37 勝利よりも大事なもの
天空要塞『アイテール』。その中層にある一室で、青年は目を覚ました。
「……ここ、は……?」
天井に設けられた魔導ランプの青白い照明が眩しい。
目を瞬かせる彼は、掠れた声を漏らす。
ぴくりと動かした指先には、柔らかい布の感触があった。
「ベッド……?」
緩慢な動作で上体を起こし、周囲を見回す。
自分が横たわっていたのは一人用の簡素なベッド。それを囲むようにカーテンが閉められ、外の情報を完全に遮断している。
医務室か、と理解した直後、彼の耳は女性の声を捉えた。
「プシュケ? 目を覚ましたの?」
張りのない声で訊ねてきたその人に、彼は覚えがある。
マギアの第二皇女、カロスィナトス・レ・マギアだ。
「お姉様……今の状況、わかりますか?」
渇ききった口をベッド脇の小卓にあった水差しの水で湿してから、プシュケは訊いた。
一口水を飲むと、頭が徐々にだが回り始めていくのを感じる。カロスィナトスから与えられる情報も、彼の脳は拒むことなく受け取って処理していった。
「私たちの艦隊はフィンドラのアレクシル王の【神器】の攻撃を食らって、壊滅しましたわ。私の防御も、あの雷撃の前には敵いませんでした。本来は私たちも、兵たちと共に海の藻屑となっているはずだった。ですが……トゥリフェローティタの『愛の楔』が、それを許さなかった」
雷撃による死を迎える直前、トゥリの『愛の楔』が契約者であるカロスィナトスとプシュケの危機を察知し、二人を【転送魔法陣】で強制移動させたのだ。
魔力を辿ることによる探知機能や、対象のいる地点に魔法を送るなど『愛の楔』の効果は多岐に渡る。
【神器使い】内でも有数の実力者であるトゥリに、貸しを作ってしまった――思想よりも損得勘定で動く「中立」気取りのプシュケは、感謝よりも先に唇を噛んだ。
「そういうことですか……死に損なっちゃったってわけね、アタシ」
「死に損ないには死に損ないなりの仕事があるそうですわよ。意識がはっきりしたのなら、動きなさい」
労わる気の一切ない姉に苦笑しつつ、「はいはい」とプシュケは応じた。
何が起こっているのか見極め、自分がどう行動に移すべきか探るには、まず自身で戦況を「見る」必要がある。
とにかく、情報を集めなくては。そうして、この胸騒ぎの正体を明かさなくてはならない。
*
イルヴァは制圧した敵艦の甲板に立ち、上空の『アイテール』を仰いでいた。
「タラサ殿下が敗れた……!? あの天空要塞に移動できればいいが、いかんせん高度が高すぎる。私の魔力では、届くかどうか……」
戦況は彼女の予想を裏切る展開となっている。
マギア艦隊がスウェルダ海軍を圧倒し、制圧する――それがイルヴァの描いた未来図であった。
しかし、現実にはマギアの艦隊は一つ残らず沈み、彼女の帰るべき場所は永久に失われた。
同僚や部下はイルヴァとの再会を果たす前に死んだ。敬愛する主も、あの惨状ではおそらく生きてはいまい。
もはや、希望はなかった。戦う理由をどこに見出せば良いのか、イルヴァには分からなかった。
それでも、彼女は戦い続けるための手段を知り得ていた。それがたとえ倫理を破るものだとしても、彼女には他に選択肢がなかった。
――戦うのを止めれば、待つのは死だ。
ここは敵地であり、イルヴァはスパイとして許されざる失敗をした。スウェルダ軍に捕らえられれば、軍法に則って処刑されるのは確実だ。そんな終わりだけは、断じて許容できない。
どうせ逝くなら、戦場で赤き華を散らしたい。それが戦士としての誉れを守れる死に様だとイルヴァは思う。
「おい、お前。血をよこせ」
操縦室に乗り込んだイルヴァは、舵を取る水兵たちへそう命じた。
「は? 何を――」
「いいから、よこしな!」
兵たちに拒否権はなかった。
一人は首根っこを掴まれ、そのまま頚椎をへし折られ。もう一人は左胸に拳撃を食らって沈み。さらにもう一人は頭部を粉砕され。
【拳の魔女】の速度に追いすがれた者など、いるはずもなく――折り重なった屍を冷めた瞳で見下ろしたイルヴァは、そこに跪き、骸の頭骨を膂力に任せてこじ開けた。
そこにいたのは人ではなく、鬼であった。
