45 知の亡者
青き女巨人はエールブルーの街並みを踏み潰し、進撃していく。
彼女が目指す先は、北。スウェルダの首都、ストルムの位置する方角である。
「なっ……俺たちを無視した、だと!?」
「私たちなんて相手取る価値もない、ってことかな。癪だけど、追いかけるしかないね」
ロンヒが驚愕し、トゥリが顔をしかめて言う。
巨人族のウトガルザ王を一撃で沈めた女巨人の速度は人のそれを超越していた。一歩で十メートル以上の前進、その一歩は一秒間に十回は繰り返されている。
脚の長さ、筋力、瞬発力――その全てが人を上回り、一秒で百メートルを駆ける速度を実現していた。
大地が揺れる。女巨人の咆哮が空気を震わせ、人々に原初的な恐怖を植え付ける。
その叫びは街を超えて拡散していった。
誰もが、その災厄に慄いた。人も、動物も、鳥も、怪物でさえ、その存在に畏怖した。
もはや【悪魔の心臓】など必要もなかった。数だけ多い雑魚よりも、圧倒的な力を誇示する個の方が遥かに優る。
走りながら毒液を撒き散らす女巨人は、まさしく殺戮の使者。彼女が通った後は使い物にならない土地になり、そこにいた者は弱り果ててやがて死を迎える。
「【雷霆】よ、閃けッ!」
が――その進撃を阻む者あり。
白き雷が巨人の足元に落ち、彼女の皮膚と骨肉を焼く。
しかし、それでも巨人は止まらなかった。魔法を食らった側から傷を回復させ、何事もなかったかのように走行し続ける。
アダマス帝は唇を噛んだ。速すぎて詠唱しつつの飛行術では追いつけない。長射程の攻撃でも、詠唱時間に射程外へと逃れられてしまう。彼女が走り出す前に詠唱を終えられていたら、致命打を与えることもできたはずだったが――過ぎたことを悔やんでも仕方がない。
「皇帝さま、私の力を!」
「いや、シアン、お前は無理すんな! 俺がやる!」
マギアと三国の【神器使い】たちが女巨人にみるみるうちに距離を離される中、シアンが声を上げ、それに被せるようにジェードが立候補する。
このままでは埒が明かない。自分たちの浮遊魔法による飛行術では、追いつける可能性はゼロに等しい。
だが、手はある。「時間」さえ問題でなくなれば、速度の差は埋められるのだ。
「俺の【ベルザンディの神器】で、時を止める! 皇帝さま、アレクシル陛下、俺があなたたちに力を与えます!」
「了解した」
「任せたぞ、ジェード君!」
ジェードは空中に留まった状態で、静かに、だが素早く詠唱を執り行った。
『停止した時間を無視して動く力』はもともと一人にしか与えられなかったものの、ひたむきな特訓の結果、ジェードはそれを二人にまで増やすことができた。
アダマスとアレクシルを選出したのは、もちろん彼らが実力的に申し分ないというのもあるが、同属性の攻撃を同時に撃つことによる相乗効果を狙ったためだ。
「両陛下――行けます!」
詠唱を完了させ、王と帝に呼号を上げるジェード。
彼が両手を突き出した前にはアダマスとアレクシルが既に飛び出しており、発動された魔法の恩恵をその背に受けた。
自分たち以外の動き、音、臭い、気配――命の鼓動を感じさせるあらゆるものが、停止する。
灰色に転じた世界の中、悠然と詠唱を終わらせた二人の王者は、射程圏内まで近づいた上で女巨人へと雷撃を放った。
「【我は理想の使徒、究極の世界を築く者】――輝きを放ち、猛れ【雷霆(ケラウノス】!」
「【我は真実の使徒、最高の世界を保つ者】――いざ悪を滅さん、【雷槌】!」
【心意の力】が王と帝の思考をも溶け合わせ、その詠唱を対なすものへと変える。
同一にして対極、二つの「最強」が合わさった瞬間――
「いけええええええええッ!!」
獣人の少年の雄叫びと共鳴するように雷鳴が轟き、迸った稲妻が女巨人へと降り注いだ。
*
【原初の神】、【名無しの者】、【マギ】。
三つの異名を有する青年は、ジェードによる時間停止の影響を完全に無効化していた。
