35 『おめでとう』
「アレクシル陛下! 勝ったのですか、我々は……!?」
タラサ・マギアを破り、マギア軍の艦隊を雷の大魔法で壊滅させたアレクシル・フィンドラ。
かの【海神元帥】との戦闘で魔力を使い果たし、【神化】もまともに発動できない状態になった彼は、荒波に耐え切ったスウェルダ軍第四艦隊の旗艦へと降り立っていた。
駆け寄ってきた兵たちからの介抱を受けている最中、兵の一人から訊かれたアレクシルは、デッキ上から望める空を見上げて呟いた。
「まだだ。あの空に浮かぶ『要塞』を退けなければ、マギアの脅威は去ったことにならない」
雲間に覗ける塔のごとき形状をした、巨大な建造物。タラサの魔法が解除されたことによって急速に元の晴れ模様を取り戻した空を仰ぎ、兵たちもそれに気づいた。
一目には剣、或いは十字架のようにも捉えられる要塞は、彼らにとって全くの未知であった。
「わ、我々は、海兵は――何をすれば、良いのでしょう?」
答える声がないのが、答えだった。
天空に座す要塞に海兵は無力だし、今のところ要塞は『魔導砲』の射程よりも遥かに高い位置にある。
何よりも、「未知」の相手に対して誰もが答えを決めあぐねていた。頭が回らないのだ――訓練でも教育でも叩き込まれなかった大敵を前に、彼らは半ばパニックに陥らんとしていた。
が、アレクシルは兵たちの思考停止を許さなかった。
兵は国を守るために働かなくてはならないのが大原則。ならば、恐れおののいていようが尻を叩いてやる必要がある。
「あの要塞がエールブルーの軍港に接近するタイミングが、必ず訪れる。あの要塞に積まれている砲が最新世代のものなら、我々が君たちに売り渡した『魔導砲』と同程度の射程を有しているはずだ。そうだとしたら奴らが撃つ際は、確実に君たちの射程内。『魔導砲』で迎え撃つ――あの天空要塞に対し、君たちに取れる手段はそれだけだろう」
殺傷力を大幅に高めた代わりに射程を従来型より短くしたのがマギアの最新型の『魔導砲』だと、アレクシルは言わなかった。
今の彼らは奮い立つよりも恐怖を先行させてしまう、そう判断してのことである。
――あの天空要塞は、その気になれば三国の主要都市を簡単に焼き払える能力を有しているはずだ。今、動いていない理由は定かではないが……おそらくは、トーヤ君や【マギ】にまつわる『神事』が行われている。
「魔導通信機はあるか? エンシオに繋げたい」
「は、はっ! ただいま用意いたします!」
兵の一人がデッキから艦内へ大急ぎで戻っていくのを見届け、アレクシルは若き日に会った【マギ】と名乗る青年の顔を思い返す。
『君は選ばれた人間である可能性がある』――初めて会った時に彼にそう言われたのが、アレクシルの転機だった。
その日以来、猛勉強の末に身につけた手腕で、斜陽だった国を立て直すことも成功させた。【神器】を得、政治と軍事の両分野で讃えられる英雄として民から認められた彼は、たぐいまれなる天才と称された。
しかし【マギ】が彼の前に現れたことは、二度となかった。傾国の冴えない王子は血の滲む努力の果てに、【マギ】がいうような特別な存在になれたはずなのに。
――結局、私は選ばれなかったのだ。
最初に自分を褒めてくれた人の期待に応えようとした無垢な少年は、それに気づいた時、死んだ。
だがイノセンスな精神が朽ちてもなお、彼の完璧を求める欲望は止まらなかった。
ヘルガ・ルシッカを口説き落としてフィンドラ軍への全面協力を取り付け、軍拡を推し進めた。それと並行して幾つもの公共事業を打ちたて、貧困層から中流階級まで仕事を与え、魔導士の教育には不可欠な識字率の向上のために教育にも力を注いだ。
王として完璧になれたと確信を持つようになったその頃、彼はトーヤ少年と出会った。
――初めて彼を見た時は驚いた。なんせ、彼はあの【マギ】とよく似た顔をしていたのだから。
肌の色は東洋人のもので【マギ】と比べて幼さが残る顔立ちだったが、無関係だとは思えないほどに酷似した容姿を持つ少年が、アレクシルの前に現れた。
この子だ、と彼は思った。この子は自分が手に入れられなかったものを得られる人物なのだと、疑いようもない真実として確信した。
トーヤを手元に置いておくことで、せめて夢を見たい。そんな願いを秘めて、彼は少年を自陣営へ引き入れた。
「エンシオ、聞こえるか?」
『あ、ああ。親父、大丈夫か? あんな大魔法を撃った後だ、ちゃんと休まないと――』
「休まずとも、魔力の補充さえ済ませれば問題ない」
『おい、親父! 魔法の過剰使用による死――『マインドブレイク』について知ってないわけないよな!? 無茶するな、エルに頼んで本国へ戻ってくれ。みんな心配してる!』
「私の心配よりも、三国の平和を守る方が優先されるべきだろう。いいか、エンシオ。エールブルー沖上空に、マギアの天空要塞が飛行している。お前たち【神器使い】は総員、あの要塞へ攻め込め。【神器使い】の大魔法ならば、風穴を開けることくらいは出来るはずだ」
回想を打ち切り、アレクシルは通信機越しに息子と言葉を交わす。
気遣ってくれる息子の思いはありがたい。だが、三国の長の一人として、これは投げ出せない使命なのだ。王として生まれついたのならば、最期の時までそれは止められないのだ。
――アダマス帝、貴方が【マギ】を知るならば、彼に何を見たんだ?
