31 欺く者
廊下を駆け抜け、階段を飛び降り、エウカリスは兄が囚われる牢へと急行していく。
荒く呼吸しながら走る最中にも艦は激しく揺れ、その船体が波に穿たれる音が鈍く響く。
「はぁ、はぁっ……! お兄様っ……!」
何度も体勢を崩し、何度も終末を予感してもなお、彼女は諦めずに突き進んだ。
――部下たちは今頃どうしているのだろう。
鼻腔を通る潮の匂いを今更恨めしく思うエウカリスは、部下たちの顔が脳裏に過ぎって唇を噛む。
もし間に合わなかったら、彼らは自分と心中することになる。イスィホをはじめ、彼女の部下は教育の甲斐あって従順だ。命令なしに持ち場を離れることなどするまい。
何としてもカタロンを救い、そして部下たちと共に脱出しなければ――エウカリスは後悔を抱えたまま生きていくことになる。それだけは、絶対に避けたかった。
『エウカリス、殿下……。私の分まで、どうか、生きて――』
神殿アルテミスを攻略した際、彼女は部隊の大多数を失った。兵たちは皆、彼女が【神器】を得て帝国の発展に尽くすと信じて、死んでいった。
今でも夢に見るのだ。散っていった彼らが青白い顔でエウカリスの寝台を囲み、無言で見つめてくる夢だ。
彼らを裏切ることはできない。それは彼らの命とエウカリス自身の信念を否定する行為だ。
だから、彼女は理想を追うのだ。守りたいもの全てを救おうと、突っ走ってしまうのだ。
それが常に最善の結果を生むと愚直に信じて、走り続ける――それが、エウカリスという人間の生き方。
「お兄様!!」
ドアを蹴破り、その部屋に突入する。
彼女の視界に飛び込んできたのは、真新しい鉄格子の座敷牢と、繋がれているもののいない鎖と手錠、床に無造作に置かれた足枷であった。
「……どういう、ことですか」
何故。何故、誰もいないのか。
あの兵士は嘘を吐いたようには見えなかった。あの状況下で嘘を吐けるわけがなかった。にも関わらず、牢が空っぽであるなど――天は、彼女に救いを与えないとでもいうのか。
カタロンがここに囚われていたのは、おそらく事実なのだろう。彼は船が沈没に瀕した際、誰かに外へ運ばれたのだ。きっと今頃はスウェルダの第四艦隊か、軍港まで届けられているはずだ。
兄が生きている可能性は高い、それは良かった。だが……それ以外は最悪だ。
目標であったカタロンがそもそもこの場にいなかったのなら、エウカリスや彼女の部下たちはどうなる。
カタロンの生還を願い、沈まんとしている敵艦に乗り込んだ彼らに、どう顔向けすれば良いのか。
鳴動に伴って強まる潮の匂いに、斜めに傾いていく床。
倒れてもなお鉄格子を掴み、その場にしがみつくエウカリスは、自身の逃げ道が断たれたのだと悟らざるを得なかった。
全ては無駄足だったのだ。彼女も、イスィホやフォスたちも、皆この艦と共に沈む。
左手を鉄格子から離し、懐を探る。引っ張り出した水晶玉――『魔導通信機』――に部下たちへの最後の命令を吹き込もうとしたエウカリスだったが、再度、大揺れ。
「あっ……!?」
落下し、割れる水晶玉にエウカリスは一縷の希望さえも失われたのだと理解した。
カタロンがこの艦にいると信じている部下たちは、自分たちだけが逃げるくらいなら皇子と共に死ぬことを望むだろう。それほど彼らのカタロンへの信奉は深く、揺るがないものであった。
「どうか、逃げて。私やお兄様を裏切ったって構わない、あなたたちはどうか、生きて――」
艦は完全に横転し、その衝撃にエウカリスの手は鉄格子から離れてしまう。
今や床となった壁面へ落下していく彼女は、開いたドアから流れ込んでくる潮流に呑まれんとし――寸前。
突如空中に出現した「魔法陣」に身体を掬い取られ、直後、重力を忘れたような浮遊感を覚えた。
*
「どうしてオレを連れ出したんだい? 敵なんだから、放置したって君には罪はなかったはずだろう」
手錠と足枷に戒められた状態のカタロンを、【超兵装機構】の【ヴァルキリー・究極式】で飛行するリルは移送していた。
白髪の少年が真っ直ぐ見据える先は、エールブルーの軍港。今のところぎりぎりだが安全圏である海軍の本部にカタロンを引渡し、保護してもらう――自分がやるべきことはこれなのだと、リルは直感的に思った。
