8 古の森
準備は全て整った。エールブルーの武具屋で買った武器に防具。食糧や携帯ランプを一杯に詰め込んだ背嚢。そして、父さんに貰った小刀【ジャックナイフ】。
僕らは荷物を確かめ、最後に二人で顔を見合わせる。
「トーヤくん、覚悟は出来ているな!?」
エルがあたり一帯に聞こえてしまうような大きな声を上げる。
……いよいよ、始まるのか。
高揚と少しの緊張を孕んだ彼女の問いかけ――それに対し、決意を胸に刻む僕は静かに頷いた。
「うん。――覚悟は、出来てるよ! 僕が『英雄』になる!」
声を高め、威勢良く言って士気を高める。
父さんが語ってくれた神話の英雄。幼い頃から憧憬を抱き続けた存在に、僕はなってみせる。マティアスを見返し、弱かった自分から脱却するためにも。
僕の顔に迷いはなかった。
そんな表情に安心したのだろう。エルはニコリと笑い、僕へ向けて拳を向けてみせた。
「オーディン様の【神殿】がある、『古の森』はここから北に進んだ山の麓だ! さあ、行こう!」
鬨の声に「うんっ!」と元気よく応じた僕は、彼女の拳に自分の拳を突き合わせるのだった。
緑髪を微風になびかせるエルは、一歩前に出ると振り返り、僕へ手を伸ばしてくる。
そんな彼女の手を取って、僕も冒険の最初の一歩を踏み出した。
「――ふふっ、風が気持ちいいよ」
彼女の微笑む頬は林檎のようで。横から眺めるエメラルドの瞳は本当に澄み渡っていて。
鼓動が不規則になり、体温が嫌でも上がるのを自覚した。
爽やかな夏の微風が熱を帯びた顔を少しでも冷ましてくれたのは、幸いだったかもしれない。
僕はどうにか笑顔を浮かべ、エルの言葉に頷いた。
「さぁ、走ろう!」
村人たちが起き出す前の静寂の中を突っ切って行く。
まだ誰もいない森は僕たちの鼓動と息の音で満たされる。
これから、冒険が始まるんだ。精霊に導かれて宝物を手にした英雄の話みたいに、僕とエルの冒険譚が紡がれようとしている。
僕は高まった気分を発散させるように、走る速度を加速していった。
『頑張ってね、トーヤ!』
『必ず成功させてこいよ!』
「ありがとう皆――僕、頑張ってくる! エルと一緒なら、やれる気しかしないんだ!」
光の粒のような姿をした森の精霊たちからの応援に、僕は顔を綻ばせた。
彼らもユグドおじいちゃんと同じく、僕をずっと見守ってくれた大切な存在だ。
絶対、期待に応えよう――彼らへ手を振りながら、胸に秘めた決意を噛みしめた。
が、その時。
「よぉトーヤ。女の子を連れてランニングとは、陰キャラのお前らしくないな」
粘っこく耳にまとわりつく、嘲笑混じりの声。
木陰から登場したのはマティアスだった。
今、最も会いたくなかった相手。そして、最も会わなければならなかった相手でもある。
いつまでも弱い「トーヤ」でいたくない。僕が本当の意味で強くなるには、彼から逃げちゃいけないんだ。
僕が緊張しているのを心配したのか、エルは庇うように前に出て、マティアスへ「あっかんべー」をした。
「何だい、彼女がいないからって妬いてるのかい? 私たちこれから【神殿】攻略に行くところなんだ、邪魔しないでおくれよ!」
「ハッ、君たちが【神殿】攻略だって? 無理無理、諦めな! こんな弱っちい野郎がチビのメスガキとつるんだところで、どうせ怪物に喰われて命を落とすだけさ!」
マティアスはそんなエルの言葉を鼻で笑い、それから心底軽蔑するような口調で吐き捨てた。
その瞬間――カッ、と胸の奥が熱くなった。
僕を侮辱することは構わない。だけど、エルを馬鹿にするのは許せない!
