40 【悪魔の心臓】
その瞬間、軍人たちの時間は停止した。
何が起こったのか、脳が理解を拒んだのだ。
天より降り注いだ紅の光線。スウェルダ海軍第一、第二艦隊を壊滅させた『魔導砲』よりも広範囲を焼き、なおかつ威力を倍以上に引き上げた、戦争開始直前にマギアがやっと完成させた最新の殺戮兵器である。
「ありえん、ありえん、ありえん!? こんなものが――こんなものが実在してなるものか! こんなもの、私の情報にはない!?」
頭を掻き毟り半狂乱となった男、ラファエルは喚く。
彼は幸運にも生き残っていた。いや――生かされていた。
なぜなら、この光線を撃った当人はそもそも軍人を殺すつもりなど毛頭なかったから。彼女は一般人を狙って死の光を撃ち出した。軍法はもとより帝の意思も無視した凶行は、マギア側にとっても想定外の事態であった。
街は、一瞬で消し炭になった。
跡形もなく消失してくれていたほうが遥かにマシだと思えるほど、その光景は無惨にして無情だった。
建物も、人も、等しく焼かれた。木製の建物は骨組みから何まで燃やし尽くされ、そこにいた住民は太陽のごとき獄熱によって文字通り蒸発した。石造りの建物は形を保っていたが、中の人間たちは蒸し焼きになって死んだ。直撃を避けられた者も、放散された高濃度の闇属性の「魔素」に脳を侵され、狂人と化した。
エールブルーの栄華の痕跡は、どこにもなかった。商人たちが賑わわせた大通りは黒焦げとなった死体が幾つも転がり、最も人が密集していた関門前はそれが山積みとなっていた。
スウェルダ海軍の軍港は北半分が光線に巻き込まれたものの、南半分は無事であった。
上空から街を俯瞰すれば、綺麗に描かれた半径5キロメートルの円の内側のみが獄炎に焼かれていることは歴然だろう。だが、今は……『アイテール』にいるマギア兵及び【神器使い】を除けば、それを正しく知ることが出来た者は皆無だった。
「なんということを……マギアの皇帝は、私たちを従わせるためにはあのような非道な手を厭わないというのですか……!」
兄と共にエールブルー沖からそれを観測していたエミリア・フィンドラは、声を震わせて上空の『アイテール』を睨み据える。
民への殺戮も是とする王など、存在してはならない。恐怖で縛り付ける政治は、血に塗れた反乱によって崩壊するだけだ。そしてそれは「血の歴史」という負の連鎖を生み出す。
「ふざけるな。ふざけるなッ! マギアめ、ぶっ潰してやる!!」
エンシオは激情を露に吼えていた。自分が何もできなかったのが、無性に悔しい。
エールブルーの民たちの敵を討ち、二度とあのような凶行を起こさせないためにマギアという国を破壊せねば――彼の思考は冷静さを捨て、怒りに支配されていた。
「……すまねぇな、お嬢ちゃん。戦いは中断だ」
ロンヒ・クィ・マギアはエルが放った「見えざる刃」を見切って槍で弾きつつ、そう詫びた。
彼の脳内に響いた声は、弟のプシュケのもの。通信役がプシュケだったのは幸いだった。他の兵だったら混乱を隠せず、ロンヒらの動揺を誘ってしまっただろう。
ジェードと交戦していた【ヘラの神器使い】プラグマは、持ち場を離れようとする弟を咎めるが――それを【アフロディーテの神器使い】トゥリに阻まれる。
「ロンヒ! 今は戦闘中よ、勝手な真似は――」
「プラグマお姉様、これは異常事態です。いずれは世界統一を実現する陛下が、未来の国民を無為に殺すなどありえません! 陛下の意志を無視した何者かが、砲を放った……それしか考えられない!」
フォティアが管制室に赴く以前から、要塞の防御に宛てる魔力を別の箇所へ流していた人物。その者が撃ったのだろうとトゥリは確信に近い推測をする。
「……な、何が……?」
ユーミはふわふわしていた思考が冴えを取り戻していくのを感じていた。
自分と武器を交えていたはずのトゥリは攻め手を収め、焦燥を孕んだ口調で黒髪の魔女を諌めている。
