2 恋情
買い出しを全て済ませた僕達は、『潮騒の家』にみんな一度戻って来ていた。
食堂で夕食を取りながら、みんなでこれからの行き先を話し合う。
「とりあえず、行ってみたい所挙げてみてよ」
僕がエル達に言うと、彼女らは口々に訪れてみたい地名を声に出す。
一斉に言われてしまっては全部は聞き取れない。僕は一人ずつ話すよう皆に諭した。
「私は、マーデルを南に進んだ先の国を見てみたいなあ。船で行かないと行けないのが難点だけど」
エルが腕を組み、眉間に皺を寄せて言う。
目元を抑え、駄目そうだねと呟く。
アリスはミトガルド地方の北に位置する島々、スバルト諸島を、ジェードも彼女と同じ所を希望した。
シアンは僕の身に腕を回し、上目遣いで僕を見る。
「私はスウェルダの東隣にある国、フィンドラに行ってみたいですね~。トーヤさんもそう思いますよね?」
「いや、僕はフィンドラより先に、ルノウェルスを見てみたいと思ってるんだ」
ざまあみろ、とエルが舌を出しているのは放っておいて、僕は僕の意見を皆に話す。
「でも、どうしてあの国に……? あそこは今、結構大変な事になってるって聞くけど」
同席しているサーナさんが、何故ルノウェルスに行きたいのか問うてきた。僕は静かにその理由を口にする。
「だからこそだよ。ルノウェルス国の人々は今困ってるんだ。力を持つ僕が、力を貸してあげなくてどうする?」
【神殿】で、僕は神オーディンに誓ったんだ。
力は、僕の正義のため……苦しんでいる人や困っている人達のために使うんだって。
その役目を果たすのは、今からだ。困っている国の民に会って、助けてやる。たとえ何も出来なくても、そういった国の姿を目に焼き付けておくべきだと思った。
僕が語り終えると、エルはちょっと大袈裟に拍手してみせた。彼女に乗せられて、シアン達も手を叩き出す。
「流石トーヤくん! 私は君がそう言ってくれる人だとわかっていたから、君を選んだんだよ」
「俺達では、そんな事考え付かないよ。やっぱり凄いな、トーヤは」
「決まりですね。旅の目的地は、ルノウェルス王国」
エルやジェードに褒められ照れ臭くなる僕に、アリスが蒼い目を細めて笑いかける。
「それじゃ、作戦会議といこうじゃないか!」
それからはエルを中心に、旅の計画を綿密に練る作戦会議が開かれた。
僕達はそれぞれ意見を出し合い、円滑に計画を立てていく。
僕の隣にいるサーナさんが机に頬杖をつき、うとうとし始める頃、その計画は完成したのだった。
*
夜が更け、朝日が水平線の向こうに昇り出す。
皆より早く目が覚めてしまった僕は、宿の外に一人出てスレイプニルの鬣を撫でながら、日の出を眺めやっていた。
太陽の光が海の水面に反射し、白く輝いている。冷たい夜が終わり、暖かい太陽が顔を出した。
それは神秘的で、美しい光景だった。僕は誰にも邪魔されず、一人この美しい光景を独占する。どんなにお金を使った贅沢よりも、もっと価値のあるものが、それにはあった。
「綺麗だなぁ……エル達も起こしてあげればよかったかも」
といいつつも、僕は自分だけで朝日を眺めるのも悪くないと感じていた。
と、スレイプニルにも人並みの知能がある事を思いだし、苦笑する。
「君も一緒だったね。ごめん」
鼻を鳴らすスレイプニル。どうやら自分が数える内に入っていなかった事がお気に召さなかったらしい。
「ごめんって、もう忘れないよ。スレイプニルも、僕達の旅の仲間だもんね」
それでもスレイプニルは機嫌を直さず、僕からそっぽを向いてしまう。彼には意外と気難しいところがあるようだ。
「ふふ、トーヤさん。スレイプニルに嫌われてしまったんですか?」
そう背後から声を投げ掛けて来たのは、シアンだ。僕は彼女に向き直り、眉を下げて笑った。
「まさか。こんな態度だけど、彼は僕の事を認めてるよ。そうじゃなかったら、いつも言うことを聞くはずないでしょ?」
