21 ノエルの真実
少年の白く柔い首元に、刃を滑り込ませる。
その肌を破って熱い鮮血を浴びるのを思い浮かべ、ノエルは唇を弓なりに曲げた。
が――彼は、肉を突き刺す感触を味わうことが出来なかった。
「……小細工か」
刃が文字通り虚を突くが、ノエルはそれを淡々と受け入れる。
少年の姿は確かに目の前にあり、刃が首を貫いているように見えるが、少年の悲鳴は響かない。
背後に肉薄する気配を瞬時に読み取ったノエルは、振り向きざまに【黒鉄の剣】を横薙ぎした。
刃同士が打ち鳴らす激突音。
甲高く上がるその音を心地よく聞きながら、ノエルはトーヤの瞳を見据えた。
「幻を生む闇魔法か。危うく殺されていたところだったが……甘かったな。殺気を消しきれていなかった」
【闇魔法の奥義】を発動した直後には、トーヤは既にノエルの背後にいた。
その速度は常人の域を超えている。しかし、ノエルの反射神経も彼に匹敵するほどのものだった。
視覚や聴覚、第六感的な気配の察知まで、白髪の男の感覚は過剰なまでに鋭敏だ。それは至極当然――悪魔と一体化したことで、彼の身体能力は単純に強化されているのだ。
彼は悪魔の力は使わないと宣言したが、それは魔法というソフトに限った話。ノエル本人というハードの機能制限については、これが本来の力なのだと言ってしまえばトーヤもはっきりと否定できない。
商人に屁理屈は付き物だ。どんな理屈でも通せれば真理になる、それが男の信条だった。
「っ、これならどうだ!」
トーヤの【白銀剣】に氷と炎の二属性の魔力が宿る。
【蒼炎剣】――彼が自ら編み出した最初の魔法にして、彼の剣術を象徴する技だ。
繰り出される一撃は疾く、それでいて重い。
弾いた刃の感触にノエルが目を眇める中、トーヤは間髪入れずに次の刃を突き込んでくる。
「良い剣筋だ。素早く、的確に相手の懐に入り込んでいく……だがねトーヤ君。君の剣術は、私がよく知るそれと全くの同一なんだよ」
ノエルには、そう語る余裕があった。
少年の剣を見切り、高速で繰り出される連撃に完璧な対応をしてみせる。
敵の間合いにぎりぎりまで踏み込み、蛇のようにうねる読みづらい太刀筋。肉薄を許せば確実に首を取られる、「殺し」のためだけにある実用性最重視の剣術だ。
「それは、どういう――!?」
「思考力が鈍っているな、トーヤ君。ルーカスに剣を教えたのは私だ。君の剣術は、まさしく私のものにほかならないのさ。故に――」
同じ技を用いるならば、経験で優る者に分がある。
ノエルの剣は付与魔法の赤い光粒を帯び、「力」を増幅させたそれはトーヤの得物を難なく打ち払った。
何十と繰り返された連撃はそこで途絶える。
圧倒的な膂力で押し返されたトーヤに、ノエルは笑みを深めて追撃を放った。
「剣か、魔法か……どちらで散るのがお望みかな」
死に様だけは選ばせてやろう――そう微笑む白髪鬼に、トーヤは何も答えない。
彼が返すのは男への睨み。反抗心を失っていない少年に、ノエルはそそられたように舌なめずりした。
今度はノエルが攻勢に出る番だった。
大理石の床を削るほどの速度で疾走の調べを奏で、接近。
次には勢いを緩めて距離を取り、少年を釣るための隙を作る。
かと思えば再び加速し、防戦一方となった少年へ刃の一閃を見舞う。
巧みに切り替えられる緩急を以て、ノエルはトーヤを翻弄していた。彼が放つ剣撃には、一つとして同じものがない。
ノエル・リューズは商人であったが、妻であり【王佐の英雄】であるシルヴィアが死ぬまでは彼女と共にルーカスに剣を指導していた。妻亡き後、彼はルーカスへの教えを止めてしまったが、剣自体は密かに修練を続けてきたのだ。
彼がその際に追い続けたのは、シルヴィアの影。生きていた頃の妻の剣を思い描き、彼女を超えるべく得物をひたすらに振った。
そして、遂にノエルはシルヴィアの領域に達したのだ。
極限まで高めた「技と駆け引き」で相手をコントロールする、緻密な剣術。ルーカスに授けたスピード重視の型を基盤に、彼はそれをより戦略的なものへと昇華させた。
「初めてだろう、ここまで揺さぶられるのは。その恐れを恥じることはない……誰だって、強者には畏怖するものだ。君にもその番が回ってきただけのこと」
トーヤの内心は窺い知れないが、ノエルは彼を精神的にも追い込むべく言葉を投げかける。