状況を把握できずにいる彼女の様子に気づいたトゥリは、早口に告げた。
「エールブルーの市街地が天空要塞『アイテール』の『魔導砲』で焦土となった。これは帝の意に反した行い。私たちはそれを撃った者を捕らえ、反逆罪として処さなくてはならない。特に、今回のこれは……単なる罪とは次元が違う」
エル、ジェード、ユーミの三名を取り残してロンヒ、プラグマ、トゥリは転移魔法で姿を消した。
しかし、そんな中でもエウカリスは戦いを止めなかった。
愛するトゥリのために戦う――その目的意識に縛られる人形となった彼女は、新たな命令を受けない限り行動を変えない。焦りのあまりトゥリは命令を出すのを忘れており、そのためにエウカリスはシアンへと魔力の矢を放ち続ける。
「あなたは、ここで死ぬのです!」
「いいえ……私は、勝って、生き残ります!」
実態なき矢の連撃を、膝を壊したシアンが躱すことは叶わない。
だが、それでも。
彼女は置き土産を残していた。【炎熱鉄靴】の火種――それを爆発させることで、エウカリスと刺し違えようと。
「紅蓮の花よ……咲き誇れ!」
彼女の叫びに、火種という名の蕾は開花する。
エウカリスが弓を構える壁際に散っていた、火花。大気に触れて消失せんとしていたそれが、息を吹き返す。
刹那にして赤く彩りを取り戻した炎の花弁は、エウカリスの身体を包み込んだ。
と、同時に――シアンへと幾つもの矢が降り注ぐ。
瞼を閉じ、その痛みを甘んじて受け入れようとした彼女だったが……それは未然に済んだ。
「シアン! 君のことは、私たちが護る!」
そこには仲間がいた。小さくも力強く立つ、緑の防壁を展開する後ろ姿があった。
こちらを振り返って笑うエルに、目を開けたシアンは視界が潤んで仕方なかった。
「膝が変な方向に曲がってるぞ……ユーミ、これ治るのか?」
「あたしには無理だけど、エルなら多分いけるわ。ジェード、あんたはシアンの側にいてあげて」
シアンの傷を憂慮するジェードへ、ユーミは静かに促した。
幼馴染にして恋人である少女の手を握る獣人の少年は、それから巨人族の女性に訊ねる。
「ユーミ、お前はどうするんだ? マギアの【神器使い】連中は、どっか行っちゃったけど……」
「あの女の魔力が醸す甘い匂いは、あたしの鼻にしっかりと染み付いてるわ。それを追っていけば、その異変とやらにも辿り着けるかも」
その異変が起こった場に、トーヤとエインもいるのではないか。直感でしかなかったが、ユーミはそう考えていた。
とはいえ、自分一人だけで行くのも危険だ。ユーミの実力では、複数の【神器使い】と相対してしまったら切り抜けられない。
「……ねぇ、そこの皇女様」
炎の花弁から解放され、床に倒れて動かなくなったエウカリスに、ユーミは呼びかけた。
軍服が焼け焦げて所々白い肌が露になり、火傷も見られる痛ましい姿にも目を逸らさずに彼女は言う。
「お仲間の【神器使い】たちは異変の原因を探りにどっか行ったわよ。その場所にあたしも向かうつもりなんだけど……ここは休戦協定を結んで、一緒に行かない? その火傷、治してあげるから」
現れた敵の【神器使い】の中でこの少女だけは様子がおかしかった、とユーミは目ざとく気づいていた。
まるで、何かに取り憑かれているような……そんな人物を放っておけるわけがない。
「……あ、あなた、は……? トゥリ、お姉様の、居場所……」
「あたしならトゥリ皇女の居所を探れるわ。ついてきてくれるわね?」
痛みに満足に動けないのか、ぎこちないながらもエウカリスは微かに頷いてみせた。
同意を得たユーミはエウカリスの傍らに膝をつき、手早く治癒魔法を施していく。
彼女の背後ではエルも同様にシアンの治療に当たっていた。その間ジェードは立ち上がり、接敵に備えて神経を張り巡らせている。
