50 親愛の証
漆黒の槍を突き込む、初撃。
それを受け止め弾く、黒き大盾。
眩い虹色に満たされた『リリスの精神世界』を舞台に、トーヤとセトの決闘は始まった。
「その防壁が何度も通じるとは、思わないでください!」
セトの展開する【絶対障壁】は、シル・ヴァルキュリアやイヴが十八番としていた最強の防御だ。
これを突破しないことには話にならない。攻撃が通らなければ、トーヤがただ消耗していくだけ。
どうやって壁を破るか、しかし少年はその答えを既に持ち合わせていた。
――向こうが最強の盾を用意するなら、僕は最強の槍で応じるんだ!
「強気だね。だけど、僕も守ってばかりじゃないよ」
勝気な笑みを浮かべて言うセトに、トーヤも笑う。
一方的な展開など、どちらにとっても面白くない。互いに技をぶつけ、しのぎを削る――そんな熱い戦いこそ、彼らが求める最高の勝負だった。
少年は鋭く息を吸い込み、攻撃を弾かれて崩れた体勢を即座に立て直す。
一撃でダメならもう一撃。諦めない泥臭い戦法は、トーヤの取り柄だ。
「はああッッ!」
トーヤが足元に発動しているのは、リオから習った風の付与魔法。さらに、空気を固める力属性の魔法も併用し、見えざる足場をそこに作り出した。
それを蹴飛ばして前進、その勢いも乗せて先程より威力を増した刺突をセトへ見舞う。
【グングニル】の穂先は紫紺の炎と雷を帯び、火花を散らして【絶対障壁】へ肉薄した。
焦熱が青年の白い裸身を撫でる。防壁越しにも伝わるトーヤの気迫に、彼は震えた。
「セトさん! 僕の技はどこまでも強くなり続ける! あの始まりの日から、ここに至るまで、ずっと!」
盾と槍の、大激突。
果てなき成長を掲げて叫ぶ少年に、二千年の時を生きた青年は目を細めた。
どんなものにだって限界がある。それを長い時の中で痛感させられているはずのセトも、この時ばかりは若い夢を少年とともに見た。
限界を超えようとする心の力。それはセトが目指した「究極の知」と同じ境地にあるものだ。
しばしの膠着、転じて決着。
防壁に亀裂が走り出したのを視認した瞬間、青年はそれをすぐさま切り捨てた。
盾を放棄し、「斥力魔法」を崩壊間際のそれに掛けて自身と強制的に引き剥がす。
「【炎魔法】! 【雷魔法】!」
そして間髪入れず、セトは炎と雷の攻撃を撃ち放った。
魔法使いが最初に覚える、基礎的な攻撃魔法。だが、「基礎」だからといって甘く見てはいけない。
単純ゆえに複雑な詠唱を必要とせず、発動までの速度を極限まで短縮することが可能となるのだ。
「っ、小細工なしか――!」
グングニルによって破壊された【絶対障壁】は、斥力魔法に突き飛ばされたのに加えて炎雷の魔法を浴びたことで、その破片一つひとつが魔力を帯びた刃物と化す。
トーヤは円弧を描くように槍を薙ぎ払い、黒い雨を打ち落とさんとするが、その全てに対処するなど流石の彼にもできるはずがなかった。
「ぐっ!?」
咄嗟に腕で顔を隠し、頑強な装甲で鋭利な破片から守る少年。
目を潰されては何もできなくなる、そう判断しての防護だったが――それは相手に付け入る隙を与えただけに過ぎない。
「歌というのは人間の素晴らしい発明だと思わないかい? 言葉で、声で、音で、誰にだって思いを伝えられるんだから。さあ、トーヤ君! きみに僕の歌を贈ろう」
セトは深々と息を吸い、それから詠唱を始める。
彼が少年だった時代に流行った、魂を激しく震わせるような荒々しさを前面に押し出した歌唱。
線の細い青年が出しているとはにわかに信じがたい、力強さに溢れた声がトーヤの耳朶を打った。
連ねられる悪罵の言葉。自己を抑圧されて生きてきた青年の、悲痛な叫び。
そこには等身大の17歳の青年がいた。知恵だけを重ね、時が止まったままの彼が見せる、ありのままの姿があった。