「そんなの、何となくだ。根拠はないけど、俺にはどうしても、あんたがただの悪人には思えなかった」
「……そんな理由で? 君は随分と変わり者だね」
意思に反して捕縛、および連行されているというのに、カタロンはその言葉に思わず笑みを漏らした。
スカナディアの戦士たちの勇猛たる戦いぶりは、イルヴァからの報告もあってカタロンも知っている。彼らの奮闘でノエル・リューズが破られ、そして今、自分たちの国を守るために彼らは一丸となって立ち上がっている。
希望は彼らの方にあるのかもしれない――カタロンは、どうしてもそう考えずにはいられなかった。
彼らは未来を掴もうとしている。純粋な平穏を求め、内外の敵に何度も抗って。
「マギアのしてきたことが本当に正しいやり方なのか、オレには分からない。ただ……オレはオレの理想を貫くために力を得て、戦ってきた。でも、もう駄目なのかも。こんな惨めな姿で捕らわれてしまったオレなんか――」
「おい、黙れよ。これ以上喋ったら落とすぞ」
仕掛けてきたのなら最後まで侵略者らしくいろ、というわけではない。自分の現状を嘆いて弱音を吐く奴が嫌いだ、という感情がリルにそう言わせたのだ。
カタロンは自嘲の笑みを浮かべようとして、やめた。唇を引き結び、押し黙る。
フォスやスキア、エウカリス、そして沢山の臣下、兵たち――彼らを残して敗北してしまったことは、いくら悔やんでも足りない。
自分が全く動けない現状が、カタロンは腹立たしくて仕方なかった。
失敗。無力。無為。非力。無能。
過去に突きつけられ、克服したと思い込んでいたそれらが蘇り、牙を剥く。
『出来損ない』
幼いカタロンに周囲はそう烙印を押した。
カタロンの母である皇妃はとりわけ帝に好まれており、それが周囲の者の反感を買ったのだろう。彼女を蹴落とさんとする何者かの策謀によって、カタロンは「呪い」にかけられ、それを嘆き悲しんだ母は憔悴しきってしまい、政治の舞台から姿を消した。
その「呪い」は、10歳の少年から視力を奪った。魔導書を読み解けず、魔法陣を描くこともできない彼の魔導士としての道は閉ざされた。
魔導士至上主義のマギアにおいて、その『出来損ない』のレッテルは彼への死刑宣告にも等しかった。
最初のうちは哀れまれていた彼だが、次第に側には誰もいなくなった。力なき者に価値はない――当時版図を急速に拡大し始めていた帝国の中に、彼を必要とするものは一切おらず、居場所などあろうはずもなかった。
しかし、そんな彼に手を差し伸べた者がいた。
プシュケ・ジ・マギアとエウカリス・デ・マギア。周囲からいないものとして扱われ、王城の隅に押し込められていたカタロンを二人は見出し、分け隔てなく彼に接した。
二人との出会いでカタロンは変われた。目が見えずとも、彼らが口頭で教えてくれる「魔法」を頭の中でイメージすることで、少しずつ魔導士としての才能を開花させていった。
目が見えないだけで全ての可能性が絶たれるという考えが誤りだったと、彼は知った。
その後、彼はプシュケやエウカリスの協力を得て【神殿】アポロン攻略に臨み、これを成功させる。
多くの部下を犠牲にした死闘の果てに、彼は神器を手にした。
そこでカタロンの境遇を哀れんだ神アポロンは、自身の魔法を彼に施し、光を取り戻させた。
光を得た少年は、それから失った時間を取り戻さんというように国内の様々な場所を巡り、魔導の修練と勉学に励んだ。
水を得た魚のごとく知識に接し、成長していく少年。
彼が軍内で頭角を現し、大部隊を率いるようになるまで、長い時間はかからなかった。
「もう『失敗作』なんかじゃないって、思ってたんだけどね。何も為せなかったのだから、そう言われても否定できない」
「……失敗作、か。俺の生みの親みたいな言い方をしやがる」
カタロンの呟きにリルは大袈裟に顔を顰めてみせた。
皇子が歪んだ環境にいたことを何となくだが察したリルは、背後を一瞥した後、加速する。