この時、彼女らは知りもしなかった。『魔導砲』の炸裂によって、【マギ】の計画が着々と進行しつつあることを。
そして――【神の母】であった魔女が、滅びの扉を開いてしまったことを。
*
エールブルー上空に、魔女一人。
彼女は身を捩り、哄笑していた。
「ふふっ……うふふふふっ! 悲しみが、怒りが、恨みが、無念が、憎しみが、満ち満ちている。さあ――始まるわ! 世界はこれから、再構築されるのよ」
空色の長髪を振り乱して歓喜する魔女は、眼下の死街地から湧き上がる死者の魔力を全身に浴びる。
理不尽な死はその瞬間、その生者の負の感情を喚起する。一瞬の間に湧き、泡沫となって消えゆく情念。魔女はそれを腕いっぱいに掻き集め、吸い取り、そして……それを「材料」として、自身の身体をも変化させていく。
黒いオーラに包まれた魔女はその「怪物」の核となり、周囲から死者の負の感情が生み出す魔力を吸収して、急速に巨大化した。
「おい、なんだよ、あれ……!?」
それは、この世の生物にあらざる形状をしていた。
女の身体を包む、分厚く黒い肉壁。それはあたかも心臓のように脈打っている。スウェルダ海軍の兵たちが見上げるそばから、魔力を得て肉壁は何層にも重なって巨大な繭のよう。
その繭の表面、肉壁の隙間からは無数に長大な触手が伸び、のたうっていた。貪欲に魔力を欲すそれは消し炭となった街区の地を撫で、そこから更なる魔力を拭い取っていく。
光線による殺戮の衝撃が大きすぎて、女の登場を目撃した人物は軒並み対応が遅れてしまった。
ミラ・スウェルダは悲劇に泣き崩れ。カイ・ルノウェルスは言葉を失くして立ち尽くし。ラファエルは狂乱し、アズダハークは茫然とし、アナスタシアは唇を噛んで俯き。
誰もが、何もできなかった。自分が助かった幸運を喜ぶことは許されず、彼らは絶望の淵に叩き落とされた。
生まれたのは、【悪魔の心臓】。
そこから産み落とされるは、名もなき無数の悪魔たち。
魔力を吸って太くなった触手の先端は「実」をならしたように膨らみ、割れる。どす黒い血を浴びて産声を上げた漆黒の翼を持つ人型の異形は、まだ生きている人間たちから魔力を喰らうべく、軍港へと舞い降りていった。
人間の子供ほどの小型のものから、体高3メートルにも達する大型のものまで、悪魔たちのサイズは様々であった。
「おい、誰でもいい、魔導士を呼べ!! こんな化物、俺たちには……!?」
「くそっ、どけッ! 俺は田舎に母ちゃんを一人で残してんだ、ここで死ぬくらいなら、いま会いに行かなきゃ!」
「何いってんだ、ミラ陛下を捨てて逃げるっていうのか!? そもそも敵前逃亡は軍法いは――」
軍港の海兵や水兵たちは阿鼻叫喚に陥っていた。
味方の逃亡を阻もうとした兵は最後まで言葉を発せず、首根っこを黒い手に掴まれる。
「おい、待てよ! 俺を置いて逝かないでッ!?」
『――――』
男は泣きべそをかきながら、悪魔に連れ去られようとしている同輩を呼ぶ。
そんな人間の声になど耳を貸さず、漆黒の尖兵は翼を羽ばたかせ、兵たちの矢が届かない上空へ躍り出た。
そして――手を離す。矮小な兵士ひとり、喰う価値もない。獲物として認められなかったその者の運命は、「死」ただ一つであった。
「な……なんだよ、あいつ……!? 捨て、たのか……? あいつの命は、海の藻屑になるためにあったわけじゃ……!?」
男の足は理性を捨てて震えていた。
涙と鼻水を止めどなく流し、股間も濡らす彼は逃げようとしたが――すとん、と腰が抜けてしまう。
彼は周囲で打ち上がる悲鳴の数々を聞いた。
血の臭いが、鼻腔を突いた。
エールブルーの空には黒い影が無数に蠢き、歪なる羽音を奏でていた。
口から黒い光線を吐き、翼で暴風を起こし、爪牙で兵を喰らう。それは人によく似た姿を持ち、人の顔で微笑みつつも、決して人ならざる者たちであった。
『アハッ、喰ラッテアゲル』