トーヤがちらつかせた隙に飛びつくことなく、セトは自分の詠唱を優先させた。
少年の槍が【絶対障壁】を破砕できると分かった以上、守り主体の戦法はもう取られない。だから、セトは割り切ったのだ。
そこで冷静さを微かに欠いていたのは、少年の方だった。
「大魔法に対抗するには、大魔法しかない」
腰から黄金の剣を引き抜いてトーヤは呟く。
セトの大技が【神器】の攻撃魔法に匹敵するほどの威力だとしたら、トーヤの防衛魔法ではそれを防げない。
手段は一つ――同じだけの火力の魔法をぶつけ、相殺することだけだ。
「テュール様、頼みます!」
【神化】が切り替わる。
朱色の逆立った短髪に、筋骨隆々な剥き出しの上半身、黄金に煌めく長剣。
武神の化身となった少年は、【テュールの長剣】を水平に突き出して構え、早口に詠唱を進めていく。
「【心を交わし共に歩む我が戦友よ。汝に願おう】」
エル、シアン、ジェード、アリス、ユーミ、リオ、ヒューゴ、そしてエイン。自分と共に歩み、支えてくれた仲間たちをトーヤは想う。
彼女たちがいたお陰で、トーヤは前を向いて来られた。温かい感情を忘れずにいられた。誰かを恨み自分を傷つける暗い感情から、逃れることができた。
彼女らとの団欒の時間や、互いに高め合う稽古の時間が失われてしまうなど、トーヤは絶対に嫌だ。
「【窮境を明転させし黄金の剣は、輝きを以て輩を導く。黄昏の英雄、これに続き邪悪なる悪魔を滅ぼし去る。今、伝説は再誕する――】」
神話の世界の「英雄」への憧憬、それが原点だった。
今の自分はその「英雄」になれただろうか――詠唱を淀みなく執り行いながら、トーヤはそう顧みる。
悪魔を倒して救えた人がいた。悪魔に憑かれたまま救えなかった人がいた。ルノウェルスやフィンドラに降りかかった脅威を払い、守れた人は沢山いたが、守りきれなかった人も大勢いた。
誰も死なせることのない世界など、絵空事だとトーヤも理解している。人が持つ暴力性というのは、どんな魔法を使っても消し去れない。
だが、抑えることはできるはずだ。他人を傷つけなくては生き残れないような世界ではなく、誰もが自分も他人も愛せる世界をトーヤは望む。
――「死にたい」と願ったのは数え切れないくらい。それでも、父さんの「強くなれ」という言葉が僕を生に縛り付けた。
妹が死んだ後もトーヤが心を保てたのは、本当に幸運だった。
彼のように苦しみを抱え、生きるための手綱もない人たちは、誰にも手を差し伸べられないまま死んでいく。
【英雄】の姿が人々の心を変えられるならば、トーヤは彼らに「生きて」と訴えたい。
そこに笑顔さえあれば、それでいい。その温かさが心の明かりを灯し、背中を押してくれるのを少年は知っている。
「【護るため、救うため、我はこの秘術を解き放とう。神よ――降臨せよ】!」
剣の光輝は極限まで強まり、この『精神世界』全体を黄金に染め上げる。
激しく脈打つ魔力に、身体を滾らせる熱。
一撃に信念の全てを込め――そして、少年は放った。
「人の数だけ、個性がある! その個性は、人の『可能性』を無限大に広げられる! 【神】なんかに頼らなくても、僕らは『知』を探求できるんだ! だから、セトさん――人の可能性を、信じてみませんか」
一刀に言葉を乗せ、トーヤはセトに願う。
人間は捨てたものではないのだと、彼は【神】のみに縋ろうとした青年に叫んだ。
「【武神光斬】ッッ!!」
「――【落日悲歌】」
そして、青年は。
黒い感情を吐き出した果てに、一言、魔法名を呟いた。
喉を震わせ、ひび割れた声を漏らす。声は魔力を『魔法』へと昇華させ、少年の黄金の一刀を拒む。
漆黒の花弁を満開にする、薔薇の花。それは巨大な防壁となってテュールの大魔法の光輝を遮り、セトを守護した。
茨が蔦をうねらせ、剣の灼熱に焼かれる花弁は蒸気と悲鳴を上げる。
