11 とある精霊の愛歌
朝の日差しが、それまで眠りについていた人々を徐々に起こしていく。
ユーミが広場を出ていった後、その場に残された僕は一人でそこに佇んでいたが、ふと少女の声に振り向いた。
「トーヤくん」
僕の名を呼んだのは、緑髪を揺らすエルだった。
どうやら、もう酔いは覚めたようである。あれだけ飲んでおいて、二日酔いしていなかったのは奇跡に等しかった。
彼女は宴の跡を一頻り見渡すと、僕に笑いかける。
「おはよう、エル」
「トーヤくん、おはよう」
二人朝の挨拶を交わし、同じベンチに腰を下ろす。
夜が明けてから少し時間が経ったものの、未だ谷は冷えきったままである。僕達は寒さをしのぐように体と体を寄せ合った。
「あったかいね」
エルは僕の肩に首を預け、自分が巻いていたマフラーを僕の首にも巻き付けてくる。
そうされて、僕は数ヵ月前にエールブルーでシアンに同じ事をされたことを思い出した。
もしかして、エルはその事を意識して……?
「もう、シアンなんかじゃなくて私にこそこういう事をするべきだろう? トーヤくんも悪い子だね」
「悪い子って、僕は何も……」
僕は困惑する。エルはそんな僕の横顔を見て溜め息を吐いた。
「……トーヤくん、その、お願いがあるんだ」
エルにしては珍しく赤面し、モゾモゾと下を向きながら彼女は何やら言い始める。
珍妙なエルの挙動に、僕は彼女の言葉に耳を傾けてやる。今はシアンもアリスもいないから、彼女らに遠慮して言えなかった事も言えるだろう。
僕は黙ってエルの次の言葉を待った。エルは僕の目を遠慮がちに覗くと、これまた遠慮がちに口を開く。
「あ、あの……。トーヤくん、シアン達だけじゃなくて……私の事ももっと見ていて、欲しいんだ」
顔を熟した林檎のように真っ赤にさせて思いを言い遂げたエルは、直後羞恥に身悶えした。
二人で巻いたマフラーの中に赤く染まった顔を埋めて、僕から顔を隠す。
「エ、エル……」
「は、恥ずかしい~っ! トーヤくん、今言ったことは全部忘れておくれ!」
「エル、落ち着いて。別に恥ずかしい事でも何でもないから」
取り乱すエルの背中を、僕は優しい声音で撫でてやる。
しばらくそうしてやると、エルは落ち着きを取り戻してきた。僕の腕の中で静かに目を閉じている。
「トーヤくん、私の事ずっと見ていてくれる……?」
そっと、エルは言った。その言葉の裏には、一抹の不安がある。
「うん。ずっと、僕達が一緒にいる限りは、ずっと見ているよ」
恐らく僕が他の女の子達と仲良くしているのを見て、彼女は不安になったのだ。
僕の心が彼女から離れて行きはしないか。
他の女に横取りされてしまうのではないか。
本来無用な不安を抱えてしまったのは、多分僕のせいだ。僕がシアンを始めエル以外の女の子と仲良くしているから……。
「ごめんね、エル。前とは違って、僕はエルだけを見ている事は出来なくなった」
エルは何も返さなかった。僕に身を委ねたまま、何も言わない。
「でも、エルのことは忘れず見ているから。ずっと好きでいるから。安心して、不安になんかならないで欲しいんだ」
僕は自分の彼女に対する想いをエルに紡いでいく。
エルはマフラーの中から頭を出し、美しい緑の瞳を僕に向けた。
彼女の淡いピンクの唇が小さく震える。
「……本当? トーヤくん」
「うん。僕は君には絶対に嘘をつかないよ」
僕が微笑して言うと、エルは目の淵に透明な雫を一杯に溜めた。
エルは本当に幸せそうに笑みを浮かべ、次の瞬間。
僕の唇と自分の唇を重ね合わせた。
突然の出来事に、僕は何が何だかわからずにエルにされるがままになっていた。
エルの甘い唇の味。それはこの世で最も甘く、僕の心を激しく揺り動かす。
僕の胸の鼓動は高速で打ち鳴り、顔はどんどん紅潮していった。
やがて長い時間が過ぎ去り、エルは僕の唇から彼女の綺麗な唇を離す。
「ふふ、トーヤくん……。初めてのキスだね」
エルは溜まっていた雫を、その時ようやく滴らせた。
僕は彼女がたまらなく愛しくなって、ぎゅっと力強く抱き締める。
「エル……大好きだよ」
僕はエルの耳元で囁く。
温かい感触に、その時の僕は幸せを感じていた。
* * *
それからのエルは上機嫌だった。
僕と一緒に巨人族の谷を見て回ろうとはしゃぎ、僕の手をあっちへこっちへ引っ張って離さない。
同行するシアンはエルのその浮かれっぷりを見て、数ヵ月前の自分と重ねて嘆息した。
「私がのんびり寝てしまっていた間に、トーヤとエルさんがより仲良くなってしまったのですね……。くっ、悔しいです」
悔しがるシアンなどエルの眼中にはなく、彼女はただひたすらに僕と一緒にいる事を望んだ。
僕は彼女のそんな様子に苦笑する。
ちょっと、はしゃぎ過ぎじゃないかな……?