大破して炎上するマギアの艦隊と、荒波に呑まれて沈んでいく自艦隊。今となっては誰が救うこともできない惨状に、リルは無言で唇を噛み締める。
【神器】というのは悪魔に対抗するための力であるはずなのに、人同士の戦争でこのような虐殺に使っても良いものなのだろうか――かつて黒髪の少年が危惧した状況が現実になってしまっているのを目にして、リルはそう思わずにはいられなかった。
*
【神化】の飛行術で先行していたアレクシル王に続いて海を南下する、フィンドラの大艦隊。
その旗艦の舵を取る海軍大将の側についたエンシオは、腕組みしながら唸った。
「親父がマギアの海軍元帥と激突している。ただ……膠着状態みたいだ。タラサ・マギアは硬い……親父の雷撃を何発食らおうがピンピンしてやがる」
エンシオの持つフレイの【神器】の能力の一は、契約した相手を短時間だが神視点で見つめられるというものだ。
【ユグドラシル】時代にパールやシルといった同志を失ったフレイが、仲間を失うまいと発現させた魔法。この魔法は仲間思いの質であるエンシオによく適合し、本来以上の効果範囲と持続時間を実現している。
怒涛と雷鳴が轟く戦場は、もはや彼らだけのものとなっている。
猛る雷神は幾条もの雷を落とし、それを仰ぐ海神は渦巻く水柱を次々に立ち上がらせた。
空と海、自然界から魔力を得た彼らの戦闘は、比喩抜きで人智を超越していた。
吹きすさぶ風と雷雨で視界すらもままならない中、彼らの兵たちは呆然とその戦いを見守るほかなかった。
「……親父。死ぬなよ」
遥か離れた海上から神々の戦場を遠視するエンシオは、誰にも聞こえないような小声で呟いた。
アレクシル・フィンドラという男が死を一切恐怖していないことを察しているのは、おそらくはエンシオとエミリアくらいだろう。
彼は自身の命に無頓着なのだ。我欲がない、と言い換えてもいいかもしれない。自己への「執着」を全て捨て去り、民を生かすための支配の機構と成り果てた、一個人としてではなく一個の概念としての「王」――それこそが、アレクシルの正体である。
だが、一個の王以前にアレクシルはエンシオとエミリアの父親だ。
これまで自分たちを育て、導いてくれた父を失うなどエンシオは望まない。
父にとって自分たちが義務的に作った子供だったとしても、それは変わらない。子は本能で父を求めてしまうものだから。幼い頃に母を亡くした彼らなら、なおさら。
*
ラファエルは哄笑していた。
彼は港にて出立した第四艦隊を望遠鏡で見送りながら、かの国への怨嗟の炎を滾らせる。
「これでマギアの魔導士どもに一矢報いられる! くくっ……こうして復讐を果たせるのも、因果というべきかな」
手帳を懐から取り出すラファエルは、その一ページにペンを走らせていく。
今がおそらく歴史の転換点なのだ。世界の覇権を握らんとする大帝国と、【神器使い】を増やしつつある三国連合の決戦。
『時代が動く! 我らが第四艦隊、魔導砲で敵艦撃破』
まだ結果も見えていないうちから興奮気味に新聞の見出し文を決める彼だったが、そこで誰かに肩を叩かれ、すっと笑みを収めて振り返った。
「……っ! ……君は?」
どう見ても場違いな格好の少女がそこに立っていた。
メイド服を着用した、ボサボサの茶髪に眠そうな目をした長身の少女。
彼女は薄く笑みを浮かべると、大の男にも物怖じせずに言ってのけた。
「まだどうなるか分からないのに、そんなこと書いちゃダメだと思う……」
「こ、これは単に私の願望だ。願うだけならば勝手だろう?」
ラファエルの言葉に嘘はない。「まぁそうかもね」と呟く少女を彼は怪訝そうに睥睨する。
そんな視線も意に介さず、メイド姿の少女は名乗りがてら男に訊ねた。
「私、サーナっていうの。このエールブルーの宿屋で働いてる。ね、おじさん、トーヤどこにいるか知らない? 話したいことがあるの……」
「あの少年の知り合いかね? だったら残念だが、彼はもう戦場へ飛び立ったよ」
確か、トーヤがノエルと出会ったのはエールブルーであったはずだ。彼がこの街の宿屋のメイドと接点があったのは、疑いにくい。
「しかし、君のような一般人が何故この軍港にいる? 戦時中は逃げるか隠れるかするのが常識だろう」
