7 決意と決別
「この邸から、出よう。もうこんな所にはいられない」
エルの発した言葉に、僕は頷いた。 約二ヶ月働いたこの場所に、愛着がないといえば嘘になる。でも、僕はアマンダさんやリューズ家にある闇を見てしまった。とても、この場所に居られる気分にはなれない。
「シアン達も、それでいいよね?」
エルが鋭い視線をシアン達に向ける。断るというのなら縁を切る、彼女の目がそう語っていた。
「はい。私は、トーヤさんやエルさんがそうするのなら、付いていきます」
シアンは目に涙を溜めていた。
奴隷時代の『飼い主』ではないが、『雇い主』に裏切られた衝撃は僕が受けたものより遥かに大きなものに違いないだろう。
「俺も、トーヤについていく。トーヤがこんな目に遭った以上、俺もこんな所にいる必要はないと思う」
ジェードはきっぱりと、迷いなくエルの意見に賛同する。
アリスもその意見を肯定した。
「私も賛成です。元々、私はここにそれほど執着がないというのもありますが……。ですが、トーヤさん。ここを出たとして、その後はどうなさるのですか?」
僕は窓の外で青白く輝く月を見やる。
あの月の下でアリスと語り合った時の事や、エルと笑顔を交わした時間を思い起こした。
「これからの事は、その時になったら考えればいい」
僕の答えはこうだった。
これからは、この五人で旅をしよう。五人でこのミトガルド地方や、広い世界を巡るんだ。
きっとそれは、この小さな邸の中に閉じ籠った生活よりも遥かに面白く、楽しいものである筈だから。
そう聞いて、シアン達も笑顔になる。
「そうですね。私達みんなで、世界を見に行きましょう!」
* * *
やがて夜は明け、太陽が昇り朝になった。
暖かい光が邸の中にも差し込み、邸で働く人々は活動を始める。
皆が働き始める前、僕達は侍女長の元へ赴き、ここでの仕事を辞める事を話した。
「それは、何故ですか? あなた達は働きも良く、アマンダ様やルーカス様にいつも誉められていたではありませんか。私にはあなた達が辞めようとする理由がわかりません」
「ごめんなさい、侍女長。でも僕達、もうここでは働けません。今まで、本当にありがとうございました」
侍女長には申し訳ないけど、僕達がここでの仕事を辞める理由は言えなかった。
僕達が侍女長に深く頭を下げると、侍女長は溜め息をついた。
「頭を下げるなら、私ではなく他にそうするべき人がいるでしょう。出ていくのだったら、その人達に事情を話してからにしなさい」
侍女長は暖かい笑顔でそう言ってくれたが、僕達はそれにあまり乗り気ではない。
でも侍女長の言うことも礼儀としては当然の事だ。足取りは重かったけど、僕達は侍女長にもう一度頭を下げてからノエルさんの部屋へ足を運んだ。
「……火傷、ばれなかったね」
「当然だろう? 私の治療が素晴らしい出来だったからね」
ノエルさんの部屋に向かう道中、僕はエルと囁き合う。
色欲の悪魔の放った炎による火傷を、僕は全身に負ってしまった。
だがエルの治療が功を奏し、僕が負った火傷は全て綺麗に治ったのだった。
「流石だね、エルの魔法は。いつも感謝してるよ」
「ふふ、ありがと。治癒魔法は私の得意な魔法の一つなんだ」
エルの魔法の技術には、毎回舌を巻かされる。僕が彼女の魔法を見て驚く度に、エルは得意気に笑うのだった。
「そうだ、これからは時間が出来るし、魔法を教えてあげようか? トーヤくんなら多分、優秀な指導者が教えればめきめき伸びていくと思うよ」
「申し出はありがたいけど、優秀な指導者って自惚れ過ぎじゃない?」
僕が悪戯っぽく笑うと、アリスも目を細める。
「エル殿、トーヤ殿に言われてしまいましたね」
「い、いいんだよ! 事実だから!」
