51 本当に、ありがとう
「あ、あれ、は……!?」
息も切れ切れに呟くカイ・ルノウェルスは、突如起こった現象に瞠目していた。
海上にそびえる、虹色の光柱。それはセトの【使徒】がノエルによって討伐され、墜落した地点から天高く立ち上がっていた。
「温かくて、優しい光……」
「何だか、トーヤみたいですね……」
その光は海上から放射状に広がり、エールブルー郊外の荒野にいたシアンたちのもとにも届いていた。
海と陸、そこにあるもの全てを虹の光は撫でていき、癒しの息吹をかけていく。
地図を黒塗りしたかのように「消去」された座標は、その光を浴びてたちまち元の姿を取り戻した。
世界が、再生していく。黄昏の赤が、虹色に染められる。
断ち切られた線を繋げ、本来の場所から解離していた点は打ち直されていく。
ノエル・リューズは壊れかけた世界が修復される様を気だるげに眺めながら、口元に微かな笑みを浮かべた。
「使命を果たしたか、トーヤ君」
自分に夢を見せてくれた少年へ、感謝を。
死力を尽くして戦い抜き、信念を貫いた彼へ、祝福を。
虹の光に消耗した身体が癒されていくのを感じつつ、ノエルは瞼を閉じて少年への思いを捧げた。
もう男には悪魔の囁きは聞こえない。悪魔の人格は完全にノエルのそれと統合され、トーヤとの戦いを経て彼は完全に悪意を超克していた。
「……ここから、志を新たに歩み出さねば。それが生き残った私たちに課せられた、使命なのだから」
アレクシルの言葉に、アダマスは厳然とした面持ちで頷きを返した。
イヴとリリスの人格は死に、【大罪の悪魔】も全員が討伐された。【神器使い】たちに託された使命は、これで完遂できたのだ。
だが――その過程で失われた者の命は、あまりに多かった。
未来ある若い皇子、皇女たちは【使徒】の粛清に遭い、黒い魔力にその存在を抹消された。
彼らの代わりに自分が死ねばよかったのだと、王と帝は思わずにはいられない。
何故、守れなかったか。何故、止められなかったか。彼らを引き留めてさえいれば、喪うこともなかったはずなのに――。
悔やんでも遅いとは理屈で分かっていても、感情がそれにどうしようもなく反発する。
「散った者の遺志を背負い、生きていかなくては。彼らの理想を叶えてやるのが、父である私の――」
「ねぇねぇ陛下、戦いって終わっちゃったのー?」
と、そこで帝の台詞を遮ったのは、緩慢な口調の少年の声であった。
聞き間違えようがない――天真爛漫な第四皇子、カタロンだ。
幻聴だろうか。カタロンはプラグマやカロスィナトスらと共に【使徒】の放つ黒い魔弾に撃たれたのだ。生きているなど、有り得ないはず。
「カタ、ロン……?」
帝が声のした頭上を仰ぐと、確かにそこには橙黄色の髪の美少年がいて、白い歯を覗かせて笑っていた。
虹の光柱を背後に浮遊するカタロンの身体には傷一つなく、健康そのもの。
状況が理解できずにアダマスが茫然とするしかない中、彼の耳にはまた、忘れようもない声が届き――。
腕の中で息をしない姉を抱きしめて、ロンヒは項垂れたまま動けずにいた。
彼の目の前でトゥリフェローティタ・ロ・マギアという【神器使い】は【使徒】の爪に裂かれ、その華々しかった命を散らした。
あの瞬間、ロンヒが彼女の前に飛び出していれば、トゥリを守れたはずだった。だが、彼にはできなかった。勇猛果敢な将でなくてはならない皇子は、恐怖に屈して行動に移せなかった。
「……ごめんな、姉さん。ごめんな、ごめんな……」
「謝ら、ないで。君は……生き残るべき、人材なのだから」
もう何度目とも知れない謝罪の言葉をこぼすロンヒの耳朶を打ったのは、優しい囁き。
掠れた女性の声に、青年は涙を滲ませた目を瞬かせた。
「ふ、ふ……おかしいよね。何故だか、生きている。彼らの『愛』に、感謝しないと……」
ロンヒに抱かれながら瞼を開けたトゥリは、自らを救済した虹の光の源である少年たちに感謝を告げる。
彼女の裂かれて臓物が露出していた腹にもはやその痕跡はなく、蒼白だった顔には血気が戻ってきていた。
傷があったはずの腹をさすり、トゥリは泣きはらした目をしているロンヒに微笑みかける。
「私のために泣いてくれて、ありがとう」