闇の色をした髪と肌をした、緑色の瞳を持つ悪魔たち。その一部は小柄で且つ美しい造形の顔をした、少年の姿であった。
イヴの息子・セトの分身である少年の悪魔は、悪魔の軍勢の頂点に君臨する。
はじめは、悪魔の動きはてんでばらばらであった。しかし少年の悪魔たちが現れたことで、彼らは統率された一つの軍勢としての力を発揮し始めた。
人を一人ひとり始末しても効率が悪い。ならば悪魔同士で組み、魔法の一斉射撃で多人数を掃討するべき――。知恵の実を獲得した悪魔たちの行動は、人の軍隊にも劣らぬものへと変じていた。
『サァ……次ハ、アイツラダ』
「ひっ……あいつ、俺のこと見てる!? あぁ、もう駄目だぁ、殺される!? やだよぉ、死にたくないよぉ!!」
尿と悲鳴を撒き散らす男をセトの分身は指差し、目を細めた。
不幸なことに、男はまだ生きていた。誰よりも情けなく泣き喚き、兵士としての尊厳すら捨て去ってもなお、彼は生きてしまっていた。
彼は、弱すぎたから。悪魔が欲する「魔力」の保有量が、圧倒的に少なかったから。
味方が殺されゆくのを眺めることしかできない哀れな彼に、セトの分身は救いを与えようと決めた。
もう二度と恥を晒せないように、終わらせてあげよう――そんな悪魔の慈悲は、彼へ炎の雨を降り注がせ、
「これ以上、殺させてなるものか!」
ある青年の炎の一刀が、悪意の炎を遮った。
激しく燃える火炎のようにはためくマントに、朱色の長髪。浮遊魔法で空中に舞い上がるその後ろ姿は、まさに英雄王の名に相応しく――。
「あれは、ルノウェルスの……!? ありがとう、ありがとう! おかげで命拾いした! あんたには一生ついてくよぉ!!」
「それはこちらとしても有り難いが、まだ敵は大量に残っている! 俺のそばから離れるなよ!」
号泣しながら何度もその場で頭を下げる兵士を一瞥して、カイは鋭く叫ぶ。
救った命は絶対に見捨てないのが、彼の信条だ。可能な限りこの場に居座り、近づく悪魔を焼き払う。
「【狡智神の炎剣】!」
波状剣が閃き、炎の大河が上空の悪魔たちを押し流す。
一瞬、一撃。
一振りで悪魔を十体ほど消し炭にしたカイに、泣き虫の兵士は称賛の声を上げる。
「すげぇ! すげぇよ王様っ! これなら何とかなるんじゃないか!?」
「調子のいいやつだな……だが、嫌いじゃない!」
変わり者を集めたがる性を懲りもせず働かせるカイは、にやりと笑って【レーヴァテイン】を振り回す。
一閃する度に空に描かれる紅の軌跡は、さながらのたうち回る龍のようだった。
「私も、負けていられないわぁ! さぁ、悪魔ども――私の兵を殺した罪、その死で贖いなさい!」
ミラ・スウェルダもカイの戦いぶりに奮い立たされ、その細剣から放つ光線の連射で悪魔たちの胸を次々と穿っていく。
【神化】により白い羽衣と同色の髪をなびかせる天女のごとき姿と化したミラの隣には、機械を身に纏った少女がいた。
「ミラ陛下、背中は私が守ります」
灰色の瞳をした【怪物の子】の少女、ヴァニタスは、第二の主として彼女へ尽くすと戦いの中で決めていた。
――やはり選ばれた方なのよ、この人は。
ここに馳せ参じる直前、司令室を飛び出してエールブルーから上がるキノコ雲を目にしたミラは、再起不能まで心が叩き折られたように思われた。
だが――その時、彼女の前で奇跡が起こった。
海中に沈んだはずだった【バルドルの細剣】が、天より舞い降りたのだ。
温かい光に包まれ、潮水に濡れたその剣を手に取ったミラの横顔に、涙はもうなかった。
「ありがとう、ヴァニタス! あなたがいてくれるなら、一切の憂慮なく奴らを討てるわ!」
背中合わせに悪魔と対峙する少女に感謝し、ミラは太陽の恵みを得て光線の威力と射程を強化する。
彼女らの士気に応じているかのように雲は流れ去り、日が差してきていた。
【炎の王】と【光の女王】、二人の【神器使い】の独擅場が開幕する。




