23 記憶の海で
【拳の魔女】ことイルヴァ少佐は、手負いの身体を引きずって王宮の廊下を進んでいた。
とはいえ、誰かが見て気づける姿ではない。彼女は自分に光属性の透明化魔法をかけ、ルノウェルス兵たちが乗り込んでくる中にありながらも『玉座の間』からの脱出を果たしていた。
(くそっ……まだ身体が痛むな。ノエルの洗脳下にあったが、覚えている……あの少年の強さは、本物だった……)
腰のホルスターに入れておいた回復薬を飲みはしたが、すぐに万全の状態に戻れるわけではない。少年に一撃を撃ち込まれた腹をさすり、彼女はぎこちない足取りながらも最大限の速度で脱出を図った。
(……ノエルを利用する計画は頓挫した。外に黒煙も見えない……同志たちも、しくじったのか。となると……私だけでも、カタロン様のもとに……)
女を突き動かしているのは主への忠誠心、それだけだった。
イルヴァはカタロンに生きて戻ると約束したのだ。彼の愛に報いるためにも、絶対に帰還を成功させねばならない。
窓の外から兵たちの怒号が聞こえた。剣戟の音、その結果もたらされた絶鳴――しかし直後、それもぱたりと途絶える。
ノエルの洗脳から、スウェルダ兵たちが解放されたのだ。正気を取り戻した彼らは戦うのを止め、ノエルの反乱はこの夜のうちに終息するのだろう。
が――兵たちの喧騒とは別に、雷鳴が轟くような音が響き渡った。それは連続して彼女の耳朶に触れ、得体の知れない焦燥感を胸に抱かせる。
(何が起こっているのか、確かめなくては……私に残された仕事は、状況報告しかないのだから)
女は足を速めてその音の源泉へと向かっていった。
そこに行けば何かが得られる――彼女の直感は、頻りにそう訴えかけてきている。
*
迸る稲妻、響く雷鳴。
シル・ヴァルキュリアの肉体を寄り代に『アナザーワールド』に顕現しているイヴは、上空に描き出した幾つもの魔法陣から雷属性の砲撃を乱射していた。
魔力消費など考慮しない乱雑とも取れる戦い方に、相対するリリスは舌打ちする。
あれは自分の魔力量がリリスを上回っているという確信があるゆえに取れる戦術だ。そして、残念ながらそれは事実であり――悪魔サタンの【神化】を発動したリリスであっても、その雷の砲撃を掻い潜ってイヴに接近するのは至難の業であった。
「遠距離から撃ったところで防がれるのは目に見えてる。なるべく近距離でぶっぱなしたいところだけど、イヴもそれは分かっているよね……」
銀の髪に青い肌と、元の面影を残さない変貌を遂げているリリスは、眉間に皺を寄せて呟く。
今は防壁魔法を発動することで、雷の弾幕から辛うじて身を守れている状況だ。しかし、それも長くは持たない。
「レアという女の肉体と、シルのそれとではスペック差が大きすぎる。負け惜しみに過ぎないことは分かってはいるけど……ッ」
青い球形の防壁は、衝撃に今にも崩れんとしている。彼女が唇を噛む間にも一筋の亀裂が走り、崩壊へのカウントダウンを始めた。
イヴは環状に並んだ魔法陣の中央に浮遊している。彼女へサタンの大魔法を放ち、一発で仕留める以外にリリスの選択肢は残されていない。
「【嘆きの河より蘇る大罪の権化よ、汝に告ぐ】――」
詠唱がリリスの口から紡ぎ出される。女の全身からどっと湧き上がった魔力が青いオーラとなり、彼女を【憤怒】の炎に染め上げた。
目の前にいるのはリリスの過去の象徴だ。かつて信じ、裏切られ、それから彼女の生き方を縛った存在。
リリスが愛した帝国はセトによって奪われ、民を殺され、文化も破壊された。『魔女計画』の産物であある青年の手で魔導士主導の世界が作られ、格差の拡大や差別が横行する歪んだ社会が生まれた。その世界でイヴは女王として君臨し、「歪み」を放置して自身の欲望のためだけに支配を続けた。