「――取り消せ!!」
気づいたら叫んでいた。
激情に突き動かされ、誰かに怒号を浴びせる――そんなことは、初めてだった。
「おいおい、口答えかよ? 移民の分際で?」
不機嫌さを露に舌打ちし、マティアスは僕を睨みつけてくる。
しまった、殴られる。
そう、弱気な自分が戻ってきてしまうが――その時だった。
エルが、僕の背中をそっと押した。
温かい手。何だかその手に勇気を貰えた気がして、僕は毅然とマティアスを見つめ返す。
そして、再び叫んだ。
「僕はこの子と、エルと一緒に【神殿】を攻略し、【神器】を手に入れて英雄になる! どんな試練にだって、打ち勝ってみせる! 僕は変わるんだ――弱い自分から、卒業するんだ! だからもう、君にだって負けないよ!」
喉が痛むくらい声を張り上げた後に残ったのは、しばしの静寂だった。
何を思っているのか、手の中で小刀をくるくる回すマティアスの視線は、僕だけに向けられている。
ややあって口を開いたマティアスの言葉には、先程までの棘も敵意も感じられなかった。
「昨日の威勢は衰えちゃいない、か。……良かったな。まぁ、精々死なないように頑張りな」
僕は訝しく思いマティアスを見つめる。
彼にこんな言われ方をしたのは初めての事だった。
「ほら行けよ。『英雄』に、なるんだろ?」
「トーヤくん、行こう」
後ろ髪を引かれながらもエルに無理やり引っ張られ、僕はその場を離れる。
ある程度森から離れたところで立ち止まり、後ろを振り返ると、さっきまでマティアスがいた木陰には何の影もなかった。
* * *
僕たちは一週間程の時間をかけて山や谷を越え、スカナディア山脈の麓にある『古の森』の前に辿り着いた。
「はぁ……つ、着いた……!」
僕らは肩で息をしながら、その試練の場を眺めた。
一言でいえば、「死んだ森」だろうか。
幹も枝も葉も、灰一色。虫や鳥の鳴き声も一切聞こえず、動物の気配もまるでない。
何百年も人も動物も鳥も立ち入っていなかったような――死んだまま時間が止まってしまったみたいな感じだ。
「不気味な森だね」
ごくりと生唾を呑み込み、僕は小さく呟く。
隣で森の木々を見上げるエルは、口を噤んだまま目を眇めるだけだった。
「ここに来るまでにも、色々あったけど……ここからはもっと厳しい試練が待ってるんだよね」
――ここに来るまで、本当に、ほんっとうに色々あった。
でっかいクマに追い回されたり、猛毒を持つハチから逃げ回ったり、狩人さんに動物と間違われて狙われたり……。
追いかけられてばっかだな僕たち。気を抜けば確実に死んでたし。無事にここまで来れたのはもはや奇跡だ。
その幸運に感謝しながら空を見やると、澄んだオレンジ色に染まっていた。
今日はもう遅いし、休息も必要だ。森に入るのは明日にするべきだろう。
「ねえ、エル。今日はここで休もう。森を冒険するのは明日でいいよね?」
僕が提案するとエルは盛大に肩を跳ねさせ、「へあっ!?」と間の抜けた声を上げる。
ここまで僕を引っ張ってくれた彼女らしからぬ気の抜け方に、僕は眉をひそめた。
「ど、どうしたの?」
「あ、いや――少し考え事をしていてね。君の意見には賛成するよ。……それと、私からも言いたいことがあるんだ」
すぐに平静さを取り戻したエルは胸の前で腕を組み、僕を翠の瞳で正視して言う。
「――ここからは、厳しくなるよ。私も魔法で出来るだけのサポートをする。でも、神に挑むのはトーヤくんだ。決して、気を抜くなよ」
「うん、わかってるって」
僕は彼女にニコリと笑って見せ、近くの樹の根元に寝袋を用意する。
だけどエルはまだ不安そうな顔でうーんとうなっていた。
「ほんとに、大丈夫? ヘマしたら死ぬんだよ?」
「大丈夫、大丈夫。……ちょっと早いけど、疲れたから眠らせてもらうよ。エル、君はどうするの?」
