4 森の生命
エルと一緒に朝食を食べ終わった僕は、外に出て昨日半ばまでやり遂げたカブの収穫の続きを行うことにした。
昔は母さんがやっているのを見ているだけだったけれど、今はそれも僕の仕事だ。
もうすっかり慣れた手つきで、家の脇の畑にしゃがみ込んで作業を始める。
すると、エルは僕の前にちょこんと座って手元を覗き込んできた。彼女の澄んだ翠色の目が、興味津々といった様子に輝いている。
僕はエルに微笑みを向け、訊ねた。
「エル、どうしたの?」
彼女はコホンと咳払いすると、少し照れくさそうに鼻を掻きながら答える。
「えー、実はだねトーヤ君。恥ずかしながら、私は農業とか全くやったことがないんだ。見てるだけなのもあれだし、せっかくだから手伝わせてくれないかな?」
確かに精霊だったエルは農業とは無縁だったろう。泉に棲む美しい妖精のような彼女が泥臭い農作業をやるというのも奇妙な話だけど……正直、助かる。
やること自体は単純だけど、とにかく体力がいるのだ。人手は多ければ多いほどいい。
「ほんと? ありがとう、じゃあまずはこっちの列から掘り出して……」
三時間後。太陽が中天に昇った頃、エルはへとへとに疲れきった様子で地面に大の字に横になっていた。
汗を滝のように流し、呼吸は荒い。
彼女は汗で張り付いた口元の髪の毛をふっと息で吹き払い、言った。
「あーっ、腰が痛いー……。トーヤ君、まさか作物の収穫がこれほど大変なものだとは思ってもみなかったよ。君はこんな重労働を、毎日のようにやっているのかい?」
今朝洗ったばかりの白いタオルを手渡し、僕はエルの隣に腰を下ろす。
「この土地は地面が硬いし、実は農業にはそんなに向いていないんだよ。土が硬くて耕すのが大変だったでしょ?」
そう聞いて、彼女は解せぬというように首を傾げた。
「向いていないとわかっていながら、なぜここで農業をやっているんだい?」
「このあたりでは政府から農業をやるように命じられているからね……。でも、それだけじゃ当然食っていけない。だから、みんなこっそり狩りもしたりして生きてきてる。それも、森の動物が減ってしまったせいでお腹一杯は食べれないんだけどね」
街の人間たちが森に押し入り、そこの三分の一もの木々を伐採していったせいで、森に住む動物の数は激減した。
おじいちゃんはよくそのことで僕に愚痴を吐いていたが、僕も思いは同じだ。
自然の営みを勝手に破壊していった人間たちが許せない。森は僕の『友達』だ。森を荒らした人間たちに憎しみを抱いたこともある。
「ひどい話だね……」
エルは森に棲む精霊として怒りをあらわにする。その声と、握られた拳が静かに震えていた。
「でもユグドのおじいちゃんは、それも人間の営みだって、そう言って……人間たちを恨んではいないみたいだった」
おじいちゃんは、『恨みを抱いたまま生きることは不幸だ』とその時言った。
あの時はその意味がよくわからなかったけど、今は……。
「さあ、行こうか。まだやることが残ってるからね」
僕は家の裏口に回って、そこに置いてある弓矢とナイフを手に取る。
エルに狩りを見せてあげよう。
装備を確かめると僕はエルの元に戻ってきて、彼女に森へ一緒に来るよう誘った。
「えっ、私もうヘトヘトなんだけど……君はまだ動ける余裕があるのかい?」
「ま、まあね。これでも体力には自信があるんだ」
「そ、そんな細身のなりして、やるじゃないか……。よし、私も行ってやる! こんなところでへばってちゃ、年長者として格好がつかないからね!」
「ホント? ありがとう!」