「おやおや……誰かが時間を弄ったね。いいのかなぁ、世界のシステムに干渉するような真似をして。それが【神】の怒りを買ってしまう行為だというのに……」
エールブルーの街の一角、とある民家の屋根上に腰を下ろした青年は微笑む。
歌うような口調の彼の声を聞く者はいない。
「まぁ、いいさ。母さんが手を取ることを拒んだ【神】に、僕は会うのだから。こんなちっぽけな世界から【神】のいる世界に移れば、僕という存在はさらに高められる。世界の真実も、この世界にはない未知の知識も、手に入れられるだろう。
……嗚呼、なんて素晴らしいんだ。僕はもっと知りたい。知りたい。知りたくてたまらないんだ……」
父が持ってきてくれた科学の本と、母が聞かせてくれた魔導の知恵。それらが、セトという人間の根幹を形作った。
知ることの喜び。分からないことが理解できるようになった瞬間の、閃きにも似た快感。
どんな美食でも、どんな女でも、どんな娯楽でも及ばない、至上の悦楽がそこにあった。
無知の知、という言葉がある。彼は古い哲学書でそれを見た時、底知れない恐怖に襲われた。
これまで自分は無知でありながら、それを自覚さえしてこなかったのだ。気づいた瞬間、無知なる自分を殺したくなる苛烈な衝動に駆られた。
その衝動を治める手段は、新たな知識に触れることしかない。
魔導士の国の運営を母親に一任した彼は、それから世界中を巡ってありとあらゆる学問や芸術、武芸、技術を学ぶようになった。
「とある吟遊詩人の少年は言った……あなたは知の亡者です、と。面白い言葉選びだと思ったよ。僕の特性をよく表している一言だと、素直に称賛した」
いつ、どこでの出来事だったかはとうに忘れたが、彼はグリームニルのその台詞だけは覚えていた。
知の亡者、セト。
彼はこの世界において自力で「世界の真実」に辿り着いた、たった一人の人間であった。
*
背部の損傷、甚大。
思考回路、混濁。
身体の神経回路、停止。
【憤怒】の力を得て女巨人と化した魔女は、アダマスとアレクシルの雷撃をもろに食らい、動けずにいた。
――ここで、終わる、わけには……。
身体は言うことを聞かない。感覚さえ、どこにもない。見えるのは地面だけだ。草のない、ひび割れた地面。
――私みたい。
ふと、彼女はそう思った。
自分は枯れている。何が枯れたのか。涙か。才能か。それとも……愛か。心か。
――何だって、いいわ。もう、何だって、構わないのよ。だって……何も、分からないんだもの。無知なんだもの。何も、誰も、私に教えてくれる者は……導いてくれる者は、いなかったんだもの。
間違えたら、直すように言う。道を外れ過ぎたら、元の方向へ戻るよう促す。
イヴにもリリスにも、そうやって諌める存在が隣にいなかった。
彼女らは孤独だった。アダムは彼女らの抱える悩みに一切気づけない男だったし、神たちはイヴを畏怖するばかりで彼女の内面に触れることを禁忌とした。
唯一そういう存在だったノアが生まれたのは、不幸にも彼女が半ば狂ってからのことだった。
――世界を作る。世界を変える。世界を壊し、大好きだったあの場所を、再び手に入れる。
イヴとリリス、二人がアダムと共に団欒の時を過ごした、あの泡沫の日々を取り戻せたら。
あの時間さえあれば、他には何もいらなかったのかもしれない。
だが、時は巻き戻らない。イヴの罪も、リリスの憤怒も、拭い去れぬほど彼女らの魂に刻み込まれてしまっている。
『アアアアアアアアア――――…………!!』
その叫びは痛ましさと悲しさを帯びて、【神器使い】たちの耳朶を打った。
「あの巨人……寂しそう」
シアンの呟きに応じる声はない。
敵を討たんという場面で、憐憫は毒だ。しかし、それを弁えていてもなお、【神器使い】たちはシアンを咎められなかった。
「今なら、彼女の精神に介入できる! 行くよ、あんたたち!」
と、そこにノアの勇ましい声が届く。
エールブルーを北上した郊外の荒野、その上空にて――白銀の剣を掲げた女傑は詠唱を始める。