「それもそうですね。……トーヤさん、少し話しませんか?」
「いいね。ここじゃあれだし、波止場で二人きりで話さない?」
僕がシアンに少し先の波止場を指差すと、彼女は腰から覗く尻尾を嬉しそうに振る。
僕は彼女の手を引いて、朝の日差しに照らされる波止場まで連れていく。 そこに腰かけると、シアンも僕の右隣に座り、その身を寄せてきた。
「エルさんもアリスもまだ寝てますからね。今がトーヤさんに甘えられる絶好のチャンスだった訳ですよ」
「わかったよ。でも、この事はエル達には内緒だよ?」
僕はシアンの細い体を右腕でぎゅっと抱き寄せ、暖かくしてやる。
シアンは僕の腕の中で幸せそうに目を閉じ、ゆらゆらと尻尾を揺らした。
「あっ、そうだトーヤさん」
「ん? なに?」
シアンが僕の首に巻き付けてきたのは、いつか僕が彼女に贈ったマフラーだった。それを彼女は自らの首にも巻き、えくぼを作る。
「ふふ、一緒の方が暖かいでしょう?」
ドキン。頬がどんどん赤く染まっていく。
なんか、照れるなぁ……。
僕が恥ずかしがっていると、シアンは意地悪く笑う。
「私の事、意識しちゃってますか?」
「えっ、そ、そんなまさか」
「……嘘が下手ですよ? トーヤさん」
僕は意地悪な獣人の少女から目を逸らし、朝日を反射して光る海を見渡した。
この海に比べたら、僕達の存在なんかちっぽけなものなんだなあって、柄にもなく哲学的な事を考えてしまう。
シアンは一拍置いた後、目の前の海に立つ漣のように静かな声音で話し出す。
「トーヤさん、私……もう、過去に囚われません。あの後、私気付いたんです。私にはあなたがいる、あなたのためなら何でも出来る。もう恐れるものは何も無いんだってわかったんです」
シアンはこうも続けた。
私を追い回す『黒い影』も、私を縛る鎖も、今はもう消えてなくなった。だから、これからは過去に縛られず自分の思うように生きるのだと。
「私はあなたに奴隷から解放された後も、心の隅で自分は本当にこの人の隣に立っていて良いのかと悩んでいました。私は獣人で、元奴隷の身分。あなたなどに見合う女では無いと、私は自分を卑下していました……。でも、そうじゃないって気が付いた」
僕はシアンに目を向ける。シアンは海の向こう、明るく照らす太陽を見据えていた。
その表情は今までと比べ、どこかすっきりしたように見える。
「トーヤさん、私を救ってくださって本当にありがとう。私に、新しい道を見せてくれて、本当に、本当にありがとう」
シアンは大きな目から涙を流す。その涙は綺麗に透き通り、彼女の頬を伝って落ちていった。
僕は彼女の冷たくなっている手を自分の手で包み込んでやる。シアンは僕の方に顔を向け、笑った。
「暖かい……嬉しいです」
「僕にとって、君は守るべき大切な人の一人だ。僕こそ、お礼を言いたいよ。……シアン、僕は君と一緒にいると、とっても楽しくて幸せな気持ちになるんだ。君は、周りの人を暖かくする……そんな人なんだ。だから、誇りを持って前を向いていていいんだよ」
僕は少し照れ臭くなりながらも、思ったことを言葉にする。
シアンは顔をほんのりと赤くして、僕から視線を逸らした。
「シアン、どうしたの?」
「……そんな事を平気で言うから、あなたの周りの女性があなたを好きになっちゃうんですよ! 少しは自重してくださいっ!」
恥ずかしがっていると思ったら、次には頬を膨らまして怒っている。
シアンの感情の変化についていけない僕は、たじろぎながら言った。
「シアン、それなら君が、僕にとって一番の女の子になればいいじゃないか」
シアンの瞳が、きっと見開かれる。
胸の前に右手を当てて小さく何か呟くと、僕の耳元に唇を近付けてきた。
「……わかりました、トーヤ」
今、呼び捨てで僕の名前を呼んだ……?