魔導士でない人間でも脳内には魔力を発生させる器官の名残がある、とマギアの最新の研究では判明している。【ユグドラシル】時代に爆発的に増えた魔導士は、非魔導士と交配を進め、その子孫である現代の人間たちの多くは魔導士となれる素質を有しているのだ。
余談になるが、元々魔導士でなかったカイやミラが【神器】を得てから魔法を扱えるようになったのは、【神器】によって彼らの脳にある退化した「魔力生成」の器官が急速に発達したためである。
「あぁ、ああ、ぁああぁっ……! 実に甘美っ、これが、背徳の果実の味……!」
鼓動が早まり、気分は激しく高揚していく。白く熱く、そして甘い陶酔感。
この行為が禁忌とされる理由を、自ずとイルヴァは理解した。一度手を出せば戻ってこられなくなる依存性が、この快楽にはあるのだ。
「あははっ……はははっ、ははははははっ! 今なら私は何にだって勝てる! 私は完璧だ、私こそがカタロン様のお側に立つのに相応しい、唯一の女だ!」
血で彩った顔を振り上げ、イルヴァは笑い狂う。
高揚感がもたらす全能感に突き動かされ、彼女はデッキに飛び出した。
そこに転がったまま放置された屍の山は、全てが彼女を強化する材料となる。
第四艦隊の殿を務める艦の異変に味方が気づき、救援するべく向かってきた頃には、何もかもが手遅れとなっていた。
「もう船なんざに頼る必要もない。用済みだよ、お前たちは!」
接触を果たした艦から海兵たちが乗り込んできた瞬間、イルヴァは浮遊魔法で飛び上がった。
吐き捨てると同時に、軽く溜めた拳で、一撃。
それだけで事足りた――戦艦一つ沈めるには。
魔力を纏って飛ばされた拳撃が甲板から最下部までを貫き、大穴を開ける。
あとは勝手に沈んでくれる。穴を塞ぐ人員はイルヴァが全て貪ってしまったのだから。
「無知なお前たちに教えてやろう! 私はイルヴァ、【拳の魔女】! カタロン様や部下たちの無念――お前たちを喰らうことで晴らそうか!」
*
エインは、震えていた。
手にはじっとりと汗が滲み、膝はがくがくと笑っている。
瞬き一つせずに彼はベッド上のトーヤとモナクスィアを見つめ、「無音詠唱」を心中で進めていく。
その最中、エインはこみ上げる拒否感に抗わなければならなかった。
――見たくなんかない。でも、目を離しちゃいけない。あの女の人を止められるのは、ぼくしかいないんだから。
トーヤはエインに全てを託した。相手が不死者であると知った上で、エインならば彼女の動きを封じてくれると確信して。
だから、エインは応えなければならない。未知数の不死者相手でも、自分の最大限の技を出しきって、この苦境から脱出するのだ。
自分の役割は承知している。代わりが他にいないことも、理解している。
だが、「逃げたい」という感情が邪魔をする。
好きな人が、敵の女と目の前で身体を重ねている。
そこに恋も愛もない。トーヤは時間稼ぎのため、モナクスィアは【神】を産む使命のために、行為をしているに過ぎなかった。
大切な人の身体を知りもしない女に取られた、とかいう嫉妬心はない。トーヤはエインのものではなく、エルの恋人だ。彼女以外、そんな感情を抱く資格はない。
エインを苛むのは、二人の行為を見てどうしようもなく湧き上がる劣情だ。
もしも、あの女性が自分だったら――そう一瞬でも思ってしまった罪悪感が、彼らから目を背けたいとエインに訴える。
無垢な少年は、死んだ。彼は禁断の果実の味を知ってしまった。知らなければ、冷静に役目を果たすことができたのに。
胸が痛い。自分が嫌いで嫌いでたまらなくなる。今すぐどこかへ消えてなくなりたいと、心が叫んでいる。
『一つになりたいでしょ?』
意地悪な少年が囁く。
エインは頭を振って、その問いかけを否定する。
――違う、ぼくはそんなもの求めてない。
『じゃあ一人でいたいの?』
――それも、違う。ぼくは仲間と一緒にいたい。
『本当は何が欲しいの?』
――ぼくには仲間との絆があれば、それでいいんだ。他には何もいらない。
『嘘をつくのが下手だね、君は』
――……。
『図星だ。本当は愛が欲しいくせに。好きな人に抱きしめられたいくせに。好きな人と一つになりたいくせに』
――違う。違う、違う、そんなもの、ぼくは知らない。知りたくなんかない。知りたくなんか、なかったんだ!
