1 愛する者
宿屋『潮騒の家』を出た僕達は、それぞれ別れて旅のための買い出しに行った。
武具屋で新しい武器や防具を見に行く僕には、シアンとサーナさんがついてくる。
二人は僕を挟んで表面上の笑顔を浮かべ、内心では殺気を振り撒いて睨み合っていた。
商店街の裏路地を歩きながら、二人は何やら会話する。
「サーナさん、サーナさんは武具屋さんには行ったことは?」
「……無いけど、何か問題でも? 初めての店で、トーヤとお買い物。ふふっ、ドキドキするっ……」
「私も初めてです。私達にとっては、完全にアウェーですね」
僕はその二人の会話を聞き流し、黙々と歩を進める。
裏路地では、何かと物騒な事が多い。女の子二人もいるし、出来ればさっさと武具屋に着きたかった。早足になる僕の後を、二人も急いで続く。
「トーヤさん、その武具屋さんにはエルさんと一度訪れているんですよね?」
シアンが訊いてくる。無口になる僕を心配して、彼女は頻繁に声をかけてきてくれた。
「……馬鹿な女。こういう時のトーヤは、そっとしておくのが一番よ……」
サーナさんは「ハッ」、と息を吐き、そう言って勝ち誇ったように目を閉じる。
シアンに問われて、僕はエルと二人で武具屋に訪れた時の事を思い浮かべた。
武具屋のおじさんは確か、すごく可愛い女の子に弱かったなあ。それと、あの時のエルは完全に魔女だった。
そんな事を思いだしながら、僕はシアンの問いに応える。
「うん。あの時は、僕の【神器】の鞘を作って貰ったんだ」
「……じゃあ、今トーヤが背中に着けている【グラム】の鞘は、元からあったものじゃなかったのね……」
「私はトーヤさんからその剣の事は聞いていましたけどね」
僕の背中の剣帯には【グラム】、腰には【テュールの剣】が装備してある。いつでも戦えるよう、重いけど常に身に付けるようにしたのだ。
サーナさんが少し意外に思ったのか眠そうな半眼を見開き、シアンはボソッと呟く。
「【グラム】は、『神の間』の大樹に突き刺さっていたからね。それを抜いて、僕は【神器】を僕自身のものにしたんだ」
「……へえ。大樹に刺さった神の剣を、その手で引き抜く英雄か……格好いいじゃん、トーヤ」
「えへへ。ありがとう、サーナさん!」
胸の前でうっとりと手を合わせて、サーナさんは誉めてくれる。
普段格好いいとか言われない僕は、頬を染めて喜んでしまう。
笑顔になる僕を見て、サーナさんも幸せそうに笑った。
それを端から見るシアンは面白くなさそうに膨れる。
「ト、トーヤさんは確かに男性として格好いい部分もありますよ。でも、でもっ! サーナさんの知らないトーヤさんの一面を、私は知っています!」
大きな声で主張するシアンに、サーナさんはジロリと睨みをきかせる。
目付きの悪さではシアンに圧倒的に勝るサーナさんの睨みは、恐ろしいものがあったけど、シアンは怯まずに続けた。
「サーナさんは知らないでしょうけどね、トーヤさんは女装するとすっごく可愛いんですから! そこも私は素晴らしいと思うんです!」
「ト、トーヤが女装……!? ダメよ、ダメダメ……トーヤは男だから良いのに、女装なんて……」
サーナさんが大袈裟に目に涙を溜めて言って見せた。
女装と聞いて、僕は嫌な気分になる。あれには嫌な思い出しかない。色欲の悪魔に誘惑され、その醜態をエルに見られてしまった。
僕はそのため、シアンに思いっきり嫌な言い方をしてしまう。
言った後すぐに後悔したけど、その時にはもう遅かった。
「シアン、そういう事を言うのは止めてくれる? ほんと、嫌な気分になるから」
シアンの犬耳が、へなっと萎れる。
彼女は僕の顔を直視出来なくなったようにうつ向き、小さく呟く。
「……私、私っ、トーヤさんに、嫌われた……?」
シアンは黒い大きな目から涙を溢れさせる。
それは違う、と声に出そうとしたけど、その言葉を聞く前にシアンは走り去ってしまった。
僕は結局何も言えずに、路地裏に吸い込まれていくシアンの後ろ姿を見送るしかなかった。
サーナさんも流石にこんな結果になるなんて思わなかったようで、後味の悪そうな顔をしている。
僕は駆け出し、シアンの名を大声で呼んだ。
「シアン! 待ってよ、あれは違うんだ! 僕はっ、僕はシアンの事、嫌いなんかじゃ……」
シアンが入り込んでいった通路の入り口に僕は立ち尽くす。
シアンの姿は、もうどこにも見えなくなっていた。エールブルーの路地裏は複雑に入り組み、この街に詳しい僕でも、一度彼女を見失うと見つけ出すのは不可能に思われた。
後ろからサーナさんが追い付いてきて、僕の腕を掴む。
「あの娘は放っておいて……。ほっといてもその内、戻ってくるわ。戻ってこないような娘なら、あんたと付き合う資格なんてないんだから……」
「で、でも僕があんな事を言わなければ、シアンはいなくならなかった。僕が悪いんだ……」
シアンはこの路地裏に土地勘がない。もし道に迷ったりしたら、どうやって元の道へ戻る?