アダムの過ちを咎めず、セトの覇道を阻まず、【ユグドラシル】という偽りの理想郷で人々にまやかしの平和を演出していたイヴ――彼女こそが、【原罪の魔女】なのだ。
「【我はリリス――汝の創造主にして、裁きの執行者】」
悪は裁かねばならない。そのためなら自らが悪に身をやつそうとも構わない。
ここで刺し違えてでも、リリスはイヴを討たねばならないのだ。その使命を遂げるためだけに、彼女は魂の転生を繰り返してきたのだから。
「【憤怒の氷は溶けぬ。罪人は氷獄に閉ざされる。永遠の死を彷徨い、其は『罰』に蝕まれる】」
彼女の杖先に集束していくのは絶対零度の魔力。
サタンの憤怒を体現する、灼熱をも凍てつかせる圧倒的な冷気だ。
青きオーラに漆黒の魔力が加わり、氷と闇の2属性が混ざり合った渦が生まれる。禍々しい悪魔の雄叫びが空気を震わせ、その脈打つ波動がイヴの雷を文字通り「停滞」させていく。
リリスに迫る前に動きを緩めた砲撃。
狙い通り作り出せた好機に、リリスは防壁魔法を解除すると【憤怒】の大魔法を撃ち放った。
「【氷獄砲】!!」
杖先で渦を巻いていた魔力が、その号令と共に一挙に解放される。
氷と闇の砲撃は、渦の中心から一直線にイヴへと驀進した。
鬼が吼えるかのごとき嘆きの叫びを打ち上げながら、その一撃は何条もの稲妻の間を突き抜けて敵へと肉薄した。
「これで終わりだよ、イヴ!!」
イヴへの憎悪と憤怒を声に込め、【悪魔の母】は彼女を睨み据えた。
魔法陣の中央に鎮座する魔女は防壁魔法を発動し、その攻撃から確かに身を守っている。
が――リリスの目論見はシルの肉体を殺すことではない。彼女の行動を封じ、精神に干渉する秘術を発動すること。それこそが、彼女がシルにしてやれる救いの唯一の道であった。
「っ、これは……!?」
刹那にして凍結されていく防壁に、イヴは驚愕の声を漏らした。
これは単なる氷魔法ではない。闇属性のサタンの力が加算されたことで、そこには永遠の氷結という名の「罰」が齎される。
イヴはリリスには殺意しかないのだとばかり思っていた。「愛」という感情を捨てた彼女には、シルの肉体を救うリリスの思惑を察知することも叶わなかった。
「このッ……!」
防壁に炎属性の魔力を送り込み、灼熱を帯びさせる。イヴの怒りを体現するかのごとき熱が、防壁の縛めを氷解させんとするが――サタンの憤怒はそれに勝った。
炎をも閉じ込めてしまう絶対零度。永遠の罰を与える、嘆きの氷獄。
悪魔サタンとリリスの力が一つになったことで、【神の母】イヴの無力化は成功したのだ。
「ふふっ……あははははははっ!! 無様だね、イヴ!? 私のような格下に不覚を取るなんて! 君は感情を棄てたようだけど、それは結果的に君の首を絞めた。心をなくした歪な何か――そんなものが人の上に立つに値するわけがない」
リリスは嗤う。
上空の氷球を青の瞳で射抜く彼女は、憎悪したかつての親友に事実を突きつけた。
イヴが支配者でいられたのは、実力とカリスマ性があったからだ。人々を畏怖させ、使役させられるだけの神威を【ユグドラシル】での彼女は有していた。
が、今のイヴにはそれがない。見た目も、持つ力も別人のものであり、純然たる「イヴ」の力などどこにもない。
残っているのは支配への渇望、ただ一つ。人間らしい情を手放したイヴはもう、シルに取り付いたずる賢い寄生虫のようなものに過ぎない。
「大人しく敗北を認めることだね。とはいえ……君と対話したいという思いは、先程の発言を受けて完全に失せた。さあ、シルの体を返してもらおうか」
防壁越しでも届くように大きな声で告げたリリスは、重力魔法を用いてイヴを引きずり下ろしていく。