起こった奇跡に青年はしばし言葉を失った。
信じられない。だが、事実としてトゥリはここに生きている。
歓喜と猜疑の感情が綯交ぜになる中、ロンヒはとりあえず真実を確かめようとして言った。
「俺の頬を抓ってくれないか、姉さん。夢じゃないって、証明したい」
黒く切り取られた海や大地が復元されていくのと同時に、黒い魔力に呑まれた者の肉体や魂も蘇っていた。
【神】の権限の一部を乗っ取り、世界を破壊せんとした【使徒】の意思は既になく、優しさを知ったセトの修復の意思が虹の光となって拡散された。
「どうやら……命を、拾ったようですね」
視界を満たす柔らかな光や、耳に届く波の音、鼻腔に流れる潮の匂い。
エールブルーの波止場に立ち、天へそびえる虹の柱を見つめてエミリア・フィンドラは自身の生を実感していた。
息ができている。身体に欠損はなく、記憶の欠落もない。感覚は鮮明で、『感情』も湧き上がる生への歓喜に震えている。
エミリア・フィンドラは確かにここにいるのだ。他の誰でもない、彼女という人間として。
「兄上――どうしてでしょうか。不思議と、清々しい気持ちなのです。私はあの【使徒】に負けて、散ったはずなのに……その無念も悔しさも気にならないほど、温かい気持ちなのです」
「ああ……俺もだ」
隣には兄のエンシオがおり、静かに佇む彼は掠れた声で相槌を打った。
自分たちが死んだ後、【使徒】に何が起こったのか彼らは知らない。だが、そこで何らかの「救い」があったことは察せていた。
風が吹き抜け、兄妹の髪の毛を悪戯にかき乱す。それはまるで、彼らの復活を喜んで駆ける無邪気な少年のようで――。
「ありがとう、トーヤ君。あなたはいつも私を驚かせてくれましたが……今回のは、規格外すぎますよ」
兄と顔を見合わせたエミリアは、くすっ、と笑みを零した。
二人で自然と肩を寄せ、手を繋ぐ。王族としてこれまで張り詰めていた兄妹の心は、少年の優しさに解されて幼き日の姿を蘇らせた。
いつの間にか一回りも大きくなっていた、骨ばって乾いた兄の手。可憐だと思っていたのに、鍛錬でタコだらけになっていた妹の手。
年を経て、戦いに出て、政治を知って、兄妹は変わった。その変化を悪いものだとは彼らは思わない。父が望み、応えた結果そうなったのだと二人も承知している。
変わったことを嘆くくらいなら、変わっていなかった絆を確かめる方がいい。
マギアとの戦争が停戦となり、【大罪の悪魔】の脅威が去った世界を導く役割を担うのは、エミリアたちだ。
この絆があれば、少年が胸に満たしてくれた優しさがあれば、必ず前を向いて進めるだろう。リーダーがそういう姿勢ならば、民たちも自ずと影響されて変わっていくだろう。
戦争で国が動き、悪意に振り回される時代は終焉を迎えたのだ。
「あら、こんなところでお手手繋いじゃってぇ。奇遇ね、私も死に損なったのよ」
突然の冷やかしの声に大慌てで手を離し、わざとらしくそっぽを向くエミリアとエンシオ。
二人のその様子に吹き出しているのは、ミラ・スウェルダだ。
「父が死に、民が死に、軍が滅茶苦茶にされて、副官にも裏切られて……その上、死に場所すらも奪われるだなんて、意地悪な神様もいたものね。あーあ、こんなに苦しんだのに、まだやるべきことがあるなんて嫌になっちゃうわ」
虹の光は次第に弱まり、空は黄昏の茜色を取り戻していく。
投げやりな口調で言うミラに、エミリアは何かフォローしなくてはと言葉を選ぼうとするが、振り返って見た彼女の表情に思い直した。
逆境に負けない、勝ち気な笑み。
ミラ・スウェルダは再起する。悲しみを乗り越えて、彼女の心は強くなる。彼女を信じ、愛してくれる人がいる限り、何度だって立ち上がれるのだ。
そんな彼女に感銘を受け、エンシオは素直に称賛する。
「強いな、あんた」
「あったりまえじゃない! 私はスウェルダ国民を引っ張っていかなきゃいけない、ただ一人の女王様なんだから」
ドンと胸を張り、高らかに笑ってミラは豪語した。
その言葉に虚勢がゼロかといえば、違うはずだ。叶うならば課せられた重責を捨て去ってしまいたい、そんな欲求に駆られてもおかしくはないだろう。