アリスをめっと睨み付けるエルに、ジェードは吐息する。
「……魔法が凄くても、指導者として凄いとは限らないだろ」
「い、言ってくれたなジェードくん! 君がそんな子だったとは私は思わなかったよ!」
「エル、静かにしろ。ノエル様の部屋はすぐそこだぞ」
「は、はい……」
僕達はこの邸の主、ノエル・リューズその人の部屋の前で立ち止まる。彼の正体を知ってしまった僕達は、中々部屋に入ることが出来なかった。
躊躇している内に邸もガヤガヤと本格的に活動に入っていた。ノエルさんの部屋の前にいる僕達は、通り掛かったベアトリスさん達に何事かと訊かれる。
仕事を辞める旨を彼女らに伝えると、彼女らはとても寂しそうな顔をした。
だが、止めようとはしなかった。
僕達が何を思っているのか察してくれたのかもしれない。それとも、僕達の意思を尊重して口出しをしてこなかったのか。どちらにしろ、ありがたかった。
僕達は意を決して、ノエルさんの執務室のドアを叩く。
中から返事が聞こえ、僕達は「失礼します」と口にしてからドアを開けた。
赤い目を眼鏡から覗かせる白髪のノエルさんは、僕達が来るのをわかっていたように笑う。
彼は僕達に、ソファーに腰かけるよう言った。
「よく来てくれたね。さあ、そこに掛けてくれるかな」
応接机と高級感のある黒い革のソファー。机の上には中身がパンパンに詰まった革の袋が、僕達の人数分置かれていた。
僕達は言われるままそのソファーに座り、ノエルさんから袋の中身について聞かされる。
「その袋に入っている金貨は、これまで君達が働いてきた分の給料だ。いや、退職金といってもいいだろうな」
やはりこの人は、僕達が彼の元に来た理由をわかっていた。
「受け取ってくれ。アマンダが君の体に傷を負わせてしまったお詫びだ」
ノエルさんが僕の分の袋を、僕の手の上に押し付ける。袋は重く、エル達の分よりも中身が多いようだ。
「いえ、こんなには受け取れません。働いた時間もそんなに……」
僕が首を振ると、すかさずエルが耳打ちする。
「いや受けとるんだ、トーヤくん」
断りたい思いだったが、これからの旅の事を考えてエルはそう囁いたのだろう。うつ向きがちになる僕は、ノエルさんからお金のたっぷり入った袋を受け取った。
「トーヤくん、君は良い仲間を持っているようだ。安心したよ」
ノエルさんは口元を歪める。僕は早くこの部屋から出て行きたい思いでいた。
「ノエルさん、僕達はここでの仕事を今日をもって辞めます。本当にすみません」
僕はノエルさんに深々と頭を下げる。エル達もそれに倣った。
「理由は……聞くまでもないか」
無機質な声で呟くノエルさん。彼が何を考えているのかは彼自身を除いて、決して誰にも計る事は出来ないだろう。
「顔を上げなさい、皆」
僕がゆっくりと顔を上げると、ノエルさんは笑っていた。子供の門出を祝う父親のように。
もう僕達にとって味方ではないこの人に、こんな表情を向けられる事を奇妙に感じたが、僕はそれを追及しようとはしなかった。
「これで、お別れだ。君達が望めば皆に門の前で見送らせられるが、どうする?」
「……それはいいです。でも、ルーカスさんには最後に挨拶しておきたい」
僕に剣を教えてくれた、ルーカスさん。
彼もアマンダさんと同じように、ノエルさんに従って悪魔を使っているのかはわからない。もしかしたら、僕に隠れて悪魔と契約を結んでいるのかもしれない。
だけど、【神殿】攻略やマーデル王城での戦いを通して絆を育んだのは決して消えない事実だ。
別れの挨拶くらいはしておきたい。 ノエルさんがルーカスさんを呼んでくるというので、僕達は彼がここに来るまで待った。
それからすぐにルーカスさんはやって来た。息を切らし、目は驚きに見開かれている。