イヴの抵抗をリリスは受け付けなかった。防壁越しに外部へ発動される浮遊魔法と、遮蔽物なしのリリスの魔法。どちらがより効果を発揮するかなど、論ずるまでもない。
銀色の月が照らす中、彼女らは真正面からの相対を果たした。
これまでの千年の時を、リリスは無為に過ごしていたわけではない。彼女はこの日のために、人の肉体から精神を引き剥がす禁術を研究し、発明していたのだ。
「カインとアベルが生きていた頃に戻ってやり直せたらと……私は常々考えてきたよ。時の女神に縋れば何もかも解決させられたのかもしれない。けれど、私の意地がそれを邪魔した。君の傀儡である【神】を頼ることは、私が何よりも許せなかった」
リリスの選択は愚かだったのかもしれない。それは彼女自身も自覚している。
だが、たとえ愚かであったとしても、リリスは己の信念を貫いて千年の時の中でシルを救う手立てを導き出したのだ。
後悔は何度したとも知れない。過去を振り返って涙したことも数え切れない。それでも――リリスは進んできた。
その道が悪と蔑まれようとも、リリスは足を止めなかった。
「歩む限り、未来という可能性を掴める。君がかつて言ったことだよ。停滞した世界で安寧を貪るようになる前の、君の言葉だ」
リリスは氷結の防壁に手を伸ばした。
その表面に掌をかざし、壁を挟んで対峙しているイヴを見つめる。
氷のせいで朧げにしか捉えられないが、それは些事でしかなかった。リリスはいつでもイヴの顔を鮮明にイメージできる。笑顔も泣き顔も怒りの表情も、彼女が見せた全ての感情を、リリスは記憶している。
雁字搦めに混ざり合った二人の魂からイヴのそれだけを引きずり出せるのは、イヴを知り尽くし、彼女への憎悪という何にも勝る【心意の力】を持つリリスだけだ。
玲瓏な女の詠唱が淀みなく紡がれていく。それはまさしく、イヴへの鎮魂歌だ。
瞑目したリリスは記憶の海を泳ぎ、無数に浮かぶ泡の中からイヴの思念だけを掬い取ろうとしていた。
虹色に波打つ冷たい水。どこかから聞こえてくる、女の歌声。その声は外敵の侵入に対する警鐘のごとく、甲高い不協和音を奏でている。
神や少年、青年、少女――シル・ヴァルキュリアの過去の光景が次々と現れては泡沫に消えていく。
(これが、シル。これが、彼女の全てなのか――)
学園で笑い合う黒髪の少年と緑髪の少女。
漆黒の翼を生やしたエルフの女王に、【神器】の銃を携えたダークエルフの若者。
激突するアースガルズとヴァナへイムの軍隊。降臨した光の神は彼女に勇気を授け、戦神とその弟子は舞い降りた彼女に救われた。
(……っ)
「あの場面」が近づいている。3人のその後を決定づけた、偶然によって引き起こされたあの瞬間が。
告げられる残酷な運命、恋人との永遠の別れ。
【原初の神】によって彼女は『アダムの研究所』跡地に運ばれ、そして――【神の母】との対面を果たした。
心への干渉を拒み、時をも揺るがす究極の魔法を以て彼女は【神の母】を打倒した。
それからの出来事はリリス自身の記憶と合流する。
対立する意思、激突する魔法。飽和した魔力がイレギュラーを発生させ、三人の魔女の魂は融合した。
その時を映した「記憶の泡」にリリスが触れた瞬間――彼女の脳内には、三人の記憶が奔流となって雪崩込んできていた。
『アダム、一緒にお昼でもどうだい?』
『この【ユグドラシル】を守る騎士こそが、あなた』
『もう、大丈夫よ……この怪物は無力化したわ』
『私の悪意が君を犯し、滅ぼすのさ』
『支配こそが我が願い』
『誰も犠牲にならず、あの怪物を倒せる策は、本当になかったのですか……?』
波を掻き分け、果てのない大海原を進んでいく。
処理しきれないほどに膨大な記憶の光景が頭に浮かんでは消える。激しさを増す渦の中でもがくリリスは、そこで伸ばした手の先に一人の少女の姿を見つけた。