だが、彼女は立場から逃れられない。そこにアイデンティティの全てを置いてしまっているからだ。それでも押しつぶされていないのは、支えとなっている存在があるから。
「ま、私一人では何もかもを司るなんて無理だから、家臣たちの助けも借りるけれどね。それと、先に言っとくけどトーヤたちのスカウトは私がするつもりだから、承知しておいて」
ウインクしつつそう宣うミラに、双子の兄妹は仰天する。
てっきり【神器使い】である少年たちは引き続きフィンドラ王城にいるものかと思っていたが、まさかミラからの招待がかかるとは。
「……いえ。残念がるのも傲慢ですね。何より尊重すべきは、彼らの意思なのですから」
誰かの都合で縛られる辛さはエミリアが一番よく知っている。人の上に立つ者として、人を思いやれる自分を磨かなければと彼女は言い聞かせた。
エンシオも首肯し、それから上空より軍港へ帰還してくる父親たちを仰ぎ迎える。
「親父。俺たち、生きてるよ。――また、一緒に国づくりしようぜ」
「……ああ」
マギア軍との戦闘に続いて【悪魔の心臓】が生み出す悪魔らの掃討、さらには悪魔サタンの【神化】を発動した【神魔の母】との戦闘、【使徒】との戦い。長きにわたる戦闘を経て疲労困憊といった様子のアレクシルだったが、笑って拳を突き上げる息子へ静かに応じた。
「何だよ、俺たちが無事に戻ってきたのに。もっと喜んだって……」
「兄上、父上は素直になれないだけなのですよ。ね、父上?」
エミリアは、父が自分たちを完璧な統治を実現するための駒として育ててきたことを承知している。父親が彼女らに注ぐ愛情も、王としての「仮面」に基づくものだと分かっている。そしてアレクシルがその「仮面」を脱ぎ捨てられなくなっていることにも、気づいている。
それを「素直になれない」と表現したエミリアに、アレクシルは「言い得て妙だ」と内心で呟いた。
育児や教育は乳母や世話役に一任し、アレクシルは政治に専念してきた。王道を邁進することがアレクシル・フィンドラという男に課せられた使命なのだと、盲信していたから。
結局、彼は使命に一途すぎたのだ。純粋にそれに殉じようとするあまり、他者との心の触れ合いを軽視した。子供たちが密かに苦しんでいたのを薄々察していながら、目を逸らしてきた。
「エミリア、エンシオ。本国に戻り次第、お前たちとの歓談の席を設けよう。互いに報告すべき事項は多いだろうからな」
夕焼けを背後にそう提案するアレクシルに、エミリアの顔はぱあっと華やぐ。
年相応の少女のような表情を見せる妹にエンシオは微笑み、彼女の肩をそっと抱き寄せた。父親にばかり構わせないぞ、とでも言うように。
「その席、私も混ぜて混ぜてー! 学園は政府とズブズブだし、次期学長として王様とは話しておきたいこと沢山あるんだよねー!」
と、そこで、元気さが服を着て歩いているような少女が乱入した。
ピンク髪のハーフエルフ、ティーナである。
「ちょっと、ティーナ、くっつかないでください!? あ、汗臭いですから!」
「いーのいーの、美少女の汗臭ならバッチこーい!」
「この面食いハーフエルフめ……」
到着した側から飛びついてくるティーナに、苦言を呈すエミリアと呆れ顔になるエンシオ。
若干引き気味のミラはアレクシルに小声で問いかける。
「ねぇアレクシル陛下、学園と政府が癒着してるって話、本当かしら?」
「そういえば、スウェルダ政府の重鎮が複数の商会から賄賂を貰っていたとかいう噂があったような……」
すかさず身内の不祥事をちらつかされ、赤髪の王女は思わず眉根を寄せた。
重鎮とは一体誰のことか、それが王政府にとって切って離せない人間だったら……。
「た、互いに聞かなかったことにしましょう」
「ああ。その方が得策だろう」
表沙汰にはしないから速やかに解決しておけ――これはそんな忠告なのだろうと読み取ったミラは、すっかり板に付いた作り笑いで応じた。
*
サタンの【神化】が解除され、青髪の女の姿に戻った【神魔の母】の遺骸が横たわる側。
『精神世界』に移ったトーヤたちを防衛魔法で守っていたグリームニルは、彼らの呼吸のリズムが微かにずれたのを感じて彼らのもとに跪いた。
「おかえり、トーヤ。シル、エル、ノア……」