少年の心に一抹でも恐怖が芽生えていれば、彼の動きは必ず精細を欠くだろう。
そうなればノエルの勝利は決定されたようなものだ。
簡単にへばるなよ――期待を胸に最大速度でトーヤへと肉薄し、ノエルは紅の一撃を放った。
刃と刃が響かせる擦過音。少年はノエルの最速の剣を、受け流してみせた。
「まだまだ……そんなもんで、終わる僕じゃない」
「素晴らしいな、まだ付いてこられるか! だが、いつまで持つかな」
少年の瞳に燃える炎は、消え去ってなどいなかった。
剣が帯びている氷と火炎の魔力は、今や彼の全身まで纏っている。この戦いの中で、【蒼炎剣】を付与魔法として進化させたのだ。
これこそがノエルにない、トーヤの武器だ。萌芽のごとき、無限の伸びしろ。彼はまだ限界を見ていない。――限界を、定めていない。
「恐怖を知らない、というわけではないのだろう。超克した、と見える」
「技と駆け引き」を駆使した神速の剣舞を舞いながら、ノエルは素直にトーヤを賞賛した。
少年はニヤリと笑み、男へと追い縋る。防戦に徹していた彼の動きが、ノエルの戦略に適応し始めていた。
「あの人が――ドリスさんが恐怖を叩き込んでくれたから、こうして僕はあなたと向き合えている! あの恐怖に打ち勝てたから、今の僕がいるんだ!」
トーヤの表情は輝いていた。
彼は一人の戦士として敵であったドリス・ベンディクスにも敬意を表し、学ばせてくれた彼女へ感謝の念を抱いていた。
皮肉なことに、少年を潰そうとしていた者が彼をより成長させてしまっていたのだ。アマンダもルーカスも、そしておそらくは交戦の真っ只中であるノエルも、彼の進歩の糧になっているのだ。
「……そうか」
ノエルには、そんな少年の顔があまりに眩しかった。
そしてそこに、かつての自分の姿を幻視した。
生きていくために彼はあらゆる敵を利用した。【強欲】に憑かれた男も、彼を殺した後に出会った意地汚い商人たちも、商会が成長していく中で取り入ろうとしてきた貴族たちも、全て。
だが、いつしか彼の成長は止まった。「不可能がない」ことが当たり前になり、乗り越えるべき壁もなくなってしまった。悪魔が導いた王者になるという夢も、叶ってしまった。
ノエルには進む先がない。終着点に、たどり着いてしまったから。あとは衰えて死ぬのを待つのみであって、目指すべき光も失せてしまった。
「君は何を目指す――悪魔を討つという使命を果たした後に、君には何が残る!? 何もないと言うならば、私は君の未来を断とう! あるのだと言うならば、私にそれを見せてみろ!」
羨望があった。期待があった。希望があった。
トーヤと己を重ねてみて、抱いた感情を胸の奥底に封じ込め、ノエルは彼に立ちはだかる「先達」として問いかけた。
少年の答えに、迷いはなかった。
「僕は、仲間たちと共に未来を生きる! そこにあるのが希望でも、絶望でも、彼らと一緒に前へ進んでいく! 同じ時を記憶し、沢山の感情を共有しながら、平和な営みを紡いでいく――特別な何かを望まなくてもいい、ただ当たり前な平穏を過ごしたいんだ!」
つぅ――、と。
男の頬に、一筋の涙が伝った。
「っ……!?」
緻密な計算に基づいて繰り広げられていた剣劇が、揺さぶられた情動により僅かに狂った。
ほんの少し、遅れた加速。
少年はそれを見逃さなかった。「駆け引き」ではない、ノエルが初めて顕にした「隙」。
蒼と赤の魔力を宿す【白銀剣】に、トーヤはさらに銀の風を乗せる。
「はああああああああああああああああッッ!!」
剣に刻まれた女傑の記憶が、大旋風を巻き起こす。
雄叫びに呼応して際限なく火力を上げていく剣と魔法は、ノエルの【黒銀の剣】の刃を打ち据え――
「ありがとう、ノエルさん」
少年は感謝の意を示し、そしてノエルの剣を叩き折った。
中心から真っ二つに破壊される剣に、白髪の男は取り乱す様子もなく、静かに加速を緩め――『玉座の間』の隅で足を止めた。
「……君なら、剣を折った流れで私に止めを刺せたはずだ」
【黒鉄の剣】をへし折ったトーヤは、ノエルの身体に刃が触れる寸前で剣を引いていたのだ。
振り返り問うてくる男に、少年は穏やかな口調で答える。
「あなたは完全に悪意に染まってしまったわけじゃない……むしろ、そこからの脱却を求めていたんじゃないかと、僕は思うんです。だって、ノエルさん泣いてるじゃないですか。その涙はきっと、僕の言葉に揺り動かされた証です」
