルートで家に帰ってきました。買い物もせずに。

 母は即座に自室に駆け込んだようでした。いつもより大きな、ドアの閉まる音が聞こえたのです。

 私が母の部屋のドアに耳を当てると、少し泣き声が聞こえました。

 私は、おそらく殺意を抱くほどのショックを受けたのだろうと判断し、翌朝、兄が出かけたのを確認してから、テーブルの上に新聞を広げておきました。

「インターネット」という文字が目立つように。

 母は自分がそれほど頭のいい人間ではないことを自覚していたから自分で殺害計画を練るようなことはしないだろう、と予測していました。

 インターネットという言葉を示せば、殺人系のサイトを探して、掲示板やメールでアドバイスを求めるだろうと考えたのです。

 案の定、彼女はその日のうちに、大手サイトの管理人にメールを送りました。

 私はパソコンの履歴とメールボックスを見て、そのことを知りました。

 母はパソコンの知識に疎く、履歴の存在すら知らなかったので、事実確認は容易でした。

 それらのことを確認したあと、私は即座に管理人(Aと仮定した人物)に『すみません、やっぱりやめておきます』という追伸を送りました。

 もちろん、このときのメールは削除しておいて、私は自室に引き返しました。

 私は自分のパソコンで、「ヤフー」や「グー」でフリーアドレスを二つ用意し、Yoshikawaとワタルという名前に設定して、それぞれ母宛てにメールを送りました。

 このとき使った「切る斬るKILL」というサイト名は、私が勝手に考えたものでした。

 つまり、そのようなサイトは存在せず、そこの管理人も同様に存在しないわけです。

 これで私の示した一つ目の謎は解けました。

 Aのサイト名をそのまま使ってもよかったのですが、事件が発覚したとき、警察にバレて御用となってはカワイソウだったので、偽名にしました。

 本当の名前は横文字だったので、母が覚えているわけもなく、事実、母はすんなりとだまされました。

 私はそれから、パソコンの前でひたすら母の返事を待ちました。

 両者とも私なのですから、母がどちらを選んでも返事は私のところにきます。

 わざわざ二人にしたのは、私が犯人であると思われないようにするのと、選択肢を設けることで簡単な心理分析をするためでした。

 兄が寝静まってしばらくしたころ、ワタル宛てに返信が届きました。

 母は昼過ぎからずっと寝ていましたから、こんな時間まで目が冴えていたのでしょう。

 ワタルを選んだのは、母の一刻を争うという焦りからだと推測できました。


 要するに、ヨシカワの形式ばった物言いより、ワタルのほうが簡潔で話が速く進むと判断したのでしょう。

 私としても、ワタルのほうが演じやすかったので助かりました。

 母の早く殺したいという要望にこたえて、返事はすぐに送りました。

 私としても、兄のいるその日(日曜日――明日から兄は大学に行ってしまう)のうちに計画を完遂させておきたかったですし。

 ワタルと母のやりとりの中で、私はいくつかミスをしました。

 といっても、故意のミスです。

 私自身、スリルを味わっていたのかもしれません。

 このミスは、あえて内緒にしておきましょう。

 賢明な方なら、とっくにお気付きのはずです。

 ニセの計画は、三十分ほどで母に伝わりました。

 この計画にも、もちろん、ミスがあります。

 というか、ミスがなければ、私は計画どおり、死んでしまうのですけど。


 さて、このとき私は、母に「午前五時までにポストに毒薬を入れておく」と断言してしまいました。

 そのときはまだ二時前で、五時までにかなりの時間がありましたから、母は寝てしまうだろうと予想していました。

 しかし母は予想を裏切って、いつまでたっても自室に戻りませんでした。

 戻ってこないということは、つまり母はずっとリビングにいるということです。

 母がリビングにいては、母に見つからずにポストまで行くことすら不可能です。

 だから私はやむなく、自室から直接ポストに毒薬を入れることにしました。

 というのも、私はこの事態を想定しており、そのためのトリックもちゃんと用意していたのです。


 実は、私の部屋の窓から下を見ると、裏ブタを手前に向けたカタチのポストが見えるのです。

 しかも、その裏ブタはきつくて、かなり力を入れないと開きません。おまけに取っ手がなく、かつて取っ手のついていた部分には小さなネジ穴があいています。

 ここまで好条件だと、トリックはきわめて簡単です。

 まず毒薬を、ポストの表ブタから入る程度の小さい容器に入れ、紙で包みます。

 次に、窓――ポストの表ブタ――取っ手の穴――窓というルートを通るように、ヒモを通します。つまり、窓から出てポストを通り、再び窓に戻ってくるルートができるのです。

 この作業は(話が前後しますが)、兄が母の代わりに料理を作っている間に、こっそり部屋を抜け出しておこないました。

 このとき、ヒモの先端に細い重りをつけておくとやりやすいです。

 重りをつけなければ、ポストから窓にヒモを通すのが困難になりますからね。重りがあれば窓に向かって投げることが可能です。

 この作業を終えた私は、また兄に見つからないよう、慎重に部屋に戻り、仕掛けのつづきにとりかかりました。

 あとは説明するまでもなく、ポストに向かって伸びている方のヒモに毒薬の包みをテープでくっつけて、戻ってきている方のヒモをたぐり寄せればいいだけです。

 毒薬はポストの表ブタから中に入り、取っ手の穴を通れずヒモからはずれてポストの中に残る、という寸法です。

 ヒモはさっきと逆の方をたぐり寄せれば回収できます。

 しかしこのトリックは雨の日だとやりづらいですし、表ブタを百パーセント抜けられる保証はないので、あまり使いたくありませんでした。まぁ、もしポストに入らなくても、外灯があるのでポストの下に落ちている紙包みには気づいてくれるでしょうけど。

