4 巨人の巫女
『ヨトゥン渓谷』。
ミトガルド地方に横たわる大山脈、スカナディア山脈の西端にある大渓谷である。
霧を纏い、外界の干渉を拒むその渓谷には、とある種族の集落が点在していた。
『巨人族』である。
巨人族はこの渓谷に数十人からなる集落を幾つか作り、人里から離れたこの地で穏やかな暮らしを送っていた。
巨人族には、彼らが信仰する独自の神話が存在する。
彼らの神『ユミル』を祭った社には、今日も一人の巫女の少女が祈りを捧げに来ていた。
「始祖の巨人ユミルよ、どうか我らの暮らしに平穏と実りをもたらさんことを……」
彼女の名はユーミという。父親が巨人の始祖ユミルから取った名前だ。
ユーミは祈りの言葉を手早く呟くと、一通りの儀式を終わらせてさっさと帰る支度を始めた。
「ああ、早く帰ってお酒が飲みたい」
巫女にあらざる台詞であるが、彼女は自分の身分などさして気にもしていなかった。誰かが聞いている訳でもなし、こっそり隠れて飲む分には神も怒るまい。
巨人の始祖は、子孫達には寛容なのだ。
そう頭の中で決めつけたユーミは、酒の事だけを考えながら家路を急ぐ。
と、遠目が利く彼女は『アールヴの森』の方角から、渓谷入り口の霧を潜って馬車が一台やってくるのに気が付いた。
「何かしら、あれは。馬車が来るなんて、珍しい」
幼い頃から好奇心旺盛なユーミは、さっきまで考えていた邪念を捨て、珍しい来訪者を出迎えてやろうと決めた。
決めたら早い。彼女は小走りで渓谷に流れる川沿いを駆けていった。
* * *
エルフの森を出てから約二時間。僕達は『ヨトゥン渓谷』という大渓谷に辿り着いていた。
霧が漂う渓谷に入るのは躊躇する思いもあったが、ここを通らないとなるとスカナディア山脈を越えていくルートになってしまう。まだ雪の積もった山脈を越えるのは難しいことから、僕達はこの渓谷を抜けていく道を選択したのだった。
「霧がすごいね……。この先はどうなっているんだろう」
「地図によると、ここには巨人の集落があるそうですよ」
霧の中目を細める僕に、地図の見方を覚えたシアンが町で買っておいた地図を見て教えてくれる。
アリスは腕で身を抱え、身震いした。
「はぁ、巨人ですか……」
「エロ小人は巨人が苦手なのか」
ジェードが真顔で呟き、アリスは憤慨する。
「エロ小人とは、何ですか! 私の事を侮辱しているのですか!?」
「……フン」
「まあまあ、喧嘩しないで」
険悪なムードになりそうな二人の間に、僕は割って入る。
アリスはジェードからそっぽを向き、ジェードは少し気まずそうにしていた。
エルがジェードの表情を見て、何か気付いたように目を光らせる。
「そうか、ジェードくん……」
「え、エル」
「後で話聞こうか。彼女のいない所でね」
エルが何やらジェードに囁きかけている。仲が良いのはいいことだ。
でもアリスはまだ怒っている。僕は彼女に「こっちにおいで」と隣に座るよう促した。
アリスは後ろの席から僕の座る御者台に移動し、ちょこんと腰を下ろした。
「あ、アリス」
「どうしました……? あ」
霧が晴れた。馬車が渓谷の中に入ったとたん、辺りにあった筈の霧が一切無くなっていた。
どうやらあの霧は、渓谷の入り口にだけ漂っているもののようだ。
後ろを見てみると、霧が馬車に置いていかれている。
「これが、巨人族の集落……」
夕暮れの赤い光に照らされた巨人族の集落は、とても素朴で美しいものに思えた。
どの建物も石造りで人間の住むものより二回りは大きい。渓谷には清流が流れ、そこに水を汲みに来る巨人の女性達は楽しそうに会話している。
普通の、どこにでもある村の光景だ。僕は何だかほっとして息を吐いた。
「おーい、そこの人ー!」
と、女の人の声が僕達の耳に届いた。
女の人は川沿いを走りながら僕達に手を振り、赤い髪をなびかせてこちらへやって来る。
「ストップ、ストップ! 馬車を止めてちょうだい!」
僕は女の人の言うことに従ってスレイプニルを止める。
女の人はここまで走り通しだったのか、膝に手を当てて息を荒くついていた。
「はぁ、はぁ……あんた達、巨人族じゃないね?」
「は、はい。僕達、ここを通りたくて……」
「よく来てくれた! いやー、巨人以外をここで見かけるのなんて、何年ぶりかしら」
赤髪の女性は、膝から手を離し背筋を伸ばした。身長は二メートル以上はあるだろうか。彼女は僕達を見てとても嬉しそうに笑った。
彼女は後ろを振り向いて、谷への来客を叫んで知らせる。
「みんなー! 今夜は宴よ!」
赤髪の彼女が叫ぶと、川で水汲みをしていた女性達や、山から戻ってきたのだろう男の人達がどっと沸く。
何だか、歓迎されてるのかな……?
「あ、あの……」
「さあさあ、こっちに来て。まずはあたし達の王……つまりあたしのパパに対面してもらわなきゃ」
赤髪の女性はどんどん事を進めてしまう。
僕は彼女の勢いについていけずに、ただただ困惑していた。
「あ、あの、あなたは……?」
僕が彼女に問うと、赤髪の彼女は白い歯を見せて笑う。
「あたしはユーミ。巨人教の巫女であり、巨人王の娘よ」




