5 世界樹と小さな英雄
トーヤが仕留めた大鹿をナイフで捌いている間、エルは今自分が立つ鬱蒼とした『精霊樹の森』を眺めていた。
──この森……そんなに広くはないけど、こんなに精霊が多くいる森はこの世界に来てから初めて見た。
見慣れない訪問者に囁きかけるような声が、木々の間を反響している。
この森に精霊達が多いのは、その精霊樹とやらの影響なのだろうか?
「なぁトーヤくん。ここの『精霊樹』を見たいのだけれど、いいかな?」
気になったエルはトーヤに訊く。
トーヤはナイフを使う手を止め、顔を上げるとちょこっと笑みを浮かべて頷いた。
「いいよ、エル。『精霊樹』、きっと君が見たら驚くと思うよ」
驚く……やはり、精霊樹には何かあるのだろう。エルはますます精霊樹に対する興味が湧いてくる。
一体どんな精霊なのだろう。もしかしたら、自分と同じような高位の精霊なのかもしれない。
森に満ちる精霊達、そして彼らが発散する魔力を感じてエルは微笑む。
──この森は、とても心地良い。
彼女が色々考えている間に、トーヤは鹿の処理を終えたようだった。背中に背負っていたトナカイ革の袋に鹿の肉を入れ始める。
「よいしょ……今夜はご馳走だね」
トーヤが袋に入れた肉を見て満足げに微笑む。立ち上がり、手に入れた上物の肉を落とさないようしっかりと袋の口を閉めた。
「ご馳走……楽しみだなぁ」
丁度空腹を感じていたエルはじゅるりと涎を垂らした。今の彼女の頭の中は、沢山の美味しいご馳走で一杯になっている。
「ご馳走にするのも、精霊樹のおじいちゃんに会ってからだよ。……でも、僕もお腹空いたなぁ」
トーヤも腹を鳴らし、頭の後ろに手をやって苦笑した。
エルは一つ疑問に思って訊ねる。それは、彼と精霊樹がどのような関係なのかということだ。
「今、精霊樹の事を『おじいちゃん』って呼んだけど……。割りと親しい間柄だったりするのかい?」
「うん。僕がここに来た時からの付き合いだよ。家族を失ってからは、僕の唯一の相談相手になってくれた尊敬できる精霊様なんだ」
少年が目に浮かべる敬愛の気持ちは本物だ。
エルは、トーヤにとっての精霊樹は自分にとっての『主』と同じ存在だと気づく。
そして薄々感づいていたが、この少年が家族を失っているという事実を彼の口から聞かされ、彼女は胸に冷たいものが染み渡るのを感じた。
「……そうかい。君にとって、精霊樹はとても大切な存在なんだね」
彼の失ったという家族の事にはなるべく触れないようにしようと、エルは決める。
無理矢理に作り出した微笑みを向けると、トーヤは本当に嬉しそうに笑った。
「うん! 僕にとって、おじいちゃんは家族みたいな存在なんだ。ああ、早くエルを会わせたいなー」
そう言って、彼はエルの方を一瞥すると早足で歩き出す。彼に手を引かれ、突然の肌の触れ合いにエルは少し顔を赤らめるも、トーヤはその事には気づかなかった。
ふわふわと宙に漂うごく小さな精霊たちが、初めて見るエルの姿に興味津々といった様子で、近づいてきては離れていった。
森の精霊は、その殆どが小さな光の粒のような姿をしている。
神々が住む天界にいる精霊たちは美しい女性の姿が多いのに対し、人間界――神たちは下界と呼んでいる――の精霊は特定の姿を持たない。
なぜ人間界と天界で精霊の姿が違っているのかは、エルはまだよくわかっていなかった。
だがその理由も、『精霊樹』がもしかしたら知っているかもしれない。そんな期待もあって、エルは『精霊樹』の名を聞いて彼に会ってみようと思ったのだ。
「みんな元気だった? 僕もだよ。……ああ、そうなのか。知らなかったな~」
トーヤは白い光の粒の精霊たちと言葉を交わし合っている。
端から見ると、やはり人間が精霊と語っているのはとても奇妙なものに思えた。
だが天界から下界を見てきて、人と精霊はもう意思疎通することは無いのだなと思っていたことが、嘘のように嬉しい気持ちになっていることも確かだった。