 ともかく、そうして私はポストに毒薬を入れることに成功しました。

 私が引きこもりでなければ、こんなトリックを使う必要なんてなかったんですけどね。

 その後、母が予定通り五時に毒薬をポストから取り出すところを窓から眺めて、私も少し仮眠を取りました。

 母に伝えたニセの計画では、母は「八時まで仮眠を取る」ことになっていましたから、私は余裕を持って七時に起きました。

 この計画は兄の行動がカギになってくるのです。

 それを操作するための準備が私には必要でした。

 起きてすぐ、私は兄のケータイに電話しました。実はこっそり兄の番号を母のケータイから拝借していたのです。ついでにメールアドレスも。

 兄は最初、驚いていましたが、私の言う通りに行動してくれそうでした。

 私は兄に、今から買い物に出かけてくれるよう頼みました。

 やさしい兄は文句を言わずに従ってくれました。

 これからメールするまで出かけていてくれ、と頼むと、

「分かった。言うとおりにするよ」

 と言ってくれました。

 兄は母にさえ敬語を使うのに、私には親しみを込めてタメグチをきいてくれたのです。

 ――数時間後には死ぬというのに。


 兄はいつもどおり、書き置きを残していきました。

 兄を見送ったあと、私はその書き置きを部分的に書き換えました。

『9時ごろ帰ります』を『12時ごろ帰ります』にしました。

 母に、時間的余裕が十分にある、と思わせるためです。

 私と兄は字がよく似ていたので、簡単でした。

 私はすぐ自室に戻って、二通のメールを作成しました。

 両方とも宛先を兄のアドレスにし、送信待ちにしておきます。

 この二通のメールを送信し終わったとき、兄の死はほぼ確定するでしょう。

 午前八時。

 ドアの開く音がしました。

 兄であるわけはないので、母が目覚めたということです。

 母はすぐに犯行(毒薬の用意)に移るだろうなと思っていました。

 案の定、五分とたたないうちに私の部屋のドアがノックされました。

 私はその音を聞いてすぐ、一通目のメールを送信しました。


『あと5分で帰ってきてください』


 時間に正確な兄は、きっちり五分後に帰ってくるでしょう。

 そして私の思惑どおり、毒入りの氷水を飲んで死ぬのです。

 もうすぐ――おそらく五分後には兄は死んでしまうのです。

 普通はこういうとき、気がはやってミスをしてしまうでしょう。

 しかし私は違います。逆に、冷静になるのです。

 このとき、兄が死ぬためには母を足止めしなければなりませんでした。

 だから、私は敬語を使って話したり、自分の部屋を見せたり、といった意外な演出をして頑張りました。

 そしてもう一つ。兄が死ぬための必要条件がありました。

 その条件を作り出すための布石が、二通目のメールでした。


『いま、お母さんと大事な話をしています。リビングで待っていてください』


 私はこれを、一通目の四分後に送りました。