防ぎきれない――そう唇を噛むセトだったが、彼はそこで諦めたりはしなかった。しぶとく食い下がる泥臭さは、トーヤだけのものではない。
「人が『可能性』を有していること、それは認めよう。でも、彼らはそれに気づいてすらいないのが大半じゃないか! 知識を求めることを軽んじ、戦いに明け暮れてばかりの国、何も考えることなく時間だけを浪費する民……誰が、彼らに期待なんてできる!?」
「だったら、教えてあげればいい! 学ぶことを知らない人たちに学び方を教えてあげれば、その中からあなたみたいな人が必ず現れる! 知の探求は継承され、それは未来の進歩に繋がる! ――セトさん、あなたほどの人なら、分かっていたはずです。でもそれをしなかったのは、あなたが恐れていたからだ」
少年が叫びと共に放つ、二度目の斬撃。
黒い花弁がたちまち灰と化し、少年の目の前に青年の姿が露呈した。
トーヤの指摘にセトは肩を竦め、鼻を鳴らす。
「僕が何を恐れていたというんだい? 僕に敵なんていないのに」
「だから、ですよ。セトさん、あなたは自分の敵となりうる者の登場を無意識的に恐れていた。知識を他人に伝えず独占していれば、誰かがあなたを超える可能性もないでしょうから」
セトの行動の根源には恐れがあるのだ。
常に彼はそうだった。生まれてから現在までの二千年間、彼はずっと恐れを抱いて生きてきた。
今も、そうだ。トーヤはセトの過去を勝手に覗き、知った気になって心を抉ってくる。
――君に何が分かるっていうんだ。所詮は他人なのに、何が……。
「何かを共有することで絆は深まる。そういう相互関係が新たな知を生むと、僕は思うんです。セトさん、僕はあなたに色々教わりたい。僕の知らないこと、たくさん知ってるんでしょう? まずは僕に、あなたの知恵を授けてくれませんか」
黒薔薇は完全に散りゆき、少年の輝く瞳がセトの瞳に映った。
二人の間を分かつものは、もうない。
その眼差しの眩しさにセトは目を細める。敵意も、悪意も、トーヤは持っていない。純然たる知的好奇心が彼にそう言わせていた。
――怖い。
自分とそっくりな少年が、理解できない。
否、理解をセト自身が拒んでいるのだ。
何故だかはセトには分からない。自分のことなのに、言葉にできない。
――言いたいことなんかない。言いたいことは……。
父は自分を息子扱いしなかった。母は死んだ双子の代わりとしか見てくれなかった。
讃えられる「英雄」。崇められる「神」。そんなもの、本当は望んでなどいなかった。
だが、彼はそれらを享受した。彼は、いつも逃げられなかった。
何故か。それも、恐れだ。
変わることが怖い。望まぬ形でも自分の存在が認められるならいいじゃないか――幼いセトはそう囁く。
セトは誰もが認めた天才だ。かつての世界では、彼を知らない者などいなかった。人々の記憶には圧倒的な武力と知恵を有した魔導士として、彼は刻まれていた。誰もが彼に「神」としての役割を望み、強要した。
だが、今はどうだろうか。
セトを知る者は神話に触れた者に限られ、その数も多くない。
殆どの人が、セトという人物に対して無知だ。誰もが彼の味方ではないが、同時に、敵でもない。
「僕と一緒に来ませんか? 常に変わっていく世界を、みんなで巡るんです。色んな人と触れ合って、色んなものを見れば、そこに新しい発見があります。きっと、楽しいですよ!」
笑顔の少年。彼は、セトに手を差し伸べてくれている。セトを「セト」という一個人として扱い、理解しようとしてくれている。友達になろう、とまで言う。
何がトーヤをそうさせているのか、セトには分からない。『感情』を自己防衛のためだけに肥大させた青年には、他者との関係を望むトーヤが異常に思える。
思想が違う。境遇も違う。生まれた時代も、人間関係も違う。