と、僕達が巨人王のいる巨大な石の神殿の前を通りかかった時。
短めの赤髪の美少女がエルの名を呼んだ。その声を聞いて、エルの顔からさっと血の気が引いていく。
「エ~ル~さん! お会いしたかったですよ~!」
ユーミの妹、ナミであった。彼女は宴でエルを見てから、彼女にぞっこんらしい。
エルは僕の背に身を隠し、下手な作り笑いをした。
「あはははっ、ナミちゃん何の用かな? 用がないならさっさと帰って欲しいんだけどなー?」
「やだ、エルさん! 私は用があるからあなたの所に来たんですよ。あなたがこの谷を見て回るって聞いて、案内しようと思って来ました!」
ナミはエルだけを見て笑う。
彼女はさっきのエルと同じくらい、いやそれ以上に興奮しているようだ。
「エルさん! さあ私と一緒に行きましょう!」
「止めてくれ、私はトーヤくんと一緒に行くんだ。君には用はない!」
「やだ、もしかして私と一緒に行くのが恥ずかしくてそんな事を!? 何も恥ずかしがる事はありませんよ、さあ勇気を出して私と」
「ああっ、もう止めてー!」
エルは涙目になり、とうとう逃げ出した。その後をナミが追って走る。
僕とシアンは哀れなエルの様子を見届け、引きつった苦笑いを浮かべるしかなかった。
「エルさん……。ご愁傷さまです」
シアンが本当に哀れそうに呟いたのが、妙に耳に残っていた。
* * *
ひたすらに走ってナミから逃げるエルは、川沿いを駆けている時に、向こう岸で巨人の男達が何人も集まっている光景を目にした。
思わず走る足を止め、向こう岸に目を凝らす。追ってくるナミは一応人家の間を駆け巡って撒いた筈だ。
川岸でへたりこんでいる男達は傷ついているらしく、やって来た女性達が彼らの身に包帯を巻き付けている。
エルは谷に三つある橋まで急ぎ、その男達の元へ向かった。
あの様子、何かただ事ではないことがあったに違いない。
「何が、あったんだ……!?」
巨人達の元に辿り着いたエルは、彼らの口から驚くべき言葉を聞くことになる。
「エルフが……エルフの剣士に恐ろしく強い奴がいて……」
一人の若い男が掠れ声で告げる。
エルだけでなく、この場に駆け付けた全ての者が驚きを露にした。
「ねえお兄さん、何があったんだい!? エルフの剣士って……?」
エルは若者に問うた。
こうして傷ついた人達を放っておけなくなった辺り、かなりトーヤくんに感化されたなとエルは自分で思う。
彼に出会うまでのエルは、少なくともこういった人々がいてもすぐに救いの手はさしのべられなかっただろうから。
彼女は誰にも過去を語ろうとはしなかったが、心の内でかつての自分と今の自分を比較して自嘲的に笑う。
「『アールヴの森』に狩りに行ったら、一人のエルフの剣士にやられたんだ……。俺達が、反撃する隙もなかった。まるで風のような動きで、補足することも出来ない……」
「そんな事が……」
それにしても、エルフが剣を持って巨人に立ち向かうなんて。
エルフは魔法に優れた種族で、剣を持って戦う事なんて滅多に無いと聞くが……。
そいつは、どんな剣士なのだろう。
エルはその『エルフの剣士』とやらに興味を抱いた。
若い巨人の男達は嘆きの声を上げる。
「くそっ、今日も狩りに失敗した……。このままじゃ、その内みんな飢え死にしちまうぞ」
「エルフの奴らめ、自分達だけ森の恵みを独占しやがって。俺達だって、食べ物に困っているっていうのに……」
巨人の男達はエルに自分達の事情を語った。
巨人族は昔から、谷と雄大な山脈から採れる自然の恵みを糧として生きてきた。
だが半年前に大規模な山火事が起こり、山の動物達は根絶やしになってしまう。
そのため、例年は山からの恵みだけで一族を養っていけたのだが、今年は森まで遠征して食糧を手に入れなければならなくなったのだという。
そんな事があったのに、私達のために宴なんか開いて、余計に……?
エルは巨人達に申し訳なくなった。うつ向き、自分に何か出来ることはないか考える。
ふふっ、やはり心の底からトーヤくんに染まってしまっているな……。
「エルさん、ここにいたのですね! ……みんな、何があったの!?」
ナミがエルと傷付いた男達を見付けて叫んだ。
彼女はエル達の元に駆け寄り、事情を聞く。
聞き終わるとナミは深刻な表情になった。そして何かを決心したような顔になり、エルの横顔を見やる。
「エルさん、私と一緒に『アールヴの森』に来てもらえますか?」
「な、なんで君と一緒に行かなくちゃならないんだい!?」
「行こうという気持ちはあるんですね? 一人では危険です、私と一緒に行きましょう」
ナミの表情は真剣だった。その表情から、彼女があの巨人王の娘であるということが改めて伝わってくる。
巨人達の視線がエル達に注がれる。彼らの中には、危ないから止めた方がいいという声もあった。
だが、エルは。
「わかった。本当に癪だけど、君と一緒に『アールヴの森』に向かおう。それで、エルフ達に森の恵みを分けて貰えないか話し合ってみる」
トーヤくんやシアン達には悪いけど、少しくらい寄り道をしてもいいだろう。旅先で困っている人達を助けるのも、旅人の楽しみじゃないか。
エルはナミの言葉に頷き、傷付いた若い巨人達に優しく話しかける。
「私がナミと二人でエルフの森に行って、エルフ達を説得してあげるよ。エルフ達だって、こちらの事情を知れば話を聞いてくれる筈だ。宴のお礼といっちゃなんだけど、私達にはこれくらいしか出来ることはないから……」
巨人達は本当にありがたそうにエルの手をそれぞれ握った。
頼んだぞ、そう客人の美少女に自分達が出来なかった事を託す。
「さあ、エルさん。『アールヴの森』へ向かいましょう」
「ああ。何としてでも、エルフ達を説得してみせる」
エルは拳を握り締め、決意を固める。
隣に立つナミを見上げ、彼女は走り出した。