 もしこのメールを送らなければ、兄は死んだりしなかったでしょう。

 兄はこの二通目を見たからこそ、家に帰ってきたとき「ただいま」を言わなかったのです。

『大事な話をしている』というメールを見た兄は、話の邪魔をしてはいけないと思い、静かに家に入ってきたのです。

 もしも兄が遠慮を知らない人間であれば「ただいま」を言い、その声に気づいた母が氷水を飲むのを阻止していたことでしょう。

 兄はよくできた人間であったがために、死んだのです。




   手記3


 私がこの計画を思いついたきっかけは、兄の何気ない行動でした。

 兄が誰もいないリビングで、母が飲み残したお茶をためらいなく飲んでいるところを、私は偶然に見たのです。

 兄は確かによくできた人間でしたが、良家の息子のような、礼儀作法を仕込まれた人間ではありませんでした。

 だから家族の飲み残したお茶を、行儀が悪いとか考えずに平気で飲んだのです。

 まして夏のきびしい暑さのなか、目の前に氷水があれば、なんのためらいもなく飲むでしょう。

 ――じゃあ、それに毒を入れておけば殺せるな。

 そう考えた途端、兄だけでなく母も一緒に排除できる今回の計画がひらめいたのです。

 そう。

 私の目的は兄を殺すことではなく、兄と母の両方を目の前から消すことでした。

 しかし私のたてた計画は非常に杜撰(ずさん)なものでした。

 そもそも、母が私に殺意を抱かなければ、この計画はスタートすらしなかったのです。

 また、計画スタートの時期が秋であれば、兄が毒入り水を飲むことも、なかったかもしれません。




   手記4


 さて、事件の真相はもう、語り終わってしまいました。

 あとは真犯人の動機を記して、この手記を閉じましょう。


 先述したとおり、私は兄を殺したいほど憎んでいたわけではありませんでした。

 しかし同時に、いつまでも同じ屋根の下においておくには、耐えがたい存在でした。

 それは母についても同様でした。

 彼らが何か特別なことをしたわけではありません。

 彼らは人間として、普通の生活を送っていたのです。

 つまり彼らには、なんの非もありませんでした。

 ただ運の悪いことに、私という悪魔の家族として生まれてしまっただけなのです。

 私は自分が異常者と呼ばれるたぐいの人間であることを知っていました。

 というか、なぜ私のような心をもった者が人間としてこの世に生を受けたのか、不思議でしかたありません。

 私には、人間と他の生物を区別する明確な境界線がどこにあるのかわかりません。

 人間を特別視する意味もわかりません。

 私からすれば、人間も害虫も同じです。

 比喩ではありません。

 私は人間というものが嫌いです。

 殺虫剤ならぬ殺人剤なんてものがあれば、私はためらいなくそれを使うでしょう。

 人間を愛するなんて、おぞましくてできません。


 あなたは、愛せない存在が絶えず自分の周りに存在しつづける苦痛をご存知ですか?