顔が熱くなる。耳まで真っ赤になる僕は、暫く硬直してしまっていたが、やがて掠れた声で呟きを漏らした。
「い、今、僕のこと……」
「い、嫌でしたか?」
僕は首を激しく横に振る。
シアンの表情が、ぱあっと明るくなった。
「では、これからはあなたの事、『トーヤ』と呼ばせていただきますね」
「う、うん! それでよろしく」
なんか上ずった声になってしまった。
でも、前より距離が縮んだ感じだ。 胸の中が暖かいもので一杯になる。喉に込み上げてくるものは、何なんだろう。
シアンは悪戯っぽい笑みを浮かべて囁く。
「……ふふっ、トーヤ」
「もう一回、もう一回呼んで!」
「トーヤ、トーヤ……」
「うーん、最高っ!」
呼び方が変わるだけで、こんなにも受ける感じが違うなんて。これまでのシアンからのギャップが心をくすぐる。
「でもさ、トーヤ、トーヤ……ってサーナさんみたいだよね」
「ふふっ、確かに、そんな感じしますね」
僕達は顔を見合わせ、小さく笑う。空を見上げると、ここに来たときよりも太陽が高くなっていた。
「そろそろ戻ろっか?」
「そうですね。皆もう起き出している頃でしょうし」
立ち上がり、二人一緒のマフラーを解く。
僕達は二人で手を繋いで、宿屋に向かって歩き出した。その時のシアンの横顔は、とても輝いて見えた。
「……馬鹿」
誰かが物陰で呟いたが、その声は誰にも聞こえる事はなかった。
*
「あっ、トーヤくん! 随分とシアンといい雰囲気になってるけど、一体二人きりで何をしていたんだい!?」
「エルさん、私、トーヤにとって一番の女になります! だから覚悟しておいてくださいね」
僕達が『潮騒の家』に戻ると、エルが早速シアンにつっかかってきた。
シアンは僕の左腕に自分の腕を絡め、エルに挑戦的な視線を放つ。
「ちょっ、突っ込みどころが多すぎるよ! その呼び方もそうだけど……トーヤくん、君は私達を平等に愛してくれるって言ってたじゃないか! なのに何でシアンはあんな事言ってるんだい?」
エルに咎めるような目で見られ、僕は適当に誤魔化す。
「さー、何でだろ? シアン、どうしてそんなこと言うの?」
「もう、トーヤったら! うふふっ、思い出したら私が恥ずかしくなってきちゃいました」
シアンは、エルに見せつけるように僕にベタベタくっつく。
アリスも二階から降りてきて、その光景を目にして愕然とした。
「ま、まさかシアン殿……。どんな手を使ったのですか!?」
「ふふ、秘密です」
「シアン、そろそろ離れて。サーナさんに見られると不味い……あ」
僕はシアンと腕を絡ませた姿勢のまま、固まる。
宿屋のドアが大きな音を立てて、サーナさんが目を真っ赤に腫らして入ってきた。
「さ、サーナさん! これには事情が」
「……いいのよ。あんなの見せられたら、もう手は出せないわ……。お二人さん、どうかお幸せに!」
サーナさんは僕とシアンに怒鳴り付けると、走って階段を上がっていってしまう。
「あっ、サーナさん!」
「……馬鹿、もう知らないっ! トーヤなんて、大嫌いっ!」
サーナさんは泣きながら怒鳴り散らし、階段の向こうに姿を消してしまった。
彼女は僕とシアンが一緒にいる所を見てしまって、それで……。
「少し、悪い事をしてしまいましたかね……」
流石に申し訳ない気持ちになったのか、シアンは低い声で言う。
だけど、シアン自身は何も悪くない。女の子の恋というものが、恐ろしく複雑で面倒なものだというだけだ。
宿のおばさんが厨房から出てきて、ため息をついて言う。
「……サーナもまだまだ子供ねぇ。ほっときなさい、あんな事言ってたけど、あの子はトーヤくんを決して嫌いになっちゃいないわ」
僕は沈んだ面持ちだったが、おばさんの言葉に顔を上げた。
本当に、サーナさんは僕の事を……。
「トーヤくん。あと一日、サーナに時間をやってあげて欲しいの。あの子だって、このままあなたと別れる事なんて望んでいない筈だわ」
僕は頷いた。今日一日は宿の仕事でも手伝って時間を潰して、明日出立しよう。
僕はシアンの横顔と、サーナさんの笑顔を重ねてみる。サーナさんを思うと、心が少し寂しく痛んだ。