ノエルが平静だったならば、トーヤの言葉を一笑に付しただろう。
けれども、今の彼は確かに揺らいでいた。少年の中に、自分が本当に渇望していたものを見てしまったから。
シルヴィア、アマンダ、ルーカス――出会い、生まれた大切な人達と平穏な時間を過ごせれば、それで良かったのかもしれない。
しかし、何もかも遅すぎた。シルヴィアとアマンダは死に、ノエルも最早引き返せないところまで足を踏み入れてしまった。今更そのようなことを願う資格など、ありはしない。
「…………私の負けだよ、トーヤ君」
己の敗北を認めたノエルは、白マントとギャリソンキャップ姿からもとの貴族の服に戻っていた。
トーヤはそんな彼に歩み寄り、そして頭一つ高いところにある彼の顔を見上げた。
「カイや他のスウェルダ兵の洗脳を解いてください。この王宮は既に、ルノウェルス軍に包囲されている。あなたに逃げ場などありません」
毅然と言い渡した少年にノエルは頷きを返す。
この敗北をひっくり返す手が自分に残っていないことは、ほかならない彼自身が一番よく理解していた。
トーヤが結界魔法――【グリッド・ケージ】――を解除すると同時に、ノエルは指をパチンと鳴らして悪魔の呪縛からカイたちを解放した。
「……お、俺は、何を……?」
『玉座の間』の扉の前で仁王立ちしていたカイは、トーヤとノエルが向き合っている光景に困惑している。
正気を取り戻した彼に、真っ先に駆け寄ったのはトーヤだった。
「良かった、カイ!」
「と、トーヤ、これは、どういう……!?」
青年の瞳は、澄んだ海の色に戻っている。心から安堵した笑顔で自分の手を握ってくるトーヤに対し、カイはおぼろげながら状況を察し始めていた。
「……戦いは、終わったのか? お前、ノエルに勝ったのか……?」
「うん――僕、勝ったんだよ。ノエルさんの心を、開けたんだ」
ミラは見えざる刃に斬られ、エミリアはカイの爆炎に巻き込まれて倒れ、イルヴァも昏倒して目覚める様子はない。この場に立っているのはカイを除けばトーヤとノエルだけで、その二人はともに武器を収めている。
青年の問いに首肯するトーヤは、そこでグリームニルのことを思い出した。
自分に回復魔法をかけてくれた、演技派な彼。ノエルの注意を引きつけておけ、という要望通り、トーヤは白髪の男との立ち回りに臨んだわけだが……。
「私の出る幕もなかったな。誇っていいぞ少年――お前の言葉が、思いが、その男を打ち破ったのだ」
立ち上がり、拍手を送りながらグリームニルはトーヤの功績を称えた。
黒髪の少年は目を弓なりに細め、浅葱色の髪の彼に礼を言う。
「僕が万全な状態でノエルさんと戦えたのは、あなたの癒しがあったからこそ。この勝利は僕だけのものじゃない。グリームニルさんやカイ、エミリアさん、ミラ……ここまで一緒に戦ってくれた皆の勝利なんです」
「ああ、そうに違いない。……少年、魔力に余裕はあるな? そこの『バルドルの神器使い』の手当を頼む。私は『フレイヤの神器使い』を治療しよう」
少年たちの救護は迅速だった。倒れた少女たちの側に跪いて即効性の回復魔法をかけていく彼らを見つめながら、カイはノエルへと掠れた声で言う。
「お前を殺さなかったのは、トーヤの優しさなんかじゃない。お前はこの国を転覆させんとした大罪人……この国の民たちの前で、然るべき者の手によって、処刑されるべきなんだ」
「理解しているよ。逃げるつもりも、反抗するつもりもない。私は望みに……過去に負けたのだ」
そう語るノエルの瞳にはもう、爛々と滾る炎はなかった。
粛々と敗北を認めた彼は、扉を開いて続々と乗り込んでくるルノウェルス兵たちを阻まず、彼らからの拘束を受けた。
「とう、さん……」
エルの肩を借りるエインは父の前に出て、そう呼んだ。
自分の信じた愛のために命を賭して戦った少年。彼の赤い瞳は、ノエルのそれとは異なるものだ。どろどろとした血の色ではなく、澄んだ紅玉の色。未来への希望を抱く、輝きに満ちた目だ。
「……私をそう呼ぶな。私は君に、父親らしいことなど殆どしてやれなかったのだから」
「それでもっ……僕は確かに、あなたの血を引いている。あなたとの思い出を、記憶している」
きっぱりと否定するノエルの言を、エインもまた否定した。