開かれるのは光のゲート。女巨人の頭上に展開された魔法陣が眩い輝きを放ち、外界と内界を繋ぐ道を作った。
「さあ、飛び込みな!」
「はい!」「わかったよ!」「ええ!」
ノアの呼びかけに三人の魔導士が応え、その光の扉へ降り立っていく。
魔法陣を通り抜けた後の肉体を回収するべくグリームニルが急降下する中、トーヤはエルとシルの手をそれぞれ握っていた。
「もし、イヴとリリスさんの魂が死んだら……あなたも死ぬつもりなんですよね、シルさん?」
黒髪の少年の猫のような瞳が、魔女の青い瞳を覗く。
「君には何もかもお見通し、か……。そうよ、悪魔やイヴ、リリスと決着をつけたら、私みたいな過去の人間が生きててもしょうがないでしょ? イヴが死んだらノアとかグリームニルの不老の術式もなくなるし……二人と一緒に、静かに逝きたいわね」
トーヤに隠し事は通用しない。観念したシルは正直に本心を吐露した。
ノアは彼女の言葉を聞きながら、沈黙していた。エルは近い未来の死を語る姉に、何か言おうとして――できなかった。
四人の意識は魔女の精神世界へ突入し、彼女らの感情は光の中に融解していくだけだった。
*
虹色に揺らめく水に満たされた空間。
波は驚くほど穏やかで、そこに浮かぶ記憶の泡の数は異様に少なかった。
腰の辺りまで虹の水に浸かる四人は、周囲を見回して「彼女」を探す。
「あれは……『リサ』を名乗っていた頃の、リリスの記憶だ」
果ての見えない海を歩くノアは、漣に乗ってきた泡に映る光景に目を細めた。
とある酒場でノアとシルをもてなした時の、飾り気のない笑顔。【冷血】と揶揄されたノアの心を開かせた、屈託のない表情。
憤怒の魔女としてではなく街娘として振る舞っていた姿こそが、本当の彼女なのではないかとノアには思えた。
リリスの怒りは愛の裏返しだ。彼女は国を、人を愛しすぎた。だから、それを壊したイヴへの憤怒が抑えきれなかったのだ。
そして、イヴについては。
愛した人やものが変わってしまうことを、人一倍恐れていた人間なのだろうと思えた。
アダムは力を手にして欲望の獣となった。神たちもイヴへの親愛よりも己の欲を優先するようになった。イヴが初めて産んだ双子は、彼女が目を離したその日に呆気なく命を落とした。
イヴが管理に執着するのは、その状態を維持するため。決して失わないように、離れないように、停滞という平和の中で管理する。
彼女が狂いだしたのは、衰えて管理を行き届かせるのが困難になってからだ。積み重なった年月による衰えが、彼女に完璧さを渇望させ、記憶を捨てたり悪魔を利用したりさせたのだ。
その推測をかいつまんで呟いたノアに、シルは乾いた声を返す。
「皮肉なものね。変化を誰よりも拒んだ彼女が、誰よりも変わってしまっただなんて」
「イヴさんが今の世界を壊そうとしているのは、それが正常でないから……きっと彼女には、【ユグドラシル】が全てなんだ。だから壊して作り変える。彼女の理想郷を、再び管理するために」
「変化を拒むための手段であった管理が、目的へと転じてしまったわけだね」
トーヤとエルの分析は的確だった。
もう戻らない世界を追って、イヴという女は生きている。現在の世界を作り替えれば【ユグドラシル】を再興できるのだと、彼女は信じて疑っていない。
微風に波立つ虹色の水をかき分けて四人は歩く。
境界のない海を北へ、北へ進み続け――どれほどの時が経った頃か、彼らはついに二人の魔女と対面を果たした。
「あなたたちは……誰かしら? とても綺麗な顔をした人たちね」
緑髪を腰まで流し、白いワンピースを着用した少女・イヴ。
アダムと出会った当初の姿で記憶の世界に暮らす彼女は、トーヤたちの来訪に気づくと微笑みを向ける。
彼女の声にはシルやノアがよく知る、あのソリッドな響きはなかった。それは柔和で温かい、無垢な少女の声であった。
「自分の心に他人が入り込んでいるのは、あまりいい気分ではないね。隠し事ができない。私と彼女の全てがここにある。二千年の時の中で鬱積した感情が、君たちの前に晒される」