僕達はソファーから立ち上がり、頬を上気させているルーカスさんと対面する。
「トーヤくん、エルちゃん、皆……本当に、本当に辞めてしまうのか!?」
心が痛む。ルーカスさんは僕達を戦いの間誰よりも思っていてくれた。
彼は僕達の安全を守るため、これまで戦い抜いてくれたのだ。
「ごめんなさい。僕達は、どうしてもこの場所を離れなければならないんです」
本音では、寂しい。ルーカスさんやモアさん、シェスティンさん、ベアトリスさん。それに、最近知り合ったばかりのアンさんとも別れなければならないのだから。
僕はぐっと拳を握り締める。
「何でだよ……もっと剣を強くしてやるって、特訓の時言ってやったじゃないかよ……」
ルーカスさんは視線を下に向け、弱々しく言う。
そんなルーカスさんは見たくない。僕は頼れる兄貴分だった彼に明るく声をかける。
「大丈夫です。僕達、またいつか会えますから。それまで待っていてください」
「…………勝手にしろ」
長い間の後、ルーカスさんはそう吐き捨てるように言い、僕達の前から走り去っていってしまった。
「ルーカスさん……」
追いかける事も出来ずに、僕は立ち尽くす。
エル達も何も言えなかった。瞳を揺らし、唇を微かに動かすものの何も出せない。
「……トーヤくん、もう行こう」
ルーカスさんと、こんな別れ方をしたくはなかった。なのに、何で……。
「行きましょう、トーヤ殿」
エルとアリスの言葉は耳を通って流れていく。
僕は暫くそこに立ったまま、ルーカスさんが走り去って行った先を見つめていた。
エルが僕の手を握り、哀しげに呟く。
「出会いがあれば、別れもある。人生っていうのはそんなものさ。だからトーヤくんも、今はそれを受け入れておくれ」
僕はエルの白い手に握られた自分の手に目を落とす。
「うん……。ここを出ていくと決めたのは僕達だし、ルーカスさんは何も悪くない。悪いのは……」
顔を上げた僕の瞳に映るのは、ノエルさんの横顔。
アマンダさんを操り、色欲の悪魔と契約させた男だ。
エルと一緒に誓った、【七つの大罪】の悪魔の封印。その悪魔を操る『黒幕』は、この人なのか。
だとすれば、僕はいつかこの人を倒さなければならない。
今よりもっと強くなって、『神化』も完全なものを完成させる。悪魔などに負けない自分になるんだ。
「ノエルさん。いや、ノエル・リューズさん。……僕は、いつかあなたを必ず倒す。来るべき日まで待っていてください」
ノエル・リューズは僕の激しく燃える瞳を注視し、そしていつもの何を考えているのかわからない笑みを見せた。
「いいだろう。その時は、全力で君を叩き潰す」
悪魔のように冷たい、凄みのきいた声。
僕は気押されずに彼を睨む。
「強がっていられるのも今の内だ。僕は強くなって戻ってくる。【悪魔】は僕の手で討伐する」
僕は胸に秘めた強い決意を、倒すべき敵の前に吐き出す。
その『倒すべき敵』は、赤い目を細めると最後にこう言った。
「これから旅立つのだろう? 門の前に馬車を用意しておいた。好きに使いなさい」
「……ありがとうございます。お言葉に甘えさせて貰います」
僕もノエルさんに笑い返した。挑戦的なその笑みに、挑戦を受ける側の男は仮面の笑みを崩さない。
「エル、シアン、アリス、ジェード。……行こう。更なる強さを手に入れるために」
エル達はそれぞれの思いを胸に、僕の言葉に頷いてくれる。
ノエルさんに背を向けた僕は、静かに、だが瞳は燃え上がらせて部屋を出た。エル達も後に続く。
これからだ。あの男を倒し、悪魔を討伐するために、僕達は強くなる。
そのために、このミトガルド地方を巡ってあらゆる強者と出会い、その強さを学ぶんだ。