悲痛な叫び。孤独な問答で導き出される、少年の自己否定。
仲間だと思っていた人と自分を比べて、浮かび上がった差異は彼を追い詰めた。
人為的に作られた存在として生まれ、戦いの日々の中で悪魔に心を蝕まれ、その呪縛から解放された後も、許されない愛を抱いて苦しんでいる。
「……っ!」
ノイジーな思考をかき消して、少年は「無音詠唱」を再開した。
イメージするのは破壊の光景。死という名の「辛苦からの解放」を願って、彼は魔力を静かに強めていく。
初めから分かっていた。エインは「呪われた血」の持ち主なのだと。
ノエル・リューズの悪意は彼の中に刻み込まれて、拭えない。アマンダもルーカスもそうだった。その「悪意」が暴走してしまえば最後、それは自身の身体を蝕みながら周囲へ爪牙を振るう。
牙を剥き、喰らうのが宿命なら――それに従うのが道理ではないか。
そうすることで大切な人を救えるなら、「自分」を捨てても構わないのだとエインは思った。
自分は他人と違う。母の腹ではなく培養液の水槽で生まれ、父からの悪意を浴びて育ち、男でありながら男に恋慕している。
きっと、こんな人間はいなくなっても誰も困らない。
だって、異なるのだから。大多数の中にある異物が一つ消えたとして、誰が気に留めるだろうか。
抑えられた女の喘ぎ声に、荒い男の呼吸。
聞きたくない。だが、聞かなくてはならない。
彼の呼吸と自らの呼吸をシンクロさせ、最適な時機に魔法を発動するのだ。
失敗はしない。トーヤはエインを信頼し、エインも彼に応えようという絆がそこに発生しているから。
――たとえ身体は一つになれなくても。心を溶け合わせることはできるはずだ。そこに愛を見出すことも……ぼくの独りよがりに過ぎなかったとしても、可能なはずだ。
その瞬間はトーヤが教えてくれる。目に見えた合図ではなく、「呼吸」で。
エインの耳は聡かった。彼は、行為が始まってからのトーヤの呼吸が規則的なリズムを刻んでいたことに気づいていた。
その間隔は徐々に縮まってきている。トーヤはエインが魔法を完成させた頃合を見計らって、撃つべき時を知らせてくれる。
不思議と、震えは治まっていた。
トーヤと呼吸を重ねたエインの思考は既に、無想の境地に至っている。
肩の力を脱力させ、黒髪の少年が乗り移ったかのように荒い呼吸を再現している彼は――その時、寸分違わぬタイミングで飛び出した。
「【喰らい尽くせ、この世の全て】――【死喰暴牙】!!」
咆哮する少年の瞳が、腕が、胸が、足が、真紅の光芒を帯び始める。
それは死の光だ。浴びたものの生命活動を停止させる、【暴食の悪魔】の禁術。
「トーヤ君、どいて!」
「っ、ァっ、何をっ――!?」
突進するエイン、瞠目するモナクスィア、そしてそれよりも先に動いていたトーヤ。
ベッドから抜け出した裸体の少年は、すれ違いざま、エインに何か言おうとしたが……できなかった。
ここで魔法の発動を止めてしまえば、モナクスィアを動きを封じる機会は失われる。そうなれば、脱出にかける一縷の望みも断たれてしまう。
「あなたはここで止める! このぼくの、命にかけて!」
破壊の魔力が少年の肉体を焦がす。彼が纏う光芒が、迸る紅の濁流と転じた時――彼の全ては崩壊するだろう。
モナクスィアの不死の身体は焼き尽くされたとしても、細胞単位で再生し蘇る。だが、時間を稼ぐにはそれで十分だ。
アマゾネスの女傑もエインのやろうとしていることを悟ったのだろう、逃れたトーヤを鬼気迫る形相で睨み据え、渇いた喉を震わせる。
「まさか、最初からそのつもりで!? 何の合図もなしに、ここまでのコンビネーションを実現するなんて――」
驚愕と、遅れてやって来たのは感嘆だった。
アダマス帝と彼女自身でも決して為せなかったであろう、無言の連携。何度も訓練を重ね、心を重ね、その果てにやっと実現可能になる、共鳴の技だ。
アマゾネスはそこに美学を見出した。加えて、彼らを結ぶ絆の強固さを羨望もした。
汗ばんだ胴体を羽交い締めにしてきた少年の赤い瞳は、激しく燃えていた。
「離しなさい! 魔族のくせに、【神器使い】に足掻こうなど……!」
「嫌だ! ぼくは勝つんだ! 勝って、トーヤ君たちに未来を繋ぐ!」
少年の腕から逃れようとモナクスィアは藻掻くが、彼は梃子でも動かなかった。
この小さな身体のどこに、と思えるほどの膂力が女を捕らえて離さない。
その間にも少年が帯びる真紅の光は強さを増していく。
それは滅びの光だ。救いなど、何処にもない。
だが、エインにとっては違った。死は苦痛から己を解放してくれる。過去の恐怖からも、叶わない愛に苦しむことからも、逃れられるのだ。
エインがその魔法を完全に発動せんとした、その時だった。
「――エイン!!」
トーヤが、彼の名を叫んだ。
裸足が床を蹴る湿った音、焦燥と後悔を孕んだ呼吸音。
何故、とエインは内心で呟いた。
――近づいたら君も巻き込まれる。なのに、どうして!?