イヴが放つ違和感に言葉を失うトーヤたちに話しかけたのは、リリスだ。
彼女もまた、白いショートヘアの若き日の容姿で少年たちの前に登場していた。
「……でも、ここまで歩いてきて『記憶の泡』は殆どありませんでしたよ」
リリスの囁きにトーヤは疑問を投げかけた。
渇ききった笑みを浮かべる『白の魔女』は、肩を竦めて答える。
「過ごした年月の割に空っぽだった、ってだけさ。【悪魔】を生み出してからの私の人生は、イヴへの怨恨が大半を占めていた。それ以外の感情、そこから関わりを広げていく経験、そういったものがないんだよ」
自分は空虚な人間なのだと、リリスは言った。
彼女はその「空虚の蜜」を舐めながら生きながらえてきた、醜い虫のような存在に過ぎない。
水が揺れる。少女の身体が微かに捩られる。
「そんなことを言わないで……あなたは優しい人よ」
「いいや、君は知らないだけだ。そして、知らなくていいんだ」
虚しさを否定する優しさを、リリスは拒絶した。
不安そうな顔で見上げてくる少女を後ろからそっと抱き留め、首を横に振る。
「この少女はイヴの深層心理に残留していた、彼女の本当の姿だ。彼女は記憶を完全に編集することはできなかった。魂に刻まれた、幼き本質だけは変えられなかった」
リリスの語りに、ノアは目の前の小さな女の子から目を逸らしたい衝動を抑えなくてはならなかった。
ノアの信じたイヴの優しさは、彼女の心の奥底にずっとあったのだ。彼女が注いでくれた温かな感情は、仮面でも幻でもなかったのだ。
「こんな小さな子に姉さんというのも変だけど……言わせておくれよ。あたしは、姉さんのことが好きなんだ。姉さんの優しさがここにあることに、ほっとしている自分がいるんだ」
中腰になって少女と視線を合わせ、ノアはありのままの思いを彼女へ伝えた。
それからその白く小さな手を握り、口づけする。
「……な、なに……?」
「あたしは【女王の影】だから。姉さんへの忠誠に決着をつけるための、誓いのキスです」
少女はその意図を計れずにいたが、それで良いのだとノアは内心で呟いた。
背筋を伸ばした彼女は幼きイヴへ背を向け、数歩前に出てそこに佇む。
困惑する少女は、自分を見つめる六つの眼をそれぞれ覗いた。
トーヤも、エルも、シルも何も言わない。この人たちは何なのか――少女には分からない。何故口を噤むのか、何故自分に背を向けるのか、心の動きが理解できない。
ひとえに、少女は優しすぎたから。人の冷たい感情、淀む思い、蓋をして封じてしまいたくなるような辛さを、彼女は知らなかったから。
――さよならのキスだよ、姉さん。
蒼白な指が少女の細い首にかけられ、締め上げる。
生命を求めて喉が鳴る。恐怖の水滴が零れ、虹の水面に波紋を描く。
もがこうとした細腕の関節は極められて、もはや抵抗など出来はしなかった。
呆気なかった。
少女のイヴは、無垢な心を残したまま死んだ。
その殺人を実行したリリスは、息絶えた少女の肉体を横抱きにして見下ろす。
「私の身体に巣食ったイヴの魂の暴走……私の魂がもっと強ければ、止められたはずだったことだ。彼女の本当の優しさを私以外の誰も知らないまま、殺してしまうことが怖くて……行動に、移せなかった。すまなかった」
自身の弱さをリリスは呪い、少年たちに謝罪した。
項垂れる彼女へまず声をかけたのは、トーヤだった。
「確かに、それは許されざる過ちだったのかもしれません。だけど……本当の優しい心を僕らに知ってもらえたことで、イヴさんの魂が少しでも救われたのなら、それが絶対の罪だとは言い切れないと思います」
「……だったら、いいけどね」
黒髪の少年に短く返し、リリスはニヒルに嗤う。
その口調にむっとする少年をからかうように、彼女はざらついた声音で言った。
「本気にするなよ。私はいつだって嘘まみれなんだ。裏切られたのに信じようとしたし、辛くてたまらないのに生き続けようとしたし、【憤怒】に身を任せる以外の方法を知っていながら知らないふりをした」