それに、路地裏には嫌な人達がいっぱいいる。シアンがもし、そんな人達に捕まって、何かされたら……。
今すぐに彼女を探し出したい。でもサーナさんは走り出そうとする僕を止め、首を横に振る。
「どうして止めるんですか!? シアンの身にもし何かあったら……何か起こる前に、連れ戻さないといけない!」
「トーヤ、落ち着いて……。ここで私達が焦っても、あの娘は戻ってくる訳じゃない。……それに、あの娘にも非はある。ああ言われてトーヤがあまり良い気分にはならないこと、知っていた筈なのに……言ってしまったあの娘にも、非はあるのよ」
サーナさんは僕とは正反対に、至極冷静な声で言う。
「トーヤ、あの娘に時間をあげて。あの娘も落ち着いたら、きっと戻ってくるわ……」
今動いても、シアンが見つかる訳じゃない。下手に動けば、シアンがここに戻ってきた時に入れ違いになってしまうことも考えられる。
僕は黙って暫く考えた末、この場所でシアンが戻ってくるのを待つことにした。
薄暗い路地裏にサーナさんと二人で佇み、獣人の少女を待つ。
「お願い、戻ってきて……シアン」
* * *
「ハァ、ハァ、ハァ……」
溢れ出す涙を拭いながら、路地裏を走る獣人の少女。
シアンは叫びたい衝動を抑え、溢れ出す感情の渦に呑まれないように自分の体を必死に操縦している。
立ち止まってしまったら自分が壊れてしまいそうで、止まることは出来なかった。
「トーヤ、さんっ……ごめんなさい……」
布と鉄で出来たブーツが、彼女の走る脚に重く邪魔をする。
邪魔なら、脱いでしまおうか。だが、このブーツはルーカスから受け取った大切な【魔具】。シアンにはそれを捨てるような事は出来るはずもなかった。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい………………。
私、トーヤさんの事、愛しているのに。誰よりも、愛しているのに。
私があんな事言ったから、トーヤさんは私を嫌いになって……。
もう、私あの人に顔向け出来ない……。
シアンはひたすらに走って、走って、走った。
そして気が付くと、自分が知らない場所に来てしまっていた。
立ち止まり、辺りを見回す。それまでの激しい感情の渦は止み、不安感の波がどっと押し寄せてきた。
「ここは、どこ……? 私、どうしよう……?」
暗い、暗い路地裏の奥。元々日当たりが悪い場所なのか、太陽の光が殆ど入ってこない。
あの『暗黒洞窟』よりはましだと、シアンは自分に言い聞かせるが不安感は拭い去れなかった。
それどころか、余計に不安になる有り様である。
「怖い……戻らなきゃ……」
言葉に反して、足は動かない。
「なんで、どうして!? 私、ここから逃げないと……」
狭い路地裏、暗闇の恐怖。
それは、シアンの心の奥に封印された過去の記憶を刺激した。
『お母さん、お父さん……助けてよ! どこに行ったの!? 怖いよ、痛いよ……』
幼い頃の、断片的な記憶。両親の顔なんて覚えてないのに、この記憶だけは胸の内にしこりとして残り続けている。
確かあの時も、今みたいに暗闇の中だった。鎖に繋がれ、引き摺られながら奴隷として連れ去られたあの日。
手足に付いた鎖の痣は、未だに消えてはいない。その痣が、何だかまた痛み出した気がする。
『だれか、だれか! 助けて! 助けてよぉ……』
いくら叫んでも、叫んでも、誰も助けてくれなかった。
私が手にしていた小さな人形は、目の前の黒い大きな影に踏み潰される。
その人形と自分自身を重ねて、私は……。
「嫌だ、怖い……早く早くここを抜け出さないと、また私が死ぬ」
シアンは腕で身を抱え、震える声を上げた。
重い脚を引きずり、黒い未知の道を進み出す。 路地裏は、まるで迷路だった。入り組んだ道は迷宮となり、無情にもシアンの進む道を阻んでいく。
歩いて、歩いて……長い時間が経った。
どのくらいの時間がたったのだろうか。シアンにはそれを知る術はなかった。
「トーヤさんに会って、謝らないと……そして、またあの方と一緒に……」
シアンは、うわ言のように同じ事をずっと呟いていた。