 私の言う「愛せない存在」とは、同情すらできない、まるで無機質のような意味のない存在なのです。

 それでいて彼らは生きており、自分勝手に行動するのです。

 あなたがもし虫がお嫌いなら、自分の体を絶えず虫が這っているという状況を想像してください。

 嫌いでないなら、なんでも構いません、あなたの苦手な生物が、自分に絶えずまとわりついている状況を思い浮かべてください。

 それと同じです。

 私にとって人間とは、おおかたそのような、嫌悪するしかない存在でした。

 それでも私が人間社会を捨てなかったのは、悲しいことに自分も人間なのだという事実を知っていたからでした。

 人間は自分たちこそ高等生物だと豪語するわりに、実はひとりでは生きていけない生物です。

 だから、私は人間社会で生きるしかなかったのです。

 私は人間に対して、ひとかけらの好感すら持てませんでしたが、生きるためにルールを守って平穏を装って生活していました。

 しかし私はやはり人間を愛せませんでした。

 特に一番近くにいる人間――家族はとても疎ましい存在でした。

 やがて私は、家族と一緒に暮らすことに、耐えられなくなりました。

 目の前から――私の生活から消えてくれ! と思うようになりました。

 普通の人間なら家出をするのでしょうが、私は行くあてがありませんでしたし、もしあてがあったとしても、また人間と暮らすことに変わりはないのです。

 私には家族――つまり、母と兄を生活から消してしまう必要があったのです。

 消す方法は、どうだろうと構いませんでした。

 ようは、この家と祖父からのお金さえ残れば良かったのです。

 二人とも殺しても、それはそれで構いませんでしたが、そうなると私が犯人だとバレる危険がありました。

 牢獄は確かに他者との関わりがほとんどないという意味で、とても魅力的でしたが、同時に楽しみもないので入りたくはありませんでした。

 だから私は、完全犯罪を目指したのです。


 計画を実行していくなかで、私はスリルを感じていました。

 繰り返しますが、私のこの計画は非常に杜撰であり、いつ破綻してもおかしくありませんでした。

 もしも途中で失敗すれば、私は素直に刑務所へ行くつもりでした。

 これは一種のゲームだったのです。

 成功すれば私は平穏を手に入れ、失敗すればブタ箱行き。

 私はこのゲームに思いのほか気持ちが高まりました。

 面白かったというよりは、ゾクゾクしたという感じです。

 人間というものは本当に何をしでかすか分からない生き物で、杜撰な計画は予想以上に危ない橋を渡る結果となりました。

 しかし――

 また機会があればぜひやってみたいものです。

 この完全犯罪というゲームを。


 最後に、この手記を読んで下さったあなたに問いたいことがあります。

 私は――

 ――本当に人間なのでしょうか…………?


   二〇〇五年七月五日  三谷駆

















   あとがき


 この作品は、弟のある行為をきっかけに思いつきました。

 母の飲み残したお茶を、

「もったいない」と言って飲んでいたのです。

 その瞬間、作中の計画が思い浮かび、早速、文章にしてみました。

 そのまま一気に書き進め、気がついたらこんな作品になっていました。

 手記で作中時間が示されていますが、それはそのまま執筆時間だと思っていただいて結構です。

 作者とカケルは、まったく同じ時間に同じ文章をつづっていた、ということになります。

 今日、心理学の授業で

「矢田部ギルフォード性格検査」というものをやりました。

 社会不適応、と診断されました。

「Gの値が低いほど危険です」と先生が言いました。

 私のGの値はゼロでした。

この作品の人気次第で他作品の投入をするかどうか決めるつもりです。

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― 新着の感想 ―
[一言] 文章は読みやすく、あまり疲れを感じさせない。ストーリーは面白い(よく弟が家族の飲みかけを飲んでるので話が思いつくなぁと感心…)が、ワタル=カケル感が結構手前から匂っていたのが少し残念だけど……
[一言] 明るい話ではないけれど、面白かったです。
[一言] 雰囲気は大変好きです。 母親の一人称での感情の移り変わりも、わかりやすく感情移入して読み進めることが出来ました。 その分粗が際立ちました。 毒薬の入手経路、パソコンを調べられた際のメール発…
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