10 エルフの森に吹く一陣の風
『アールヴの森』。
巨人族が住む『ヨトゥン渓谷』からおよそ五キロメートルの距離に位置する、針葉樹の森林である。
まだ雪を被って白く輝いているその森には、森に住む妖精であるエルフの一族がひっそりと暮らしていた。
その『アールヴの森』に、とある少年がいる。
彼の名はリオといった。彼はエルフ王族の末裔であり、今は森を少し外れた所で同胞達に見つからないように剣の練習をしている。
彼は剣の代わりの木刀を振りながら、先日森の中で出会ったある人間の事を考えていた。
「……あの人間は、悪い人間ではなかった」
リオは呟く。頬に伝う汗を手の甲で拭い、目にかかった金の前髪を払うように頭を振った。
彼の頭の中には、あの黒髪の人間の少年の顔がいつまでも残って消えていない。
何故だろう、独り言を漏らすリオは一人で首をかしげる。
「そういえば、彼は剣を携えておったな……」
リオは剣に対する情熱と、何より憧憬を抱いていた。
同胞達は鉄の刃を持たないが、とある事がきっかけで、彼は剣とその剣を扱う剣士に憧れるようになったのである。
誰でもいいから一度誰かと剣を交えてみたい。それが今の彼の一番の願いであった。
「おい、リオ! ここにいたのか」
そんな彼の名を、男が呼んだ。
リオは木刀を腰帯に差し、自分を呼んだ男の方を振り返る。
「よっ、リオ。迎えに来たぜ」
「それは無用と、以前からお主には言っておったのじゃが……。お忘れになったのかな?」
リオは冷たい視線を目の前に立つ優男に注ぐ。
リオと同じ金色の髪の青年は、リオのその視線を受けても笑みを崩すことなく言った。
「お前の母さんが、お前を探してたぜ? 急いで向かった方がいいと思う」
「そうか、ならば向かおう。……お主はついてこなくて良い」
「つれないなぁ、良いじゃないか。将来連れ添う仲なんだし」
リオが急ぎ足でもと来た道を戻っていくと、優男も彼の隣を付きまとってくる。
鬱陶しい、とリオはしつこい優男から目を逸らして無視を決め込む事にした。
優男はそうされてもなおリオに話しかけてくる。かれこれ数年、この男はリオに近付こうと何度もしつこく話しかけてくるのであった。
あんまりしつこいので、リオも我慢が出来なくなって叫ぶ。
「ディン、しつこいぞ。私はお主とは付き合わぬと、ずっと前から言っておる筈じゃが? もう付きまとうのはやめてもらいたい」
「はは、可愛いげがないな。そんな心にも無いこと言う必要はないのに」
リオは嘆息した。この男に、何を言っても聞かない。
リオとしては、一族の後継ぎなんてほったらかして森を出ていきたくなる気分だった。どうしてこんな男と結婚せねばならんのだ。
母上も母上だ。いくら抗議しても聞きやしない。こんな顔だけ良い男のどこが良くて選んだのであろう?