この日は久しぶりに宿の仕事を手伝って、おじさんやおばさんに僕達は良く褒められた。
リューズ邸で身に付けた仕事の技術が、ここでも活かされたのだ。宿屋はいつも以上に繁盛しおじさん達も大喜びだったが、サーナさんはあの後部屋に籠りきりで、僕達の前に姿を見せなかった。
*
そして、翌朝。
僕達がこの街エールブルーを発つ日がやってきた。
馬車に乗り込む僕達に、おじさん達が声をかける。僕はそれに応じながら、サーナさんの事を想った。
サーナさん、まだ来ない……。あまりのショックで、良からぬ気を起こしてはいないだろうか。
僕は不安感に襲われ、サーナさんが居るであろう二階の屋根裏の小部屋を見上げた。
すると、その時。
「……トーヤ! 待って、私、あんたに言わなきゃいけない事があるの……!」
サーナさんだった。開け放たれた宿屋のドアから走り出る彼女は、僕の乗る馬車の御者台に駆け寄る。
「トーヤ、昨日はごめんなさい……。私、本当はあんたの事が大好きなの。嫌いなんかじゃないわ! だから、私の事、嫌いにならないで欲しいの……!」
僕はサーナさんのくしゃくしゃになった茶色い髪の頭を、ポンポンと叩く。
「サーナさん、僕はあなたの事、嫌いじゃないですよ。ここでサーナさんに出会って、一緒に話したり、料理を食べたりした時間は本当に楽しかった。サーナさんの事は、大好きです。エルやシアン、アリスと同じくらい、あなたの事が好きなんです!」
サーナさんは僕の言葉を聞くと、一筋の涙を流した。
そして僕の顔に両手を添えると、自分の方に引き寄せて……。
「ちよっ!? サーナさん!?」
「トーヤ、大好き……」
サーナさんの唇が、僕の唇と重なる。
意外と柔らかく、甘い感触。押し付けられた唇の感触に、僕の頬は紅潮してしまった。
僕は抵抗出来ずにサーナさんと唇を重ねていたが、存分にキスを堪能したサーナさんは僕から唇を離した。
満足げに笑うサーナさんは僕の鼻の頭をちょこんと押し、言う。
「……ふふっ、赤くなっちゃって。そんなあんたの顔、私初めて見たよ」
「そ、そりゃあそうでしょう!? サーナさんに、こんなことされるなんて、初めてなんですから」
僕がサーナさんの視線から逃げようとすると、駄目、と彼女にそれを阻まれる。
「トーヤ、私、あんたの事一生愛し続けるから……。だから、私の事忘れないでね」
「わ、忘れる訳ないよ。こんなことされて、忘れられる訳が……」
「うふふっ、そうよね。じゃあ、行っておいで。私待ってるからね。絶対、戻ってきてね……」
サーナさんは寂しそうに笑い、僕から少し離れる。
宿のおじさん、おばさんの隣に立ち、出立しようとする僕達に手を振ってきた。
「エル、シアン、アリス……。あんた達がどれほどトーヤが好きでも、愛の大きさでは私が一番なんだから。見たでしょ、トーヤの初めてのキスは私がとったの。どうだ、ざまあみろ!」
あ、ああ……。
実はもう既にスウェルダの王女様とキスしました、なんて言えないな……。
「何言ってるんだい、サーナさん。トーヤくんのファーストキッスは」
「じゃあ僕達もう行くね! それじゃ、しばらく会えなくなるけど、またいつか会いましょう!」
大声でエルの言葉を遮ってスレイプニルに進むよう伝える。
馬車は進み出し、『潮騒の家』からゆっくり離れていく。
「またねー!」
「元気でなー!」
おじさんやおばさんは、僕達を明るく送り出してくれた。
「おじさん達も、元気でねー!」
「お世話になりましたー!」
僕達もおじさん達に言葉を返し、馬車の窓から体を乗り出して手を振った。
そして、サーナさんは。
「……またね、トーヤ! みんなも、元気で!」
それだけ言って寂しげに微笑み、離れていく馬車へ向かって高く手を振り続けた。
*
向かう先は、広大なスカナディア山脈を挟んで隣国のルノウェルス王国。
別れの先には、また出会いがある。
苦難が多いであろう道程の先には、どんな出会いが待っているのだろう。
サーナさんとの別れを少し寂しく思いながら、僕は新たな出会いの期待に胸を膨らませるのだった。