「……何故。君と僕は異なる存在だ。君からしたら、僕という人格は異常に映るはずだ。ほかならぬ僕自身が君を見てそう思っているようにね。なのに……何故なんだ!?」
青年は問うた。
天を突くように両手を上げ、全身から振り絞った魔力を指先に集約させて最後の一撃を撃ち出さんとする。
彼のあらゆる感情が込められた、黒い雫。
涙の岸に背を向けて生きてきた青年は、そこで踵を返した。
違いが生む苦しみは、セトの人格を歪めたそのものだ。
「カイン」でも「アベル」でもないセトは、母親からの愛情を貰うことができず、父や研究員たちからも「カインとアベル」になることを強要された。
いっそ、他の兄弟のように両親の人形に成り下がれれば良かった。だが、セトだけは「違った」。
その場所でセトは異端だった。誰にも理解されず、誰にも「自分」を見つけてもらえなかった。
「答えろ、トーヤ!!」
黒い雫は天高く打ち上がり、虹の太陽の下で弾ける。
降り注ぐ涙が水面を漆黒に染め、少年たちの肌も毒で犯さんとする中――トーヤは、それを防ごうともせずにセトを真っ直ぐ見つめていた。
【神化】で朱色になった髪が溶け、露出された肌がどす黒く変色してもなお、少年は「見えざる足場」を蹴飛ばして青年へ手を伸ばす。
「――僕は、セトさんのことを異常だとは思わない。だって、セトさんは僕と同じだから。過去に苦しんで、その過去から逃げて、その果てに向き合った等身大の人間だから」
黒い涙に濡れた手で、トーヤはセトの手を取った。
睨み据えられても構わず、少年は迷いのない瞳で青年を見返す。
「セトさん……僕はあなたの存在を認めるよ。たとえ世界中の誰もがあなたを否定しても、僕だけは隣にいる」
理屈も利害も関係なく、トーヤは「セト」という人間を承認した。
少年にとって青年は鏡写しの存在だった。闇から抜け出せず苦しむ、もう一人の自分。
過去という戒めを解き、心をあるべきところへ戻す――人が幸せを掴む権利は、誰もが当然持つものだと思うから。
「僕が、きみの隣にいていいのかい? 世界を壊そうとした張本人である僕を、きみは許すというのかい?」
「許すとか許さないとか、そんな問題じゃないんです。ただ今は……瞼を閉じて、眩しい朝を待っていて」
トーヤの言うことはセトには抽象的すぎて分からなかったが、それでもいいと青年は思えた。
分からない歯痒さも、何故だか心地良い。言われるままに瞼を閉じ、手に触れる少年の温度を感じていると、不思議と心までもすっと楽になっていく。
――ずっと、ほしかった。でも、誰にも言えなくて……独りだった。
彼を満たしていくのは、無償の親愛。
少年が等しく注ぐ優しさに包まれ、セトの頬に雫が一筋、伝っていく。
――嗚呼……僕は、ここにいていいんだ。ここなら、彼の隣なら、僕は「セト」でいられるんだ。
「自己の承認」というものを、セトは初めて他人から受けた。【原初の神】や【マギ】ではなく、セトという一人の人間として。
青年の濡れた頬を少年の指がそっと拭う。
そして――頬に触れた柔らかい感触に、セトは徐に瞼を開いた。
「なっ……何、を……!?」
「僕からの親愛の証です」
柄にもなく動揺するセトに対し、軽くキスしたトーヤは目を弓なりに細めて答える。
「頬にするのが家族へのキス、唇同士を重ねるのが恋人へのキスです。覚えておいてくださいね」
「そ、そうなのかい……?」
――早速、教わってしまった。
キスに関しては文化によってかなり変わるところだが、セトは「そういうものなのか」とあっさり腑に落ちてしまう。
「あ、ありがとう……」
口に出してから、青年はこの言葉を誰かに面と向かって言うことがかなり照れくさいのだと知った。
本当に眩しい笑顔のトーヤに、素直になれない質のセトは顔を真っ赤にして俯く。