リオに内心で酷い言われようのこの男、ディンはリオが生まれた時から彼の事を知っていた。彼に恋心を抱くようになったのは数年前の事で、それまではリオと普通に仲が良かった。
その関係が微妙なものになったのはディンのその振る舞いもあるが、リオ自身の人柄が変化していた事もある。
「どこに行っていたのですか、リオ」
きつい口調で静かにリオを叱るのは、エルフの女族長でありリオの母親でもあるリヨスだ。
リオが森の最奥部の天幕に戻ってすぐの第一声がそれであった。
「す、すみません。母上……」
「木刀なんて持って、どうせその棒切れを振り回して遊んでいたのでしょう」
今年四十歳を迎えるエルフ族長のリヨスは極めて厳格な女性であり、一族の誰もが畏れている存在であった。
リオも例外ではない。
長の前に跪き、弁解の言葉を述べる。
「本当に申し訳なく思っております。ですが、この剣術は護身のためなのです。お許し頂けないでしょうか」
「護身なら、魔法があるでしょう。剣など捨てなさい。あなたはそれでいいかもしれませんが、私が恥をかくのですよ」
リオは顔を上げられなかった。
自分のせいで、母親が恥ずかしい思いをしている事は身をもって知っている。リオ自身、同胞から指を差されて笑われた事だってあった。
「それに、その格好は何ですか? 男物の服を着て、木刀を携えて……それでもエルフ王族の娘ですか」
すぐには反論が出来なかった。
自分がどれ程おかしい事をしているか、自覚はしている。でも、これを止める訳にはいかないのだ。
リオは、憧れのためにこれを続けなければならないと思っていた。彼女は拳を固く握り締め、母親を見上げ睨む。
「私がどんな格好をしようとも、そんなこと母上には関係のないことでしょう。女だからといって、男の服を着たり剣を帯びたりしてはいけないのですか? 母上、私を縛るのはもう止めてください!」
リオは叫んだ。自由を求めて。
縛られている事なんて、嫌だ。私は私の意思を尊重したい。誰にも自由を奪われたくなどない。
リヨスは言葉を失っていた。娘からこんな事を言われたのは初めてだった。
僅かに視線を下に向け、リヨスが何かを言おうとしたその時。
リオに何かを言っているどころではない報せが飛び込んで来た。
「族長様! またです、また巨人どもが……!」
諜者が運んできた報せにリヨスは溜め息を吐き、リオは唇を噛む。
「またしても、巨人どもの侵入を許してしまったのか」
「左様でございます。現在、ニール様の部隊がそちらに向かっておりますが……既に、かなりの数の『森の同胞』を殺されたと」
リオが問うと、諜者の男は若干裏返った声で答える。リヨスの怒りの目を見てしまったら、仕方のないことではあるが。
「あなた、リオをそこに案内しておやりなさい」
リヨスはそれだけ言うと、諜者に背を向けてしまう。
リオと諜者の男は数秒間顔を見合わせてから、同時に駆け出した。ついでに、その場に居合わせるディンも二人の後に続く。
「巨人ども……これ以上、森を荒らさせはせぬぞ」
リオは歯を食い縛り、腰の木刀に手を当てる。
風のように木々の間を駆ける彼女は、ディン達を引き離してどんどん先へ進む。
諜者の案内が無くとも、人声と戦いの音がする方へ向かえばいいのだ。
リオは急ぐ。彼女は走りながら木刀に魔力を込めていった。
木々の間に巨人どもの姿を視認した瞬間、彼女は木刀を抜く。
白く輝く魔力を纏った木刀は、リオの邪魔をする樹木を一刀両断した。その勢いのままに、巨人どもにも斬りかかっていく。
「はああああッッ!!」
リオの木刀が一閃すると、巨人の一人が頭を打たれて倒れる。リオは次の瞬間にはもう一人を再起不能にしており、森の侵入者達を震え上がらせた。
「な、なんだあいつ!?」
「つ、強え……」
巨人の数は十二人。既に二人をリオが倒しているから、残ったのは十人だ。
その十人の巨人達は、リオの戦い振りを見て早くも怖じ気づいたように見えた。
だが、巨人達もここで倒されては彼らの村に狩りの獲物を持って帰れない。
必死になって槍や棍棒を振り回し、後退していく巨人達をリオは逃さなかった。
光を纏った木刀を閃かせ、風のように巨人どもの足元をすくっていく。
走りながら膝下を打たれ、前のめりに倒れる巨人達が顔を上げると、そこには冷たい怒りを彼らに浴びせるエルフの男装少女がいた。
「おい、巨人ども……。二度と我らの森を汚すような真似はするな。次現れた時は、お主らの胴体を真っ二つにするつもりでいるから、覚悟しておくことじゃな」
静かに怒る様は母親譲りである少女の姿を見て、巨人達は起き上がると我先にと逃げ出すのだった。