彼女は母になれなかった。女王にも女神にもなれなかった。世界の全てが敵で、その真実に屈さないように嘘で己を塗り固めた。
女の脚元から青い鱗の大蛇が這い上がり、彼女の首元にまで達するとそこに巻き付く。彼女の魂がこの世界に居着くための「寄り代」である蛇、リリムである。
「私は蛇だ。罪を犯した結果、四肢を奪われた愚か者なんだ。……憐憫や同情は要らないよ。それらは私を惨めにする。私が私をより嫌いになるだけ――お人好しの君らは、そんなこと望まないんだろう?」
口を開く前に止められ、エルは言葉を詰まらせた。彼女の隣に寄り添うシルもそうだった。
トーヤだけが、リリスの願いを汲み取っていた。
罪を抱え、嘘を吐いていたのは彼も同じだから。
与えられるべき罰は誰も与えてくれなければ、自分で自分を傷つけるしかない。だが何度傷をつけても、死にきれなかった。死にたいのに、自分の中の何かがそれを許さなかった。
トーヤにとっては失くした家族、リリスにとっては失くした国や友。そういった過去が、彼女らを縛り付けて離さなかった。
「僕はエインに、戦いを自殺の口実にするなと言いました。同じ言葉を、あなたにかけてもいいですか」
「愚問だね」
瞬間、水音が跳ね上がる。
イヴの遺体を放り出してトーヤへと突進したリリスの手には、どこからか出現させた杖が握られていた。
突き出される銀の杖。瞠られる少年の眼。
「う、ぐっ……!」
鋭く走った痛みにトーヤは呻吟する。
自分の左胸に鋭利な杖の先端が突き刺さっているのを、彼は見下ろして認めた。
「トーヤ君!?」「少年っ!?」
エルとシル、ノアの悲鳴はリリスにとっては麻薬だった。
どこまでも愚かで、どこまでも救いのない人間なのだろうと、リリスは口元に自嘲の笑みを刻む。
彼女は少年たちから受け取れる全てを拒んだ。救済など必要ない――リリスにもたらされるべきは、悪に下される鉄槌のみなのだから。
「私は悪人だ。それは君が何を思おうが変わらない。私の世界では私が絶対の悪であり、君たちは揺るぎない正義だ。それを茶番だとは言わせない」
「……っ!?」
赤い瞳が少年の黒い瞳と交わる。
杖を通じて胸の中に流れ込んでくる魔力に、トーヤは喘いだ。
その瞬間、少年の脳内には膨大な記憶の奔流が押し寄せる。
魔女として人の世に生きる決意をした少女がいた。
若き天才博士に見初められた、愛国の科学者の女がいた。
友と共に未来を思った女がいた。
不幸に打ちのめされた女がいた。
裏切りに心を引き裂かれた女がいた。
滅びを願った女がいた。
無数の言の葉が記憶の泡の中で反響し、弾ける泡沫に消えていく。
彼女の生は決して幸福なものではなかった。人の間に居場所がなかった彼女は、国という形そのものに拠り所を見出すほかなかった。
常に否定があった。常に無力を意識していた。悲しみが、寂しさが、怒りが、虚しさが、そこにはあった。それらから自分を誤魔化すために、彼女は使命に打ち込んだ。
だが、その使命も今日で終わる。
長い長い少女の旅は、終着点を迎える。
もしも、やり直せるならば。
親友の手を取って、静かな楽園へ子供たちを連れていきたかった。
きっと、彼女といたあの時間だけが――あの泡沫の安穏だけが、リリスの本当の居場所だったのだ。
他には何も要らない。何も求めない。その愛だけがあれば、構わなかった。
『好きだったよ、イヴ。君のことも、君の双子のことも……』
あの愛を取り戻すことは叶わない。だが、最期にその想いを胸に抱くことくらいはしてもいいはずだ。
誰にも否定できない、誰にも変えられない、彼女だけの意思。
「あぁ……見えるかい、イヴ。カイン、アベル。私はここにいるよ。君たちへの愛を、私は忘れないでいるよ」
道を違えた懺悔は尽きない。
流れる涙を止める手段も、もはや彼女は持たなかった。
悪人としての自己を主張しながら、その愛だけは譲らなかった女に、トーヤは――