路地裏ですれ違う人々は、皆一様に彼女を奇異の目で見る。今のシアンには、その人々がそんな目で見ているなんてわかりもしなかったのだが。
「トーヤさん、トーヤさん……」
と、その時だった。
道に捨てられた木箱の陰から、黒い影が立ち上がったのだ。シアンは驚き、立ち止まる。
「よお、お嬢ちゃん。こんな所を彷徨いてちゃ危ないぜ?」
この男の人は、シアンを心配してそう声をかけてくれたのか。
いや違う。この男の目は――あの時の黒い影と同じだ。
シアンは、走り出す。この男は危険だ。逃げなければ、また捕まえられてしまう。
黒い影は舌打ちすると、シアンを追いかけ始めた。
重い脚を懸命に動かし、シアンは走る。ひたすら走る。それでも、ここに来るまでに溜まった疲労が彼女の脚にかかる負荷を倍増させる。疲れ切った脚で走っても、黒い影に追い付かれてしまう事は考えなくてもわかる事だった。
「嫌っ、来ないで!」
「ふん、馬鹿なガキだ。……だが、獣人とは、ひひっ、変態の旦那方に受けが良いだろうな」
男が放った言葉に、シアンの背筋がぞわりと粟立つ。
あの時の『黒い影』とは違ったが、それと同じくらいに嫌な奴だ。捕まったら、『女』としての私が死ぬ……!
そんなの、絶対に嫌だ。私は、私は……。
男がシアンに追い付いた。その腕を伸ばし、シアンの体を捕らえようとしてくる。
「ひひっ、上物だ」
男の口許が僅かに綻んだ。
もう、ダメなのか……。私は、また大好きな人と引き離されてしまうのか。
そんなの……
「……嫌だ! お願い、私を助けて、トーヤさん!!」
* * *
その時、シアンの前に現れたのは黒髪の小柄な少年だった。
少年は鞘を着けたままの大剣を肩に担ぎ、男とシアンの前に立つ。
「シアン、大丈夫!? 今助けるからねッ!」
突然登場した異国の少年に、男はギョッとしたように目を剥く。だが次の瞬間、男は目の色を変えてニヤリと笑った。
「こいつも上物じゃねえか。東洋の美少年……高く売れ」
その後の言葉は男の口から出る事はなかった。シアンが気付いた時には、男は少年の剣を鳩尾に喰らい、泡を吹いて倒れている。
「ト、トーヤさん……」
シアンが彼の名を口にすると、トーヤはニッコリと笑ってシアンに手を差し伸べた。
「シアン、大丈夫? 怪我はない?」
「は、はい……大丈夫です。でも、トーヤさん、どうして……?」
シアンが彼の自分のものと似た色の瞳を見て訊くと、トーヤはシアンの体をいきなり抱き締めて涙声で応える。
「シアンが僕を呼んだから、ここまで飛んできたんだ。シアンが無事で、本当に良かった……」
シアンはトーヤに抱き締められ、頬を紅潮させる。そんな彼女に、トーヤは彼女の耳元で囁いた。
「シアン、さっきは酷い言い方してごめんね。僕はシアンが嫌いであんな事を言った訳じゃなかったんだ。でも、酷い言い方だったのは変わりない。傷付けてしまって本当にごめん、シアン」
シアンの瞳から、透き通った滴が落ちる。彼女は少年の胸にぎゅっと顔を押し付け、泣きじゃくった。
シアンが泣き止むまでトーヤは待っていた。彼はシアンの頭を優しく撫で、彼女の口から零れる言葉に耳を傾ける。
「トーヤさん、私こそごめんなさい。私があんな事を言ったから、トーヤさんがお気を悪くなさって、その上私は路地裏に入り込んでトーヤさんに迷惑かけて……。本当に、ごめんなさい!」
トーヤは抱き締めたシアンの体から身を離し、彼女と向かい合って笑う。
シアンは彼の太陽のような笑顔を見て、心の底から安心感が沸き上がってくるのを感じた。
「もう、いいよ。サーナさんが待ってるし、戻ろっか?」
「はい! 一緒に、戻りましょう!」
トーヤは、元気が出てきたシアンの頭を微笑んでまた撫でる。そうされたシアンは、とても幸せそうに顔を綻ばせた。
そして、その口から愛の言葉を叫ぶ。
「トーヤさん、愛してます!」
「ちょっと、声が大きいよ! ……でも、ありがとう。僕も、シアンが大好きだよ」
鬼蛇の少年と、獣人の少女。
二人は手を繋ぎ、肩を寄せ合って、彼らを待つ者の元へ戻るのだった。