ありったけの真心を込めて、浅葱色の髪の少年は四人を迎える。
ゆっくりと瞼を開いたトーヤは、目と鼻の先にあるグリームニルの顔に苦笑をこぼした。
「……ち、近いですよ」
「む、すまないな。お前たちがもし戻ってこなかったらと思うと、私はもう心配で心配で……」
「あんたも年を取ったわね、グリームニル」
「おいシル・ヴァルキュリア……魔導士に年齢の話はタブーだと、【神】との付き合いの中で学ばなかったのか?」
年と共に涙腺が緩んでいるのを自覚しているグリームニルは、シルの指摘に口を尖らせた。
重ねた歳はイヴの不死の術式があってのもの。それが失われた今、これまで不自然に遅らせていた老化の負債が降りかかることは、避けられようもない。
グリームニルやノア、シルたち【アナザーワールド】の人間は、恐らく数年後には急速に老化していって死ぬだろう。それが一年か、二年か、五年以上先かは定かではないが、確実に。
「あたしらがここまで生きてきたのは、【悪魔】や姉さんと決着をつけるためだ。それが済んだ以上、命に執着なんかないけど……トーヤ、あんたらの未来を見届けてやれないのは、心残りだね」
あっけらかんとした口調で言ってのけ、それからノアは微笑んだ。
使命を遂げた黒髪の少年と、彼に寄り添う緑髪の少女――彼らの物語の結末が良いものであることを、願って。
「ノアさん、シルさん、グリームニルさん……僕、あなたたちといつまでも一緒にいたいです。教わりたいことだって、沢山残ってるのに」
トーヤは彼女らが近い将来死んでしまうことを、現実味を持って受け止められないでいた。
大切な人がいなくなる恐怖、それは少年の心にこびりついて落とせない。
俯く彼の手をそっと握ったのは、エルだった。
「トーヤくん。大切な人との別れは、生きていく以上どうしても避けられないことなんだ。私も、ハルマくんが亡くなった時は泣いたよ。体中の水分がなくなってしまうんじゃないかってくらい、泣き続けた。でもね……気づいたんだ。ハルマくんも、パール先輩も、私の心の中にいるんだって。記憶の中で、笑ってくれてるんだって」
記憶。たとえ形がなくなっても、それだけは消えずに残るものだ。
エルの言葉にトーヤは覚えがあった。彼が憎み、そして許した少年も彼の心の中に生きていた。彼を叱咤し、背中を押してくれた。
マティアスのように、ノアやシルたちも記憶の中で生き続けてくれる。そう思えば、少しは気が楽になった。
それはセトに双子の面影を重ねたイヴと似た、逃避ではないか――ふとトーヤの胸に湧いた疑問を、彼が口にする前に否定する声があった。
「目の前の現実から逃れるために、過去に縋り付く……トーヤ君、きみはそれを克服したんだろう? だったら、それは杞憂だよ」
上体を起こした姿勢のトーヤたちの頭上から降ってきた、青年の声。
『精神世界』にいた時とは異なり【マギ】としての黒ローブを纏った姿で、セトは乾いた荒野に降り立った。
「君はもう、過去に縛られない。前を向いて進んでいけるんだ」
セトの言葉にトーヤは深く頷く。
過去を認め、使命を遂げた彼は翼を手に入れた。世界のどこへでも前を向いて、たまに後ろを振り返りつつ、歩いていける。
エルと出会ってから起こった冒険、戦い、出会いの数々――それは少年を一回りもふた回りも大きく成長させてくれた。
人には人の物語がある。それぞれに抱え、何かと関わることで広がる物語が。
――この物語を、大切にしよう。大人になっても、お爺ちゃんになっても、忘れずに心のポケットにしまっていよう。
出会った人たちに、共にいてくれる仲間たちに、戦って自分を強くしてくれた敵たち。トーヤという人間を形作った全ての関わりに、今、感謝を捧げよう。
「トーヤ! 良かった、無事で――」「トーヤ君っ!」「トーヤ!」
シアンが、エインが、カイが、たくさんの仲間たちが彼のもとに駆けつけ、名前を呼んだ。
彼らからの優しさや愛情、感謝を胸いっぱいに受け止めて、トーヤははにかむ。
共に旅をしてくれた人。共に戦ってくれた人。見守ってくれた人、敵として戦った人――最終決戦に参加した全員がこの場に集ってくれていた。
言うことは、決まっている。
「みんな――本当に、ありがとう」