わけが分からなかった。それでも、トーヤを止めることはエインには出来なかった。
黒髪の少年の手がエインの肩を掴む。顔を振り仰がせたエインの視線の先には、悲痛に歪んだトーヤの瞳があった。
「戦いを自殺の口実にするなんて、絶対に許さない! それは死にたくなくても命を落とした兵士たちへの冒涜だ! それに――僕は、君を失いたくない!」
大切な人を自殺によって喪う悲劇を、トーヤは繰り返したくなかった。繰り返すわけには、いかなかった。
彼はエインの腕をモナクスィアから引き剥がし、その勢いのままに投げ飛ばす。
「えっ――?!」
「【グリッド・ケージ】!」
格子状の光の檻が、白髪の少年を閉じ込めた。
が、エインは放つ寸前だった「死の光線」を抑えておけず――真紅の奔流を解き放ってしまう。
檻の中に一瞬、溢れた赤。
しかし直後、それは白く温かい光に塗り替えられていく。
「っ、これは、一体……!?」
「【グリッド・ケージ】の内部に、光属性の魔力を通常よりも過剰に充満させたんだ。……身体は大丈夫かい、エイン?」
発動前から漏れ出ていた魔力による火傷は散見されたが、エインの命に別状はなかった。
彼が無事だと確認したトーヤは、モナクスィアへ視線を戻す。
アマゾネスの女傑は汗を垂らしながら立ち上がり、髪留めの外れた銀髪を揺らした。
「ナンセンスですよ、あなた。この子は命懸けで私を倒そうとしたのに、それを止めるなんて。あなたはこの子の覚悟を無下にした上に、自分たちの勝利も捨てた。見損ないましたよ」
「僕にとって、この場での勝ちよりエインの命のほうが大事だっただけです。それに……感じませんか」
トーヤの言葉に眉をひそめたモナクスィアだったが、頭上から降り注ぐ強烈な魔力に顔を振り上げる。
天井に描かれている絵を覆い隠していたのは、八芒星の魔法陣。
その中央から姿を現した女の姿に、アマゾネスは盛大に舌打ちする。
「舌打ちで迎えてくるとは、とんだ礼儀知らずもいたものだな」
深緑色のショートヘアに同色の瞳、絵画の世界から飛び出してきたかのような美貌。黒いスーツを着こなす、引き締まった長身のシルエット。
彼女はかつての世界の『不死者』、ノアであった。
「遅れてすまなかったね、少年。この身体が万全に回復するまで、想定以上に時間がかかっちまってね。流石に、全身を木っ端微塵にされたのは堪えたよ」
白銀の剣を抜きながら、苦々しげにノアは語る。
予想外の新手にモナクスィアが硬直する中、ノアはエインにアイコンタクトを送った。
彼にかけておいた『眼』の魔法の効果で、ノアはエインの見ているものを自身の視覚として捉えることができていたのだ。
【異端者】の怪物との戦闘の後に仕込んでおいたそれは、エイン本人も存ぜぬものだったが、ノアの期待通り機能してくれた。
「どうしてこの場まで辿り着けたか、種明かしはなしだよ。もっとも、マギア様の魔導技術ならすぐに解析されちまうかもしれないけど」
「お褒めに預かり、光栄です。しかし、高潔な魔導士ならば、まずは名乗るべきではないでしょうか」
「おっと、うっかりしていたよ。あたしは高潔さよりも泥臭さを重視する主義でね」
出会い頭の舌打ちを棚上げして礼儀を求めるモナクスィアに、ノアは悪びれずに返す。
白銀剣を軽く回す彼女は、トーヤたちに短く告げた。
「ここからは、あたしが」
彼女の申し出に頷いたトーヤは、ベッド脇に置かれた服を手早く身に着けた後、【グリッド・ケージ】を解除する。
二人が部屋の隅にあるドアへ駆け出したのと同時、不敵に笑むノアはモナクスィアへ斬りかかった。
「不死者同士の戦いなんて、不毛だと思うけど……まぁ、楽しもうじゃないか」
「っ、そこをどきなさい!」
苛立つアマゾネスに、へらっと笑ってみせるノア。
突き込んだ剣先が敵の掌に容易く受け止められ、その「硬さ」にノアは目を見張る。
「へぇ、あんたの【神器】は身体そのものか」
「ご明察です。私こそが【イージスの盾】――無敗の防御、斬り崩せますか!」
不死者の戦いが始まる。
不壊の剣と盾の激突は、決して終わらない決闘に鮮血の彩りを加えていった。