エルは同年代の男子と比べるといかんせん細い僕の身体を上から下まで眺め、信じられない、と瞠目する。
彼女にも若干僕を侮っていた部分があったのだろう、それでプライドを刺激されたらしく僕の誘いに乗ってきた。
それから取り敢えず水分補給を済ませ、すぐに森へと出て行く。
短弓を片手に持ち、背には矢筒、そして腰には狩猟用の刃渡り30センチ程のナイフを差す。
いつも通りの装備を身に付け、僕は森の中へ分け行っていった。
エルにこちらへ来るよう手招きし、早足で、しかし足音を一切立てずに獲物を探して歩き出す。
「なんか、ドキドキしてきた……」
エルが後ろからそわそわとした声音で囁く。
「……静かに、僕についてきて」
唇に指先を当て、僕は彼女の発言を制した。
狩りというのはシビアなものだ。獲物に十分に近づかないまま気配を察知されてしまえば、最初からやり直し。それゆえに、普通は罠を張って獲物がかかるのを待つのが主流である。
でも、僕は父さんから習った弓術を忘れたくなかった。だから肉の貯蓄が尽きれば必ず狩りに出て、腕が鈍らないようにする。
(――行くよ。父さん、見てて)
意識はもう、狩りの時のものへと変わっている。
僕の五感は、その瞬間から研ぎ澄まされた狩人のものになっていた。
耳を澄まし、森の声を聴く。
ざわざわとした葉擦れの音、穏やかに吹く風の音、針葉樹の森の中をちょろちょろと流れる小川の音。
様々な音が混じり合い重なり合っている中で、狙った獲物の出す音だけを探す。
重い蹄がコケを踏む、柔らかくも鈍い音……大型の四足歩行の動物だ。そんなに遠くない。
僕は息を殺してエルに手招きし、獲物を見つけたと身振りで伝える。
彼女はもう獲物を見つけたのかと目を丸くしていた。
元精霊の彼女でも、音だけで獲物を探すことは難しいはずだ。精霊は感覚に優れるものだけど、それでも広く浅くできるいわゆる「器用貧乏」とかいうやつだ。
それに対し僕は、生まれつきかなり聴覚が敏感なのだ。
父さんと母さんから貰った才能。ユグドのおじいちゃんが「伸ばせ」と言っていた力を、僕は今、最大限発揮している。
(ごめんね、命をいただくよ)
針葉樹の森では木々の葉は幹の上の方に付くので、森の中でもある程度見渡しは利く。
僕の目は見つけた獲物を捉えて離さない。
大鹿の牡。もとより大物だが、木陰を歩くあの個体はとりわけ大きい。僕は矢筒から矢を引っ張り出し、弓をつがえた。
弦が微かにたわむ音を立てる。
と、その時――大鹿はこちらの微小な音か、はたまた気配を察知したのか突然猛スピードで走り出した。
命を奪おうという静かな殺意。それから必死に逃れようと、巨体を激しく揺らしてとにかく遠くへと突っ走っていく。
だけど、遅すぎた。
彼我の距離から矢が獲物に突き刺さるタイミングを予測して、僕は矢を放っていた。
風を切って真っ直ぐ、大鹿の脚を撃ち抜く。
ぐらりとよろめくその体躯を見据え、僕は鋭く叫んだ。
「もう一撃っ!」
大鹿へ止めの一撃を放つ。
矢は大鹿の急所、心臓に直撃した。
「ふぅ……」
僕は汗を服の袖で拭うと、倒れた大鹿のもとへと向かう。
「トーヤ君!」
エルが息を弾ませ、こちらに駆け寄って来た。そして僕が射止めた大鹿を見下ろし、感嘆の声を上げる。
「こんなに大きな鹿を、君が……」
「おじいちゃん、あなたの森の命、頂きます」
僕は精霊樹ユグドに感謝の意を表し、仕留めた大鹿の前で合掌した。
エルは僕が大鹿の処理をしている間、黙ってその作業を見守っていたが、やおら口を開いた。
「トーヤ君、私を精霊樹の元へ連れて行ってくれないかい?」