「だって……トーヤのことが、心配だったから。【神器使い】のあの子がスウェルダ軍に協力してるって聞いて、いてもたってもいられなくて……」
ぼんやりとした少女の瞳にうっすらと涙が浮かんでいるのを見て、ラファエルはバツが悪くなり目を逸らす。
本部にリアルタイムで送られる情報がラファエルのもとまで届くには、かなりの遅れがある。『リューズ』の一員且つ、マスコミに根回ししてきたジャーナリストの端くれである彼でも、本部まで探りを入れるのは困難だった。
嗅ぎ回る者は問答無用で排除される――ミラ女王の下、「内部からの敵」を徹底的に潰さんという姿勢の軍に、余計な真似はしない方が得策だといえた。だからこそ、このような少女が入港を許されたのが腑に落ちない。
「港まで行ったら、そこでシアンを見つけて……彼女とは面識があるから、事情を話したら許可してくれたの。この場を預かる指揮官のおじさんにも、報せは行ってると思うよ……」
ラファエルの内心を見透かしたかのように、サーナはぼそぼそと語った。
後ろで束ねたくすんだ金髪を風になびかせる痩身の男は、乾いた唇をひと舐めすると、大荒れの海原を眺めて眉間に皺を寄せる。
「しかし……あれを報道するべきか迷うな。王は王だ、決して神ではない。人が神に成ろうとするなど、神への冒涜だよ。……これは、私の古い価値観に過ぎないのかもしれないが」
男の台詞に少女は答えを持ち合わせていなかった。
彼女はしばらく荒れ狂う海と怒涛に飲まれゆく艦隊を見つめていたが、少しの間を置いて決意したようにラファエルに懇願した。
「私……トーヤに会いたい。戦場が危険だってことは百も承知だけど……彼に、彼に会わなくちゃいけないの。私の気持ちを、どうしても伝えたいの……!」
「恋慕しているのか、あの子を。愛する者がいつ死ぬとも分からない状況にあって、胸が張り裂けそうになるのはわかる。だが、それは女子供のわがままだ。あそこは力なき者が立ち入れる領域ではない」
胸に縋り付き、上目遣いで訴えかけてくる少女をラファエルは一蹴した。
常識から導かれる正論でサーナを止めようとした彼だったが、
『第四艦隊、第七戦隊の積み込み完了しました! これより発艦します!』
その声に飛び出していく長身の少女の背中を、ラファエルは取り押さえることができなかった。
火事場の馬鹿力とでも言うべきか、男を突き飛ばして駆け出していくサーナ。
取り落とした手帳を拾い上げながら「待ちたまえ!」と叫ぶラファエルの目には、少女の一切ブレのない走行への「違和感」が確かに映り――
「おい、その女を捕えろッ! 誰でもいい、早く!!」
突然のことに惚けていた兵たちは、ラファエルの叫声で我に帰ったように動き出したが、既に遅かった。
剣を抜いて集結した兵たちの頭上を跳躍で越えた女は、口元に冷たい笑みを浮かべてラファエルを一瞥した。
その程度の余所見は、彼女にとってロスにもならない。少女の皮を被った【魔女】は引き上げられようとしていたタラップまで到達し、曲芸師の如き軽業でそこへ飛び移った。
「てっ、敵襲!? 敵襲です!!」
「――喧しいな、非魔導士が!」
空中で溜めた拳から放たれる一撃は、魔力を纏って警鐘を鳴らした兵へと飛来していく。
一瞬にしてメイド服を脱ぎ去った女の動きを完璧に視認できた者は、この艦上には一人たりともいやしなかった。
縦横無尽に甲板と帆柱を駆け巡る女は、まさしく風であった。彼女の拳風は兵たちを余さずなぎ倒し、一分と経たずに艦上の大多数の兵がその命を刈り取られた。
兵たちの絶鳴も、絶望に濡れた叫喚も、全ては死という沈黙に塗りつぶされる。
屍の舞台に立つ女は、悠然と辺りを見渡し――ただ笑みを浮かべた。
「この艦の船長は? 早く出てこないと、お前たちのミラ陛下がどうなるか……分かっているな?」
正体を隠して敵の懐に潜り込み、圧倒的な力を以てその喉元に食らいつく。
卓越した武闘の実力を有し、マギア軍でも次期【神器使い】候補と目される女傑――【拳の魔女】イルヴァが、ここに再び牙を剥いた。