人は誰かに影響されて、成長の可能性を無限に増やせるものだ。
アレクシルもアダマスやタラサも、【マギ】という人物の言葉によって道を定めたのは同じ。
本質的には似たもの同士なのかもしれない。しかし、環境が異なり過ぎた。
アレクシルは平和な国の一王子、アダマスとタラサは戦乱の渦中にある小国の村人として生を授かった。
恵まれた者が、戦争の地獄から生き延びて這い上がった者を本当に理解できるか――その問いに「可能だ」と即答できるほど、アレクシルは傲慢ではない。
だが、推測することは可能だ。別世界の人間、として考えることを放棄するような行いは、怠惰だ。
「魔力を回復させ次第、私もあの天空要塞へ突入を試みる。あそこにはアダマス帝がいる……私にはそんな気がしてならないんだ。彼と一度、話をしたい」
『……道は俺たちが作ってやる、だから死ぬなよ、親父。俺は、親父の築いたフィンドラ王国を愛してる。皆そうだ。恥を忍んでいうと、俺含めて皆が、自覚の有無に拘らず親父に依存している。いなくなられると、困るんだよ。まだ誰も、心の準備ができていない』
「自然界では、親離れというものは子の意思を無視して行われる。それは人の甘えだよ」
『俺たちは人間だ。論点を逸らすなよ、親父』
「陛下、もしくは父上と呼びなさい。――もう切るぞ」
通信機の向こうで息子が反駁する前に、アレクシルは通信を一方的に終えた。
溜め息を吐き、天空に浮かぶ要塞を睨み据えながら、彼は兵へ指示を下す。
「魔導砲の『炉』へ案内してくれないか。あれほどの威力を実現するに足る動力源……それがあればすぐに、私は飛び立てる」
*
はじめから、僕の根幹にあったのは誰かからの愛を求めることだったと、思っていた。
剣を教えてくれたり、神話を語り聞かせてくれた父さんの不器用で無骨な優しさ。僕や妹を抱いて注いでくれた、母さんの無条件の愛情。そして、妹と紡いだ、決して引きちぎれない絆。
エルは、僕と永遠に添い遂げるのだという大きな愛を。シアンやアリスは失恋を塗り替えるほどの尊敬の念を。ユーミは年長者として姉のように見守ってくれたし、リオやジェードはかけがえのない友情をもって僕に接してくれる。
僕は今、沢山の人の温かい感情に囲まれて生きている。
喪失の過去を乗り越えて、旅の中で得た仲間たちとの関係が、僕を支えてくれている。
満たされてる。幸せだ。僕はもう不幸じゃない。
【神器使い】として誰からも認められ、褒められ、世界の歴史を知りその命運を握りうる存在として、換えのきかない価値を保持している。
でも。それでも、辛いんだ。
結局、僕は過去に縛られている。
母さんとの永遠の離別、妹の自殺を止められなかった後悔、過去に受けた暴力による痛み――それらが今も、一人になった時なんかにぶり返してきて、胸を抉る。
そういう辛さを忘れるには、愛欲がもたらす快楽に酔っているしかなくて。
その快楽が呪いの過去に付随していたものだとしても、それしか方法を見いだせなかった。
だって、他に何も知らないんだもの。
僕が知っているのは――肉体に刻み込まれた「快感」の呼び起こし方は、それしかないから。
気持ちよさを感じる度に、泣きたくなるくらいの艱苦や罪悪感に苛まれても、絶頂を迎える一瞬だけは、何もかもを忘れられる。
その一瞬が引き伸ばせたら……頭を空っぽにできる時間がもっと続けば、僕はこの苦しみから解放されるかもしれない。
そう――僕が渇望していたのは愛情なんかじゃなくて、「忘れる」ことだったんだ。
鼓動が激しさを増していく。呼吸が少しずつ荒くなっていく。
目の前で艶かしく揺れている褐色の肢体は、【神】を作る種を採ろうと必死だ。
この人、行為に慣れてないな。なんて、冷静な頭で考える。
どうやら、『神の子』であるらしい僕から【母】なるモナクスィアさんが種を受け取ることで、【神】というのは誕生するようだ。
