16 アマンダの誘惑
リューズ邸で働き始めてから、一ヶ月が経った。
僕らはすっかりリューズ邸の使用人の一員となり、毎日を忙しく過ごしていた。
お給料を貰った日には並々ならぬ達成感を感じ、お金の価値を身に染みて知った。
仕事の傍らルーカスさんとの剣の特訓も行い、僕はめきめきと剣の実力を伸ばしていった。勿論、日々の基礎トレーニングも忘れずにやった。
僕は毎日に喜びを感じ、シアンたちをここに連れてきて良かったと心から思っていた。
そんな僕らに転機が訪れた。ある日のルーカスさんとの剣の特訓の時に、彼に再度【神殿】攻略の話を持ちかけられたのだ。
僕は「明日」答えを出すとルーカスさんに伝え、その夜、エルにその事を相談する。
使用人室では誰かに聞かれる恐れがあるため、夜の中庭で僕ら二人は向き合って話していた。風が吹き付けて寒い。
「エル、どうしよう? これは、行った方がいいのかな?」
僕は以前感じたリューズ家に対する得体の知れない思いを、暫くの間忘れていた。
だが、エルの言葉でそれを思い出すことになる。
「君は、あの人たちをどう思うんだい? あの人たちが信用出来るなら、ついていってもいいんじゃないか?」
ルーカスさんに最初に【神殿】攻略の話をされた時、僕は不安を感じていたんだ。その不安は……まだ、何かはわからない。
そうエルに伝えると、エルはうーんと唸った。
「君のお母さんは精霊の血を引いていたんだろう? だから、君の中に流れる精霊の血が反応したのかもしれない」
僕は首をかしげる。エルは説明をした。
「これは私の見立てなんだけど、恐らく、リューズ家の人たちは『魔族』なんだ」
「『魔族』?」
聞き慣れない単語に僕はますますわからなくなる。
「悪魔の血を引く人たちのことさ。今では本当にごく僅かしかいないようだけどね……。昔は人と異種族とがよく交わっていたから、こういう種族も多かったんだ」
僕は新たな情報に驚く。今では、人は『亜人』を排斥するようになってしまったが、昔はそうではなかった。
何故、変わってしまったのだろう。
「それにしても、悪魔と交わるって本当にそんなこと出来るの?」
「出来たんだろうね。人型の悪魔もいるから」
「へえ……」
エルは僕に向き直り、僕の鼻の頭をつんと指で押す。
「エ、エル、やめてよ」
エルは真剣な表情になった。
「トーヤくん、私も何も感じない訳じゃない。でも、あの人たちは悪い人では無いと私は思うんだ。だから別についていっても問題はないんじゃないかな。ほら、力試しにもなるし」
僕は少し汗ばんだ額を拭った。冷や汗が流れてきている。やはり、不安だ。
「で、でも、【神殿】に行って、僕がもし死んじゃったら、エルはどうする
の?」
僕の問いかけに、エルは答えを返さなかった。
「まさか、君が死ぬわけないだろう?」
「それは、そうなのかな」
「そうだよ! 君が死ぬわけないじゃないか」
エルは、何かに言い聞かせるように言った。
僕は空を見上げる。
月は出ていない。静かで、良い夜だと思った。
「僕、行ってみるね」
エルが驚いた顔をする。
僕は、冒険に焦がれていた。使用人としての生活は楽しいが、いつまでもこんな所にはいられない。そういった気持ちが、僕の胸の中にあった。
「本当かい? トーヤくん」
「うん。皆で冒険するのも、悪くないと思ってね」
僕は小さく笑う。【神器】を抜き、それを闇夜に高く掲げる。
【グラム】は紫紺の光を放つ。美しい花のように、輝いていた。
「私は、トーヤくんの意思なら尊重する。私も付いて行くよ」
「ありがとう、エル」
僕はエルの手を握る。彼女の手は、冷たかった。