虹色をした奇妙な水面に、平然と佇む緑髪の少女の後ろ姿。白い麻の服を着た垢抜けない彼女は、リリスも知らない、アダムと出会う前のイヴだろうか。
あれだ、とリリスは直感的に理解した。
誰の意思にも侵されていない純粋な「イヴ」という人格が、あれなのだ。あの少女に触れれば、彼女を引き込める。シルの肉体から分離させられる。
「君は……っ、君はイヴ、そうだろう!?」
遠くに見える少女の背中にリリスは声を投じた。
苛烈に押し流さんとしてくる渦潮の中にあっても、その声は不思議とよく響いた。
振り返った少女は、きょとんとした顔で首を傾げる。虹の水流に揉まれているリリスに気づいた彼女は、悲しそうに目を伏せ――次には自身も水中に沈んだ。
「イヴ!?」
呻吟するリリスの魔力は、既に限界に迫ろうとしていた。
目的の達成を前に消えてしまったイヴに、彼女は最早これまでかと唇を噛むが――と、そこで自分の肩を下から支える小さな身体に瞠目した。
「……こんなところで、何をしているの? 私が助けてあげる、だから安心して」
その言葉が偽りだとリリスには思えなかった。
触れた身体の温もりは本物で、必死に自分を救おうとしている少女の意思の強さを感じさせた。
「イヴ……君は、優しい子だね……」
それ以上、リリスは何も言うことができなかった。視界が不自然に滲み、頬を水滴が伝うのも意に介さず、彼女は少女の身体をぎゅっと抱きしめた。
記憶の海は残酷に二人を流し、沈没させようとしている。大口を開いた巨鯨のごとき渦が、彼女らを飲み込むべく酷烈さを増していく中――リリスはイヴの緑の瞳を真っ直ぐ見つめた。
エメラルドグリーンの澄んだ瞳。それは無垢の象徴だ。リリスが決して持ち得なかった、幼さだ。
これを失わなければ、イヴが過ちを犯すことはなかったに違いない。そして、彼女からそれを奪った「蛇」は恐らくリリスなのだ。
純粋な研究の徒であったアダムに『魔女計画』の初案を提示したのはリリスだ。イヴの単純な心を屈折させ、裏切りという罪を犯させたのはリリスだ。リリスの存在が、全ての因果を狂わせた。
「ごめんね、イヴ。ごめんね、アダム。私さえいなければ、君たちは全く違う人生を歩んでいたはずだったのに……」
イヴを憎悪するのはそもそもお門違いの話だった。「蛇」はリリスであり、罰を受けるべきなのも彼女であるのだ。
償わなければならない。贖わなければならない。
リリスはここで罪を清算し、トーヤたちが暮らす【アナザーワールド】から【ユグドラシル】の禍根を取り除かねばならない。
「さぁ、イヴ……私と一緒に行こう。共に楽園に……【ユグドラシル】に帰るんだ」
気づけば、リリスの姿はレアのものではなく、かつての世界での白髪の魔女のそれに変化していた。
少女の指に自身の指を絡め、濡れた赤い瞳で緑の瞳と視線を交わす。
無垢な少女に慈愛に満ちた微笑みを向けたリリスは、そして――。
「――――」
イヴの唇に自分のそれを重ね合わせ、抱きしめたまま彼女の安寧だけを願った。
少女が本当に欲していた人の温もりを、もういない彼女の家族や恋人に代わってリリスは与えた。
彼女らの罪は断じて許されないものだろう。だが、今だけは……人らしい感情に満たされていても良いのではないか。
暴れ狂う渦潮に飲まれても、リリスがイヴを離すことは決してなかった。
視界が霞み、意識が途切れかけても、彼女はイヴを抱擁し続けた。
虹色の水面が遠ざかり、暗い、暗い深淵へと落ち込む。泡から響いてきていたシルの声は、もう聞こえない。
彼女の魂から分離していっているのだ、と悟ったのを最後に、リリスは意識をぷつりと手放した。