ここでは少年と精霊達が当たり前のように交流し、親睦を持っている。その様子を見るエルの顔には自然と笑みが浮かんでいた。
楽しげに精霊と話すトーヤと混じって、彼女は精霊達との会話に興じ始める。
「それで、おじいちゃんはなんて言ったの?」
『「それはかぼちゃか?」だって。あの人ももう年だよねー』
「ちょっと待てよ。林檎をかぼちゃと見間違えるなんて、大丈夫なのかい? その精霊樹」
『あの時は寝ぼけてたのよ、ユグド様は。普段は本当に頭の切れるお方なんだから』
「へえ、そうなのかい?」
エルは若干期待を外されて汗を流す。
だが精霊樹が楽しそうな精霊であるらしいということがわかり、少し安心した。彼女は内心、どんな相手だろうかと緊張していたのである。
そうこう喋りながら歩いている間に、トーヤたちは『精霊樹』ユグドのもとに辿り着いた。
* * *
『精霊樹』ユグドは『精霊樹の森』のちょうど中央に位置するトネリコの古い大樹で、その根元には雨水が長年溜まって出来た美しく澄んだ泉がある。
「――――!?」
トネリコの老木を見上げ、エルは口を小さく開けたまま硬直する。
目は最大限に見開かれ、瞳は激しく揺れていた。
「エル、どうしたの?」
トーヤはエルのその挙動を奇妙に思う。
──おじいちゃんがよほど力の強い精霊だからといって、精霊である彼女がこれほどまで驚くのだろうか?
何か、エルはトーヤが知っていない事を知っていそうだった。
緑髪は何度か口を開けたり閉めたりして、何かを言おうとする。
ややあって、彼女の口から出た言葉はトーヤを大いに驚かせるものだった。
「トーヤくん、間違いない。この精霊樹――君の言う『おじいちゃん』は、『世界樹ユグドラシル』だ」
精霊樹ユグドの真の名。
それはトーヤがよく知る、父が彼に語った神話に伝えられるものであった。
「『世界樹』って、神話に出てくる!? ……あれは【神々の黄昏】の時に崩壊したんじゃ……!? おじいちゃん、そんなすごい精霊だったの!?」
トーヤが驚愕の声を上げると、ユグドは若干苦々しげに答える。
「……ああ。今まで誰にも言ってはいなかったが、ワシこそがかつての世界を支えた『世界樹』じゃ」
そして彼は、今度は暖かい声音になって言った。
「トーヤが外から友達を連れてくるとは、珍しいのう。……それに連れてきたのは、なんと人間に転生した精霊じゃとは……」
ユグドがエルのことに言及すると、彼女は大樹に改めて向き直って深く頭を下げる。
「私はアスガルドの主神オーディン様より、この世界に遣わされた精霊、エル。ある使命を主から受け、今こうして下界に降りて来ています」
神オーディン。
アスガルド神話の最高神で、かつて世界を支配していた神々の一柱だ。
エルが神様と繋がっていたなんて……。ユグドの事に続き、トーヤはさっきから驚かされてばかりだった。
「まさか、あのオーディンが下界に眷属を送ってくるとは……。もしや、【大罪の悪魔】の件か?」
少し意外そうにそう口にし、ユグドはエルに確認するように問う。
オーディンの眷属である少女は静かに頷いた。緑色の目には溢れる使命感が見てとれる。
「はい。悪魔達は復活してから数年は力が殆ど無く、神様達は下界に干渉することはありませんでした。ところが、最近になって悪魔達は急に動きを見せ始め……強い危機感を抱いたオーディン様は、悪魔を再び封じ込めるため私を下界に送ったのです」
「そうか……。ワシはこの身ゆえ、悪魔が復活しても何も動くことが出来なくてな。どうしたものかと困っておったのじゃ。じゃが、これで少しは懸念が減ったのう」
そんな事情があったのか、と驚きの抜けきらないトーヤは頷く。
自分にも関係のある話だ。しっかりと聞いておかないと。
「ねえ、エル。神話の時代に起こった事とか、色々教えてくれないかな? 神話は大まかな出来事しか扱ってないみたいだし、細かい事をもっと知りたいんだ」