僕は寝袋にするりと潜り込む。エルは少し考えてから答えた。
「私は、まだ起きてるつもりだよ。森に入る前に魔法の試し打ちもしておきたいし」
「そっか、食糧はまだ残ってるでしょ? 食べていいからね」
そう言い残して、静かに目を閉じる。
それから間もなく、少し離れた所から、エルが立ち上がって何やら呟く声が聞こえてきた。
エルは足元に短めの手頃な枝を見つけると、それを拾い上げて軽く振ってみた。
効率よく体内の【魔力】を魔法に変換するためには、杖のような棒状の道具が不可欠だ。
杖を用いないで魔法を使うと、【魔力】が分散されてしまい、上手く魔法を使うことが出来ないのである。
「光魔法」
エルが魔法の呪文を呟くと、彼女が持った枝の先から白い光が放たれる。
光は彼女の足元から前方5メートルほどまで照らした。日中の薄暗い森を探索するぶんには、それで十分だろう。
「……よし」
いつも通りに魔法が使えて、エルはとても満足した様子で杖を懐にしまう。
トーヤが起きてしまわないか気になって振り向いたが、彼は寝袋にくるまってぐっすり眠っている。
よっぽど疲れていたんだろうなと、ここまでの彼の頑張りを思ってエルは微笑んだ。
「オーディン様。私は、この少年を選んだ。選んだからには、何としてでも彼があなたに認められるよう、力を尽くします」
エルは天界での主に向けて自分の意思を言葉にする。
彼女はそれからしばらく、群青色に変わっていく空を眺めていた。
* * *
一晩ぐっすり眠り、携行食で空腹も満たして、僕の体力はすっかり回復した。
【ジャックナイフ】をぐっと握り、振ってみる。すると、不思議といつもより力が漲ってきている気がした。
荷物を手早く片付けて出発の支度を済ませた僕らは、顔を見合わせていよいよ始まる【神殿】への第一歩を踏み出した。
「さあ、行こう。エル」
「ああ。頑張ろうね、トーヤくん!」
二人揃って、退廃した灰色の別世界へと入っていく。
そこに立った途端――さっきまで聞こえていた外の音たちが、ぷつりと途絶えた。
木々の葉擦れの音も、鳥たちの囀りも、虫たちの奏でる歌も、精霊たちの声も、全部。
風も、僕ら以外の動きもない。
僕らの足音さえも、生まれる前に消えていった。
古に取り残された死の森を、僕らは歩み進める。
重くのしかかる静寂の中、心の内の不安を紛らわそうと僕はエルに話しかけた。
「ねえ、エル……あのさ、天界ってどんなところなの?」
「え? あー……つまらないところだよ」
エルは僕からそっと目を逸らし、吐息すると、哀しげに微笑んだ。
僕は彼女のそんな表情を見るのは初めてだったので、戸惑いを隠せなかった。
「そ、それはどういう……?」
「……退屈なところ。人間たちは天界に夢を見るけど、本当は何もない、つまらないところ」
……気まずい沈黙。
あまり聞いちゃいけない話題だったんだな……僕のバカ。
「ご、ごめんね……僕女の子と話し慣れていないから……」
「……い、いや、トーヤくんが謝ることないよ! 気にしない、気にしない! さっき言ったことは、忘れておくれ」
エルは胸の前で手を振り、普段より声のボリュームを上げて明るく笑顔を作る。
彼女は杖を軽く振ってそこに小さな光を灯した。
「ちょっと暗いからね。これで安心、だろ?」
蛇行しながら続いている獣道のような道筋をエルの魔法の光が照らす。
――すごい、これが魔法……!
魔法なんて使えない僕は、エルが発動した光魔法に感嘆する。
「何もないところから光を生み出すなんて……やっぱりエルってすごい!」
「えっへへー、そうでしょ?」
僕の素直な賞賛に、エルは今度は心から破顔するのだった。
地図も何もない冒険だけど、彼女の光があればどこまでも進める気がする。
歩み出す足取りに、もう不安は残っていなかった。