【母】が不死者であるのも、おそらくは永遠に産む存在として使うため。
【父】を名乗るアダマス帝の子ではないのは皮肉な話だけど、【神】を生む可能性を持つ遺伝子と『宗主』としてのカリスマは別物なんだから仕方がない。
モナクスィアさんは、酷い言い方をすれば「産むための機械」としての生を承諾した。帝の理想に添い遂げるために、彼女は不死の呪いとその運命を身に宿した。
僕が【悪魔】を討伐する使命に燃えているのと同じように、彼女も覚悟の上で行っていることなのだろう。
可哀想、とは言わない。僕に彼女の価値観を否定する権利はないから。
彼女との行為に及ぶ前に内心でエルに謝ったけど、エインにも悪いことをした。
彼が僕へ友情や親愛の情とは別の感情を向けてくれているのには、気づいていた。
好きな人の身体が他の誰かに抱かれるのを見るのは、誰だって辛い。
――ああ……僕は悪い子だ。
本当は正義を語る資格なんて、ない。ただ選ばれたから、【神器】を持つから、それらしい「正義」を掲げているだけなんだ。
僕の「正義」なんて、オリジナルじゃない。後天的に刻み込まれた、「神話」や「エル」という存在から得たもの。
アダマス帝は過去を繰り返さないために「正義」を貫いている。アレクシル王は完璧な王という仮面を守るために「正義」を抱いている。ノエル・リューズは自分こそが「正義」なのだと、世界に知らしめるためにケヴィン王を弑逆した。
僕が出会った「強い大人」は皆、自らの意志によって生まれた「正義」を持っている。眩しいくらいに強烈な、自己の感情が起因して発露したそれに従って、戦っている。
彼らと比べれば、僕は半端者だ。平和が欲しいとか言ってても、戦うことしか出来ず、未来を見据える目を持たない。
――それでも僕は【神器使い】なんだから。戦わなきゃ。戦い続けなきゃ、僕が【神器使い】でいられる資格なんてないんだから。
「英雄」でいたい。皆から認められる【神器使い】であり続けたい。賞賛されればそれだけ僕の心は満たされる。
嫌なことから少しでも、目を逸らせる。
『結局、お前は逃げていただけなんだ。お前は俺との過去を片付けられてない。痛みと向き合えてないんだ。俺がやり直せたかもしれなかった「もしも」を考えて、温かい幻想だけを見て、逃避している』
――うるさい。
『お前は弱虫だ。昔から、ずっとそうだ。俺に反撃しなかったのは何故だ? 妹が痛めつけられてるのを目にして、どうして動けずにいられた? 妹が死ぬ前に、お前は何か彼女を救える言葉の一つでもかけてやれたか? お前は「傷ついた自分」という立場に甘んじて、逃げていただけなんじゃないのか?』
――違う。僕は逃げてない。仕方なかったんだ。怖くて、怖くて、怖くて、何も……できなかったんだ。仕方のないことだったんだよ……。
『そんなもの言い訳だ。心を病んだ妹を理解できなくなったから、お前は触れないようにした。「余計に刺激して、また暴力を振るわれたらどうしよう」……ルリアの目には何もかもが敵として映っていた、だからお前にも危害を加えようとする。お前はそれが分かっていたにも拘らず、対処でなく、「逃げ」の選択肢を取った。失敗が怖かったからだ』
――そんなことない。僕は、ただ……ルリアに何をしてやったらいいか、知識がなかっただけで……。
『知らなかった、で済ませられる問題じゃないだろ? 知らなければ何もかもが許されるのか? そんな言葉が失敗者の弁明の常套句だってことくらい、お前も学んでるはずだ』
――うるさい。うるさい、うるさい、うるさい!! もう、僕に話しかけないでくれ。これ以上辛いことなんて考えたくない! 僕は、お前も、ルリアも、母さんも、過去の何もかもを忘れたいんだ! 忘れさせて、くれよ……!