知っておいて悪魔との戦いに備えようとの考えもあったが、トーヤがそう訊いたのは純粋な興味心からでもあった。
「おおっ、積極的だね。いいよ、教えてあげる」
エルはトーヤが神々や悪魔に興味を抱いてくれたことに感心する。
何から言おうかと彼女が迷っていると、ユグドが横から口を挟んだ。
「エル、何を言うか考えているようだったら、お前が話す前に少しワシの昔話をしてもいいかね?」
穏やかな口調でユグドが発言し、エルは恐縮だとばかりに話の主導権を譲る。
ユグドはエルに小さく礼を言い、己の秘められた過去を語り始めた。
「……かつて世界が神々によって支配されていた頃、ワシは世界を支え、命を与えていた。……自分で言うのも恐縮なことじゃが、大いなる存在だったのじゃ。
じゃが、【最終戦争】により世界は消滅の寸前まで追い込まれ、それはワシとて例外ではなかった。ワシは、その時目覚めた悪魔と神々の激しい戦いで体が引き裂かれ、バラバラになった。
無残にもバラバラになってしまったワシの体は九つに別れて、神々が新しく創造した世界にばらまかれた。そのうちの一つの破片がここで芽を出し、こうして『精霊樹』となっているわけじゃな」
トーヤは神話には描かれていない『世界樹』のその後の物語を聴き、思わずため息を吐いていた。
隣に立つエルは、真剣な表情を崩さずにユグドのことを黙って見ている。
今まで少年が何度も語り合ったこの老木は、かつての世界の成り立ちと滅びを知り、この世界を始まりの時から見つめてきた、いわば神に近い存在だったのだ。
自分が大いなる『世界樹』に気安く話しかけていたなんて……なんという無礼を冒してしまったのだろうか。
そんなトーヤの胸中を汲み取ったかのように、ユグドは低い声で言った。
「ワシは、もう『神』などではない。いや……最初からワシは神ではなかった。ワシにも『創造主』がいたからのう。今のワシは、一本のトネリコの老木に宿る精霊に過ぎない。だから……傲慢にもお前たちを跪かせるような真似はしたくないのじゃ。ワシがかつての『世界樹』だったからといって、トーヤ、お前がワシを特別敬うようなことはしなくて良いのじゃぞ」
ユグドは穏やかに言ってくれたが、トーヤは畏れ多いというように激しく首を横にブンブンと振る。
「でもっ……!」
「トーヤ、ワシのことは今まで通り、『おじいちゃん』と呼んでくれないかね? なんだか孫が出来たようでな、その方がワシの心が安らぐのじゃ」
ユグドは優しく、これまでと同じ微笑んだような暖かい声で言ってくれる。
トーヤはうつ向いて迷った素振りを見せたが、ややあってユグドに従った。
「だけど、あなたは……。ううっ……わかったよ、おじいちゃん」
大樹を見上げてトーヤは笑顔になる。
おじいちゃんが喜んでくれるなら、それでいいだろう。
エルはトーヤの肩をポンと押すと、ユグドに告げた。
「『世界樹』ユグドラシル。私は、【大罪の悪魔】に対抗する英雄には、トーヤくんがふさわしいと思う」
ユグドは黙って彼女の言葉を聞いていた。エルは更に続ける。
「トーヤくんは精霊の血を引いている。だから魔法を操る才能もあるかもしれない。――彼はきっと偉大な英雄となる。私はそう思うんだ。だから【世界樹】よ、あなたの子供……トーヤくんを、私の元へ預けることを許してくれないかい?」
トーヤはゴクリと固唾を飲んでユグドの言葉を待っていた。エルは大樹から目を逸らさず、彼をじっと見上げている。
「世界のためだ、許可する他ないじゃろう? ……トーヤ、力を尽くせ、世界の為に命を捧げる覚悟は出来ているな?」
トーヤは武者震いしていたが、頭を振って覚悟を決めた。
僕が、英雄になる。世界中の人々を救えるような英雄に……。
父から受け継いだナイフの柄を握りしめ、トーヤは頷く。
「うん。覚悟は、出来てるよ」