翌日、仕事を終えた僕はルーカスさんに答えを出した。ルーカスさんは僕の返事を訊くと、顔を綻ばせた。
「君が来てくれると信じていたよ。いやー、本当によかった。いつ行くかはもう決めてあるんだ。親父にも、伝えてある」
ルーカスさんは、子供のようにワクワクしている。その気持ちは僕にもわかる。冒険は、ロマンなのだ。
「お姉さん……アマンダさんには言ってあるんですか?」
僕は訊いた。ルーカスさんの表情が強ばる。
訊くんじゃなかったなと、僕は後で後悔した。
「いや、話してはいないが……どうせ親父からもう聞いているさ。姉さんは親父にベッタリだからな」
嫌味たっぷりに、ルーカスさんは言う。僕は、姉弟なのにこんな関係は可哀想だと思った。
「はあ……でもいいんだよ。親父たちが反対しても、俺は絶対に行くと決めたんだ。一緒につれていくメンバーにも、予め声をかけてある」
この人は、用意周到な人だ。僕は心の内で感心する。
「それで、いつ行くんですか?」
「三日後だ。三日後の朝に出立する」
三日後は、リューズ邸で来賓を招いて大掛かりなパーティーが行われる日だ。そんな日に仕事を抜けたら……僕はモアさんのビンタをもう一度、食らうはめになる。
自分から行くと言ったくせに、僕はそれをやんわりと拒否しようとした。
そうしてしまう辺り、すっかりモアさんに『調教』されてしまっている。あの一発だけなのに、恐ろしい。
「あの……その日はちょっと外せなくて」
「大丈夫だ。【神殿】攻略には、モアも一緒につれて行く」
「えっ!? そうなんですか」
じゃあもう休んでも大丈夫だ。よく考えてみればルーカスさんの命で【神殿】攻略に行くわけだし、サボりにはならない筈だ。
「それじゃ、三日後はよろしくな」
ルーカスさんが、僕の肩をバンと叩く。
「はい。必ず、【神殿】攻略しましょうね」
僕は微笑み、ルーカスさんと別れる。
使用人室へ戻る際、角の柱の陰で一人の女性に声をかけられた。
「トーヤくん、久し振りね」
白い髪を風になびかせるのは、アマンダさんだ。
彼女は薄い笑みを浮かべ、僕にすり寄ってくる。
「ねぇ、トーヤくん。今の話、本当なのかしら?」
アマンダさんの髪の毛が僕の目にかかって鬱陶しい。いい匂いがするそれは、絹のように艶やかに輝く。
「ほ、本当のことですが……ノエルさんからは聞いていなかったのですか?」
僕は、正直早く部屋に戻りたいと思いながら言う。
アマンダさんは大きな胸を僕の体に押し付けてくる。今日はやけに積極的だな、この人。
「え、ええ。聞いてはいたのだけれど、とても信じがたくて……でも良かった、あなたも一緒に行くのだとしたら、父も出来るだけの援助をしてくれると思うわ」
「そうですか……ありがとうございます」
僕は足を進めようとしたが、アマンダさんが僕を逃がさなかった。
アマンダさんの指輪にはめられたピンクに近い紫色の宝石が、キラリと一瞬光った気がした。
「ねぇ、トーヤくん。今夜は、私と一緒に遊ばない? 大丈夫よ……悪いことは何も無いんだから」
甘い吐息。僕の頬が赤みを帯び始める。
「……い、いいです、疲れているんで。今日はもう休ませてくれませんか?」
アマンダさんは僕の言葉を無視し、僕の胸の辺りをまさぐる。彼女の赤い目が、炎のように静かに燃えていた。
「はぁ、つれないわね……ちょっとくらい良いじゃない。私に付き合ってくれたら来月の給料、増やすように言っておくから」
「だから……僕は疲れてるんです。帰ります」
僕は無理矢理アマンダさんを引き剥がし、走って使用人室へ逃げ帰った。
さっきのアマンダさんの目は、普通の目ではなかった。何かに飢え、欲しがる欲求の目。
あの目は、恐ろしかった。