『そうやって逃げて、お前は何を得られる? お前自身も感づいてるんだろ――逃げてばかりじゃ何も克服できないって。忘れるな、認めろ! お前の過去を、辛い記憶を、まやかしの安寧で塗り潰すんじゃない!』
「なぜ……あなたは、泣いているのですか」
一体、行為を始めてから何分経ったのだろうか。
モナクスィアさんの困惑した表情に、僕は自分がどういう状態にあるのか気づかされた。
彼女の頬は上気していて、身体も汗ばんでいる。ベッドに仰向けの体位になっている僕も、恐らくは同じような状態だ。
いつもならば、行為の最中に辛い記憶が蘇ってきても、気持ちよさで痛みを麻痺させることができるのに――今回は異なっていた。
あのマティアスは、僕が作った虚像に過ぎない。つまるところ、彼は僕自身なのだ。
「逃げちゃダメだと、自覚したから。【神器使い】としての使命も何も、関係ない……僕という人格を作り上げた『過去』を葬り去ってはならないと、知ったから」
僕の言葉に、近くで誰かが息を呑んだ気配がした。
アマゾネスの銀の瞳が細められる。彼女が何を思うか、何と僕を重ねてみたか、それは僕が知る由もないことだ。
「では、貴方は私との行為に及んでもなお、自分の世界に浸ることを優先したわけですか。貴方の事情はどうあれ、それは男として――」
「じゃあお望み通り、骨抜きにしてやりますよ。抵抗もできないくらいの快楽を、味わわせてあげます」
僕から子種を得ることが彼女の最優先すべき目標だとしたら、行為中に僕を傷つけたり、中断することはできないはずだ。
彼女は不死者である故に、行為中に不意打ちされようが構わず続行可能。強引にでも、【神】の種を手に入れようとしてくるだろう。
これは時間稼ぎだ。魔力を制限された状況下で、エインが自力で脳内に仕掛けられた障壁を突破し、十分な魔力を蓄積するための。
僕が果てない限り、時間はいつまでも稼げる。そしてその時間のコントロールは、僕が主導権を握ることでより容易くなる。
幸い、相手はアマゾネスの癖に初心な女性だ。エインの魔法が完成するまで、こちらが保つ確率も高い。
「もっと僕が欲しいんでしょう? ちゃんとよがってみせてくださいよ。僕を本気にさせたんだから、そちらもその気で臨んでもらわないと」
「言われなくとも……! 【王佐の魔女】の名にかけて、この任務は必ず遂行します」
ここまでの会話で、モナクスィアさんはプライドの非情に高い女性であることは確定的だ。
自分が「出来ないやつ」だと思われるのを極端に嫌う。それはきっと、自己否定を恐れているから……いや、帝に見放されたくないからだろうか?
僕が煽れば煽るほど、彼女はそれに乗ってくる。逃げたらいけないと、僕が抱いていたそれとは真逆の強迫観念が、彼女を突き動かすのだ。
強迫観念。人を縛り、極端な方向性を植え付けるもの。
僕も、マティアスも、ルリアも、或いは僕以外の全ての人たちが持つ、人を動かす強烈な感情。
愛、快楽、憎悪、恐怖、喜怒哀楽。様々な思いがそれに転じうる。
それから脱却を果たすのは、酷く難しい。だけど、その泥沼から飛び立つことで、僕らは自由になれるのだ。
自由とは、単に良いものではない。解き放たれれば、自分を庇護するものもなくなる。感情が自由を得れば、無数の選択肢に疲弊して思考を放棄してしまうかもしれない。
だから、僕らには性格がある。性格で思考の傾向がある程度決まることで、それがパターン化されていく。自分で選択肢を狭めることで、少しでも楽になろうとしている。
強迫観念から抜け出した後、僕はどこへ向かうのだろう。
過去に罪を犯したことを認めた結果、何が変わるのだろう。
自由を掴んで、却って苦しむかもしれない。
それでも――やってみなきゃわからないじゃないか。
母さんを亡くした僕も、妹の自死を防げなかった僕も、マティアスからの暴力に屈した僕も、神殿で彼を殺した僕も、エルと出会い沢山の仲間ができた僕も、【神器使い】として戦う僕も……全部、僕なんだ。
辛い過去も引っ括めて、僕として存在していいんだ。皆が求める【神器使い】としての僕だけじゃなくて、傷を抱える一人の人間として、居ていいんだ。
こうじゃなきゃいけないと方向性を固定して、それにそぐわないものを忘却の彼方に押し込めようとしなくても、いいんだ。
マティアス、ありがとう。
そして、さようなら。
もう僕の中で君の声がすることはなくなる。
君の形を借りて表れた声は、これからは僕と一体になるのだから。
『おめでとう』
そう僕に言葉を贈ったのは、果たして誰だったのだろう?