エインが示す事実は、過去は、決して変動するものではない。誰が何と言おうが、それだけは確固としたものなのだ。
「……済まなかったな。私は君の信念を侮辱した。故に、君には私を罰す権利がある」
「そんな権利、要りません。あなたを裁くのはぼくじゃない、ミラ王女とスウェルダの臣民です」
少年の胸中はノエルには窺えなかったが、彼が努めて私情を押し殺しているのは分かった。
父子の情はこの場において障害にしかならないと、エインは弁えている。にも関わらずノエルを父と呼んだのは、これが最後の対面であるからだ。
「その通りよ、エイン君。その男は、スウェルダ王国第二十四代女王ミラ・スウェルダの名のもとに裁くわ」
トーヤの助けによって回復を遂げたミラの口から、正式にノエルの処置が言い渡される。
彼女の命で地下牢へと移送されようとしているノエルの背中に、エインは震える声で言葉を投げかけた。
「父さん――地獄で、また会おう」
「……願わくば、それは避けたいところだな」
十名を超す兵に取り囲まれたノエルの姿は、小柄な少年に見えはしなかったが――彼は、別れ際に父が贈ってくれた優しさに内心で「ありがとう」と呟いた。
エインも悪魔に憑かれていた頃、組織の指示で人を殺した。その罪は決して消えない。この先の人生でエインがやるべきは、贖いだ。
殺した人と同じだけ、誰かの命を救う。いや――それ以上に沢山の人を助けることを、贖罪としたい。
本当の意味でこの罪が許されなくとも、偽善だと笑われようとも、エインは死ぬまで誰かを守りたかった。
――と、その時。
「マーデル国から通達であります! マーデル国の南端沖にて、艦隊の来襲が確認された模様! その数百隻を超え――風もないのに恐るべき速度で北上を続けているとのことであります!」
スウェルダが王宮にフィンドラ製の『魔導通信機』を配備していたのは、不幸中の幸いであった。
響き渡った伝令の声に、この場の全員が緊張感を纏い直す。
ノエル・リューズを倒しただけで、脅威を排除した気になってはいけない。まだ、終わってなどいないのだ。
「無風にも関わらず進行する船……マギアか!」
「フィンドラはこの日のために備えて来ましたが、スウェルダ軍はノエルに掻き回されたまま――到底、万全の状態とは言えません。ミラ陛下、フィンドラから友軍を送ることも出来ますが、受け入れは?」
カイが苦渋に顔を歪め、エミリアは新たな女王へ鋭く問う。
ミラの答えに迷いはなかった。自分たちは『同盟』――過去のしがらみは捨て、危機に共に立ち向かうのが最善の選択だ。
「ええ、お願いするわ。こちらからもすぐに動ける部隊を出動させる」
快諾する赤髪の女王。が、トーヤは彼女に強い口調で警告する。
「ミラ、悪魔の【洗脳魔法】に深く精神を汚染された者は、元のコンディションに戻るまで時間がかかる。オリビエさんだって二週間以上の休養を要したんだ。絶対に、中央の軍人さんたちを戦場に出しちゃいけないよ。それは重病人を放置するに等しい行為なんだ」
彼の黒い瞳を正視したミラは、静かに頷きを返した。命を無駄に散らすようなことは彼女自身も決して望まない。
スウェルダの運命を一手に引き受けることとなったミラに、トーヤは寄り添うと声音を穏やかにして言った。
「僕たちが君を最大限サポートする。僕たちにやれることは、何だってやる。だから安心して、君は君の責務と向き合うんだ。……いいですよね、エミリアさん?」
「構いません。父上に代わって軍を率いる立場として、私は一旦本国へ帰還しなくてはなりませんが、あなた方は自由に動ける。私に出来ない役割を、ここで果たしてください」
エミリアからの許可を取り付けると、トーヤが次にカイへ視線を向けた。
「君はどうする、カイ?」
「……無論、この国に残るさ。俺たちの陸軍一個師団から、兵たちを海兵としてスウェルダ海軍に貸し出す。海戦は俺たちの領分ではないが、少しでも戦闘力の足しになればいい」
三国の若き王たちは、それぞれの国を守るために立ち上がる。
これから始まるのは最後の戦争だ。マギアという外敵を退け、内部の悪魔という敵を討てば、三国が掲げる平和の理念が実現に一層近づく。
「あれ……イルヴァさんは?」
そんな中、トーヤは――イルヴァが忽然と『玉座の間』から消えていることに気がつくのであった。