戦いは、終わった。
独りだった青年の心は、トーヤという灯火を得てこれから変化していく。
悲しい過去はやがて化石となり、優しさを知った彼は、それを伝えた少年のように周りに愛を広げていくようになる。
目覚めの時は、近い。
* * *
静かに水面へと降りていく二人を見上げ、エルたちは微笑みを浮かべる。
ぽつり、と落ちた青年の涙は水面に波紋を描き、黒く染まった水を元の虹色へ戻していた。彼の心の闇が、晴れていったように。
「……これで、終わったんだね。セトさんを救えたんだね、トーヤくん……」
胸に手を当ててエルは涙声で言った。彼女の隣で、シルは肩を竦めて悪戯っぽく笑う。
「昔に比べて涙もろくなったわね。年のせいかしら?」
「ば、馬鹿っ……姉さんにだけは言われたくないよ。私がババアだったら姉さんは大ババアだよ」
「じゃああんたらより500年長く生きてるあたしは、特大ババアになるね」
口を尖らせるエルだったが、姉との間に割って入ってきたノアに冷や汗を流した。
【冷血】の前でこれは失言だったか、と硬直するエル。そんな彼女をノアはしばし真顔で見つめていたが――本気で怯えている様子の少女がいたたまれなくなって相好を崩す。
「なんてね。あたしだって、冗談くらい言うんだから」
最初にシルがくすりと笑みをこぼし、少し遅れてエルも声を上げて笑った。
姉妹の笑顔にノアも何だかおかしくなってきて、どうしようもなく吹き出してしまった。
虹色の水面に降り立った二人を迎えた三人は、彼らに駆け寄ってそれぞれ言葉を掛けていく。
その温かい光景を端から眺めるリリスは、切なく痛む胸を押さえつつ乾いた声で呟いた。
「サタンは青い巨人の身体が倒れた時点で、既に使い物にならなくなっている。ルシファーと同化した男は離反し、いよいよ私は一人、か。罪人らしい、惨めな最期だな……」
イヴが死に、彼女に従う悪魔もなく、リリスの生きる理由はようやく失われた。
トーヤに刺された傷は魔法で癒やしているものの、想像以上に深い。持ってあと数分、といったところだろう。
彼女の立つ周辺だけ赤く染まる水面が、その声に共鳴するように揺らぐ。
「リリス、さん……」
トーヤの哀しみに満ちた眼差し。シルの無力感に苛まれる瞳。
そのどちらも、リリスは拒絶したかった。
自分は唾棄されるべき悪人だ。決して、誰かに看取られて死ねるような人間ではない。
悪魔たちの顔、イヴの顔、アダムの顔、カインとアベルの顔。
リリスが大切にしてきた人たちの喜怒哀楽の表情が、脳裏に過ぎっては消えていく。
これが走馬灯なのか、と霞みゆく意識の中で女は思った。
指先の感覚はもうない。身体は蹲るように崩折れ、項垂れた顔が水面に浸かっていた。
――ごめんなさい。理不尽に負けてしまって……悪意に溺れるしかなくて、ごめんなさい。
謝っても過去は戻らない。それでも、リリスは今際の際に謝罪の言葉を連ねた。
彼女の肉体が完全に動かなくなり、精神もそこを去ったのだと思われたすぐ後――少年は、歪な姿勢の遺骸を抱え起こし、仰向けにする。
女の瞼を丁寧に閉じさせた彼は、冷たい青髪を静かに撫でながら、その魂の救済を祈った。
「もしも、彼女が生まれ変われるなら……誰も傷つけない、平穏な人生を送れますように」
理不尽な不幸と人の欲望によって、リリスは狂った。
彼女のような境遇の人が生まれるのは、人が集う以上なくならないのかもしれない。
だが、それでも――リリスという人物の死を無為にしないためにも、第二の彼女を生まない世界を目指さなくてはならない。
それが自分を認められないまま死んだ彼女への弔いになると、トーヤは思う。
今はただ、瞼を閉じて祈りを捧げよう。
未来の平和を信じて――静かに。
黄昏の後に訪れる静謐の中で、ひたすらに。




